その冬、京都では珍しいほどの大雪が続いて、父さんの葬儀の日には窓から積雪がよく見えた。お昼にはもう親戚が集まって来ていて、僕達は葬儀場の一室で昼食をとっていた。僕が六歳の時の話だ。和室にしつらえられた長机の前に座っている人達は沈痛を顔に浮かべて、けれど賑やかに父さんの話をしていて、それが僕にとってはどこか不思議であり、胸がざわついた。そのざわつきが悲しみであったのか、苛立ちであったのかは今となってはよく分からないし、知る必要も無いだろう。僕がやったことと、起きたことに変わりはない。
「ゆうちゃん、おいで」
少し離れた長机から伯母さんが手招きしていた。隣にいた母さんを振り返ると、「行っておいで」と優しく囁かれた。今思えば伯母さんは母さんに気を遣っていたのだろう。何しろ母さんは次々と挨拶をしに来る親戚たちの相手をするので忙しかったのだから。伯母さんの所に行くと、伯父さんが新しく座布団を出して、伯父さんと伯母さんの間に僕が座る場所を作った。僕が座布団の上に落ち着くと、伯母さんが小さな祭壇の方を指差した。
「ゆうちゃん、あのお父さんのお写真、いつの?」
その祭壇の上にある黒い額縁に入った大きな写真には、日に焼けて笑っている父さんが写っていた。背景は消してあったけれども、いつのものかは分かった。
「あれはね、ことしの夏、公園に虫とりに行ったときの」
そう、その年の夏、僕と父さんと母さんの三人で少し遠くの大きな公園まで車で遊びに行ったのだ。本当はあの写真には僕と父さんの二人が写っているはずだった。けれども、僕の姿も消されていて、それはやはり不思議なことだった。
「ぼく、大きなクワガタとったんだよ。でもお父さんがちゃんと虫かごを閉めていなかったから逃げちゃったの。だからおこった」
「そう」
伯母さんは少し目を潤ませて僕を抱き締めた。僕はそれまで伯母さんとはほとんど会ったことが無かったのに、いきなりそんなことをされたので驚いた。
「ゆうくん」
後ろから伯父さんの声がした。
「こっちに唐揚げがあるぞ。お父さん好きだったろう。ゆうくんも好きか」
「……」
それなりに好きだった。けれども僕は伯父さんに促されるまま飛びつく気にはなれなかった。「好きだった」と、そう父さんのことを過去形で語られたことにどうしても違和感があったので。もちろん、なぜ父さんが過去形で語られるかということは知っていた。僕は六歳だったが、その数日で何が起こったかを分からないほど幼くはなかった。
クリスマスイブの夜、母さんと僕はご馳走を作って、父さんが仕事から帰って来るのを待っていた。けれど父さんは帰って来なかった。普段と比べてさすがに遅いので心配していたら、道で倒れていたところを発見されて病院へ搬送されたと電話があった。あまりにも突然な心臓麻痺。
しかし、父さんの死には実感が無かったし、それどころか実感を持たせようとしてくるものを幼いながら拒絶しようとしていたのだと思う。しかし、耳をすませば、その親戚が集まる部屋はやはり父さんの話ばかりで、そして伯父さんも父さんはもういないものとして話をしてくる。ひどく、居心地が悪かった。
僕は伯父さんに答えず、そのまま立ち上がった。出口がどこにあるかは分かっていた。伯母さんが不思議そうに僕を見ていたのを覚えている。僕は畳を踏みしめ、廊下と部屋を仕切る襖まで歩いて行った。
「ゆうちゃんどこ行くの」
「トイレ!」
嘘だった。
葬儀会館の外に出ると、本来駐車場であったはずの所一面に雪が降り積もっていた。その数日の雪は勢いを弱め、ただ静かに降り続いていた。玄関から一歩踏み出すと、僕の足は膝まで埋まった。そのまま歩き出し、やがて僕のズボンには黒いシミが広がっていったが気にはしなかった。駐車場には随分前から停めてあったのだろう、一台の黒い車があった。僕は葬儀会館から見えないようにその車の陰まで歩いて行って、雪の上に座った。
一人だった。
別に何をするでもない。ただ座っているだけだった。雪は冷たく、ズボンはぐしょぐしょに濡れていきつつあったが、それは心地よいことだった。水分を含んだ、凍りつくような冬の匂い。それでやっと、こうやって僕みたいに雪の中を座れないなんて父さんはかわいそうだと、そう思った。
雪は深々と降り続いた。
「お前何しているの」
少し低いけれども紛れもなく少女――当時の僕にとってはかなり年上の女の子の声。突然投げかけられたその問い掛けに僕は驚いて顔を上げた。瞬間くらついた。目の前には年の頃で言えば高校生くらいだろうか、背の低い、けれど大人びた少女が立っていた。誓って言う。僕は今に至るまであんな綺麗な人を見たことが無い。
それは非現実的な美しさだった。肌の色は僕たちと変わらない。けれど髪は人間離れして輝く銀。それが肩の下まで真直ぐに伸びていた。瞳は光を受けたアメジストのような紫。僅かにあどけなさを残した非常に整った顔立ちで、傲岸にこちらを見下ろしていた。深緑のセーター、黒いスカートとヒール付きのブーツ、そしてやはり黒い、彼女には不釣り合いに大きなコート。僕たちは真正面に向き合っていた。
「座ってるの」
僕の答に彼女は片眉を上げた。
「そう。でも風邪をひくじゃないか。手を貸しなさい」
彼女は雪の中に跪いて僕の手を取った。彼女の手は暖かく、次の瞬間には僕の身体はズボンを含めて乾いていた。
「お前は次に建物へ入るまで水に濡れることはない」
僕は全身が乾いたことがいっそ何かの間違いであってほしいような、信じられない気分になった。雪が僕に触れても、それで濡れることはなかった。何がどうなっていたのか今でも分からない。
「どうやったの」
「それは秘密さ」
僕は彼女に手を握られたまま、彼女をただ呆然と眺めていた。雪の一片が彼女の頬に触れ、体温で溶けて、つ、と流れ落ちた。その感覚を楽しむように彼女は紫の目を細めて、この人は別に濡れても構わないのだと僕は気付いた。彼女の口許が笑みを作った。
「この間から散歩してたんだ。珍しく雪だからね。そうしたらお前に出会って、すぐ見失って、そして今日また見つけた」
「え?」
「今のお前に分かりはしないだろう。とにかく、私はお前に私と共にいてほしいと思った」
訳が分からなかった。それまで会ったことがない彼女が僕にそこまでの感情を持つ理由など無い筈だった。
「なあ、私の家に遊びに来ないか。綺麗なもの、不思議なものが沢山あるんだ。この世の誰も見せてはくれないものをお前に見せてやろう」
「このよのだれも見せてはくれないもの」
それはとても魅力的な響きだった。僕は心底それを見たいと思った。けれど、
「今日? 今日はだめだよ」
彼女は頷く。全て分かっているかのように。
「えらいな。今日でなくても構わない。名前を教えて。そうすれば今度迎えに行くから」
「名前? いいよ、ぼくの名前はね――」
その時彼女の瞳が爛と青く光った。僕はハッとして彼女の手から自分の手を引き抜いた。
「どうした」
彼女は首を傾げた。その時、僕たちの周りには誰もいなかった。彼女と二人きりだった。僕は急に恐ろしくなった。恐々と彼女の顔を見れば瞳は紫で、もしかしたら青く見えたのは気のせいだったのかもしれない。それに何がそんなに怖かったのだろう。瞳が青かったくらいで。しかし、僕はあの瞬間、明らかに致命的なものを感じ取っていた。
「どうした」
彼女はもう一度聞く。一回目よりも優しい声音で。しかし僕はもうすっかり怖気づいてしまっていた。
「やっぱりだめ。お母さんが言ったんだ。知らない人に名前を教えちゃだめだよって」
彼女は息を呑み、そして皮肉げに口の端を吊り上げた。
「賢いことだ」
強い風が吹いて地面に積もっていた雪が舞い上がった。立ち上がった彼女の大きな黒いコートが風にはためいた。
「今度また会おうじゃないか。その時までにもう一度考えてはくれないか。私の家に遊びに来るかどうか」
僕は彼女を仰ぎ見た。出会った時と同じ構図だった。銀髪の美しい少女と、六歳の僕。僕は勇気を出して尋ねた。
「おねえさんだれなの、どこから来たの」
彼女はにっこりした。
「ここから十五分くらいの所にある家から来た。ほら近いだろう? 生まれは随分西の方だがな」
風が強かった。彼女の銀の髪が風になびいた。
「誰、か。私はね、お前の大先輩なんだよ」
その時葬礼会館の方から僕を探して呼ぶ声がして、僕は思わず車の陰から飛び出して会館の方を見た。母さんが会館の入口にいて、すぐに僕を見つけて手を振った。行かなければならなかった。僕は最後に彼女を見ようとして振り返り、そしてもう彼女の姿が無いことに気付いた。
あの日から十年が過ぎた。あれ以来僕は彼女に会っていない。今度また会おうじゃないかと言った彼女が僕のもとに来ることはなかった。あの一日きりのこと。だからあれは何かの夢だったのかもしれない。けれど、あの日母さんに散々怒られた僕が、長い間外にいたにも関わらず、全く雪に濡れていなかったのも確かだった。
『母さん久しぶり。元気にしてる? イギリスは寒いでしょ。風邪に気を付けてね。実はこっちもすごく寒いんだ。数十年に一度の大寒波だって。これから年末にかけてずっと雪みたいだ。高校は今日から年明けまで冬休みだけど外に出るのはダルそう。伯父さんの家でゆっくり本でも読むよ。本と言えば、最近父さんの蔵書を漁ってる。倉庫で段ボールにぎゅう詰めになっていたのをこの前開けたんだ。父さん怪奇小説が好きだったんだね。知ってた? 割と面白いよ。あと墓参りは済ませました。安心して。それじゃ』
メールの送信を済ませると僕は布団から起き上がった。今日は冬休みの初日。朝起きて、父さんの墓参りをして帰ってきて、ご飯を食べて昼寝して、さっき起きて母さんにメールを送った。台所からのいい匂いが僕の部屋まで漂ってきている。僕は部屋の障子を開けてリビングに行った。和洋折衷型になっているこの家のリビングには大きな木のテーブルと椅子がある。リビングのすぐ横が台所だ。
「あら起きたの? 大分寝ていたんじゃない?」
と伯母さんが煮物の火加減を見ながら僕に言う。伯母さんは今日も白髪交じりの髪を後ろの方で上品に結わえている。十年前、父さんが死んでから数か月しないうちに母さんはイギリスに海外赴任することになった。僕もついて行くという手はあったのだけど、母さんは僕を伯父さんと伯母さんの家に預けて行くことを選んだ。だから僕はこの十年伯父さん達と一緒に暮らしている。この家は元々父さんと伯父さんのお父さん、つまり僕のおじいさんの家だ。父さんは大学を出るまでここで暮らしていたらしい。
僕は台所に行くと、調理に使って流しに置いてある食器の類を洗い始めた。
「そうだね。墓掃除で疲れちゃったのかも」
ああ、と伯母さん。
「そうよね。重造さんがいる時に一緒に行けばよかったのに」
「いいよ。伯父さん忙しいじゃん」
伯父さんは小さな建築会社の社長なのだ。いつも夜遅くに帰ってくる。そんな伯父さんを折角の休日に墓参りへ連れ出すのは気が引けた。それにここ数年墓参りには僕だけで行っている。もう一人で行くのにも慣れていた。
「さっき母さんにメールしたよ。墓参り報告」
「そう、梓さん、なんて?」
「まだ返信なんて来ないよ。結構時間がかかるんだ、母さんがメール返してくるの」
「忙しいのねえ」
僕は皿と箸を棚から出して並べる。いつも夕飯は伯母さんと僕の二人で食べている。ご飯も炊けているらしい。もうよそってしまおう。
母さんが実際忙しいのか、それとも別に僕とのメールをさして重要と思っていないのか僕には分からない。もう十年会っていないのだから。海外赴任と言ったってそんなことあるだろうか。一度も子供に会いに来ないだなんて。この家でずっと育てられてきた僕にとって父さんと母さんの存在は段々と希薄になってきている。寂しいけれど、二人とももう僕にはよく分からない人達なのだ。
「さあ食べましょう」
テーブルの上には四五品の料理がきれいに並んでいた。毎日こんなに何種類も料理を作って伯母さんは本当にすごい。
「いただきます」
僕はいつも伯母さんに一人で料理を作らせてしまって悪いなと思う。今日くらいは手伝おうと思っていたのに結局うっかり昼寝をしていた。
「悠くん、今日はバイト無かったのね」
「そう。今日だけは休みを取らせてもらったんだ。明日からはまたあるよ」
僕は高校に入ってからほぼ毎日のように放課後の時間アルバイトをしている。近くの研究所に行って清掃するのが仕事だ。伯父さんに紹介してもらったのだが、かなり割がいい。伯母さんは僕の返答を聞いて、箸を置いた。
「ねえ、悠くん、いつも言っていることだけれどね、バイトなんかしなくていいのよ。うちはそれなりに余裕があるし、遊ぶお金が欲しいなら少しくらいあげるから」
「違うよ、伯母さん。自分で稼いでいるって所が大事なんだよ」
十年過ごして伯父さんと伯母さんにはほとんど我が子のように可愛がられている。けれども僕はやはり「預けられた子供」で、この家でただ食わせてもらっていることへの罪悪感に似たものが次第に積み重なるようになった。アルバイトをしたからと言って、やっぱり食わせてもらっていることに変わりはないけれど、それでも自分で金を稼いでみたかった。
伯母さんはため息をつく。
「昔悠くんが毎日お友達と遊んで遅くまで帰って来なかった時は心配していたけれど、今思えばそっちの方がましだったかも」
「ええ?」
そういうものだろうか。バイトの方がしっかりしている気がするけれど。
「まあ、でもあんまり大雪だったら明日のバイトも休みになるかもね。すごいんでしょ、今回」
「そうねえ。まだ積もっていないみたいだけど」
そう言って伯母さんは窓の外を見た。外はまだちらちらと小さな雪が降っているだけだった。
夕飯を終えた後、僕は自分の部屋で父さんの蔵書の一冊を数時間読んでいた。泉鏡花の小説。結局何冊も読んでいて分かるのは、綺麗な女の人に付いて行ったら碌なことにならないということだ。
短編を一つ読み終わって、僕は物思いにふけった。この家に来てから十年。自分たちの子供でもないのに、伯父さんと伯母さんにはよく育ててもらった。僕は六歳で父さんとも母さんとも別れてしまったけれども、それで自分が不幸だったとはあまり思わない。それぐらい二人にはよくしてもらっている。ただ。僕は本に目を落とす。父さんがどういう人だったのかは興味がある。
そこで玄関のドアが開く音がした。伯父さんが帰ってきたのだ。僕が部屋の障子を開けると、丁度伯父さんがリビングに入ってくるところだった。伯父さんは貫禄のある身体をテーブルの椅子に落ち着かせて一息ついた。顔が赤くなっている。呑んできたらしい。
「おかえりなさい。もう食べてきたの? 晩ごはん残してあるよ」
伯父さんはくりっとした目で僕を見た。この恰幅のいい社長さんは憎めない顔をしている。
「悠、まだ寝てなかったのか。呑んでは来たが、そんなに食べなかった。晩飯は食べるよ」
「オーケー」
僕は二皿分くらいの料理をレンジでチンして、味噌汁を温めながら、ご飯を伯父さん専用の茶碗に盛った。伯父さんはその様子を眺めながら感慨深げにため息をつく。
「悠は大きくなったなあ」
僕は思わず笑ってしまう。
「何言ってるの。当たり前じゃん」
「当たり前か。それはそうかもしれんが」
伯父さんは右手の手のひらを下にして床の近くまで下げた。それはあまりに伯父さんの十八番の仕草なので僕は次に何を言われるか予想がついてしまう。
「「うちに来た時はこんなに小さかった」」
僕が伯父さんの言葉にかぶせてそのセリフを言うと、伯父さんは参ったというように軽く額を叩いた。僕は伯父さんの前に温めた料理を並べた。そのままご飯を食べる伯父さんを放っておいて部屋に引っ込むのも何なので、伯父さんの向かいに座って本を読むことにした。
「何を読んでる」
「泉鏡花。父さん怪奇小説が好きだったの?」
「さあ、知らない。俺と周造は昔から気が合わなかった。飯は一緒に食べるから何が好きか知っているが、他に普段何が好きだったかなんて、あいつがここに住んでいた時から知らなかった」
「え、そうなの?」
意外だった。伯父さんと父さんの気が合わなかったなんて初めて知った。僕を育ててくれたくらいだから、仲は良かったんだと思っていた。
「喧嘩した?」
「いや、しかしそりが合わなかった」
「じゃあ、伯父さん何で父さんの子供なんか預かろうと思ったの。母さんに頼まれたから?」
「それは……お前事情があるんだよ。大人の事情が」
「何さ、一体」
「しかし、お前は本当にいい子だ。俺たちはお前を育てることができて幸せだと思っている」
何だ? 全然答になっていない。ますます僕はその事情とやらが気になった。
「悠、お前にはすまないと思っている」
「またそんなことを言う。なんで僕にすまないのさ」
「…………」
伯父さんは酔っぱらっている時、僕と二人きりだと唐突に「すまない」と言うことがある。僕には何のことだかさっぱり分からない。そしてそう言う癖に、すまない理由を答えたことはなかった。
「伯父さん、ご飯食べたらもう寝な、ね。酔ってるんだよ。お風呂は朝入ればいいんだから」
「うん……」
その後夕食を食べ終わった伯父さんからスーツを引き剥がして寝室に放り込んで、僕はやっと自分の部屋で一息ついた。酔っている人間の相手は大変だ。僕は本に指を挟んだまま布団に寝転がる。伯父さんがすまないすまないと言うのはもう何度もあったことだし、理由を聞くのもほとんど諦めたけれど、なんで僕を引き取ったのかについては今度伯父さんが素面の時にちゃんと聞いてみようと思った。もう十年経つのだし、いい頃合いだろう。それから、ぼんやりと明日のバイト面倒くさいなとも思った。自分で選んでいることではあるけれど。
読書灯を照らしていると、窓側の障子に雪の影がちらちら映った。拡大されて見えるせいもあるけれど、もう随分雪の粒が大きくなってきたらしい。明日の朝には積もっているだろう。時計を見ると十二時を回っていた。
ごろりと俯せになって本のページをたぐる。そろそろこの短編も読み終わるから、読んでから寝ようとそう思ったところで、指に何か固いものが触れた。ぱらぱらとページを開いて見ると後の方に栞が入っていた。紫色の紙と白い押し花がラミネートしてある。僕はそれを手に取ってよく見ようとして、その瞬間バチッと強い静電気が起こったような音と共に手を弾かれた。
「痛っ」
プラスチックからなんで静電気? 僕が怖々もう一度栞に触れてみると今度は何ともなかった。一体何だったんだろうか。
そこでふっとあまりにも唐突にいくつかの疑問が湧いてきた。
母さんはなんであんなに急にイギリスに行ったんだろう。小さかったからいまひとつよく分からないけれど、母さんは海外に赴任するような会社に勤めていただろうか。それに子供に一度も会いに来ないのはやはりいくら何でも不自然すぎるだろう。
なんで僕は伯父さんと伯母さんに預けられたんだろう。父さんが死ぬまで伯父さんたちとはほとんど会ったことがなかった。僕が知らなかっただけというのもおかしい。父さんと伯父さんはそこまで仲が良くなかったって伯父さんは言ったじゃないか。母さんはなんで子供を父方に預けるんだ。普通預けるなら自分がよく知っている母方に預けないか。
それにバイト? なんで? いやバイトをするのはよしとしても、なんでそんなに毎日放課後の時間をバイトに充てるんだ。他にやることがあるだろう。僕は高校に入ってからというもの、学校が終わってから友達と遊んだ記憶も、趣味に時間を割いた記憶もほとんど無い。どうしてそんなことになっている。僕は毎日バイトをしたいだなんて思ったことが無い。
清掃バイト? 嘘だ。そんなことしていない。だって今思い出した。あれは、ふとした時窓ガラスや暗くなった液晶画面に映るのは。
電極らしきものを取り付けられた自分の姿。
僕はなぜそれを忘れて、研究所の掃除をしているだなんて思い込んでいたんだろう。
この状況は何だ。
僕はなんで今こういうことになっている?
僕は左手で口を覆った。手が小刻みに震えている。頭が痛い。
僕は財布やスマホ、そして自分の周りにあったいくつかの荷物だけを持って、静かに伯父と伯母の家から飛び出した。
朝になると雪が積もっていてひどく寒かった。僕は随分薄着で街を彷徨っていて、街の人はちらちらと僕の方を見ていた。確かにこの雪の中パーカーだけでうろついているのは異様だろう。毎年一番厚いコートは伯父さんから借りていて、僕の部屋にはなかったのだ。けれど、かといって新しい上着を買うようなお金は財布の中には入っていない。この恰好でこれからの大寒波に耐えるしかないのだ。途方にくれたが伯父さんたちの家に帰るつもりもバイト先に行くつもりも毛頭無かった。少なくともこの状況について自分の中で整理がつくまでは。
息が淡く白く上っていく。空は薄く光を含んだ曇天で、遠くの山にはもやがかかっていた。大粒の雪が静かに降っていた。雪が強くなるのはまだこれからなのだ。
夜通しあてもなく街を歩いて疲れたので、僕は歩いていた途中にあった公園のベンチに座って休むことにした。寒いせいか子供一人いない。僕はため息をついた。一体どうすればいい。碌な上着も無いし、飲み食いするにも金がかかる。財布の中を確認したけれど、もって三日だ。それに泊まるところもどうするのだろう。この天気の中で野宿は無理だ。しかし、年末に突然訪ねに行って家に泊めてくれそうな友達はいない。第一、泊まりに行ったところで多分伯父さんの家に連絡がいく。万事休すだ。
僕が再びため息をついていると、突然スーツを着た男の人に声を掛けられた。
「高井君? 高井君じゃない?」
四十代くらいの引き締まった身体をした爽やかな男性だ。安藤修二。……? 名前を知ってる? どこかで会ったか?
「ほら、僕、覚えてないかな。君の伯父さんの所で働いている安藤だよ。数年前一度お家にお邪魔したと思うけど」
そこで僕は思い出した。確かに何年か前、一度伯父さんが社員何人かを家に招いたことがある。安藤さんはその時いた若い人で、ほとんど話をしなかったが、姿は見ていた。安藤さんは僕の恰好を見て眉を顰める。
「高井君、その恰好寒いだろう。早く家に帰った方がいい。これからどんどん雪がひどくなるよ」
「…………」
安藤さんは僕の顔を覗き込む。彼の影が僕の顔にかかった。
「どうしたの。家で喧嘩でもしたの。社長心配しているよ。朝起きたら高井君がいなかったって」
僕はそこでゾッとした。なぜ社長の甥がいなくなったという話が出勤前の社員にまで伝わっているのだろうか。まだ家から出て半日も経っていないというのに。
「僕、車で来ているんだ。送っていこうか。連絡を入れれば、遅刻したって社長は許してくれるだろうし」
つまり、この人は車で移動していたのをわざわざ降りて公園にいる僕の所まで来たということだ。いよいよ普通ではない。背筋がざわつく。この人に付いて行ってはいけない。
「あ、いや、大丈夫です。自分で帰れます」
僕はベンチから立ち上がって安藤さんから後退りする。公園の出口は背中側。いざとなれば走って逃げられるかと考えていたら、先を越されて腕を掴まれた。振りほどけないよう、しっかりと握られている。安藤さんは眉を八の字にした。困ったような顔。しかし、目付きがその中で冷え切っていた。
「本当にどうしたの。やっぱり送っていくよ。何だか心配だ」
「……!」
駄目だ。この人から逃げ出すにはどうすればいい。その時――
「おっさん」
「え?」
第三の声に安藤さんが振り向く。安藤さんの肩に細い指がかけられた。小柄な女の子が立っている。深緑のセーター、黒いスカート、ヒール付きのブーツ、そしてやはり黒い、彼女には不釣り合いに大きなコート。銀の髪。僕は目を見開く。あの日雪の中で出会った、夢の中の存在かと思われた少女がそこにいる。それも十年前と変わらない姿で。
「人違いだ。こいつはお前の知り合いじゃない」
聞き覚えのあるぞんざいな口調。安藤さんはきょとんとした顔でその少女を見ている。次の瞬間安藤さんの肩のあたりが発光し、強烈な静電気が起きたような音がした。少女は彼の肩にかけていた手を引っ込める。
「チッ、いいもん着てんな、お前」
彼女の手がかかっていた場所、安藤さんのスーツの肩部分は膨らんで破裂したみたいに裂けていた。あまりのことに動揺したのだろう。安藤さんの手が緩んだ。僕はその隙に彼の手を振り払い走って逃げる。いっそ公園の外まで逃げようかとも思ったが、思い直していざとなったらギリギリ逃げ切れるくらいの場所にとどまることにした。何が起こっているのかということと、あの少女のことが気になる。
「おい、千沙、お前はあっちの兄ちゃんの方に行ってろ」
少女がそう言うと、少女の後ろからもっと小さな女の子が出てきて僕の方へ走って来た。それまで僕が必死だったせいか、僕からは全然見えていなかった。彼女は十歳くらいだろうか。黒髪のおかっぱで、その年の子供にしてはレトロな真ん丸の眼鏡をかけている。彼女は僕の脇に来ると、僕のパーカーの裾をぎゅっと掴んだ。一体この子も何者なのだろうか。
向こうでは銀髪の少女と安藤さんが真正面に対峙していた。お互いさっきよりも多少距離を離している。安藤さんは肩を押さえながら、憎々しげに少女を睨んだ。
「同業者か」
少女は鼻で笑ってみせた。
「当然」
安藤さんは肩から手を離して全身を強張らせる。
「彼はこちらの管理下にある。これは世界的な承認のもとに決まっていることだ。在野の魔術師であっても、そのくらいの道理は分かるだろう」
僕は当然のことながら安藤さんの言葉に当惑した。「魔術師」と言ったか、あの人。それ以前に僕が「管理下にある」というのはどういうことだ。僕は電極につながれた僕の姿をフラッシュバックする。管理下。やはりあれは本当に……?
少女の方は腕組みをして傲岸不遜の構えを作っていた。
「彼は逃走しているように見えるが。ならば事態は変わったと見てよかろう。これからの亡命先は彼が選ぶことだ。もはや、お前たちの鎖は砕けたのだよ」
「君が誰だか知らないが、彼は君がどうこうしていい人間じゃない」
言い終えると、安藤さんは何かを呟きながら右手を振るった。その途端安藤さんの周囲から彼の背丈ほどもある体長をした巨大な黒犬が三頭現れた。僕は目を疑う。今まであんなものはそれこそ影も形も無かった。
「退いてくれ、僕はできればこいつらに君を食わせたくはない。事後処理が面倒だ」
安藤さんの右手人差し指が僅かに曲がる。それを受けてなのか、巨大な犬たちが今にも少女に飛びかかろうという姿勢になった。あの犬たちにかかっては、小柄な女の子なんてひとたまりもないだろう。明らかに脅しだ。しかし、少女はあくまで表情一つ変えない。いや、彼女はその美しい紫の瞳に明らかに嘲笑の色を浮かべている。
「お前さっき『誰だか知らないが』と言ったか? おいおい、こんな目立つ恰好をしてやっているのに、それは物知らずにもほどがあるぞ。それに力の差はよくよく測ることだ」
そう言うと彼女は手の甲を下にして、犬の一頭に向けて人差し指を差し出した。指をクイと曲げる。
「来い」
あまりにも冷徹なその声。指を向けられた犬は何か巨大な手に掴まれたかのように、安藤さんのもとから釣り上げられ、彼女の目の前の空中にぶら下げられた。安藤さんは呆気にとられている。
傲岸にその犬を見上げる彼女の唇が僅かに動いたかと思うとその犬は大きな青い炎に包まれ、瞬く間に消し炭になった。僕の服を掴んでいた千沙と呼ばれた女の子は小さく悲鳴を上げて僕の腰のあたりにしがみつく。無理もない。巨大な犬一頭が目の前で丸ごと一頭焼き殺されたのだから。
「一体何が」
思わず僕が呟くと、腰の方から声がした。
「あれは呪い。強い呪いをかけて使い魔を殺しているの」
呪い? 使い魔? 非現実的な言葉だ。しかし、さっきも魔術師という言葉が出てきていたし、非現実的と言えば目の前で繰り広げられている光景こそがそれそのものだ。僕は銀髪の少女の方を見てハッとする。僕は十年前あれを見た。あれは呪いをかける瞳なのだ。
「さて、分かっただろう。お前は私に逆立ちしても敵わない。その犬たちを下げることだ。使い魔は無駄にするものではない」
彼女は青く輝く瞳で安藤さんを冷酷に見つめていた。安藤さんは言葉に詰まっている。しかし、彼はやがて耐え切れなくなったかのように口を開いた。右手を勢いよく振るう。
「かかれ!」
二頭の犬は少女に飛びかかった。その一刹那に彼女はため息をついてみせた。
「愚か者め」
彼女と安藤さんの間に青い炎の壁が現れ、彼女に飛びかかった犬たちはそれにぶつかって瞬く間に消えた。安藤さんはその場にへたり込んだ。彼女は彼の側まで行って彼の頭を掴む。僕はゾクッとした。前のめりになって叫ぶ。
「やめろ!」
彼女は僕を見た。そして微笑みながら首を振る。彼女の瞳は既に紫へ戻っていた。彼女はまた安藤さんに顔を向けた。
「スーツが無い所なら、さっきのように打ち消されまい。いいか、あの少年はお前が探しているやつとは違う。人違いだ」
ふおん、と空気が揺れたような感じがした。彼女は安藤さんの頭から手を外し、無防備に彼に背を向けてこちらへ歩いてきた。安藤さんはその後ろで立ち上がり、頭を掻く。「あれ?」と。まるで自分は一体何をしていたのだろうかという感じで。そして彼はそのまま公園の外に歩いて行った。
雪は小休止したのかもしれない。鈍色の雲から僅かに日が差した。公園の遊具やベンチから影が伸びる。
「サドリ!」
僕の腰にしがみついていた千沙という子はその少女の方へ走って行って抱き着いた。あの少女はサドリというのだろうか。少女は女の子の肩をぽんぽんと叩くと僕の目の前までやって来た。彼女は僕を見上げ目を細める。
「大きくなった」
ああ、十年前は僕が彼女を見上げていた。しかし、今は逆だ。僕ばかりが大きくなって、彼女の背を追い越し、彼女は昔のまま。
「で」
彼女はいきなりその紫の瞳で僕を睨んだ。
「お前どこにいたんだ。随分探したんだぞ」
「どこにいたって……」
そう言われても困る。話せば長い。
「まあ、いい。もう見つけたのだから。しかし、久し振りに会ってみたら厄介なことに巻き込まれているみたいだな」
僕は黙ってしまう。確かにさっきの様子を見たら、僕が平穏無事に過ごしていないことは分かるだろう。彼女は胸のあたりに零れていた髪をはねのけた。
「すまないが、長居はできない。早速だが十年前の交渉を再開しようじゃないか」
「え?」
十年前の交渉と言われて僕は咄嗟に何のことか分からなかった。
「十年前は何と言ったのだったか。そう私の家に来ればこの世の誰も見せてはくれないものを見せてやると言ったのだったな。よろしい。それは約束通り見せてやろう」
思い出した。僕は十年前彼女の家に来ないかと誘われていたのだ。彼女は僕の恰好を上から下まで眺めた、この冬空の下パーカーだけ着たその寒々しい恰好を。
「それに客人に衣食住を提供するのはやぶさかではない」
彼女は悪い笑顔を浮かべて次にこう付け加えた。
「それから、私はとても物知りなんだ」
確信的な言い方だった。この不思議な少女がそう言うということは、それはつまり僕の一切が不明なこの状況について何らかのヒントを与えてくれるということだろう。願ってもないことだ。しかし、
「待ってくれ、君は一体何者なんだ」
と当然の質問を僕は彼女にぶつける。風が吹き、彼女の黒いコートがはためいた。
「私は古い古い魔術師。お前をこの十年探していた」
彼女は息を吐き、目を閉じた。
「随分私を待たせてくれたものだな。さあ、回答を訊こうじゃないか。心配しなくてもいい。お前はお前の名前を言うだけでいい」
空では一転太陽を厚い雲が覆い、辺りが暗くなり、また風が吹いた。彼女が目を開いて僕を見ると、顔にかかる銀髪の隙間から青い、爛々と光る瞳が見えた。あまりにも致命的なその雰囲気。僕は十年前と同様直感する。この青い目をした彼女の言うことには何一つ頷いてはならない。
しかし、僕には他に選択肢が無い。魔術師だろうと何だろうと、今の僕には彼女の助けが必要なのだ。
「高井悠理」
何か遠くで錠の落ちる音がした。それが、僕がこの銀髪の少女に魂を売り渡した瞬間だった。
辺りはもう小さな吹雪になっていた。僕はサドリと呼ばれた少女と千沙と呼ばれた眼鏡の小さな女の子に付いて、公園から一キロほど離れた商店街の中を歩いていた。千沙と呼ばれた女の子は僕の隣をちょこちょこ歩いている。いい加減この子の名前も確かめなければならないだろう。
「えっと、千沙ちゃんでいいのかな」
彼女はぽっと頬を赤らめながら僕に向かって笑顔を見せた。
「はい。林堂千沙といいます。お兄さんは悠理くんでいいんですか?」
悠理くん、何だか新鮮だ。そんな風に呼ばれるのは小学生の時以来かもしれない。
「うん、それでいいよ。……ねえ、君はサドリっていうの?」
僕は前の方を歩いていた銀髪の少女に向かって声を掛けた。
「そうだ」
「サドリちゃん?」
「おい、今ものすごい寒気がしたぞ。サドリでいい」
サドリはぶっきらぼうにそう言って前を歩き続ける。商店街の人はサドリをちらちら見ていた。なかには凝視する人すらいる。当然だろう。ただでさえ銀髪と紫の瞳は目立つ。加えて彼女は恐ろしく端正な顔立ちをしていた。明らかに只者ではない風貌だ。
しかし、一方でもう慣れっことばかりに彼女に一瞥もくれない人たちもいる。つまり、彼女の姿に慣れている人もいるらしい。僕は横にいる千沙ちゃんに訊いてみた。
「この辺りにはよく来るの?」
「そう、サドリの家がこっちにあるの」
「道覚えておけよ」
とサドリ。僕たちはそれから八百屋のある角を左に曲がり、さらにその先にある小さな路地を二三回曲がった。
曲がった先の路地に一人の男が立っていた。四十歳くらいだろうか、彫が深く瞳は碧、髪は金。日本人風ではない。フロックコートに中折れ帽という出で立ちをしたその男は、僕たちの行く手を遮るように真正面にこちらを向いていた。明らかに僕たちに用がある。僕は嫌な予感がして身構えた。男は、僕の方を見るときれいな歯並びを見せて笑った。まるで、古い知人に再会したかのように。
「こんにちは、イギリス魔術機関ガーディアン日本駐在員アラン・スミシーと申します。きっと、今のあなたにとっては初めましてなのでしょうね」
ほとんど訛りの無い流暢な日本語だった。コツ、とサドリはヒール付きのブーツで一歩前に出た。
「ガーディアンの人間が何の用だ……と聞く必要はあるまいな。こいつに用があるに決まっている。だが、通してもらおう。こちらは急いでいるんだ。結界を張っていないあたり、手荒なことをする気は無いのだろう?」
アラン・スミシーは穏やかにええ、と頷いた。
「サドリ、あなたと戦うのは手間ですし、何より私は十年前にその少年と会っているのですよ。きっとあれはあなたが持っているものの力なのでしょう。であれば、これからしばらくその少年があなたの保護下に入ることは確定しているんです。私、無駄なことをするのは嫌いで。今日はほんのご挨拶に上がったまで」
サドリは眉間に皺を寄せた。
「……問い質したいことはあるが、こちらも急ぐ身だ。挨拶とやらは済んだだろう。そこをどけ」
「はい、お暇いたしましょう」
その金髪碧眼の男は中折れ帽を取り慇懃に礼をすると、路地を僕たちに向かって歩き始めた。そして僕とのすれ違いざま、
「またお会いしましょうね」
と寒気のするような親しみのこもった声で囁き、角を曲がって行った。サドリはそれをずっと睨んでいて、アラン・スミシーの姿が見えなくなってから、白く息を吐きだした。
「嫌なやつが出てきたものだ。しかし、今は先を」
と言いかけて、サドリはいきなり咳込み始めた。かなり激しく咳をしている。尋常ではない様子だ。
「だ、大丈夫?」
僕は様子を見に彼女の横へ行ってハッとした。血を吐いている。雪の上に鮮血が零れていた。激しい咳は間もなく治まったが、サドリは肩で息をしている。まさか、今のやつに何かされたのだろうか。そんな風には見えなかったが。
「とにかく病院に」
そう言うと、千沙ちゃんが首を振った。
「違う。早く家に帰らないと」
「だけど」
家に帰ってどうにかなるものじゃないだろうと思ったところで、サドリが僕に手のひらを向けた。
「千沙の言うことが正しい。とっとと帰るぞ」
僕たちは再び歩き出した。僕はその間中これで本当に大丈夫なのだろうかと心配していた。
しばらく路地を進むと、いきなり辺りが静かになった。吹雪が止んだみたいだ。というよりも空はからりと晴れていて。今しも夜が明けたところという雰囲気だ。僕は思わず後ろを振り返った。来る途中のどこかで違う空間に入ったとしか思えない。横に立ち並ぶ建物もいつの間にか日本のものとは思えない石造りの家々になっていた。しかし、人の気配はない。道には緩やかな傾斜がかかっていて、目の前は坂道になっている。
「横の家や道に入ろうとするんじゃないぞ。その先は虚無だからな」
荒く息をしながらサドリは言う。
「これは一体」
「気に入って昔から借りている場所だ。私が名前を知って許可した者しかここに入ることはできない。私の家は突き当たり。ほら、もう見えただろう」
サドリの向こうには確かに道の突き当たりに、横に並ぶ他の家と変わらない石造りの平たい家があった。入口の部分には扉が無く、ただ赤い布がかけてある。
布を払いのけて家に入ると、いきなり大きなリビングがあって、木製のテーブルと三つの椅子が窓の近くに置かれていた。綺麗に片付いている澄んだ空気の部屋だ。リビングに入って左側には台所があるらしい。鍋とフライパンがちらりと見えた。右側にも何やら部屋があるらしいが、青い布が入口に掛けられていて中が見えない。壁は白く滑らかだが、所々に何か黒々とした印がつけてあった。
「サドリ、座って」
千沙ちゃんがテーブルの近くにある椅子を引いた。サドリは手のひらを振る。
「いや、もう大丈夫」
実際サドリの様子を見るともう息も落ち着いていた。あまりにも急に彼女の状態がよくなったので驚いてしまう。僕はふと壁につけてある印が青く光っているのに気が付いた。この家と彼女の身体に何か関係があるのだろうか。
彼女は口元についていた血を拭った。
「しかし、いずれにせよ、これから話をするには座らなければならないか。では、まあ座れ」
そう言って椅子の一つを指差した。促されるままテーブルに着く。椅子は三つだ。と、右の部屋でごとごとする音が聞こえて、千沙ちゃんがもう一つの椅子を持って来た。これで四つ。どうもこの家に来る人間は僕を除いて固定で三人いるらしい。サドリは壁に彼女の大きな上着を掛けた後、僕の向かいに座った。
「サドリ、お茶入れようか」
千沙ちゃんが何かわくわくした様子でサドリと台所を交互に見ていたが、
「お前じゃ背丈が足らんだろう。危ないからやめておきなさい」
と言われて、少ししょんぼりとしながらサドリの横に座った。サドリと千沙ちゃんは随分親しいようだ。もう知り合って長いのかもしれない。
サドリは自分で茶を出す気はさらさら無いらしい。彼女はそのまま椅子に落ち着いて頬杖をついた。銀の髪がざっと肩から流れ落ちた。
「今日の時点で、日本側だけでなく、イギリスのガーディアンまで絡んできたと……さすがに動きが早いな。だがともあれまずはお前の話を聞こうじゃないか。お前側から見て何があったのかそれを整理しよう。なるべく事の大本から事情を話せ」
彼女は紫の大きな瞳で僕を見つめた。有無を言わさない感じだ。僕は事情の説明を始めた。それは必然的に、父さんが死んでから、即ち彼女と初めて会ってからのことを大方喋るのと同じになった。何故なら、僕には父さんが死んでからの十年間に起きたこと全てがもはや信じられなくなっていたからだ。サドリは僕の話を別に驚くでもなく頬杖をついたまま静かに聞いていた。彼女は僕がすべて話し終えて初めて口を開いた。
「概ね分かった。何点か訊こう。母親がイギリスに行ったというのは確かか」
「そう言われてはいたけど……分からない」
「ふむ。どうも嫌なことになっている気しかしないが、今の段階で不用意なことを言うのはやめておこう。次、バイトとして清掃をしている筈だったが、実際のところは電極を取り付けられた自分の姿を見たと。で、その上で何をしていたんだ?」
僕は考え込んでしまう。何をしていたかというのは難しい。僕もあれが何なのかよく分からない。
「椅子に座らされていた。それでテレビで何かをずっと見せられていたと思う。人の顔がいくつも出てきた」
「中学時代はずっと遊んでいたということだが、その時も実はそういうことをしていたんじゃないのか?」
「よく分からない」
「部分的に思い出したということだな。きっかけは何だったんだ。これまでごく普通に伯父伯母の家で過ごしていたわけだろう。そこから逃げ出すほど違和感を持ったきっかけは何だったんだ」
きっかけ? 確かに言われてみれば何だったんだろう。
「何をしていた」
僕は思い出す。
「本を読んでいた。それで栞が入っていて」
「今持っているか」
僕は持っていたかばんを漁った。本は入っていた。逃げてくるときは無我夢中だったけれど、無意識のうちにかばんに放り込んでいたのだ。僕は本のページを開いて栞を取り出す。
「千沙」
とサドリが言うと、千沙ちゃんがじっとその栞を見た。
「消しちゃうやつ。でももう終わってるよ」
「そうか、安心した」
サドリはそう言うと、再び僕の顔を見た。
「私の中で話はつながった。しかし、お前に説明するのには時間がかかる。何故ならお前には基本的な知識が欠落しているようだからな。なに、これはお前のせいではない。お前はこの話では被害者なのだから。まず、最初にするべきことを言おう。家に連絡を入れろ」
「そんな」
サドリは僕の困惑を見透かす。
「別に連絡を入れたくらいでどうもなりはしない。心配なら伯母の方に連絡するのがベターだろう。伯父はほぼクロだからな。急にいなくなったことを詫びて、しばらく友達の家に泊まるとでも言うのだ。何の連絡も無しに行方不明になる方がかえって話が面倒になる」
僕はその場でスマホを使って伯母さんへのメッセージを書いた。文面をどうするか困ってしまうが悩んでいても仕方がない。半ばやっつけで送ると、すぐに返信が返って来た。少なくとも文面の上では心配しているらしい。何度かメッセージのやり取りをして一段落つけた。どう説明しようとも事前に何の説明もなく年末に友達の家へ泊まりに行くというのは不自然なのだが、これは仕方のないことだ。
「千沙、やはり何か飲むものが欲しい。コンロを使わないやつで、何かあるか」
「冷蔵庫に牛乳があるよ」
千沙ちゃんは三人分のコップと紙パック入りの牛乳をテーブルまで運んできた。
「ありがとう。千沙は適当に遊んでていいぞ。別にここからはお前にとって新しくもない話だ」
千沙ちゃんはふるふるとおかっぱ頭を振ると、椅子に座って自分のコップに牛乳を入れ始めた。物好きなやつめと呟くとサドリは頬杖をやめた。
「さて、何から説明しようか。話さねばならないことが多過ぎるのだ」
彼女は思案している。そして、こう言った。
「私は既に魔術師であることをお前に明かしたな。そして、それはお前もそうなのだ、悠理」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
「お前は千年に一度の才能を持つ魔術師。今の状況は全てそれが原因となっている」
それから彼女の長い長い説明が始まった。
「魔術師というものについてどういうイメージを持っているだろうか。今どきは本でもアニメでもゲームでも魔術師が溢れかえっているから、かえって一つのイメージを持ちにくいかもしれない。しかし、まあ、魔術師というのはおよそ通常ではありえないことを才能と一種の学術知によって成し遂げる連中だと思っておけばいい。箒で空を飛ぶ奴も立派な魔術師だ。
魔術は太古の昔から存在していた。それこそ文明の誕生とほぼ時を同じくして生まれたと言ってよいだろう。昔から魔術に関してなされてきた記述は与太話も多いが、全くの嘘八百ではないのだ。
では、にも拘らず何故魔術師は存在を疑問視される……というより現代では存在しないとされているのだろうか。それは勿論魔術師たち自身が存在を秘匿する傾向にあったというのもあるが、そもそも数が少ないというのが大きい。魔術師になる人間は多くないのだ。
まず魔術と言うのは基本的に放っておけば使えるようになるというものではない。普通魔術のまの字も知らない人間は魔術の才能があったとしても、多少身の回りに変わったことは起こるかもしれないが、超常的というようなことは何も起こらずに生涯を送ることになる。すなわち、既に魔術師である誰かに魔術の何たるかを教わるか、或いは自分は魔術師になれるという病的な信仰のもとに魔導書を独学するかをしない限り、一人の人間が魔術師になることは無い。
第二に、これが世知辛い話なのだが、才能が無ければ魔術師になる意味が無い。基本的に一つの魔術を習得するには余程才能があるのでなければ長い時間がかかる。しかしそれが他の手段でも代替可能だったらどうする? 例えば遠くにいる人間に声を届ける魔術を長い時間をかけて習得したとして、それが今どれほど意味があるのだろうか。努力をする前に素直に電話を使えばいい。それを魔術でやろうとするのは時間と労力の無駄だ。
つまり、魔術を学ぶ意味があるのは、それが魔術以外の手段で達成できない場合だけなのだ。昨今テクノロジーの発展によって魔術を使う必要性が急速に減ってきているのは言うまでもあるまい。才能と学知によって、科学技術など他の手段では代替不可能な領域にまで達することができない者は、わざわざ魔術を学ぶ意味が無い。これが魔術師の少ない理由だ。
先ほどから才能、才能と言っているが、魔術にも向き不向きがある。空を飛ぶのが上手いもの。火の扱いが上手いもの。様々だ。しかし、空を飛ぶのが上手い魔術師がいたとしたら、そいつは一般に空を飛ぶことだけ極めて、他の魔術には手を出さない。何故なら向いていない分野の魔術を数十年やそこら勉強したところで、それが他の技術に代替不可能な領域に到達することはないからだ。だから、一人の魔術師につき、使える魔術は一系統というのがスタンダードになる。
ここまでよろしいか」
「全然よくない」
僕は頭を抱えてしまった。分からせるつもりがないだろ、サドリ。いきなり立て板に水の調子で喋られても頭に入らない。それに突っ込みどころもある。
「一魔術師につき使える魔術は一系統って、じゃあサドリは何なんだ。どう考えてもいくつも使っているじゃないか」
「今話したのは一般論に過ぎない」
サドリはすました顔で牛乳を飲んでいる。ああ、そうという感じだ。いよいよ分からない。
「要点をまとめれば、魔術と言うのは学識も重要だが、それ以前に超才能主義的だということだ。それでお前の話につながる」
サドリは長い解説を始める前に僕が千年に一度の才能の持ち主だと言った。それ自体が飲み込みづらい話だけど、それがどうつながるのだろう。
「非常に才能主義的な魔術の世界に、ほとんど不世出の天才が現れたら、周囲の魔術師はどうすると思う」
「……消す?」
サドリは苦笑した。
「アホ。そんなことしても得にならんじゃないか。いいか、確かに自分が苦労している所にそんな天才が現れたら内心面白くなかろうさ。嫉妬もするかもしれない。しかし、ある程度以上のレベルにある魔術師にとって重要なのは、自分が他人と比べてどうかということではなく、自分がどれほどの魔術に到達できるかなのだ。だから天才は潰してしまうのではなく、有効活用する方法を考える」
サドリはこちらに手のひらを広げて見せた。
「例えば弟子として手元に置いて、自分の知識を教える傍ら、自分もそいつから得られる所は吸収するとか。あとは自分のコミュニティに招いて、その集団の底上げを図るとか。この辺りはまずまず平和的と言っていい」
では、僕がこうしてサドリの家に招かれているのも、それが目的なのだろうか。
「しかし、ほとんど不世出と言うレベルになるとそれでは収まらない。まず間違いなく世界的な争奪戦になり、どこかの国で魔術機関の保護下に入る。そこで開発兼研究をされる訳だ。天才の天才性を遺憾なく発揮させて、それのデータを取り学知の蓄積とする。魔術体系への理解を国家レベルで進めることが目的になる」
話がつながってきた。
「つまり、僕が清掃に行っていたつもりだった研究所はその魔術機関というやつで、僕はそこで研究されていたということ?」
人の映像を延々と見せられていたあれが開発兼研究なのだろうか。
「そう。しばしば天才自身の人権は制限される。お前レベルになると嫌な話、人一人の人権についてどうこう言っている場合ではないと考えるやつが少なくない。ちなみに日本はマイルドというか半端な方だぞ。イギリスだと一通り調べ終わった後、丸ごと瓶詰にして保存してしまう」
生唾を飲んだ。しかし、それ以前に重要なことが分かっていない。
「サドリ、さっきから僕のことを天才だと言っているけれど、こっちは全く実感が無い。一体何の天才なんだ。僕は別に何か特別なことができるという感じはしないのだけれど」
サドリはふむ、と言った。
「どうもお前は研究所の外では記憶ごと大半の力を封じられていたみたいだからな。それで私もお前を探知できなかったのだろう。魔力の波形が変わってしまっていては見つけようがない。更に言えば研究所のやり方も良くなかった。人間の映像を見せたところでしょうがない。それに第一、お前の力は外面的には非常に地味なものなのだ。しかし、そうだな、このくらいなら心当たりはないか。例えば人や物の名前を覚えるのがやたら得意だとか」
「それは、ある」
数年前に一度会ったきりの安藤さんの名前もきっちり憶えていた。学校の試験でも人名が出てくる問題はとても得意だ。しかし、それと才能が何の関係があるんだろう。
「覚えるのが得意とさっき言ったが、それは正確な表現ではない。正確にはお前は対象の名前を知っているのだ。お前の才能はものの名前が分かるということ。名前ということに関してずば抜けて勘がいいと言っていい」
何だそれ。
「何がそんなにすごいんだ。全然大したことないじゃないか」
いやいや、とサドリは首を振る。
「こと魔術に関しては、それは凄まじい力だよ。高等魔術でまず必要になるのはものの名前なのだから。ここに来る前にも私はお前の名前を尋ねたはずだ。お前は魔術を使う際の基礎において千年単位では類を見ないアドバンテージを持っている。私も含めて魔術師と言うのは名前を知る段階で非常に苦労をするが、適切に修行さえすれば、その苦労がお前にはほぼ無くなる」
サドリは空になったコップを見つめている。
「私はお前が羨ましい。お前の能力が私にあれば、できないことなど無いのに」
ただし、と彼女は付け加えた。
「お前の所謂魔術師としての戦闘力はゼロだ。何故ならさっき説明したように魔術師が数十年やそこらで習得できる魔術は一系統だけ。お前は現実的には名前を知るというその一点を伸ばすしかない。お前は恐らくポテンシャルだけはあるという状態で一生を終える」
「……あるのは才能だけということ?」
「有り体に言えばそうだな。お前は非常に珍しい例として珍重され、データは取られるが、お前自身が魔術師として大成するかと言うと決してそうではない」
「踏んだり蹴ったりじゃないか!」
望みもしない才能とやらを持って生まれたせいで、訳の分からないことに巻き込まれて、しかも僕自身は自分の才能によって何かメリットを得るわけではないということだ。
僕がそう言ったところで入口の布が大きく動く音がした。
「何だサドリ、客か?」
入口には赤っぽい茶髪で銀色のピアスをした強面の男子が立っていた。多分僕より少し年上くらいだろう。彼は左手に食材が入っているらしい買い物袋を提げていて、僕をきつい目で見てくる。サドリはにやっとした。
「コックが帰って来た」
「誰がコックだ」
「丁度いい。一沙、茶を入れてくれ。牛乳はもう無くなってしまったんだ。私はいいが、客人の方が何も飲んでいない」
僕は到底何も飲む気になれなかったから手を付けていなかっただけだったのだけれど黙っていた。二人の会話に割って入りづらかったのだ。
「茶くらい自分でも入れられるだろ。いいけど、そいつ誰」
「おいおい、ご挨拶じゃないか。こいつの方がお前より先に私と会っているんだぞ」
「高井悠理です」
先に名乗っておくことにした。彼はつんとした顔で僕を見て、
「林堂一沙」
と言うと買い物袋を持ったまま台所の方へ去っていった。僕は目でサドリに説明を求める。サドリはにこっとした。
「あれは千沙の兄貴だよ」
これまで静かに話を聞いていた千沙ちゃんも僕に向かって頷く。この可愛らしくておとなしいおかっぱの女の子とあの一見して不良風の男が兄妹? 全然似ていないじゃないか。そう思っていると、「今日は麻婆豆腐なあ!」という声が台所からかかった。
実際、お昼ご飯は麻婆豆腐だった。あれ以上僕と魔術について話すのはやめて、四人でテーブルを囲んで食べる。辛さの具合が丁度良くて絶妙な味だった。サドリが一沙のことを「コック」と言ったのも故の無いことではないらしい。
不思議な状況だなと思った。家を出て半日でほとんど会ったことの無い人間三人とご飯を食べている。
「もう靴が埋まるくらいには積もっていたぞ」
「え、本当?」
兄の言葉を聞いて千沙ちゃんは嬉しそうだ。確かに子供からすれば雪と言うのは嬉しいイベントだろう。この街で積もるほど雪が降ることは年に数回あるかないかだし。
「このまま降って夕方になると帰るのが面倒になるから、飯食ったらとっとと帰るぞ千沙」
「えー!」
「えーじゃない。どうせ今日はサドリにも面倒見てもらえないんだろ。な?」
一沙がサドリの方を見ると、サドリは涼しい顔をして頷いた。
「今日はこちらにかかりきりだ」
こちらというのは僕のことらしい。千沙ちゃんがレトロな丸い眼鏡の奥から少し恨みがましい目で僕を見てくる。僕にはどうしようもないのだから許してほしい。
「で、そいつどこから拾って来たんだ」
「川を越えてずーっと東に歩いて行くと細長い公園があるだろ」
「あるだろって知らねえけど、何? そんな所まで出かけて平気だったわけ?」
「問題無い。ちゃんと行き帰りの時間は計算してある」
「嘘つけよ。知ってっからな、お前が恐ろしく無計画なの。何度血反吐吐いてる?」
「さてなあ。ちなみに正直に言えば今日でまた一回増えた」
「バカ!」
一沙は立ち上がった。しかし相変わらずサドリが涼しい顔をしているので、諦めたように椅子に座る。どうも話を聞いているとサドリが血を吐いたのは今日だけのことではないらしい。長い間外に出ていると身体によくないということだろうか。
「千沙も付いて行ったのか?」
「うん。それから帰ってきてお話聞いてたの。悠理くん凄いんだよ」
凄いけれど結局全く凄くないという話だった気はするが、千沙ちゃんの中ではそうなっているらしい。一沙はふうんといった感じで僕を眺めてくる。
「全然そんな感じしねえけど」
それはそうだろう。僕だってそう思う。けれど、
「まあ、でもサドリが連れてくるっていうことはそうなんだろ」
と彼はボソッと言った。
「で、お前いつまでここにいんの。雪このままだと帰れなくなるぞ」
彼はその三白眼で僕を見てくる。その口調は単に「目障りだから出ていけ」ということではなく、実際に僕が帰れなくなることを若干気遣っているような感じだった。僕はそれを少し意外に思いながら答える。
「家には帰れない」
「なに?」
一沙は僕とサドリを交互に見た。
「訳アリなのさ」
「今日の夜、家から出てきたんだ」
彼は少し考えこんだ風だったが、突っ込んだことは聞いてこなかった。代わりに、
「じゃあ、お前どうすんの、泊まる所とか」
ともっともなことを聞いてきた。確かにそれが問題なのだ。サドリに付いてここまで来たものの、僕には何もプランが無い。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「構わん。ここに泊まれ」
サドリは麻婆豆腐を頬張りながら言い放った。あまりにも何気ない感じだった。
「「待て待て待て待て!」」
僕と一沙の声がかぶってしまう。
「まずいだろ、この家に男が泊まるってのは。お前一応女だぞ」
「そうだよ、サドリ。さすがに悪いよ」
サドリは手の甲で口元を拭った。彼女の銀の髪が揺れる。そんな動作をしていてもこの魔術師は美しい。
「何がまずいのか私にはさっぱり分からんな。客用のふとんは一式買ってある。いいからここに泊まれ。五十年いようが百年いようが構わん。どうせ行く当てもないんだろう」
「けどよお、サドリ」
「心配無用だ。一沙」
そう言われた一沙は僕の方を睨んでくる。どうしたものか。
「でも、確かに他に行く所が無いんだ」
「決まりだ」
決まってしまった。
食べて後片付けをした後、兄妹二人は両方とも恨みがましい目を僕に向けながら去っていった。本当に僕にはどうしようもないのだから、あんな目で見ないでほしい。
静かになった家で、サドリと一緒に一沙が残していった茶を飲んだ。
「あの二人とはどういう関係なの。僕みたいにどこかから見つけてきた?」
「そうだな。三年前に千沙の方を見つけて連れて来ようとした。そうしたら一沙も付いて来た。私が用があるのは千沙だけだったんだが、一沙は頑として千沙を一人で私の所に来させようとしなかったんだ。」
「……最初家に入って来た時はびっくりしたけど、一沙って実はいいやつでしょ」
「本人には言ってやるなよ。照れるからな」
「二人とも魔術師?」
「千沙の方だけな。あの子もすこぶる才能がある。魔術的なものに関しては私よりよっぽど目がいい」
僕は彼女が父さんの本から取り出した栞を見てくれたことを思い出した。
「あの栞は魔術に関係のあるものだったの?」
「そう。キャンセラーだな。解呪の魔術。いいか、この世には魔術道具というものがある。作るのが大変な上、機能も限定的だが、作成者の魔術を他の人間にも使えるようにできる便利なものだ。さっきも話したように魔術師はそのままでは一系統の魔術師か使えないが、魔術道具の使用によって実質的に多様な魔術の行使が可能になる。あの栞を誰が作ったか分かるか?」
「分からない。あの栞が挟まっていたのは父さんの本だけど」
サドリはこめかみを指でおさえた。
「お前の父親の家系は魔術師である可能性が高い」
僕は当惑した。
「それって、どういう」
「これまでの話の復習がてら順を追って話そう」
サドリはコップのふちから指に水分を取って、それでテーブルの上に簡単な系図を書いて見せた。
「お前の父親と伯父は兄弟。父親が死んでから母は仕事の関係からイギリスへ赴任……ということに少なくともなっている。お前は母方ではなく父方に預けられた。これをお前は不自然だと考えている。確かにそれなりの理由がなければこうはならないだろう。だが諸々の要素を勘案すれば、お前が父方に預けられた理由は恐らくお前の管理に伯父が一枚噛むことが必要だったからだ。研究所だけで管理を完結させるのは骨だからな。家の方にも研究所とグルの魔術師がいた方がやりやすい」
僕はお茶をすすりながら考える。
「でも、それなら伯父さんじゃなくて伯母さんが魔術師でもいい気がするけど」
伯父さんも伯母さんも両方魔術師というイメージからは程遠いが。
「そこだな。しかし実は魔術師と言うのは同じ家系の中から生まれやすい。これは一説には魔術の才能が遺伝するからだと言われている。魔術遺伝説だな。今もってなお真偽は不明だが。林堂兄妹のような例はごまんとあるわけだし。より確実なのは魔術師と言うのは誰かの手ほどきを受けなければ原則として生まれない以上、魔術師になるためにはどこかのタイミングで他の魔術師と接触を持たなければならないということだ。そこで親族が魔術師と言うのは絶好のチャンスであり、結果的にある家系に魔術師は多くなる。お前の伯父ではなく伯母の方が魔術師というのも考えられないではないが、伯父の方がそうであるよりも確率は低い。無論両方とも魔術師だという可能性はあるがな」
そこまでの話は一応呑み込める。
「じゃあ、父さんも?」
「確実なことは言えんが、そうではないかと思う。お前の父親が死んでからいきなり事が動き出したのも妙な話ではあるし。もしあの栞を作ったのが親父さんだとしたら、お前の魔術と親父さんの魔術はよく似た所がある」
「名前を知る魔術と解呪の魔術が?」
僕にはその両者が全然違うように思われるが。
「そう。両方本質を知るということが核にある。解呪というのは、その解く対象の魔術の本質を知らなければ行うことができない。本来であれば個別の魔術に対して、それに合わせて解呪するものだ。今回の栞に部分的にしか効果が無かったのは、お前がかけられた魔術の本質に合わせて作られたものではないからだ。名前を知るというのも、別に名前を構成するいくつかの音や文字を知るということが中核にあるのではない。そのものの本質を知るから名前も知ることができるし、名前を知るからそのものの本質を知ることができるのだ。高等魔術で名前が必要になるのもそれが理由。実際の所やっているのは名前を通しての本質の掌握に他ならない」
「よく分からない」
サドリは頷いた。
「無理もない。まあ一つ分かるのはあれを作ったのは中々大した魔術師だということだ。全くお前があれを取り出したときは冷や汗が出たぞ。うっかり落とされでもしてみろ。この家にかけている魔術が壊れかねん。もっとも千沙曰くすでに効力を無くしていたみたいだが」
僕は考え込んでしまった。父さんが魔術師かもしれない? 僕の中で父さんはよく分からない人だった。今となってはいよいよ分からない。一体父さんは何者なのだろうか。何か父さんの正体を知る方法は無いだろうか。
「まあ、ゆっくり慣れていくことだな。こちらとしては、いつまでここにいてもらっても構わない」
「さっきもその話になったけど本当にいいの? ここにいて」
「当然。何年でもいろ」
サドリは紫の瞳で僕を真直ぐ見る。彼女の銀色のまつげが陽の光を浴びて透き通って見えた。彼女がそうまで言うのは僕が珍しい存在だからだろうか。正直ありがたくはある。しかし、
「でも、そんなに長くいるわけにはいかない。冬休みが終わったら学校が始まるから。学校には行かなくちゃ」
彼女はにやっとした。
「大変だな、学生ってやつは。まあ学問は大事だ。ということはだ、お前の希望を通すとすれば、それまでにはこの件に一応の決着をつけなければならないんだな。冬休みはあと何日ある?」
「五日」
「よろしい。ただし私がいるからといって研究所と正面からドンパチやるわけにはいかんぞ。極東の島国とはいえ鬼のような魔術師がいるからな」
「でも、それじゃ根本的な解決にはならないんじゃ」
「その通りだ。しかし無理なものは無理。それに日本の方をどうにかしたところで、次は他の国の機関が追ってくる。お前は今逃亡中とはいえ、一応まだ日本の研究所の保護下に入っているということになっているから他国に手を出されないに過ぎない。今の状態ですらガーディアンの魔術師がご挨拶に来た。何回でも言うがお前は世界的な争奪戦の的なんだよ」
「じゃあどうすれば……」
紫の瞳がきらりと光る。
「だから私が一番勧めたいのはな、学校も伯父も放っておいて、ずっとここに隠れていろということなんだ。なに、ちと手狭だがな、退屈はさせんぞ」
僕は絶句してしまった。
「私はお前の記憶をいじったり瓶に詰めたりはしない。保証しよう。私はどこの国の機関よりもお前を人道的に扱う」
「それは……そうですかとは言えないよ、サドリ」
「ほほう」
サドリ少し上向いた。
「よかろう。今日もあと少しなら外に出ることができる。お前の認識がいかに甘いか確かめさせてやる。少し待っていろ」
そう言うとサドリは席を立って、入口に青い布を掛けてある右の部屋に入っていった。ガサゴソと何かを漁る音がする。これから一緒に外に出るということだろうか。僕は彼女の提案について考える。けれど回答は僕が言ったとおりだ。そもそも僕がそんなに追われる存在だというのも安藤さんと金髪の魔術師の件があったとはいえ、今一つ納得しがたい話だし、それがもし本当だとしてもここにずっといるだなんて考えられない。
サドリが部屋から出てきた。何か小さな壺みたいなものと、楕円型のレンズをした眼鏡を持っている。彼女は眼鏡を僕に渡すと、壺からハーブの粉のようなものを取り出し、ぶつぶつ呟きながら僕の頭へ振りかけた。
「さあ、外に出るぞ」
赤い布をくぐって家の外に出ると、陽が燦燦と降り注いでいた。日向にいると少し暑い。外は大雪のはずなのだから、家があるのが僕の街とは別の空間であることは確かだった。石で所々階段が作られた道を降りながら僕は辺りの風景を観察した。土の色も、空の色も、もちろん家の様子も、日本のものではない。サドリはここのことを「気に入って昔から借りている場所」だと言った。けれどそれを僕の街の空間と繋げて、しかも入る人間まで思いのままに制限するだなんて、それは一体どんな大魔術だろう。
何故サドリはいくつもの魔術が使えるのか。一つの魔術を極める片手間に学んだにしては、これまで僕が見ただけでもあまりに多彩かつ強力じゃないか。一人の魔術師につき使える魔術は一系統というのはあくまで一般論とサドリは言ったが、だとしたらサドリはまさしく異質だということになる。僕よりサドリの方がよっぽど貴重な天才なんじゃないのか。
そんなことを考えると目の前に吹雪が見え始めた。この空間もそろそろ途切れるらしい。
「いいか、ほんの少し出たらすぐ引っ込むぞ」
サドリを先頭にして吹雪の中に出た。一面、白く覆われた僕の街。随分久し振りに見るような気がした。
「上を見ろ」
空を見上げる。灰色の空に大粒の雪が舞っている。
「今度はその眼鏡をかけて」
僕は持たされていた楕円形のレンズをした眼鏡をかけた。
「‼」
空にはこれまで見えていなかった大量の黒い羽虫の群れがいた。羽虫の大群はゆっくりうねりながら上空を旋回している。
「何だあれ」
「下等な使い魔の一種だな。お前を探しているのさ。恐らく研究所の連中がお前の逃走に気付いた時からずっと。今は魔術で私たちのことは奴らに感知できないようにしてあるが、何もせずに外に出てみろ、奴らすぐに飼い主の所まで飛んでいくぞ。追ってくるのはあれだけじゃない。ある程度の魔術師が来たらそいつの目は欺けない」
自分がどうしようもない相手から追われる身なのだということを僕はやっとそこで実感した。これじゃ逃げることなんて無理じゃないか。
「だから、私は言っているのだ」
彼女は僕に囁きかけた。
「私の家にずっといろ、と」
僕たちはすぐに家に戻った。動悸が激しい。本当にサドリの言う通り考えが甘かった。あれじゃ外に出るだなんて無理だ。けれど、じゃあどうやって? 僕はこれからの人生をどうやって生きればいいんだろう。まさかサドリの言うようにここにずっと住むのか?
「サドリ、例えばあのかけてくれた粉をかけ続けて生きるとかできないの」
サドリは呆れたような顔をする。
「お前すごいこと考えるな。まずあの粉の効果は一時間しか持たないし、さっき言ったようにある程度以上の魔術師には見破られてしまう」
「さっきのも危なかった?」
サドリは残っていたお茶をコップに注いで飲んだ。
「そういうやつが来てたらな。しかし私がいる限りまず大丈夫だ。すぐここに戻って来れる状態だったし」
「ここは安全なんだね」
「そう。前にも言ったと思うが、私が名前を知って許可を出した者しか入ることができない。うっかり許可を出したとしても、相手の名前を知っている時点で私の勝ちはほぼ確定している。相手に対して高等魔術をかけ放題なわけだからな」
つまり、既に彼女に名前を教えている僕は彼女には敵わないということだ。名前を教えていなくても敵う気はしないけど。僕は彼女に名前を教えてよかったのだろうかと思った。けれども、彼女に付いて来なかったら、とっくに捕まっていたのはさっきの景色で一目瞭然だった。
「どうだ。ここより安全な所は中々無いぞ。私が生きている限りお前を守ろう。言っておくが余程へまを踏まない限り、私はお前より確実に長生きする」
「……考えさせて」
サドリが僕に対してこの家にいろと言うたびに僕の疑念は深まった。サドリだって正体が分からない。これは何かの罠じゃないのかと。とにかくもう少しサドリのことが分かるまでは、彼女の言葉には頷けない。
サドリはため息をついた。
「まあ、構わんさ。時間はたっぷりあるのだから。ついて来い、家の中を案内する」
そうして家の中の探検が始まった。ずっとここにいるかはともかくとして、今日泊まることは僕の中で決まっているから、家の中を知ることは必要だった。リビングの入って左側にある台所に入ると、小さな冷蔵庫とガスコンロがあった。戸棚と食器棚もある。
「ここは好きに使え。冷蔵庫の中の物も勝手に食べて構わない」
次は台所を抜けて裏庭へ行った。何もかかっていない物干し竿が中央にあって、奥に湧水が流れている。彼女は物干し竿を指差した。
「洗濯物はあそこに干せ」
次に湧水の方を指差した。
「大変遺憾ながらシャワーと洗濯機は無い。身体と服はあそこで洗うんだ」
「え」
「ま、私に言ってもらえば、魔術で一瞬できれいにしてしまうが」
それはそれで気恥ずかしい。ここで生活できるのか不安になってきた。
「次は寝室だな」
裏庭を横切り、出てきたのとは反対の入口から再び家の中に入る。なるほど確かにその部屋の中央にはサドリが使っているのであろうベッドがあって、枕元周辺には恐ろしい量の本が積み上がっている。
サドリは部屋の隅を指差す。そこにはビニールに入った布団一式があった。
「お前はあれを使え」
オーケー。
「寝る場所はここで構わない」
「嫌だ」
心の声がストレートに出てしまった。
「なに? 何か問題でも?」
問題しかないだろ。女の子と二人きり同じ部屋で寝るなんて。しかも残念なことにサドリはとびきりの美少女なのだ。あまりにもいたたまれない。
「どこか別の場所は」
「手狭なので他に寝られるような場所は無い」
「じゃあ、リビング、リビングで寝させてください」
サドリは眉間にしわを寄せた。
「折角ここは広いのに。何でそう嫌がるんだ。じゃあ、起きたらちゃんと布団をたたむんだぞ」
「はい」
彼女と一緒に寝るのを回避できるならそんなことは何でもないことだった。
「次はとびきりの部屋だ」
僕たちは寝室を通り抜けて大きな部屋に入った。しかし大きいと言っても物に溢れていて足を踏み込める余地は少なかった。ガラクタ、もといお宝の数々が天井まで積み上がっている。お宝の隙間から本が見える。どうも壁には四面本棚があるようだった。
「これは全部魔法道具だな。奥にあるのは魔導書やら何やら。危ないものは奥の方に隠してあるが、他の物もあまり触らないことだ。小説や普通の本はこっちの棚。好きに使え。そうだ、お前にプレゼントがある」
彼女は本棚の下から段ボール箱を取り出し僕に渡した。それなりに重量がある。僕は中を覗いてみた。
基礎からきちんとアラビア語。ペルシア語。スペイン語。
何だこれ。
「お前の魔術の伸ばすために必要なものだ。自分の能力を向上させたいなら、それをしっかり勉強するんだな」
この段ボール箱は箱の底まで語学書が詰まっているようだ。別に僕は魔術をやりたいだなんて思っていないし、思っていたとしても語学を勉強することが魔術の何に役に立つのか分からない。
「私との約束を覚えているか」
サドリは僕に向き直って唐突にそう言った。
「約束?」
何のことだろう。
「この家にお前を招く交換条件だ。衣食と知識の提供、あともう一つあっただろう。」
あ。
「この世の誰も見せてはくれないものを見せるって」
「そう。その通り」
確かに二度目に言われた時はそれどころではなかったけれども、幼い頃の僕はとても興味を覚えたのだった。この世の誰も見せてはくれないもの。そんなものがあるのだろうか。
サドリは部屋の壁の一つまで歩いて行った。そこに紫色のビロードがかかった大きな鏡のようなものが置いてある。それは奇妙に湾曲した横に長い楕円形の鏡だった。
「これは私のアルバムなんだ」
彼女は布を取り払った。普通の鏡だ。僕とサドリが映っている。しかし次の瞬間、水の波紋のようなものが鏡に現れ、僕達の姿を映さなくなった。代わりに映りだしたのは、古代の都市と白いトーガを着た人々だった。喧騒が聞こえ、街の様子がくっきりと見える。さながら誰かが見た映像を追体験しているみたいだ。
「サドリ、これは」
「これは私がローマに行った時に見たもの。二世紀頃だな」
「二……」
それで分かった。彼女がいくつも魔術を使える理由。彼女は才能の無い魔術を学んでも数十年やそこらではものにならないと言った。けれど数十年でないのならば?
「サドリ、君は一体いくつなんだ」
彼女は微笑んだ。
「今年で二千八百三十二歳になる」
圧倒的な時間のかたまりが僕の目の前に立っていた。
「不老不死の才能……?」
「不老だな。殺されれば死ぬ。私はこの見た目の年に不老の魔術を完成させた。ようは、魔術自体の才能もずば抜けていたわけだ」
彼女はにやっとした。
「ほらな。これは私以外の誰もお前に見せてはやれまい」
確かにその通りだった。
僕はそれから晩ごはんの時間までその鏡を飽かず眺めていた。鏡は気紛れに地中海の街並みを映したかと思えば、いつの時代とも知れない砂漠の風景を映した。それはランダムに移り変わるスライドショーのようなものだった。
僕はふと気になってスマホで検索してみることにした、「サドリ」と打ち込んで、誰か歴史上有名な女の人が出てくるだろうか。
「あれ?」
他のページも見てみる。結果は同じだ。僕はどういうことだろうかと考え込んだ。サドリ。
その後お腹が空いたのでお宝部屋からリビングへ行くと、サドリもお腹を空かせていたようで冷蔵庫の前でうろうろしているのが見えた。冷蔵庫に鶏肉とレタスがあったので、棚にあったバケットを焼いてそれに挟んで食べることにした。中々伯母さんや一沙みたいに料理らしい料理を作ることはできない。とはいえサドリは満足しているみたいでバケットを頬張っている。
僕はさっきネットで検索した結果から引き出した推理を彼女に開陳してみることにした。
「サドリ、というのは本当の名前じゃないでしょ」
サドリはバケットを齧るのをやめた。
「なんでそう思った」
「だって調べて見たら、サドリはイラン系の男性の名前なんだ。女性の名前じゃない」
「それで? それだけか?」
彼女は楽しそうだ。
「それにサドリが簡単に僕らに本当の名前を教えるわけが無いと思って。弱点みたいなものなんでしょう、名前って」
「それから? 他には?」
紫の瞳が何だかキラキラしている。
「他? 他は、無いけど」
すると彼女はあからさまにがっかりした顔をした。
「なんだ、理詰めか。お前の魔術で分かったのかと期待していたのに」
「そんな、知りもしない名前が分かったことなんてないよ」
僕はバケットをもう一切れ取った。今日は頭に流れ込んでくる情報が多すぎてお腹が空いた。
「何でサドリは僕にこんなによくしてくれるの。珍しいから? それとも僕といることで自分の魔術を進歩させたい?」
早めに聞いておかなければならないことだ。
「そうだなあ、お前の言ったので間違ってはいない」
サドリはまた食べ始めた。
「私はなるべくお前に魔術を学んでほしいと思っている」
「そう、それだよ。だからってなんで僕に語学書の山を渡すの」
あの段ボール箱に詰まった各言語の入門書。何故あれを読まなければならないのか分からない。
「魔術を学ぶのに語学は必須だ。一々日本語版の魔導書だの研究書だのは出ていないからな」
世知辛い。魔術の世界でも語学、語学と言われるのか。
「何よりいくつかの言語に習熟していることは、お前の魔術に必要なんだ。研究所では人の映像を見せられて……恐らく名前当てゲームをしていたんだろうが、そんなことをしている場合ではない。まずは語学だ」
今一つよく分からない。
「でも、僕の魔術はものの名前が分かる魔術なんでしょう? それがなんで」
サドリは人差し指を振った。
「確かにお前の魔術はそういうものだ。しかし、前にも言ったように、その中核にあるのはものの本質を把握する力。対象となるものの本質を正確に知ること、これが重要だ。しかし、それをするのに一言語では物足りない場面が出てくる。例えば、お前たち学生はこんな会話をしたりしないか。『あの人のことは好きだけど、それはloveじゃなくてlikeだよ』とか。日本語だけでは言い表しづらい概念というのはあるんだ。更に言えば、言語の間で語彙の豊富さに非常に差がつく分野もある。例えばモンゴル語の馬に関する語彙の数は日本語のそれと比較にならない。まとめれば、世界を精密に知るためにお前はなるべく多くの言語を知る必要がある」
何となく分かった。けれど。
「僕はそこまで魔術を勉強するつもりになれない」
魔術さえなければという気持ちがある。いや、魔術があってもいいが、僕に才能さえなければと思う。それさえ無ければ、僕は普通の生活を送れたのかもしれないのだ。僕にとって魔術というのは負の象徴だった。
「今はそれでも構わない。私がどうこう言うことではないからな。けれど惜しいとは思う。自分に向いているものを伸ばすというのは悪くない生き方だと思うのだが」
伸ばしても、僕にはポテンシャルしか無いという話だったはずだけど。とは言え、魔術を勉強しないなら出ていけと言うつもりはサドリには無いようだ。それはありがたい。
「サドリは追われてはいないの。すごい魔術師なのに」
彼女は窓の方を見た。
「昔はよくあったが、少なくともこの百年余りは無いな。皆さん私の事情は御存知なので大事にしてくれているらしい」
「どういう……」
沈んできた日が窓の外から彼女の顔を赤く照らしていた。
「瀕死の動物に首枷をはめる馬鹿はいないということだ。幸いなことにな」
「それは血を吐いていたことと関係があるの?」
どうもサドリにも事情がありそうだ。しかし瀕死というのはどういうことだろう。確かに外にいる時は具合が悪そうだったけど、今はピンピンしているのに。
「あるな。しかし話せば長い。いい加減私と話をするのも疲れただろう。今日はこれでおしまいだ」
サドリは最後のバケットを食べ切った。
なんだか訳アリのような話を聞きそびれて甚だ消化不良だったけれど、話すことを強いるわけにもいかない。そのまま食事を終えて、僕達はそれぞれ眠ることにした。
リビングに布団を敷いた後スマホを着けると、伯母さんからメッセージが届いていた。伯父さんが激怒して早く帰って来いといっているらしい。伯父さんがそんなに怒ることは滅多にないので、伯母さんはおろおろしているようだ。無理もない。僕はどう返事を送ったものかと考えて、これまで特段わがままも言ってこなかったし、悪いこともしてこなかったのだから、今回ばかりは大目に見てほしいというようなことを書いて送った。けれど、伯母さんはともかく伯父さんは到底納得しないだろうと思う。しかし、他に何か考えが浮かぶでもない。
僕はスマホを消し、目のあたりを手で覆った。
これからどうすればいいのか。今日はそればかり考えている。このままだと僕は基本的にずっとこの家にいることになる。何年も、何年も。まるで檻の中で暮らしているみたいだ。例え外出できるとしても、それはサドリと一緒で一時間限りのこと。帰りの時間だって計算しなければならない。一体一時間で何ができる?
想像するだに耐えがたい。
しかし、かといって研究所側に投降する気にもなれない。そちらに関しては恐怖と怒りしかない。高校に入ってバイトをしていた時間と、あとは中学時代に「友達と遊んでいた」時間が全てまやかしで、その実研究されていたのだとしたら、僕は一体どれほどの時間を無駄にさせられてきたのだろう。僕はこれまでの人生をずっと盗まれてきたのだ。
「クソッ」
二度と関わりを持ちたくない。
しかし、どうすれば?
それから僕は意識が遠のくまで方法を考え続けた。そして、答は出なかった。
「何してんだお前」
僕は翌朝一沙の声で目覚めた。玄関から入って来た一沙と千沙ちゃんが僕を見下ろしている。僕は布団から起き上がる。
「見ての通りだけど。朝早いね」
スマホを点けて確認する。まだ七時だ。
「千沙が昨日の夜から起きたらすぐこっち来るつって聞かねえから。」
そうか。千沙ちゃんは昨日不満いっぱいで帰っていったのだった。
「で、何でこんなとこで寝てんの」
「しょうがないじゃないか。サドリの部屋以外で布団敷ける所なんてここしかないだろ。」
と言うと一沙は全てを悟ったみたいだ。苦労してんな、と結構気持ちのこもった感じで言ってくれた。
「悠理くん、一緒にかまくら作りませんか?」
と、千沙ちゃん。今日は、マフラー、手袋、長靴ありの完全防寒スタイルで着膨れしていて、とても可愛かった。彼女の言葉は断りがたいのだが。
「ごめん。僕は外には出られないんだよ。サドリが一緒なら別かもしれないけど」
「じゃあ、サドリを起こしてきますからっ」
千沙ちゃんはサドリの部屋がある方まで走っていった。
一沙と二人きりになる。
「外出れねえの?」
彼は三白眼をこちらに向ける。
「うん」
僕は昨日あったことを一通り喋った。一沙は壁にもたれかかりながら話を聞いていたが、やがてその茶髪の後頭部を壁にこつとあてた。
「お前、サドリみたいだ」
「え?」
「あいつも本当は外に出ちゃいけないんだ」
その時、千沙ちゃんとサドリがリビングに入って来た。もう黒いコートを羽織ったサドリは高らかに宣言した。
「よし、行くぞ!」
横からため息が聞こえた。
昨日と同じようにハーブの粉を頭からかけてもらうと、僕の姿が見えなくなったらしい。一沙がすごく複雑そうな顔をしていた。サドリと千沙ちゃんには見えるらしく、そのあたりがある程度以上の魔術師が来たら駄目だという理由なのだろう。魔術的なものを見る能力がある人達には丸見えらしい。
「サドリ、魔術師が来たらどうするの?」
不安だ。僕とサドリだけではない。一沙や千沙ちゃんを巻き込むことになる。
「私が倒す」
サドリは些かの気負いもなくそう言って家の外へ足を踏み出した。
街に出ると、ふくらはぎまで埋まるくらい雪が積もっていた。本当にこの街でこれほど積もるのは珍しい。僕の姿は見えないけれど身体はあるわけで、僕が歩いた後の雪にはくっきり足跡がついた。かえって怪しくないかこれ。思案の末、一沙が歩いた足跡を踏みながら歩いて行くことにした。一沙は僕より歩幅が大きいから歩きにくい。
「一沙何センチあるの、身長。」
「うわ、びっくりした。見えないくせに話しかけんなよ。百八十二だよ。」
一沙って案外素直な奴だよなと思っていると川原に着いた。僕達の街は北から南に鴨川という一本大きな川が流れていて、商店街から川までは結構近い。川の両岸は広い遊歩道と附属地があるから休日はそこで遊んでいる家族連れも多かった。今日は朝早く雪も深いせいか人通りはまばらだ。僕達はそこでかまくらを作り始めた。
「四人入れるやつ作るか」
「ほんと? やったー!」
「バカ、どんだけでかいの作るつもりだ。一時間しかねえんだぞ」
「千沙ちゃんが入れるくらいのでどうかな?」
せっせとマウントを作る。そう一沙の言う通り一時間しかない。帰りの時間を考えればここで遊べるのは四十分くらいだ。でも四人でワイワイやりながらかまくらを作るのは楽しかった。
川のせせらぎが聞こえる。
?
僕は周りがやけに静かなことに気が付いた。
近くを走る車道からの音がすごく遠くに聞こえる。
まばらにはあったはずの人通りも今は全くない。八時が近づこうとしているのにそんなことがあり得るだろうか?
サドリが立ち上がった。辺りをぐるりと見まわしている。そして呟いた。
「やられた」
ただならぬ雰囲気だ。一沙は千沙ちゃんの手をとって自分の側に引き寄せた。千沙ちゃんは空の方をあちこち見ている。
「サドリ、わたし達大きな箱の中に入っているよ。」
箱? 僕は千沙ちゃんの視線を追うがそんなものは見えなかった。
「結界だよ。邪魔者を私達のいる所に近付けないつもりだ。魔術師が来るぞ」
川のせせらぎが聞こえる。
僕は何かの気配を感じて振り返る。
僕達から川を挟んで対岸にベージュのトレンチコートを着た男が一人、こちらを向いて立っていた。
トレンチコートの男はかなり大柄らしいが、ひらりと遊歩道から川面まで降りると、水の上を歩いてこちらまで来た。遊歩道へ上がり、僕達の数メートル手前の位置で足を止めたその男は、刈り上げた頭がごま塩のようになっている、筋骨隆々とした大男だった。
彼はサドリに向かって深々と頭を下げる。
「直接お会いするのは初めてですな、サドリ殿。私はこの街で研究所の副所長をしております岩田と申します」
岩田の言葉には本物の敬意が含められていた。しかし、彼の名前は偽名だと僕は直感した。理詰めで考えても魔術師が自分の名前を無防備に相手に曝すことなどありえない。岩田は彼の本当の名前ではなく、単に通用させている名前だろう。サドリは仏頂面で彼の方へ一歩足を進めた。
「岩田か。知っているぞ。剛腕の魔術師。研究所の二番手というのも実力相応だと聞いている」
「恐れ入ります。千古の魔術師のお耳に入っているとは光栄です」
「安倍は息災か」
「所長ですか。所長はこの二日心を痛めております」
トレンチコートの大男はちらりと僕を見た。
「理由はお分かりでしょう」
岩田は一歩足を進めた。
「彼を返していただきたいのです、サドリ殿。とうに御存知のはずです。彼は日本が世界に誇る至宝。彼に対する研究によって我々魔術師の歩みは百年二百年と早まるかもしれないのです。我々はあなたと違って定命の者、時間は限られているのです。我々の切なる思いどうか分かっていただきたい」
サドリは右手を黒い上着のポケットに突っ込む。
「至宝とやらはお前達の所から逃げ出してきて私の所へ来たのだ。彼の意思を尊重してやったらどうかね」
岩田は哄笑した。
「御冗談を。本人がどうのこうのという問題ではないのです」
岩田は僕を見た。眼光が鋭い。
「高井悠理君。こちらへ来たまえ。どうせ君は既に色々聞いたのだろうが、一つ確かなのは君がすぐこちらに来てくれたら、サドリ殿もお友達も傷つかなくて済むということだ。既に応援は呼んである。二十分も経たぬ内にこの結界を我々の研究所の魔術師が総出で包囲するだろう。逃げられはしない」
僕は岩田の言葉に気圧された。自分の認識は甘かったのではないか。サドリが大丈夫だと言うならそうなのだろうと思って外へ出てきたが、それは取り返しのつかない過ちだったという気がした。確かに岩田の話が本当なら逃げ出せそうもない。
僕が返答を迷っていると、サドリが上着のポケットの中で指を鳴らした。
地中からゾルリと音がした。黒く光る波のようなものが僕と一沙、千沙ちゃんを囲むように現れる。やがてその波は僕たちの周りに二重にとぐろを巻き、鎌首をもたげた。それは僕の腕の長さ程も太さがある巨大な黒い蛇だった。頭の上からシューッという音が聞こえる。その蛇は岩田と僕達の間の往来を阻んでいた。「サドリの使い魔」と千沙ちゃんが呟いた。
サドリはポケットから右手を出す。
「岩田よ、悪いが交渉は決裂だ。我々はお前のお仲間がやってくる前にさっさと帰らせてもらう」
「できるとお思いですか」
岩田の低い声が風に乗って聞こえてきた。
「私を誰だと思っている」
岩田はサドリに向かって少し頭を下げた。
「あなたは誰もその名を知らない千古の魔術師。我々の間で聞こえ伝わっているあなたの伝説は無数にあります。敵意を持つにせよ、敬意を抱くにせよ、サドリ殿、あなたが他を圧倒する魔術師であることは衆目の一致する所です。本来ならば到底私ごときが敵う相手ではございますまい。しかし」
岩田の目に僅かに同情の色が見えた。
「お噂は存じ上げております。百年以上前にお怪我をなさり、お名前もその時に無くされたと。お名前を無くされては御自分にまともに高等魔術をかけることもできない。あなたのお怪我が一向に癒えないのもそのせいなのでしょう」
サドリは黙っている。
「あなたは今、御自分に強化の魔術も治癒の魔術もかけられない状態で私と戦おうとなさっている。どうかおやめください。武術と魔術の組み合わせで私の右に出る者はこの国にいません。肉体も反射神経も何も強化していない少女の身体では私には勝てない」
銀の髪が風になびいている。髪に隠れて彼女の顔は見えない。サドリのブーツの足元からちろりと青い炎が生え、それはやがて雪を溶かしつつ彼女の周りに広がっていった。
「……正直高を括っていた。人通りの多い所では接触してこないだろうと。まさかこの短時間で結界を張って人を遠ざけるところまでやるとは思わなかった。それに、お前のような地位にある者が一番先に出てくるというのも意外なことだった」
そう呟く彼女からゆっくりと広がる小さな炎は岩田の足元をも焦がしていた。岩田は動じず彼女を真直ぐ見ている。
「今日はついている。久し振りに骨のある相手と邪魔の入らぬ状態で戦えるのだから」
炎は急に酸素を食らったかのように勢いを強めた。そこから生じた上昇気流に彼女の銀の髪が巻き上げられる。サドリは瞳を青く輝かせ凶暴な笑みを浮かべていた。
不似合いに大きなコートを羽織った彼女は両手を広げる。
「果たしてお前の言う通りになるか試してみよう。しかし、確かに今の私ではお前と相性が悪いようだ。うっかり加減し損ねて殺すかも知らんがそれは構わんな?」
岩田は細く長く息を吐くとその場にトレンチコートを脱ぎ捨て、半身を前にして構えをとった。
「構いませんが、しかし残念です。サドリ殿。私もあなたを相手にして余裕などありません。こちらも加減は致しかねます」
その大男は言い終えるとサドリに向かって二歩距離をつめた。
たったの二歩。しかし、それは一種の跳躍だった。その二歩で岩田はサドリとの間にあった数メートルの距離を詰め切っていた。サドリの目の前で体を沈めた岩田は拳を作り彼女の心臓に向けてアッパーカットを放った。
ゴッ!
重い衝撃が走る音がした。しかし、それは少女の身体に拳が叩き込まれたというよりも、厚い鋼のようなものに拳が阻まれたような音だった。
「あの距離で反応しますか!」
岩田は右手の拳から血を引きながらサドリから一旦距離を取る。一方のサドリも顔をしかめながら左腕をかばっている。が、憎まれ口は健在だった。
「私の身体能力と、現代のなまった十代のそれとを一緒にしないでもらいたいね」
サドリは心臓に向けて拳が放たれた一刹那、左腕で防御したらしい。
「けど、あの音は一体……」
僕が呟きを漏らすと、千沙ちゃんが緊張した面持ちで戦いを眺めながら僕に答えてくれる。
「魔術師の服は特別製なことが多いの。魔術の攻撃を防いだり、すごく硬くなったり……。中でもサドリのコートは数百年物の一級品」
僕は安藤さんのスーツを思い出した。あのスーツもサドリの魔術を防いでいた。それに類するものということらしい。
サドリから距離を取った岩田はサドリに向けて左手を伸ばした。サドリの周囲に青い炎の球体ができる。しかしその中でサドリは涼しい顔をしていた。
「あれは?」
「あの岩田という人の魔術は圧縮の魔術。今あの人はサドリのいる空間に圧縮をかけているの。でもサドリはその魔術を全部呪いで殺している」
では、あの青い炎はサドリの呪いの炎なのだ。岩田は諦めたように左手を下ろした。
「あなたに対して魔術を使っても埒が明かないのですね。魔術自体を呪うなど、その魔術に対して深い理解が無ければできないはず。さすがは千古の魔術師といったところです。ならば」
岩田は血にまみれた右手を振るって構えを作った。
「やはり打撃でお相手しましょう」
サドリはため息をついた。
「その右腕折れているだろ」
「なんの問題ありません」
大男は再び少女に向かって跳躍した。よく見れば岩田とサドリの間の空間が歪んでいる。岩田は中間にある空間を圧縮することによって、跳躍を加速させているのだ。
岩田はサドリの手前の地面に一旦着地するとそこから流れるような回し蹴りを彼女の細い首めがけて放った。足と首の間の空間が歪む。岩田の蹴りはあり得ない速さで少女の首に叩き込まれた。上着も何も無い場所。サドリは一メートルあまり吹っ飛んだ。
「サドリ‼」
一沙が叫ぶ。蛇の体に囲まれていなければ、すぐにでも駆け寄りそうな勢いだ。僕も祈るような気持ちで彼女を見つめる。しかし、サドリは地面に横たわったまま動かない。死んだ? まさか。けれど、首にあんな勢いの蹴りを受ければ、首の骨が折れない方がおかしい。たとえ生きていたとしても、最早身体を動かすことはできないだろう。
岩田は一つ息を吐き、動かない彼女に向かって一礼した。そして僕達の所に向かって歩いてくる。その大男の鋭い眼光が僕に刺さる。
「高井悠理君、君が正しい判断をしていればサドリ殿はこんなことにはならなかったのだ。分かったら自分からその蛇を乗り越えてこちらに来ることだ」
全くもって岩田の言う通りだと思った。この上、一沙や千沙ちゃんを危険にさらしてはならない。
「僕が彼の方へ行くうちに逃げるんだ」
僕は青ざめている二人に向かってそう言うと蛇の体に手をかけた。
ゾルリッ
僕は一瞬自分が手をかけた蛇が動いたのかと思った。しかしそうではない。この蛇は微動だにしていない。
「何⁉」
岩田の叫び声が聞こえる。見れば、岩田は地中から現れたもう一匹の黒い蛇に締め上げられる所だった。その蛇は、今僕達を囲んでいる蛇と瓜二つの巨大な蛇だった。岩田は首まで蛇に締め付けられている。
「物語や神話の中で出てくる蛇はしばしば二匹で一セットなんだ。だから、蛇を一匹見かけたら、もう一匹に警戒しなければならない」
少女にしては低いその声。
横たわっていた銀髪の少女がゆらりと立ち上がる。
「売り言葉に買い言葉だがな、さっきの攻撃普通だったら死んでいるぞ。そっちの至宝が大事なのは分かるが、だからといって私を殺してどうするんだ。生かしておいた方が余程使いでがあるだろうに。やはりそのあたりの大局観の無さが二番手にとどまっている理由なんじゃないのか」
サドリは土で汚れているもののいつも通りの状態で立っていた。締め上げられている岩田は呻き声を上げる。
「な…何故。不死でもない限り首にあれほどの打撃を受けては再び立ち上がることなどできないはず……!」
サドリは岩田の側まで歩いて行って、鬱血して真っ赤になっている彼の顔を満足げに見上げる。
「確かに私は不死ではないし、本来であればさっきのはかなりまずかった。しかし正しく怪我の功名というやつでな、端的に言えば今の私は急所が急所として機能するようなまともな身体はしていないのだ」
「では……その姿はまやかしなのですね」
「そうこれは傷を負う以前の私の似姿。実際の私は百年以上前に爆散したパーツを寄せ集めた一つの肉塊に過ぎない」
「化……物……!」
サドリは口の端を引き上げた。
「……もういい、ヒダリカタ、意識を落としてしまえ」
サドリに命令された蛇は締め付けを強め、岩田は急速に意識を失った。
「ミギカタ、ヒダリカタ、もう戻っていいぞ。全く最後の最後で無礼なやつだったな」
二匹の蛇は地中へ戻っていった。サドリは僕達三人の所へやって来る。彼女は僕たちに向かっていつも通りにやっとした。
「さあ、さっさと帰るぞ」
帰って来た。玄関の赤い布をくぐると何だか家はがらんとしていて変に静かだった。家に全員が入ると千沙ちゃんがサドリに向かって頭を下げた。
「あの、サドリごめんなさい! わたしが遊びたいなんて言ったから」
僕は慌てた。
「ちっ違うよ、千沙ちゃん。僕が悪いんだ。僕が外に出れるかもなんて思ったから。サドリ、千沙ちゃん、一沙ごめん」
本当に僕は申し訳なかった。外に出られる可能性があるなら出たいと、よくよく事態の深刻さも想像しないままそう思ってしまっていた。結果はサドリと岩田の激闘だった。
当のサドリは自分に付いた土埃を落とすので忙しそうだ。
「まあ、かまくらを作りに行って戦いになったのはあほらしいと言えばあほらしいが、別に何事も無かったんだからいいじゃないか。また行こう」
「サドリ!」
僕が声を上げると、彼女はちらりとこちらを見た。
「何だよ、別にいいじゃないか。私は楽しかったぞ。あ、そうだ。お前今度から出かける時、粉かけなくていいから。もう私の所にいるのは日本側にもバレバレなんだから、使い魔たちの目を欺いてもしょうがない」
「…………」
そういう問題ではない。彼女は危うく死ぬところだったし、ことによれば一沙や千沙ちゃんを危険にさらしたかもしれない。二度とああいう事があってはいけないのだ。僕はこれからの身の振り方をまた考える必要がある。
「茶、入れようか」
一沙はむすっとした感じでそう言い台所に消えていった。
程なくして熱い緑茶が出てきた。みんなでテーブルを囲みそれをすする。
「首大丈夫なのかよ」
一沙はサドリの顔も見ず訊いた。
「問題ない」
サドリは自分の首筋を撫でながら自嘲気味に笑った。
「あいつとの会話は聞こえたと思うが、この身体は実際の所見た目通りの構造をしていないのだ。曲がりなりにもちゃんとした位置に元のパーツを修復するほど私の魔術は機能していない。情けないことだな」
僕は彼女の身体を見る。骨格も何もかも整った健康そうな身体に見える。けれどもこれがまやかしだと彼女自身が言うならそうなのだろう。恐らく彼女にはそれをやってのけるだけの力がある。
「昨日瀕死の動物だって言っていたのはそういう事だったんだね」
彼女は僕に向かって頷いた。
「そう。私は自分の名前を失ってしまったので自分で治癒の魔術をかけてもあまり効力が無い。ただし、この家は名前の喪失以前に作った緊急時用の大魔法陣が機能していて、私にとって一種の生命維持装置になっている。だからここにいる限りはさして治りもしないが生きていくことが可能だ」
「名前を失ったってどういうこと?」
今の話で気になる点はいくつもあるが、まずはそこが引っ掛かる。しかし、それに対してはサドリも微妙な顔をする。
「さてなあ……今一つよく分からない。単に忘れたということなのか、きれいさっぱり無くなってしまったのか。いや、魔法陣が機能しているあたり完全に名前が無くなったということでもなさそうなのだが。しかし、単に忘れたのだとしても事は深刻だ。なにせ私は魔術師として一人立ちして以降、自分の名前を完璧に秘匿してきたのだから。生きている人間で私の名前を知っている者はいない」
サドリは考え込んでいる。岩田との会話によれば、サドリの怪我と名前の喪失は百年以上も前の話らしいが、その時から考えていても答えが出ないようだ。僕は一沙と千沙ちゃんの顔を窺う。
「二人はこの話どのくらい知っているの」
「昔怪我したことは知っていた。外に出たらまずいことも。でもそれくらいだ」
一沙は頬杖をついて斜め下の方を眺めながらそう言った。どうも機嫌が悪いらしい。僕はどうしたものかなと思った。正直今は僕自身のことだけで手一杯で、他人の事情を気にしている余裕はない。けれども、はや一日余りで既にサドリのことを他人と思えなくもなっていた。僕は興味の赴くままサドリに訊いてみることにした。
「一体昔何があったの、サドリ」
サドリは一つ頷く。
「まあいい。お前達どうせ暇だろう。ごく簡単にだが話してやろう」
彼女はお茶をすすった。
「千沙は知らないだろうが、昔日本はロシアと戦争したことがある。そして一応勝ったわけだな。日本の勝利は驚くべきニュースとして世界中に伝わった。私はそれまで中国より東には行ったことがなかったのだが、日本という国に興味が湧いた。それで日本に入ったのが一九〇五年の暮れのことだ」
サドリは二千八百歳を超えているのだから当たり前と言えば当たり前なのだけど、日露戦争みたいな歴史的な出来事がいきなり会話にでてくると思わず面喰ってしまう。
「日本国内をしばらくぶらぶらして、この街はなかなか風光明媚だったので二、三年住むつもりで拠点を構えた。
その内若い知り合いが二人できた。この家から川を渡って東にしばらく歩くと、そこそこ大きな大学があるだろう。あの大学は日本の中でもそれなりに古い大学で、昔でいう帝国大学だ。二人はそこの帝大生だったんだな。
一人は滝肇といって、養子に出されていたが、魔術の名家の子息で才能も抜群だった。彼は私に弟子入りをしてきて、……私もそれなりに可愛がっていたつもりだった。もう一人は魔術師でも何でもない。お節介焼きでこの家に上がりこんだのだ。まあしかし気のいい奴だった。名を林堂修一という」
そこで初めて一沙がサドリに向かって顔を上げた。サドリはにっこり笑って頷く。
「そう。お前達のひいじいさんだよ」
「滝肇と林堂修一の二人に出会ってから二年が過ぎたか、別に平穏に日々は過ぎているように見えた。二人ともそれぞれ悩んだり拗らせたりしていたが、別にそれは若者にはありがちなことなのだと、そう思っていた。
しかし、事は私が思っていたよりもずっと深刻で、肇は元いた家の父親と兄を殺す気でいた。彼は神戸に行って舶来の匣を手に入れた。匣というのはな、大体碌なものが詰まっていないんだ。あいつが手に入れた匣には極大の使い魔、怪物が入っていた。名を『魔術師殺し』と言う。その名の通り魔術師を殺すにはうってつけだ。使役できればの話だが。
肇がしばらく顔を見せないので修一と心配をしていた夜、地震が起こった。しかし、どうも普通の地震ではない。よくよく感覚を研ぎ澄ませてみると、大学の方から尋常でない気配がする。私は修一を置いて大学へ行った。すると肇が『魔術師殺し』を召喚していた。しかし、案の定肇には扱いきれず暴走。
それを止めるには『魔術師殺し』を倒すしかないことは明白で、私はそれとの戦闘に入った。言っておくが、当時の私は怪我も何もしていない完全体だった。しかし死闘になり、結果として『魔術師殺し』とは相打ちになった。私は名前を刈り取られ、『魔術師殺し』は自爆した。私の身体は四分五裂した。それは……」
サドリは一瞬言葉を詰まらせた。
「それは、近くにいた肇も同様だった。完全に巻き込まれであって、本来死ななくてもよかった。二重三重に私のせいだ。
やがて修一が私達の様子を見に来た。修一は私と肇の肉片をかき集め私の家に持ち帰った。それから私は長い時間をかけて一つの肉塊となり、姿形を繕うことができるまでになった。しかし肇は助からなかった。もとよりこの家の魔方陣は私のために編んだものだったから。
あれから百年以上経つが私の身体は癒えず、この家の外に出れば崩壊が始まってしまう。どう活動するかによるが、大体外にいるのは一時間くらいが限度だ。これが私がこの街にずっと留まっている理由だよ」
彼女は溜息をついた。
「修一も死んだ。なに、あいつの場合何か事故があったわけではない。何十年も経った後の老衰。修一が死んでから二十年経った頃、墓参りに行くことにした。すると先客があって、どうも修一の家族らしかった。私はその中でも小さな女の子の様子が気になった。それがお前だよ。千沙。そして千沙について来たのが一沙」
サドリは二人の顔を見た。
「というわけで、私とお前達は百年以上のご縁があるんだ。もっとも、千沙を連れてくる気になったのは、千沙に才能があったからで、別に修一の子孫だからというわけではないがね」
窓の方を見ると日が昇ってきて大分明るくなってきていた。
「ああ、そろそろ昼ご飯の時間だ。この話はこれでおしまい。一沙、昼ご飯を作ってくれ」
お昼ご飯を食べ終わった後も、一沙と千沙ちゃんの二人はしばらく帰るつもりはないようだった。僕はそれがいいと思った。まだ研究所の人達がうろついているかもしれないから。
「サドリ、鏡を見てもいい?」
と千沙ちゃん。どうもあのサドリが見た過去を映す鏡を楽しんでいるのは僕だけではないらしい。
「いいが、くれぐれも鏡面には触るなよ」
一沙と千沙ちゃんは青い布をくぐってお宝部屋へ消えていった。
「さて、私も昼寝でもしよう。今日は疲れた」
サドリもお宝部屋の方へ去って行く。その先の寝室へ向かうのだろう。僕は必然的に一人になった。僕は思案を始める。百年以上前の割とすごい話を聞いた後だったが、僕は今の自分周りのことでもう頭が一杯になっていた。僕は岩田の言葉を反芻する。
『一つ確かなのは君がすぐこちらに来てくれたら、サドリ殿もお友達も傷つかなくて済むということだ』
僕は目を閉じる。僕が伯父さんの家と研究所に戻らない限り、サドリや一沙達に危害が加わる可能性があるということ。僕やサドリだけではない。もう一沙も千沙ちゃんも岩田に顔を見られてしまった。二人がもし僕のせいで研究所に何かされるようなことがあったら、どうしたらいい。それはあってはならないことだ。
伯父の家にも研究所にも戻りたくはない。栞に触って分かったのだ。僕はずっと欺かれ自由を奪われてきた。二度とそんな目にあってたまるか。
しかし、しかし、僕がそう思うせいで三人を巻き込むなら……?
それは一層許し難いこと。この場合の解決策は一つ。僕が研究所に戻ることだ。
僕は耳を澄ました。お宝部屋からも寝室からも物音がしない。それぞれ、鏡を見るのに集中したり、眠ろうとしていたりするんだろう。幸いこの家の玄関は布がかかっているだけで扉はない。そっと出て行けば気付かれまい。
僕はなるべく布が音を立てないようにそっとそれをくぐった。外に出て立ち上がって家の方を振り返る。一日しかここにいなかった。けれども記憶をいじられない限り、僕は生涯この家のことを忘れないだろう。不思議な空間に建つ石造りの家。傷ついた不老の魔術師、二人の兄妹。
僕は坂道を歩き始める。もう振り返りはしない。それは束縛への道であり、しかし三人の平穏を約束する道のはずだった。向こうの方に雪に包まれる街が見え始めた。もうすぐ外に出る。外に出れば研究員が飛んでくるだろう。仮にそうでなくても僕から研究所に出向けばいいだけのこと。それでこの話はおしまい。僕の目の前には――
僕の目の前には赤い布があった。
「???」
あたりを見回すとそこはサドリの家だった。
「?」
意識でも飛んでいたのか、白昼夢を見たのか。街の方へ確かに歩いていたはずの僕はまだサドリの家にいた。
「……」
僕はもう一度布をくぐって道を歩き出す。道は太陽の光を浴びて所々きらきらと光っていた。一体さっきのは何だったんだろうか。ああ、そろそろ出口だ。そちらには、
赤い布。
また僕はサドリの家に戻ってきていた。
「…………」
これは一体どういうことだ。心臓がバクバクいっている。何かがおかしい。僕は今度は余裕を無くして乱暴に布を払いのけて家の外に出た。
すると前にあったのはまたしても赤い布。家の中。
僕は布に手をかける。すると手をかけたはずなのに僕は直立不動で布の前に立っている。布に手を。布に――
「お前何をしているんだ」
振り返ると後ろには銀髪の少女が立っている。本当に寝る所だったのか、寝ていたのか。白いネグリジェを着た彼女の髪は乱れて顔に覆いかぶさっていた。しかし、その隙間から目が見える。禍々しさを持つ青い瞳。僕はそこで気が付いた。僕が彼女に名前を教えた時も彼女の瞳は青く光っていた。つまるところ名前を教えることによって僕は彼女に一種の呪いをかけられたのだ。
どうもこういうことのようだ。
僕は彼女の許しなくこの家から出ることはできない。
「座って」
サドリはすごくだるそうに椅子に腰かけながら、向かいの椅子を指差す。僕はおとなしく席に着いた
「まったくもう少しで眠れるところだったのに、お前は何をしているんだ。今一人で外に出たら捕まるということが分からないわけじゃあるまい」
彼女はそう言いながらこめかみに手をあて本当に眠そうにしている。もう瞳は紫に戻っていた。
「それでいいんだ」
「何?」
僕はしばらくためらった後、考えたことを言った。
「僕がここにいる限り、研究所の人は僕を諦めないだろ。サドリや一沙や千沙ちゃんを危ない目にあわせるかもしれない」
「ははん」
サドリは仰向いた。
「なるほど。ならば早く研究所に戻った方がいいということか。その理屈はわからないではない。しかし、私はともかく一沙や千沙は大丈夫なんじゃないか。単に一緒にいたからと言って一般人を捕まえてもしょうがない気がするが」
「いや、例えば人質にして僕と交換とか」
「あまりそれはしない気がする。感覚的に」
あまり? 感覚的に?
「駄目だ。そんなあやふやなんじゃ。二人に何かあってからじゃ遅いじゃないか」
ざああと音がして、外からリビングの中に風が入って来た。
「しかし、お前研究所に戻ったら十中八九また記憶をいじられて研究されるぞ。研究所はここから結構距離があるから私もちょっとやそっとでは助けに行けないし、また何年も見つけられなくなるかもしれない」
「分かってるよ。僕はそれでもいいと言っているんだ」
「いや、駄目だな」
サドリは話しているうちに完全に目が覚めたようだ。断固とした口調だった。
「私が許さない。お前はもう客人としてこの家に招いた。もうこちらに帰って来ないかもしれないと分かっていて、みすみす行かせられるか」
「サドリ、でも一沙や千沙ちゃんは今日いつか家に帰らないといけないだろ」
「お前がそんなに心配なら、私が二人を家まで送っていこう。なに、そこまで遠くはない。送り迎えつきなら文句はあるまい」
「いや、でも」
「駄目だ、駄目。この話は無し。分かったな」
彼女は椅子から立ち上がり、またリビングから去っていった。僕はまた一人取り残された。椅子に座ったまま頭を抱える。また外に出ようとしたところで、ここに送り返されるに決まっている。しかし、僕の懸念が全くの的外れだとも思えない。一体どうすれば。
僕がしばらく悩んでいると千沙ちゃんがちょこちょこ歩いてきて僕の向かいに座った。
「悠理くん外に出ようとしたの? 危ないから駄目だよ」
レトロな丸い眼鏡の奥から真面目そうな瞳が僕を見つめてくる。いつの間にか千沙ちゃんのですます調は外れていた。僕に慣れてくれたのかもしれない。絶対にこの子を危険にさらすわけにはいかない。
「それはそうだけど、千沙ちゃん達だって危ないかもしれないんだ」
「でもさっきのお話聞こえてたよ。サドリが送ってくれるんでしょ。だったら大丈夫だよ」
「ここから帰る分にはそうかもしれない。でもいつものお出かけは? ここに来る時以外もサドリが付いていてくれる訳じゃないだろ」
「うーん……」
千沙ちゃんは身体を斜めに傾ける。困っているみたいだ。
「でもサドリが悠理くんに出て行っちゃ駄目って言うなら、駄目なんじゃない? ぐいってお家に返されるやつ悠理くんもなったんでしょ」
そうそれが問題だ。しかしその前に、
「悠理くんもって、千沙ちゃんもなったことあるの?」
彼女はなぜかちょっと誇らしげに元気よく頷いた。
「うん。夏にお兄ちゃんとここで喧嘩して街の方に飛び出そうとしたの。そうしたら坂道からここに戻されて、サドリが一人で出て行っちゃ駄目って」
当然と言えば当然なのだ。千沙ちゃんと一沙はサドリに名前を知られていて、この家に出入りしているのだから。彼らは既に青い目をしたサドリと交渉を済ませているはずで、僕にかかっているのと同じ呪いが彼らにもかけられていてもおかしくはない。
「名前を教える時サドリのこと怖くなかった?」
千沙ちゃんはおかっぱ頭をぶんぶん振る。
「ううん、全然。だって優しい声だったの。それにわたしの目を見えるようにしてくれるって言ったから」
「目?」
僕が訊くと、千沙ちゃんは、あっ……と言って真円の眼鏡を指で軽く触った。
「私ね、すごくすごく目が悪くて、この眼鏡が無いとほとんど何も見えないの。サドリは目が悪いんじゃなくて、魔術に関係したものが見えすぎるからだって言ってたけど。それで、サドリの家に初めて来た日にこの眼鏡を貰ったの。かけてみたら世界がパーッて明るくなった。目がちゃんと見えるってこういうことなんだって初めて分かった。
この眼鏡はドイツにいるサドリの知り合いのおじさんが作ったんだって。今は眼鏡が無いと駄目だけど、サドリの所でお勉強していたらいつか自分の力で目を調整して何も無くても今みたいに見えるようになるって」
「そうだったんだ……」
林堂兄妹がここにいる理由にはよく分からない部分があったけど、これでようやく話が分かった。サドリは千沙ちゃんを助け、千沙ちゃんは目が見えるようになった。これは幸福な結果なのだろう。けれど、何か少し引っ掛かる。見方を変えればサドリは人の切実な願望につけこんで、二人をこの家に縛っているんじゃないか?
「それでいいのか、サドリ」
「それでいいのかって、いいに決まっているじゃねえか」
肩をどつかれたので振り返ると一沙が立っていた。
「お前すげー面倒くさいこと考えてないか?」
一沙の銀のピアスが窓からの光を反射して白く光った。彼はほんの少しだけ優しい目をしているように見えた。
「ぐるぐる考えてんじゃねーよ。サドリにも事情があって、俺らにも事情があって、お前にも事情がある。それをうまい具合に何とか出来たらそれでいいんだよ」
一沙が一体どこまで僕の話を分かってそう言っているのか、それは分からない。けれどこの茶髪ピアス一見不良風の兄貴は時折僕よりずっと大人に見える。
「一沙、年いくつ」
「あ? 十八だけど」
二つしか違わなかった。
夕方になり、林堂兄妹はサドリに送られて帰っていった。家を出る時に一沙の方が激しく渋っていて何事かと思っていたけど、彼らを送って帰って来たサドリの姿を見てそれが何故だか分かった。
「サドリ吐いたんだね」
「ん? いや、全く?」
「嘘だ」
僕は彼女の胸元を指差す。セーターにはごく僅かに新しい赤い飛沫がついていた。サドリは露骨にしまったという顔をする。
「そこまで遠くないだなんて嘘だったんだ」
頭痛がしてきた。こめかみを手で押さえる。元から送り迎えの効果なんてたかが知れているけれど、これはいよいよいけない。どうすれば、どうすれば。僕はこの二日間でもう数百回は頭の中で唱えた言葉をリピートした。
結局そんなこんなで夜になってリビングに布団を敷いたものの、悩むことが多過ぎて眠れる気配さえなかった。もう頭が一杯一杯になっている上に、疲れているので、これ以上悩んだところで何かいい考えが思いつくとは思えなかった。眠った方がいいに違いないが眠れない。次第に頭痛が激しくなってきた。駄目だ。何かで気をそらさなければ。
僕はのそのそと青い布をくぐって、お宝部屋へ行った。明かりをつけて、湾曲した鏡にかかっている布を取り払う。その鏡に映った僕が明らかにやつれているので、僕は小さくショックを受けたが、やがて鏡には昨日と同じように水紋のようなものが広がり、遠い過去の景色を映し出した。
僕はぼーっとその鏡を何時間も見ていた。現状をどうすればいいのかということは頭の片隅で考え続けてはいるけれど、やはり気をそらすものがあるだけましだった。どこの国とも知れない華やかな酒場の様子が映るかと思えば、人を拒むかのような峻厳な山々が映る。鏡の中の風景はあまりにも鮮やかで、何の悩みもない状態でこれを好きなだけ見ることができたらよかったのにと思った。
鏡が映すものはクルクル変わる。鏡が山の次に映し出した風景に僕は強烈な既視感を覚えた。なんのことはない。商店街からこの家まで来る所の路地だった。サドリは百年以上もここにいるのだから、鏡が映す風景にそれが混じるのも当然だった。どうも、鏡の中も冬の夜らしい。街灯の明かりに照らされて粉雪が舞っているのが見えた。僕はさすがに自分自身見たことのある景色だったので、少しつまらなく思いながらそれを眺めていた。
が、ある瞬間僕は腰を浮かせた。そのまま鏡に向かってにじり寄る。街灯の下を歩いている人に見覚えがあるのだ。その人は不自然に膨らんだ通勤かばんを片手に楽しそうに歩いていた。
嘘だろ、嘘。……いや! 嘘なものか。よく考えろ。サドリがあの人と一回くらいすれ違っていても全くおかしくはない。何故ならサドリも僕達もこの街に住んでいたのだから。
僕は記憶の中の顔と鏡の中のその人を照合する。間違いない。
鏡の中の人はにこにこしながら遠くへ去って行く。駄目だ。行かないでくれ。やっと会えたのに。
「父さん‼」
僕は鏡に向かって手を伸ばし、鏡面に触れた。
そこは粉雪の降る路上だった。僕はつんのめって冷たいアスファルトに手をつく。手がじくりと痛かった。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。さっきまで鏡の前にいたはずなのに。ここはどこだ。僕は状況の把握に努める。頭は完全に冴えていた。
「おい、お前何なんだ。どこから出てきた」
いつも通りの彼女の声。振り返ると紫の目を丸くした少女が立っている。サドリ。僕は真後ろにいた彼女の姿を見て全てを悟った。
「サドリ、ごめん! 今それどころじゃないんだ!」
僕はそう言い捨てて、彼女とは反対側、前方へ走り始める。何がどうなったか分からないが、僕はきっと今鏡の中の世界にいるのだ。ならば僕が追いかけるべき人もこちらにいるはず。
一分ばかり走っただろうか。僕は小さな交差点に入る所で目当ての人影に追い付いた。その人はなぜかこちらを向いて立ち止まっていて、そしてそれでも横まで走ってきて膝に手をつき肩で息をしている僕に少しびっくりしているようだった。
「高井……周造さんですね……?」
息も切れ切れにそう言うと、「は、はい」という少し素っ頓狂な声が頭上からして、僕は涙が零れそうになった。懐かしい十年振りに聞く声だった。
「信じてもらえないかもしれないですが」
僕は顔を上げて彼の顔を見た。
「高井、悠理です。あなたの息子です」
言って、とても信じてはもらえまいと思った。父さんは六歳までの僕しか知らない。こんないきなり育った高校生男子が名乗り上げても、そうですかとは絶対にならないだろう。案の定父さんは呆気にとられた顔をしている。当たり前だ。しかし、そこからの彼の反応は予想外だった。
彼の顔から笑みがこぼれた。
「ああ、今日はなんて日だ。悠理お前大きくなったな」
今度は僕が呆気にとられた。
「信じて、くれるの?」
父さんはボンと僕の肩を叩いた。
「当たり前じゃないか。自分の息子だもの。いくら大きくなっても分かるよ。それに、俺は少しばかり不思議なことには耐性があるんだ。さあ、顔をよく見せてくれ」
街明かりの中、顔をまじまじと見られる。
「お前、なんだか少しやつれていないか? ついて来い、何か食べさせてやる」
「えっ」
「折角会ったんだ。話したいことも色々ある。さあ、行こう」
ははは、と笑いながら僕の手を引く父さんの顔は薄っすらと紅潮していて本当に楽しそうだった。この人は、生きているのだ。
僕は父さんに近くにあった焼鳥屋へ連れ込まれた。小さなテーブル席に通される。
「まだ酒は飲めないのか? 今いくつだ」
「十六」
「そうか、じゃあとにかく食べろ、すみません注文お願いします」
父さんは自分用の生ビールと共に焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。夜中まで悩んでお腹が空いていたので生唾を飲みこんでいると父さんは上機嫌に聞いてきた。
「どうだ、やっぱり十六ともなると俺と喧嘩したりなんかするか」
絶句した。そうだ、高校生くらいだったら父親が生きていてもおかしくない年だ。父さんは本当に何の気もなく聞いたのだろう。けれど僕は答えられなかった。まさか父さんはその頃生きていないだなんて言えない。
「どうした、やっぱりそうか? まあ俺も親父と喧嘩したけどな」
丁度生ビールが届いたので、父さんはそれをうまそうに飲んだ。
「で、学校の方はどうだ、順調か」
「ん、ぼちぼち」
はっきり言って今の僕は学校どころではないのだが、親からすれば順当な話題だろう。
「まあ、ぼちぼちでいいさ。にしても元気ないな。大丈夫か? 焼き鳥まだかな……」
そこで僕は父さんに気を遣わせていることに気が付いた。いけない。僕は何をやっているのだろう。折角父さんに会えたのだから、楽しく喋ろう。
「ねえ、父さん」
「なんだ? お、焼き鳥来たぞ、食え食え」
「泉鏡花好き?」
父さんはねぎまの串を持ちながら眉を開いた。
「ああ! 大好きだ。お前くらいの年から読んでいたよ。『春昼・春昼後刻』が好きでなあ。お前も読んでいるのか?」
「うん、父さんの本を借りてね」
僕も焼き鳥に手を伸ばすことにした。
「そうか、泉鏡花もいいが、蒲松齢もいいぞ。『聊斎志異』は読んだか?」
「ううん、まだ。あのさ父さん。泉鏡花の短編集に紫色の栞が入っていたんだ。押し花をラミネートしたやつ。あれは父さんが作ったの?」
打消しの魔術がこめられた魔術道具だ。父さんがあれを作ったのならば、父さんは魔術師で確定になる。僕の質問を聞いて父さんはねぎまの串を置いた。ぐいと僕に向かって身を乗り出し、声の音量をしぼる。
「……どこまで知っている……?」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「あれが特別なものだということは知っているよ。僕の大先輩にあたる人が教えてくれたんだ。それで、その人曰く僕も結構特別らしくて、ひょっとして父さんも特別なんじゃないかって」
「特別?」
父さんはすごく真面目な顔をしている。僕は観念してその単語を小さく口にした。
「魔術師」
うーん、と父さんは肘をテーブルにつき、片手で頭を支えた。
「そうあれは俺が作ったものだ。できれば、お前にはこの世界のことを知らないでほしかった」
では、やはりと思った。父さんは魔術師なのだ。
「お前がこの道を望むのならば別だ。けれども、才能に引きずられて道を選択させられるのは必ずしも幸福なことではないと思った。どうなんだその辺り、お前は魔術をやりたいのか」
「僕は」
思った通りのことを言う。
「僕は魔術なんかやりたくない。普通の生活に戻りたい。名前が分かる才能なんか、そんな訳の分からないもの無かったらよかったのに……!」
父さんは僕の肩を二三度ポンポンと叩いた。
「どうも苦労しているみたいだな。実はさっき僕の所までお前が走って来る時、自分の息子が走って来るんだと分かっていた」
「え?」
いや、でもさすがに実際に見たら驚いたけどねと言いつつ、父さんはとりかわに手を伸ばし、僕にも食べるよう目で促す。
「お前と今の、六歳の悠理は魔力の波形が一緒なんだよ。強弱は違うけれど。今の悠理の魔力は本当に弱くて、よっぽど近くにいないと分からないが、もうお前の魔力は遠くにいても分かる。成長したみたいだな。お前にとってよくないことなのかもしれんが」
成長? 研究されている内にしたんだろうか。
「俺もお前も望まなかったが、所詮普通に生きようと思っても無理なのかもしれん。お前の才能があっては」
「そんな」
父さんは顎を撫でる。
「そこまで育ってしまっては、お前が拒んでも周りが放っておかんだろう。しかしね、こんなことを言うのはなんだが、与えられた条件とうまく折り合いをつけて生きることもできるんだよ」
「でも」
「まあ、食べなさい。悩んでいる時こそ元気をつけなければ。全くお前の時代の俺は何をしているんだ。息子が悩んでいるというのに」
焼鳥屋の中のがやがやとした喧騒が少し遠く聞こえた。僕と父さんだけ独立した世界にいるようだった。僕は話題を変える。
「伯父さんも魔術師?」
「そう。だけど昔から仲が悪くてね。どうした急に」
「いや」
父さんと話していると不確定だったものがどんどん明らかになってゆく。父さんは砂肝を食べながら破顔した。
「二人でいるんだ。もっと楽しい話でもしよう。どうだ好きな子はいるのか?」
「ぶっ」
動揺して思わず吹き出してしまった。
「いるんだな?」
「いない、いない、いないよ」
父さんは僕の様子を見て悪戯っぽく笑いながら楽しそうにしている。この親父。
「あ、でも」
「ん?」
今の悩みを言うにはいい機会かもしれない。
「最近知り合った女の子がいるんだ。僕はその女の子にあることをお願いしているけど、全然聞いてくれなくて。でも僕は僕のお願いを通したいんだ。どうすればいい?」
サドリの家を出たい件だ。こんな漠然とした言い方でもアドバイスをくれるだろうか。父さんは口をへの字に曲げて、顎をポリポリ掻いた。
「そりゃあお前、お願いの内容次第だろ。その子がどうしても聞けない内容だったら駄目だろうし」
まあ、そういう答になるよねと思った。けれど納得するわけにはいかないから僕は食い下がる。
「でも、そういう訳にはいかないんだ」
「うーん、じゃあね、その子ともっとコミュニケーションするんだな。コミュニケーションといってもお前が一方的に自分の思っていることを話すんじゃ駄目だぞ。自分が話す以上に相手の話をよく聞くんだ」
サドリの話を聞く。そういえば僕は何で彼女が僕に家にいて欲しいかという理由について、まだはっきりとは知らないのだった。
「いやあ、女の子は大変だよな。俺が梓と付き合っていた頃なんか――」
そこから延々と苦労話の形をとったのろけが始まった。僕は母さん元気かなあと思った。母さんのことも現状よく分からない。
「あ!」
話の途中で父さんは青ざめた。
「梓に遅くなるって連絡してなかった」
父さんは急いで通勤かばんを大きく開け、携帯を探している。かばんの中が丸見えだ。僕はそれを眺めていて一つ気になるものを見つけた。通勤かばんを不自然に膨らませていたものの正体。それは緑色の包み紙を赤いリボンで括った箱だった。
「父さん、それは何?」
僕はそれを指差す。父さんは探し出した携帯でメールを打ちながら返事をした。
「ああ、それは今のお前にあげるクリスマスプレゼントだよ。もちろんサンタ名義だけど」
それを聞いた瞬間、その箱が僕にとって不吉なものに変貌した。
待て。父さんはさっき、今の僕が六歳だと言っていなかったか?
「ねえ、父さん。今は何年何月何日?」
「おっ、映画みたいなこと聞くなあ。今日は二〇××年十二月二十四日、丁度クリスマスイブだよ。ああ、こんな日に何も言わずに遅くなるなんて、梓にも悠理にも悪いなあ」
二〇××年十二月二十四日、十年前のクリスマスイブ。それは父さんの命日だ。この日父さんは突然の心臓麻痺で死ぬ。
僕は父さんの腕を掴んで立ち上がった。
「父さん、今すぐ会計を済ませて病院に行こう。急いで」
声が少し震えていた。父さんは僕の様子にびっくりした顔をしている。
あの日父さんは路上で死んでいたのだ。僕は頭を巡らせる。その結果を変えるにはどうすればいい?
「タクシー、道に出たらタクシーをすぐに捕まえよう。それで一番近くの大きな病院まで送ってもらうんだ」
「病院? 何で?」
「いいから、僕を信じて。早く!」
心臓麻痺が病院でどこまで対応できるか僕は知らない。けれどこれが父さんの命を救う最善手のはずだ。
僕は父さんの運命を変える。
会計を済ませた僕らは路上に出た。都合の悪いことに僕達がいた焼鳥屋は路地の奥まった所にあって、すぐにはタクシーが捕まりそうもない。僕は焦りの余り叫び出しそうだった。
「一旦大通りに出て、タクシーを捕まえよう」
「だけど、悠理、どうして」
「いいから!」
僕は父さんの手を引き歩く。三本ほど道を越えれば大通りに出るはずだ。だけど、本当にタクシーでいいのか? 救急車を呼んだ方が。いや、父さんはまだ倒れていないのだ。外見上元気そのもの。救急車は使えない。
父さんはおとなしく付いて来てくれる。さすがに状況が普通ではないということを分かってくれているみたいだ。
もう一本道を越えれば大通りというところで、僕達の行く先に一人の男が立っていた。金髪碧眼、フロックコートに中折れ帽。記憶より幾分若い。けれど僕はこの男に会ったことがある。
男は整った歯並びを見せてニッと笑った。
「お待ちしておりました」
男が指を鳴らす。すると急に周囲の音が遠ざかった。僕はこの感覚に覚えがある。四人で川に出かけた時に味わった――
「結界」
「ああ、さすがにご存知ですか」
男は流暢な日本語でそう言うと、中折れ帽を取って慇懃に礼をした。
「イギリス魔術機関ガーディアン日本駐在員のアラン・スミシーです。以後お見知りおきを」
父さんが片手で僕を後ろにやり、自分も一歩後退る。
「そんな人間が俺達に何の用だ」
アラン・スミシーはきょとんとした顔をして、その後困った表情をしてみせた。
「俺達? いえいえ、用があるのはそちらのお子さんだけです。あなたはお帰りいただいて構わない」
「何だと」
スミシーは白い手袋をはめた手を僕に向ける。
「遠くからでも分かりました。そのお子さんは稀代の才能をお持ちだ。名前を知る才能など我々には望外の代物です。早速本国に連絡し、研究・保存の準備を始めます」
「研究・保存?」
父さんの反応に対しスミシーはさも意外だと言わんばかりの素振りをする。
「おや、その魔力、あなたも一応は魔術師なのではないのですか。ご存知ない? 稀代の才能を持った魔術師は国を挙げて研究するのが鉄則です。それに加えてわが国では更に魔術理論の構築が進み、よりよい研究ができるようになる時まで特別な溶液に漬けて魔術師の身体を保存する」
父さんは絶句する。
「何を驚いていらっしゃるんです。魔術の発展のためには当たり前の手続きではありませんか」
僕はいつかのサドリの言葉を思い出していた。かの国では魔術師を瓶詰にすると。今スミシーが言っているのはそれなのだ。
「そんなこと許されるものか」
「許されますよ。大いなる神秘に近づく道なのですから。とりわけそのお子さんへの研究は世界の本質を知る上でこの上もなく重要になるでしょう」
「…………」
しばしの沈黙の後、父さんは僕に向かって低い声で言った。
「逃げろ、悠理」
「! 駄目だ父さん」
「いいから、俺一人ならば何もされまい。危害を加える合理的な理由が無いのだから」
「いやだ! 父さんを置いて――」
「足手まといだ!」
パン、パン。スミシーは白い手袋の両手を二度打ち合わせた。
「私を放って親子で相談するのはそこまでにして頂きたい。何ですか、逃げるだの逃げないだの。そもそもできるとお思いで?」
その言葉が終わるや否や、スミシーの足元から吸盤のついた太い触手が現れ僕の足に絡みついた。そのまま僕の身体は上下逆さまにぶら下げられる。逆さまになった視界に巨大なタコのようなものが映った。
「悠理ー!」
父さんは僕に向かって叫ぶと、次に何を思ったのか拳を握りしめタコ本体に向かって突進し始めた。
「父さん!」
「愚かな」
父さんは巨大なタコに向かって、あまりにも小さな一撃を加えた。無理無謀にも思えるそれ。しかし一拍置いて空気を切り裂く大きな静電気が発生したような音がした。タコが身もだえし、触手がゆるんだ。僕は路上に放り出される。
「私と使い魔との契約を打ち消したのですか」
タコの触手が暴れる中、僅かな焦りをにじませてスミシーが呟く。アスファルトの上から起き上がると父さんの叫び声が聞こえた。
「逃げろ悠理ッ!」
父さんはタコの触手に薙ぎ払われ民家の壁にぶつかっていた。
「父さん!」
父さんは僕に向かってまた叫ぶ。
「お前が来ても変わらん! 行けー‼」
残酷なことに。
間違いなく父さんの言う通りなのだ。
「――――――‼」
僕は全力で走り始めた。父さんとスミシーとは逆方向に。
「それでいい」と小さな声が聞こえた気がした。
僕は走り続ける。悔恨の念にさいなまれながら。僕は確かに父さんの運命を変えてしまったのだ。逆方向に。父さんは今日突然の心臓麻痺で死ぬ。それがこのスミシーの一件と無関係な訳がない。僕は、僕は、
それでも父さんを置いてきてしまった。
「くっそおおおお‼」
『お前が来ても変わらん』それがまさしくその通りなのは、あの状況でも分かってしまって。あまりにも無力。僕は何一つできることがない。
雪は僕達の状況と関係なく降り続ける。やがてこの雪はこの街を覆う大雪になるのだ。
道の僅かな段差に僕はつんのめってこけた。アスファルトの小さな突起が手に刺さる。手がじくりと痛んだ。僕はそこで大粒の涙をこぼした。
「父さん……!」
乾いた冷たい冬の匂いと口中に広がる鉄の味。
「おい」
僕は顔を上げた。少しだけ低いその声。
「お前何しているの」
彼女がそこに立っていた。銀髪紫瞳の魔術師が。
「サドリ! 父さんを、父さんを助けて‼」
僕が彼女に取りすがろうとした瞬間、視界が歪み、僕はアスファルトに頭を打ちつけた。
目を開けると僕は鏡の前に倒れていた。サドリの家のお宝部屋だ。もう明らかにさっきまでいた場所と空気が違う。戻ってきてしまった。
「う、くっ……」
嗚咽が漏れた。僕は床に転がったまま涙を流し続けた。
どれほど泣いただろうか。涙も枯れ果てたころ、サドリが部屋に入って来た。
「悠理、私の部屋においで」
僕とサドリは、寝室に入った。明かりはついていない。部屋の中は少しだけ埃っぽく暖かかった。ベッドに腰かけたサドリは、その隣を手でたたく。
「座って」
僕は隣ではなくその下の床に座りベッドを背もたれにした。脱力する。
「サドリ、僕は……」
「知っている。倒れているお前の父親を見つけて救急車を呼んだのは私だ」
斜め後ろを見る。彼女の顔は暗くて見えない。
「私が行った時には全てが終わった後だった。死んでしまったものを生き返らせることはできない。」
「サドリ」
「私はいずれお前が鏡の向こうに行くということは分かっていた。何故なら、私は十年前、既に今のお前と会っていたのだから」
淡々とした口調だった。
「じゃあ、あれは現実に起こったことなんだね。本当に……」
「お前もよく分かっている筈だ。あの鏡は時を映し、時を移すものなのだよ」
僕の頭はゆっくりとある可能性に向かって回転する。あるかもしれない希望へ。
「僕は、もう一度あの鏡を使って過去に行く。だって、だって僕のせいだ。僕が過去に行かなければ父さんは死ななかった。僕は父さんを今度こそ救う」
「駄目だ。結果は変わらない」
断固とした口調だった。僕はその絶望的な言葉に苛立つ。
「どうして分かるの」
「私もやったことがあるから」
黒い彼女の影は暗闇の中で身じろぎした。
「滝肇の話はお前も覚えていると思う。あいつは死ななくてもよかった。単に『魔術師殺し』の自爆に巻き込まれただけだったのだから。私はあいつを生き残らせるために鏡を使うことにした」
寝室にある小さな窓から少しひやりとした風が入ってくる。
「そのために必要なタイミングを鏡が映し出すまで十年待った。ついにその時がやって来て、私は鏡の中に入った。滝肇が『魔術師殺し』を召喚する夜だ。そこでは、その時代の私と『魔術師殺し』が戦っていた。私は肇を逃がすためにその場に近付いていった。しかし、肇は『魔術師殺し』が自爆する前に、自分から逃げ出そうとしていた」
彼女は微かに呻く。
「彼は逃げ出す途中、ありうべからざるものを見て足を止めた。すなわち、二人目の私だ。直後『魔術師殺し』の爆風が彼を襲った。馬鹿な話だ、馬鹿な……」
暗闇の中の彼女のシルエットが変化した。彼女は両手で顔を覆っているらしい。泣いてはいない。けれども彼女の悲しみは十分に伝わって来た。僕はほんの少しだけ首を彼女の方に傾けた。肩などは抱けない、その代わりに。
「何回も試したがやはり駄目だった。私達が何をしようとも、時は全てを内包して動く。結果は変わらない。どのように干渉しようとも、肇は死に……お前の父親も死ぬ」
僕は長い長いため息をついた。彼女の言葉は受け入れがたかった。しかし、理性は恐らく彼女の言うことが正しいのだろうと言っていた。でなければ、タイムパラドックスが起きる。僕が過去でやった諸々のことは、全て世界にとって折り込み済みだったのだ。
風が涼しい。
「サドリ、僕は父さんを置いて逃げ出してしまった。多分あの後父さんは死ぬんだと分かっていたのに」
うん、とサドリは小さく相槌を打って僕の言葉を促してくれる。
「僕が無力だったせいだ。何も、できることが無かったせいだ」
両手を握りしめる。
「僕はもう嫌だ。自分の無力で助けるべき人を助けられないのも、自分の状況をどうすることもできないのも。サドリ、僕に魔術を教えて。僕が魔術を勉強したところで、無力なことに変わりはないかもしれない。でも、何もしなければ、僕はこの世界でまた何もできずに大切なものを失くすんだ」
僕は生涯魔術の世界から逃れることはできないだろう。それは生まれた時に決まっている。けれど、その与えられた条件の中であがくことはできるのだ。
部屋が少しだけ明るくなった。小さな窓から西に傾く満月の光が差し込んでいた。
「いいよ」
微かに彼女はそう言った。
僕は黙って頷いた。しばらく二人とも何も言わなかった。その後、僕は彼女に聞くべきことを聞いた。
「サドリは、どうして僕にこの家にいて欲しいの。前も聞いたけれど、ちゃんとは教えてくれなかった。自分の魔術に役立てたい? ……それとも、失くした名前を見つけて欲しい?」
「二つとも合っている。でも、もう一つ。肇に似ているから」
それは意外な答だった。
「どうしてだろう、全然違うタイプなのに。でも、二人ともすごく真面目で、それで一層自分の問題をもてあましている。見ていられない。私は一度どうしようもなく失敗した。もう二度とそんなことはできない」
それで分かった。サドリは僕に関して少し過保護になってしまうのだ。僕は彼女を安心させないといけない。そして僕の願いを伝えなければ。
「僕は、僕もサドリも二人ともそれでいいと思える選択をしたい。僕はサドリの本当の名前を見つけられるか自信が無いし、多分サドリよりも先に死ぬ。でも君をなるべく悲しませないようにしたいと思うんだ」
傷ついた不老の魔術師は少し驚いたようにしている。彼女の顔がよく見える。僕は微笑んだ。
「そのために少し僕を助けてくれるかい」
西の空が白み始めた。朝が来る。
「やあ、伯父さん」
昼間にも関わらず、伯父さんはすぐに電話に出た。
「あ、今仕事中かな。ごめん、すぐ切るよ」
「まっ、待て悠!」
焦った声が聞こえる。完全に僕のペースだ。
「伯父さん僕と会おうよ。鴨川の右岸に商店街があるでしょ。あの商店街がある通りの橋の真ん中でどうかな。人があまり通らない時間がいい。明後日の夜三時にしよう」
「悠」
僕は口を挟む隙を与えない。
「今度から研究所のアルバイトにもきちんと行く。僕が家を出たこともそうだけど、伯父さんは僕が研究所に行かないことも気にしているんでしょ」
「…………」
伯父さんは黙る。その沈黙はイエスと同義だ。
「でもね、そのためには伯父さんが僕の質問に一つ答えて、それから僕のお願いを一つ聞かなくちゃいけない」
「何だ、一体」
伯父さんは立場的に聞かざるを得ない。
「まず、質問。母さんはどうなったの」
言葉に詰まっている感じがスマホの向こうからする。
「俺は知らない」
「伯父さん」
「本当だ。イギリスに行ったことは確かだ。それからどうなったかは知らない」
「……分かったよ。それじゃ、お願いの方だ。僕と伯父さんが会う時に研究所の所長の安倍さんという人を連れてきて欲しい」
「悠、一体」
「出来るはずだよ。安倍さんも僕のことを気にしているはずだから。いいね、絶対だ。さもなければ僕は途中で帰って、伯父さんの所にも研究所にも顔を見せない。じゃあ、切るね」
僕は耳からスマホを離し、一方的に通話終了ボタンを押した。
一息つく。
「お前なかなかやるじゃないか」
とサドリ。僕はリビングで通話をしていて、彼女はその間ずっとそこの椅子に座っていた。彼女は頬杖をついて僕をしげしげと眺める。
「策は聞いたが、本当にやるつもりか」
「うん。僕は本気だよ」
ふむ、と言って彼女は立ち上がった。
「伯父達と会うのを明後日の夜にしたのはよかったな。おかげでお前に貸してやれるものができたかもしれん」
「え?」
明後日の夜だったら貸してやれるもの? 何だろう。
「ちょいと習得するのに時間がかかる。扱いこなせるかはお前次第だ」
彼女は紫の瞳を楽しそうに輝かせ、にやりとした。
サドリとの特訓が終わって疲れ果てたころ、スマホに一件メールが届いているのに気が付いた。母さんからだ。僕が父さんの墓参りを済ませた日に送ったメールの返信がやっと届いたのだ。それは当たり障りのない内容だった。
僕はしばらく考える。迷った。しかしやはり送ることにした。一行だけの返信。
『あなたは誰だ』
伯父さんと会う日の夜になった。もうそろそろ二時になる。待ち合わせ場所は徒歩十五分の所だから気が早いにも程があるけれども、僕は出かける準備をしていた。といってもいざという時のためのスマホくらいしか持ち物が無い。
そんなものすごく軽装の僕にサドリは眉を顰めた。彼女はお宝部屋に行き、ガサゴソと中を漁った後、木の鞘に入った一振りのナイフを僕の元に持って来た。
「サドリ、そんな物騒なものいらないよ」
「いいから持って行け。ルーンが彫ってあるからな。退魔ができるぞ」
僕は渋々それを受け取る。ナイフを使うような状況にはなりたくないものだ。
「それから」
彼女はリビングの壁に掛けてある黒いコートを取った。それを僕に向かって突き出す。
「これの素晴らしさはお前も知っているだろう。貸してやる。持って行け」
ありがたくそれを羽織る。元々彼女にはオーバーサイズ過ぎるコートだったから、僕が着ても問題なかった。ナイフはコートの内ポケットにしまう。彼女は出来上がった僕の格好に満足気だった。
「これでお前に貸したものは、あれを含めて三つだな。後で全部きっちり返せよ」
「分かった」
元よりそのつもりだ。別に僕は死地に赴くのではないのだから。
「じゃあ、三時半くらいに来てね、サドリ」
「分かっているとも」
サドリには後で出番がある。けれども彼女には一時間の時間制限があるから、最初から最後まで伯父さん達との面会に付き合わせるわけにはいかないのだ。最初の三十分は、僕一人で研究所の所長と伯父さんの相手をしなければならない。
「しかし、お前いくら何でも出るのが早くはないか。もし相手も早く来ていたらどうする。私が行く頃には全部終わっているかもしれんぞ」
「その時はその時でサドリを待つよ」
何故か不思議と軽やかな気分だった。もちろん緊張はしていて、だからこんなに早く出ようとしているのだけど。
「そうか。では後で会おう。行ってこい」
サドリは僕に向かって拳を突き出した。僕も同じく拳を出して、彼女のそれにコツンとぶつけた。
夜の空気が冷たい。もう雪はこれ以上降らないだろうけど気温は軽く零度を下回っている。単に耐寒という意味だけでもサドリの上着を借りておいてよかったと思う。
さすがにこの時間になると商店街の中にも人がいない。普段は人で賑わうアーケードもひっそりとしている。いや、ひっそりというより妙に静かな感じだなと僕は思った。とはいえ、商店街はそこまで長くはないし、商店街を抜けてしまえば後は交差点を渡るだけで待ち合わせ場所の橋に着く。
「お待ちしておりました」
僕はばっと振り返る。これまで歩いてきた商店街の真ん中にフロックコートの男が立っていた。どうしてその男がそこにいるのか分からない。彼は中折れ帽を取って金髪の頭を下げる。忘れようがないその姿。
「お会いするのは二回目ですか? それとも三回目?」
「アラン・スミシー……!」
僕はそいつの名前を吐き捨てる。どうせ偽名に決まっているが。
「ああ、憎悪。いい憎悪です。つまりあなたはもう十年前の私と会っているのですね。時の輪は越えたらしい」
僕は内ポケットからナイフを取り出し、鞘を払う。白い刃の光が閃いた。スミシーは白手袋の手でわざとらしく口を覆う。
「おや、怖い。やめてくださいよ。今日はあなたにいいお話を持って来たんです」
「誰がお前の話なんて聞くか!」
「お母様の話ですよ?」
僕は硬直する。
そう、こいつはイギリスの魔術師で、母さんはイギリスに行っていて。僕を巡るこの状況の中、関係が無い方がおかしい。
スミシーは目を細めた。
「聞いてくださりそうですね。ご存知の通りお母様はイギリスにいらっしゃいます。それも私が勤めている機関で保存されているのです」
「保存」。その単語に僕の頭は熱くなる。
「母さんに何をした!」
スミシーは首を傾けた。
「あれ、一度ご説明したはずですよ。薬液につけて、お身体の状態をキープしているんです。それもこれもあなたが悪い。あなたさえイギリスに来て下さればお母様を研究するなんて迂遠な方法を取らなくてもよかったのです。一応魔術遺伝説の観点からは興味深かったですけどね。お父様は事故でお亡くなりでしたから使えませんでしたし」
「こ、の外道‼」
熱くなりすぎてはいけない。平静を保たなければ。まず問いただすべきことがある。
「……父さんは事故だと言ったか。お前が殺したんじゃないのか」
「え? 事故ですよ。お父様が私と使い魔の契約を打ち消してしまったので、使い魔が暴れてお父様を殺してしまったんですもの。私の責任じゃありません。しかし、打撲でお亡くなりになったものを心臓麻痺に偽装するのは骨でした」
目の前が真っ白になった。気付けば僕はナイフを握りしめスミシーに向かって一直線に走っていた。
スミシーは整った歯並びを見せながら笑い、指を弾く。地中からタコの触手が現れた。僕は間髪入れずナイフを振るう。触手の一本に半分ほど切れ込みが入り、タコが陰惨な悲鳴をあげる。他の七本の触手は無事なので、僕は一旦距離をとった。
「おやおや、臆しませんね。しかもそのナイフはルーンですか。いいものを持っていらっしゃる。可哀想に、私のかわいい使い魔」
スミシーは人差し指を頬のあたりに持っていって、物思いにふけるポーズをとった。僕は再び突進するタイミングをはかる。
「余談なんですけどね、私映画が好きなんです。特に時間をいじる技法が大好き。回想もいいですし、早回しもいい。でも一番好きなのはスローモーションかな」
スミシーは両手の親指と人差し指で四角を作ると、僕をその四角の中に入れた。
次の瞬間、タコ本体が恐ろしいスピードでにじり寄り、僕はその触手に全身を絡めとられた。
ルーンのナイフが落ちる音がした。複数本の触手に絡められた僕は一切身動きができない。
何が起こった。タコが加速した? いや、スミシーはスローモーションと言った。ならば、僕が極度に遅くなったのだ。
空中に持ち上げられている僕の足元までアラン・スミシーがやって来る。
「私には使い魔しか無いと思いました? いいことを教えてあげましょう。使い魔というのは魔術師にとっていわば外付けデバイス。使い魔とは別に各々の魔術があるんです。勉強になりましたね」
スミシーはかいてもいない額の汗を拭う。
「そういえば、お話の途中なのでした。全く短気は起こすものではありませんよ。お母様の話です。私が今日ここに来たのはね、あなたのメールがとても刺激的だったから」
「メール?」
「『あなたは誰だ』。あれはよかったですね。ゾクゾクしました。ここは本来日本の縄張りですし、あなたは今逃走中とはいえ一応日本の保護下に入っていますから、あなたに手を出すのは黒に近いグレーなわけですけど、いいなあと思ってしまいまして。どうしてメールの相手がお母様ではないと分かったのですか」
答える義理は無いのだが。
「別に確信があったわけじゃない。けど怪しいと思ったから。別に本当に相手が母さんなら笑って済ませばいいことだ」
うん、うん、とスミシーは頷く。
「まあ、あなたにとって幸か不幸か相手は私だったわけですね。ガーディアンで日本語が達者な人間ってなかなかいなくて。ああ、ごめんなさいね。返信が遅くて。楽しみは後にとっておくタイプなんです」
僕は何年も父さんの仇と文通をしていたのだ。
「さて、ここから交渉に入るわけですが、あなたイギリスへいらっしゃい。そうすればお母様を解放して差し上げましょう。心配なさらないで。薬液に漬けられていますけどお母様は御存命ですから」
「それは」
「日本の研究所に横取りされたと誹られるかもしれませんが、あなたは今逃亡中ですし、自分の意志でイギリスに亡命したということになれば、話は白に近いグレーになります。どうです? お母様を助けませんか?」
「そうすると僕はイギリスで研究されて保存されるわけだ」
「まあ、そうですね。お母様が大事か、ご自分が大事かという話になります」
卑怯なやり口だ。けれど僕の答えは決まっている。
「断る。僕はお前達の所には下らないし、いつか母さんも救う」
スミシーはにんまりとした。
「いいですね、若者は欲深くなければ。仕方がありません。こんな汚い手は使いたくないのですが」
パチンと指が鳴る。いきなり触手の締め付けがきつくなった。
「先に亡命して、後から自由意志だったということにしましょう、ね?」
上着のおかげで少しは持ちこたえられているが、駄目だ。意識が遠のく。けれど、僕はこいつにだけは屈するわけにはいかない。サドリ!
『普通はいきなり貸し借りをするなど無理なのだがお前にならできるだろう。なにせお前は本質を知ることに関してはずば抜けているのだから。本質を知り、そして支配下に置く。必要なのはこの二段階だ。私も協力しよう。やってみるがいい』
朦朧とした頭にサドリの声が響く。僕は彼女から借りたそれに思いを馳せた。
古代ペルシャの神話の中に名を列ねる王たち。アラブとイランの王ザッハークはその一人。
「…………こい」
罪深い簒奪者、邪悪なる王。悪魔の呪いを受けたザッハークの両肩からは、
「……出てこい」
二匹の黒い蛇が生えていた。
「出てこい、マーレザッハーク‼」
大きく口を開けた黒い突風が僕の足の下から起きた。一つはタコへ、一つはスミシーへ凄まじい勢いで伸びる。
タコが悲鳴をあげて僕から触手を離した。僕は空中から落ち受け身をとる。巨大な黒い蛇がタコに咬みついていた。二つの牙がタコの体に深く食い込んでいる。うまくいった。信じられない気持ちだった。
「これは一体……」
声のする方を見ればスミシーはがっちりと大蛇に巻き付かれていた。僕は地面に落ちていたルーンのナイフを拾う。
「知り合いの魔術師から借りたものだよ。それはかつて人間の脳を食らってきた呪いの蛇」
「使い魔の使役ができるとは」
「お前の言った通りだ、スミシー。使い魔は外付けデバイス。そして僕はどうもそれを扱うのに長けているらしい。名前を知るなんて役に立たない才能だと思っていたけれど」
僕は落ちていた鞘も探し出してナイフをしまった。
「私を殺さないのですか」
「思い直した。やり方は間違えるべきじゃない」
僕はあらん限りの憎悪をこめてアラン・スミシーを見た。
「いつか必ずお前を潰す。そして母さんを助ける。その時まで首を洗って待っていろ」
僕はザッハークの蛇にしばらくそうしているよう命じて橋の方へ向かった。
もう橋の上では二人の大人が待っていた。一人は伯父さん、もう一人は意外に若い眼鏡をかけた真面目そうな男だった。彼が時計を確認している様子を見ると僕は少し遅刻したらしい。しかし二人はゆっくりと現れた僕を咎めなかった。全身タコの粘液まみれだった僕の姿を見て呆気にとられたのだろう。
「すみません、遅くなりました」
「悠、その格好は」
「ちょっとトラブルがあってね」
僕は少し笑った。
「久しぶりだね、伯父さん。そちらは所長の安倍さんですか」
眼鏡の男は静かに頷いた。僕は彼が来てくれたことに安堵した。
「来ていただいてありがとうございます。今日はお二人にお願いしたいことがあるんです」
二人は何事かと僕を見る。僕は息を吸って、そして言った。
「僕と一緒に呪われてください」
「な、悠、お前は何を」
僕は伯父さんと安倍さんの目を順に見る。
「まずは何も言わず勝手に逃げ出したことをお詫びします。けれど僕はあなた方も悪いと思う。長年僕を騙し研究し続けた」
二人は何も言わない。
「僕はそのことに怒りを感じています。けれど、それはもうよしとしましょう。僕はあなた方からこそこそと隠れて一生を終えるつもりはない」
それに加えて、僕は一沙と千沙ちゃんの身を案じ続けたくはない。
「僕と手を組みましょう。僕は正直研究されるのは嫌でしょうがないけれど、数日に一回なら研究所に行っても構わない」
「こちらのメリットは」
安倍さんは眼鏡を押し上げた。眼鏡の奥の眼光が鋭い。
「数日に一回では効率が悪い。それならば、これまで通り君に魔術をかけて毎日研究する方がいい。君には都合が悪いかもしれんがね」
僕は冷や汗とともに笑みを漏らしてしまう。僕も大概だがこちらもえげつないことを言う。しかし僕には目算がある。
「効率はこちらの方がいいはずですよ。理由は二つあります。一つは、僕が自主的にそちらに行くようになれば、一々僕に魔術をかけて記憶をいじるような手間をかけなくてもよくなるということ。もう一つは」
僕は右手で招く。来い。
二匹の黒い大蛇が地中から現れた。安倍さんは動じないが、伯父さんは腰を抜かしている。
「僕が適切な指導者の下で意識的に魔術を学ぶ方が、より成長しやすいということ。研究というのは、僕に魔術の力を遺憾なく発揮させてデータを取るもののはずです。あなた方はこれまでにない良質なデータを取ることができるようになる」
安倍さんは伯父さんの方を見る。
「どう思う?」
「ど、どう思うもなにも。とんでもない話で」
「まあ、確かにな」
安倍さんは顎を撫でた。
「しかし、悪い話ではない」
彼はこちらとの距離を詰めてくる。
「だが、どうやって保証してくれるね。君がまた逃げ出さないという保証は?」
僕も負けじと彼との距離を詰める。
「それが呪いです。これから僕の師匠が来ます。彼女に僕達全員を呪ってもらう。僕に関しては、これから研究所から逃げ出さず、数日に一回は研究に協力するよう。あなた方に関しては、僕に二度と記憶操作その他僕の自由を奪うようなことをせず、他の研究員にもそれをさせないよう。お互い誓約し、それを破れないように呪ってもらうのです」
僕と安倍さんは、ただじっとお互いの目を見ていた。彼は遂に口を開いた。
「よかろう」
彼は僅かに口角を上げ、僕に向かって手を差し出した。僕はその手を握る。
五分ほどして銀髪の少女、サドリがその場にやってきた。
数ヵ月後。僕はその日もいつも通り彼女の家へ向かった。入口の赤い布を払いのけて家の中に入る。彼女はリビングの椅子に座っていた。こちらを見てにやっと笑う。
「よう、研究は終わったのか」
「まあね。サドリ、君のせいだ。君が研究所の人にアドバイスなんかしたから、僕は今四つの言語を平行して勉強する羽目になっている」
「まあ、語学を若いうちにやっておくのは大事さ」
僕は彼女の向かいの椅子に座った。窓からは陽が差してぽかぽかと暖かい。サドリが僕のちょっと上の方を指差した。
「お前、桜が頭についているぞ」
「え」
僕は花びらを頭から払い、それがひらひらと床に落ちていく様子を眺めた。美しい薄紅色の一片。
「春だね、サドリ」
「おう」
僕はぶっきらぼうな彼女の返答に内心笑いながら、頬杖をつく。
あの橋の上での交渉から数か月が経った。僕は約束通り数日に一回研究所に行っている。お互い呪われているので、あちらも約束を守っている。家もそのまま伯父さんの所に住み続けていて、さすがに伯父さんは気まずそうにしているけれども、少なくとも表面上は平穏に暮らしていた。
物思いにふけっていると、赤い布が動いた。
「こんにちは。あ、悠理くん!」
千沙ちゃんが元気よく小走りで僕達のもとにやってきた。初めて会った時からほんの数か月しか経っていないけど、彼女は少し大人っぽくなった。子供の成長は早い。
「一沙は?」
「お兄ちゃん?お兄ちゃんもすぐ来るよ」
もう一度赤い布が動いた。買い物袋を提げた茶髪ピアスの兄貴が入って来る。彼は春から大学生になったというのに、ほとんど何も変わっていない。しかし、それはそれでいいと思う。
「今日は麻婆豆腐な」
「お手伝いする―!」
二人の兄妹は台所へ消えてゆく。僕はそれを見て、二人が無事に日々を送っていることに心底ほっとした。窓から風が入って来る。サドリの銀の髪が揺れる。
「サドリ」
紫の瞳が僕を見た。
「僕を見つけてくれてありがとう」
彼女は感傷的な僕の言葉を鼻で笑った。
「これからさ、全部これから」
僕は笑う。
「そうだね」
風がまた吹く。
雪は溶け、時は巡り、今は春。