俺達ルームシェアしている友達と何が違うんですか

ラモトリギン100mgを二錠、炭酸リチウム200mgを二錠、アリピプラゾール3mgを一錠、クエチアピン12.5mgを一錠。<ruby>深川淳<rt>ふかがわじゅん</rt></ruby>はいつものようにそれらの錠剤を取り出し、そのまま飲み込んだ。

「おい、淳。ちゃんと水で飲めって」

淳の蛮行を見咎めた<ruby>浅見省吾<rt>あさみしょうご</rt></ruby>はリビングから彼を叱る。

「でも、面倒くさいから」

「そこに水道があるのにどれだけめんどくさがりなんだお前は」

淳は呆れている省吾の隣に座布団を持って行って座る。省吾の隣は落ち着く。黒い髪を短く刈り上げた大柄な男。建築会社勤務で現場に行くことも多いせいか日に焼けている。淳が色白で瘦せているのとは対照的だ。

省吾には不思議な重力のようなものがあった。別に淳は彼の側に行きたいとはっきり思っているわけではないが、手が空くとなぜか彼のそばに引き寄せられてしまう。しかし、省吾とだらだらするわけにもいかない。本を、読まなければ。床に積読してある本の中から一冊見繕う。『中国語音韻史の研究』。

彼はその本を半年かかっても読めていなかった。半分しょんぼり、半分激しく焦りながらページを開く。しかし、いつものように文章は判読不能である。いや、判読不能は言い過ぎ。一応読んで何となく意味は分かるのだから。けれど、まるで脳に何かの障壁があるかのように、内容が頭に入って来ることはなかった。

「テレビ消そうか?」

省吾が聞いてくる。彼はずっとアルジャジーラのニュースを見ていた。

「いや、いいですよ。アルジャジーラは僕も好きですし」

それに雑音がある方が淳の読書にはよかった。静かだとかえって頭が騒いでうるさすぎるのだ。気は少し散っている方がいい。

読めない。分からない。淳がこの状態になってから六年が経つ。つまり彼は大学に入った頃から日本語で書かれた本がろくに読めなくなってしまった。淳は今年大学院の修士一回になったが、修士に必要な基礎知識があるかといえば決してそうではなかった。そのことは非常に淳を焦らせた。求められている水準に常に満たないという感覚。

深川淳は双極性障害、昔で言うところの躁うつ病である。どうもその症状として知覚の能力や集中力が落ちて本を読みづらくなるというのがあるらしい。もしかすると本が読めないのはそのせいかもしれない。けれど単に自分の頭が悪いせいではないかとも淳は思う。

焦る淳。彼の持つ本は一ページも進まない。それを隣にいる省吾は分かっていながら何もしなかった。元より省吾が助けられることではない。口を出すのは淳がそれを求めてからでいい。もっとも淳は自分のことについてめったに語らないが。

どうしたものかね、と省吾は思った。読まないという生き方もあり得る。けれど彼の同居人は決してそれをよしとはしないだろう。どうすれば淳が少しはましに生きてゆけるのか、淳自身も知らないだろうし、省吾にも分からなかった。

これまで省吾はさして悩まずに生きてきた。能力に恵まれ、既に手に職はつき、何より健康。正直淳のことは大変そうだと思うが今一つ分からない。そして、そのことに一抹の寂しさを覚えないではなかった。

本当にどうしたものか……。

まあしかし、省吾はそのまま物思いに沈むようなタイプでもない。それは、それ。悩むのは淳が死ぬほど(比喩でなく)やっているので、この上省吾まで悩むのは無駄というものだ。

まあ、頑張りたまえ、青年。

そして心底駄目だと思ったら俺に頼ればいい。省吾はテレビに集中した。

 

 

浅見省吾が深川淳と出会ったのは二年半前の九月だった。省吾は当時まだ学生で大学の寮に暮らしていた。その日の晩は丁度松井さんという寮のOBが遊びに来ていたので、二人で話し込んでいた。

そこに一人の男子学生が通りかかった。寮の中でよくすれ違う顔だが名前は知らない。

「お、深川君じゃないか!」

松井さんがいつものように陽気に声を掛けると、深川君と呼ばれた学生はこちらへ振り返った。

あ、こいつはまずい、と省吾は思った。

深川は顔面蒼白で目はどこか遠くの方に焦点があっていた。

「深川君、こっちおいでよ! あれどうしたの、元気ないじゃない」

松井さんに手招きされた深川はゆらりとこちらにやってくる。どう見ても深川は人と話をしたそうな雰囲気をしていないので、省吾は大丈夫かなと思っていたが、やってきた深川が発した言葉は予想外のものだった。

「松井さん、僕を潰してください。酒が欲しいです」

松井さんと省吾は顔を見合わせた。百パーセント何か事情がある。どう対処するべきか。松井さんは立ち上がった。

「よし! じゃあ、ファミマまで酒を買いに行こう!」

省吾より十一年上で経験豊かな松井さんは、彼の希望通り飲ませるべきと判断したらしい。省吾はこれまで深川と関わり合いを持ったことが無かったので、ここで帰ってもよかったのだが、そうはしなかった。一つには、そうするタイミングを失ったから。一つには、一体この深川という青年に何が起こったのか興味があったから。

歩いて五分のファミマに行く道中、省吾と深川が互いを知らないことに気が付いた松井さんが、ありがたいことにお互いを紹介してくれた。

「こっちは浅見君ね。俺と同じ建築学科で今四回生。就職はもう決まっているんだっけ」

「はい。このまま京都で」

「うん。で、こっちが深川君。えーと、文学部でなんか中国のことやってるんだったよね。今三回生」

ふーん、じゃあ一コ下かと省吾は思った。

深川はガリガリで鋭い顔をしているくせにどこか童顔で、高校生のようにも、或いは省吾より年上のようにも見える不思議な顔立ちをしていた。

省吾と深川が互いに喋る間もなく一行はファミマに着く。

「えーと、深川君はね、あーそっちはダメダメ。君はこれくらいで十分」

そう言って松井さんはアルコール度数数パーセントくらいの酎ハイをかごに入れる。あんなもので人は潰れるのだろうかと省吾は思った。どうも深川というやつは超がつくほど酒に弱いらしい。

「俺達も飲もう!」

松井さんは缶ビール四本とつまみを雑にかごへ入れて、レジに持って行った。全て松井さんのおごりである。

寮に帰った三人はそこの食堂で飲むことにした。夏休みなのでそこまで人はいない。長机の一角を占拠して、まず深川、その向かいに松井さんと省吾が座る。深川は席に着くや否や酎ハイの缶を開けて飲み始めた。

「ねえ、何があったか聞いた方がいいの?」

松井さんは缶ビールを開けながら深川に聞く。深川は酎ハイを飲み続ける。

「ペース早い! ペース早いよ! ストップ」

深川は飲むのをやめた。そしてふと息をもらす。

「別に何があったとかじゃないですよ。そういうことじゃないんです」

「えー? そうなの? なんか元気なかったじゃない」

深川は缶を置いた。

「そうじゃなくて、根本的に駄目なんですよ」

「根本的に、駄目?」

松井さんはぽかーんとしている。しかし、省吾は分かる気がするなと思った。分かるというのは、省吾自身がそうだというより、同じようにこじらせている学生を沢山見てきたという意味だ。十代後半から二十代前半にかけて自己評価が極度に低くなってしまうのは別に珍しいことではない。

「んー、じゃあ、本当の本当に何も無いの?」

「…………」

深川はもう一口酎ハイを飲む。

「…………」

それからボソッと

「彼女に振られました」

「あるじゃん!」

松井さんはツッコミながら笑った。省吾も深川の答を聞いて安心した。別に彼女に振られて落ち込むのは当たり前である。なんのことはない、深川の異様な様子もそれが理由だったのだと。しかし、

「違いますよ。それでこんなふうになっているんじゃない。逆なんです」

深川は生気の無い目で二人を見てきた。

深川の話を総合するとこういうことのようだった。

彼の調子がおかしくなったのは去年の十二月ごろ。何かきっかけがあったのかと聞けば特に無いと言う。彼は昼を過ぎてもベッドから起き上がることができなくなった。大学生が生活リズムを狂わせることはよくあることなので、これだけでは即座に病的と断ずるには足りない。

しかし深川の場合はそれだけではなく、自傷行為を繰り返し希死念慮が出るようになっていた。深川は次第にまともな学生生活が送れる状態ではなくなってゆく。

諸々の支障は大学方面だけでなく私生活にも生じた。どうも二月に付き合っていた彼女の誕生日があったらしいが、到底それを祝える状態ではなかったらしい。

一昨日の昼間、深川は自室の片付けをしていた。自殺をする前にそうするべきだと思ったらしい。ただ、自分が自殺した後のことを想像すると、どう考えても両親が幸せになりそうにないので、どうしたらよいのか分からなくなり時折泣いていたという。

その夜、彼女に振られた。その理由として彼女は、深川が彼女の誕生日を祝わなかったこと、碌に彼女とデートしなかったことを挙げた。深川はその場では悲しんだが、幾ばくもしない内に「かえってすっきり」したらしい。

つまり、彼女に振られたから精神状態が不安定になっているというのは、時系列として逆で、精神状態が不安定になっていたことが遠因となって彼女に振られたということらしい。

「僕は彼女が悪いとかはあまり思っていなくて」

まだ缶酎ハイを半分程度しか飲んでいないだろうに、深川の顔は真っ赤になっていた。本当に弱いようだ。しかし、酔っている割には淡々と、いやいっそ整然と彼は喋った。

「でも、振られた夜から毎晩怖いものがやってくるようになりました」

「怖いもの?」

普段は陽気な松井さんも今ばかりは真剣に聞いている。

「ものすごいネガティブな塊というか、自分がバラバラにされる感じというか。早く眠ってしまおうと思うけれど目が冴えてしまって眠れないんです」

夜が来るのがこわい。深川はボソッと言った。

確かにそもそもの話は不安定になってから振られたという順序らしいが、振られてから何だかんだ更にダメージを受けているらしい。それで松井さんに潰してもらおうとしていたのかと省吾は思った。酒の力で意識を失うのは褒められたものではないが、緊急避難にはなる。あくまで一時しのぎだが。

「あのさ」

食堂に来てから初めて省吾が口を開いた。

「これ、他人がどうこういうことじゃないけど、カウンセリングとか……病院とかそういう所に行くことは考えないの?」

深川は驚いたような顔をした。無理もない。会ったばかりの人間がカウンセリングはともかく、病院を勧めるのはかなりリスキーだ。省吾は言い終えた後でも、果たして自分のやったことが正しかったのか分からなかった。

「あ、いや……」

深川は省吾の顔を見て俯く。

「病院には行こうとしたんです。知人に勧められたところに。でも一週間先まで予約が一杯だと言われて」

心療内科は忙しい所が多い。省吾は他の人間からも似たような話を聞いたことがあった。掴もうとした藁に拒まれることはあるのだ。誰が悪いという話でもないが。

では、一体どうすればというのは省吾が考えるまでもなく、深川自身が考え続けていることに違いなかった。

「うん、それじゃあね!」

松井さんが缶ビールを一本空け、また一本缶ビールを開けながらにこにこして言う。

「今日はやっぱり飲んで寝るんだ! 全部明日考えよう、明日!」

深川はちょっと面食らっていたようだが、少しだけ笑って「そうですね」と言うと酎ハイをあおった。

やがて本当に深川は潰れた。酎ハイ一缶というのはまさに適正量だったのだ。

「ここじゃ眠れないだろ。ほら、立って。部屋まで送っていくから」

省吾がここまで他人の面倒を見ようとするのは珍しい。

深川の部屋は寮の三階にあった。省吾は深川が階段から落ちないように後ろにつきながら上った。部屋に着くと深川は、

「ありがとうございました。おやすみなさい」

と、省吾に深々と頭を下げた。

「おやすみ」と言い、その後省吾は松井さんの所まで行ってビールをもう一缶飲むことにした。

「大丈夫ですかね、彼」

「大丈夫、大丈夫! 朝になったらスッキリするよ!」

松井さんはビールを飲み干した。

 

 

次の日の朝、省吾は二日酔いになっていた。あまり飲んでいない筈なのにだるい。昨日の酒は別に嫌ではなかったが爽やかでなかったのも事実だ。何もする気が起きないのでロビーの万年こたつに埋もれる。

するとそこに深川が通りかかった。

「あ、浅見さん」

深川は少しすっきりとした顔をしていた。

「おう、元気になったか」

「はい。昨日はありがとうございました」

省吾は安心した。一応心配はしていたから。一方の深川は何やら逡巡している。

「あの」

「ん?」

「浅見さんと松井さんは僕の命の恩人です。本当にありがとうございました」

省吾は笑った。

「何を大袈裟な」

「いや、本当なんです。僕は昨晩浅見さんたちと酒を飲んでいなければ死ぬところでした」

省吾は笑うのをやめた。

「どういうこと?」

「昨晩、あの後すぐに眠ったんですが、途中二時か三時くらいに目が覚めました。酒を飲んだ時はすぐに眠ってしまうけれど、眠りが浅いんです。起きているとまた怖いものが来ました。そうしている内に僕は気付きました。これまで自殺というと首を括るとかそういうのを考えていたけれど、別にもっと簡単な方法がある。部屋の食器棚の引き出しに包丁が入っているって。頭が冴えてきました。これまで両親のことが歯止めになっていたけれど、それもどうでもよくなりました。だってもう僕には無理なんだから。起きて包丁を取りに行こうと思いました」

そこで深川はくしゃりと笑った。

「でも駄目でした。酒のせいで体がすごくだるくて。僕は二段ベッドの二階で寝ていますし、とてもあそこまで行けなかった」

だから、浅見さんと松井さんは僕の命の恩人なんですよ、と。

省吾はゾッとしていた。松井さんは正しいが間違っていたと思った。

これから彼がどうやって夜を過ごしてゆくか省吾には分からない。病院に空きができるのは少なくとも一週間は後なのだ。

「だったら」

しかし、ともあれ今は彼の生還を祝おう。

「俺は君と酒を飲んでよかったと思うよ」

深川は少し目を丸くして、その後「はい」と晴れやかに言った。

省吾はそれから深川の姿をしばらく見なかった。一緒の寮に暮らしているのだし、もう大学の後期は始まっているので、普通に暮らしていれば一度も彼とすれ違わないというのはおかしかった。しかし、見ない。

ひょっとして何らかの理由で寮を出たのかと思って寮生名簿を確認してみたが、名簿には「深川淳」の名がしっかりと残っている。それならば残っている可能性は、「普通」には暮らしてはいないということだ。

省吾は深川がいるフロアの人間に彼の消息を訊いてみようかと一瞬考えてやめた。別に省吾と深川はそれほど深い仲ではないのだから。一度きり酒を飲んだ仲。しかし、気にかかる。それが何故なのか省吾には分からなかった。

やっと深川の姿を寮で見かけたのは十二月の初旬だった。深川は緑色のセーターを着てロビーにある万年こたつに入っておでんを食べていた。丁度その頃ロビーでおでん屋を開いている学生がいたので、寮生はそれを買ってその辺りで食べていたのだ。

省吾もそこでおでんを買うことにした。おでんが目的ではない。深川に自然に話しかけるのが目的である。何故そんな小細工を弄する必要があるのか、それも省吾には分からない。

おでんを抱えて隣に座り「久しぶり」と声を掛けると、そこでやっと深川は省吾に気付いたようだった。

「あ、お久しぶりです」

「あれから元気にしていた? あまり顔を見なかったけど」

えーと、と深川は少し恥ずかしそうにした。こういう時鋭い顔立ちをしたこの青年はまるで少年のようになる。

「実家に帰っていました。大学を休学して」

「そうだったの」

どうりで見ないわけだ。

「あれから、病院に行きました。そこでソウキョクセイショウガイだと言われて」

「ソウキョクセイショウガイ?」

省吾それが何か分からなかった。恐らく精神疾患の名前に違いないが。深川はこたつの天板に指で文字を書いて見せる。双極性障害。

「昔で言う躁うつ病のことです」

「ああ、なるほど」

それなら何となく分かる。しかし、うつはともかく躁という感じは深川からは見受けられなかった。彼でもなんだかハイになる時があるのだろうか。というより、躁うつ病、双極性障害というのは、ハイになったり、ローになったりするという認識でいいのだろうか。後で調べようと省吾は思った。

「それで、今は調子はいいの?」

深川は天井を振り仰いだ。緑色のセーターから出ている白くて細い首筋と喉仏があらわになる。省吾はそれを見てどきりとした。

「調子は…………まあ、……いいです」

そんな分かりやすい嘘があるか!と省吾は内心つっこんだ。しかし、ようは話す気がないということだろう。話題を変える。

「実家どこ?」

「青森です」

「青森⁉」

京都からは随分遠い。

「そりゃ、帰って来るの大変だったろ」

深川は苦笑いをする。

「ええ、まあ。でも京都に戻りたかったですから。というより、青森で毎日薬を飲んで寝ているのに飽きたかな」

深川は省吾の耳に顔を近付けて囁いた。

「だからね、脱走してきたんです」

「へ⁉」

驚く省吾に深川は悪戯っぽく笑った。

「病院からじゃありませんよ。僕がしているのは入院じゃなくて通院ですから。でも病院の先生にはまだ京都に戻るのは早いって言われていて。今先生に内緒で戻って来てるんです。青森から脱走」

結構無茶をする奴だ。省吾は深川をまじまじと見る。静かで痩せた、いかにも文学部という感じの男子学生。そんなことをしそうには見えないのだが

「先生にばれないように来週の頭には帰りますけど」

京都にいるのはあと数日ということらしい。それだと、またしばらく会えなくなるのかと考えて、省吾は違和感を覚えた。深川とはそんな親しい関係ではないはずだ。一体何を考えているのだろう。

「最近こっちで何してるの」

「何も。暇してます」

省吾は腕組みをする。そして言った。

「じゃあさ、飯行こうよ、飯。何なら今からでもいい。おでんじゃ足りないだろ」

「え、いいですけど……何で?」

何でって、思っても聞くやつがあるかと省吾は思ったが、

「そりゃ、君があんまり痩せているから心配になったんだ。どうせ碌に食ってないんだろ。沢山食わせてやる」

と代わりに言った。口から出まかせなことは自分でもよく分かっていた。

深川淳は上着を取りに自室まで戻っていた。浅見省吾という先輩に夕飯に誘われたからだ。何で誘われたのかなと淳は思った。淳は浅見に感謝している。あの日一緒に酒を飲んでくれたし、何よりその翌日の言葉がありがたかった。だから、浅見と夕飯に行くのは嫌ではない。しかし、浅見の側に淳と夕飯に行きたい理由など無いだろうと思うのだ。本当に何故?いや、それは今はいい。早く支度をしなければ浅見を待たせてしまうかもしれない。淳は急いで上着を羽織ると部屋から飛び出した。

案の定浅見は支度を済ませてロビーで待っていた。すみませんと淳が言うと彼は別にいいと手で示して、スマホを見せてきた。

「ここに行こうかと思うんだけど」

グーグルマップで御所の南にあるハンバーグ屋がポイントされていた。それでいいかと聞いてきた浅見に淳が「はい」と言うと、二人は寮を出発した。寮からハンバーグ屋までは二十分程度歩く必要がある。

さすがに十二月の京都は寒い。ガタガタと震えながら鴨川の橋を渡る。上を見上げれば夜空。少し曇っているのか空はぼんやりとしていて、けれどオリオンばかりは辛うじて見えた。

淳はひたすら浅見に付いて行く。地図は見せてもらったものの、詳しい位置は覚えていない。前の方を歩く浅見と淳は特に会話をしなかったが、気まずくはなかった。ゆったりとした人だなと淳は思った。

御所南の小さな路地に入ってしばらく歩くと目当てのハンバーグ屋があった。「予約をしていた浅見ですけど」と言って浅見が入る。淳を待つわずかな時間で彼は予約を済ませていたのだ。

テーブルに着くと、浅見は淳にメニューを渡し、

「さあ、好きなものを頼め、たんと食え。太るなら肉と米だ」

と言った。

この夕飯は浅見のおごりらしい。だったら、一番安いのを頼もうかなと思ったが、一方で彼からは太れと言われている。遠慮するのはかえって彼に悪いかもしれない。どうしようかと迷った淳はやがてメニューの内の一つを指差した。

「じゃあ、僕はこのハンバーグLL(チーズのせ)ご飯特盛で」

さすがに浅見は唖然としていた。浅見はぶんぶんと手を振る。

「いや、無理はしなくていいんだぞ。食べられる量だけで」

「でも、僕食べる時はこのくらい食べます。放っておくと痩せちゃう体質なので、人より沢山食べないと体重をキープできないんです」

浅見ははあ、と言うとそれ以上は何も言わず、彼の分を含めて淳の希望通り注文した。彼は最初の方こそ呆れていたようだったが、やがて面白がっているような視線を淳に送ってきた。

ハンバーグが来るまでしばらく時間がある。浅見は何気ない感じで口を開いた。

「双極性障害について少しだけ調べた。躁があると言っても、派手な躁があるタイプとかそこまでの躁は無いタイプとか色々あるんだな」

淳は驚いた。それも淳を待つ間に調べたのだろうか。

「はい。僕の場合割と地味な躁で、いつもよりちょっと元気になるかなというくらいなんです」

「いつもよりちょっと元気って、それは良いことじゃないの」

「あ、いや」

淳自身も感覚としてはそうで、躁状態のことを好ましく思っている部分もあるのだが。

「お医者さん曰く、躁状態というのは元気の前借りなんだそうです。だから躁状態の後でその反動で落ち込んでしまう。あとは元気といってもただ空回りしている場合もあるんです」

淳の場合、躁になって気力が出てくると、それまでのうつの期間に何もできなかったこともあって嬉しくなり、色々精力的に手を出した結果、またエネルギーが尽きたかのようにうつ状態に入ってしまう。実際、淳は青森での療養中躁とうつの状態を繰り返し、躁からうつへのジェットコースターのような感覚に吐きそうになっていた。躁状態でもエネルギーを温存することを学んだのは、それを何度か経験した後だった。

「あと、躁になるって、元気になったりとかハイになったりするとかだけじゃなくて、色々変わるんです。僕の場合、ことばの感覚とか考え方とか趣味とかも変わります。僕は一回生の時、大きな躁状態になったんですが、その時は新聞を読んでも意味が分からなくなりました」

大学に入学した時は沢山本を読もうと意気揚々としていた。しかし、それから一年余りほとんど日本語の本が読めなかった。その悔しさは忘れがたい。

浅見はしばらくしてポツリと言った。

「それは大変だったね」

「え?」

淳には浅見の言葉が意外だった。そして戸惑っている内に涙が頬を伝った。

淳はそれまで悔しいとか困るとは思っていたが、大変だとは思っていなかった。浅見の言葉でようやく淳は自分が「大変」だったのだと気が付いた。

涙を止めようと淳は焦る。浅見は何も言わない。

「いや、その、何だか最近涙もろくて。変な所で泣いちゃうんですよ。この前金曜ロードショーでトトロやってて、お父さんがバスから降りてきてサツキとメイが抱きつくじゃないですか。その時にお父さんの服にできる皺を見て泣いちゃいました。おかしいでしょ?」

そんな言い訳にも何にもなっていないようなことを言いながら淳は顔を拭う。

浅見はどこか遠くの方を見つめながら、

「俺にもあるよ、そういうこと」

と静かに言った。

やがてやってきたハンバーグを食べ、二人は帰路についた。

ごちそうさまでした、と淳は浅見に手を合わせる。本当は他にももっと手を合わせたいことはあるのだけれど。構わん、構わんと浅見は手をひらひらさせて歩き出した。

夜道の中、淳は浅見の後ろを歩く。

「あの!」

後ろから浅見に声をかけた。浅見は振り返る。

「僕が春に青森から帰ってきたら、またご飯行きましょう。今度は僕のおごりで」

泣いたご飯を最後にはしたくはなかった。浅見は笑った。

「春って俺社会人だぞ?」

そうだったと淳は思った。もう来年の春、浅見は学生ではなく、寮にもいないのだ。思わず俯く。

「次も俺のおごりに決まっているだろ」

彼は軽い調子でそう言った。

 

 

それから数日経った夜、浅見省吾はロビーで深川淳の姿をみかけた。深川は大きめの黒いかばんを持っていた。

「今から帰るのか」

深川は照れたように笑った。

「はい、夜行で帰ります」

「夜行バスだとどのくらいかかるの?」

深川は宙を見上げ、指を折る。

「トータルだと大体一日ですね」

「一日⁉」

はい、と言って深川はかばんから手帳を取り出し、省吾に見せた。行程表が書いてある。しかし、それよりも省吾はその横にある走り書きが気になった。あえてそれには触れない。深川も省吾の視線に気付かない。

「まず、弘前までバスで行くんです。そこからいくつか電車を乗り継ぎして……。僕の実家は青森の中でも田舎の方なんです。金木って知っていますか?」

「ごめん、知らない。」

「太宰治の出身地です。太宰が生まれたとても大きな家がまだ残っていて、ファンの方がわざわざやってきます。でも町自体は小さくて少し寂しい所です」

深川は手帳をかばんにしまう。

「僕はその町の旅館に生まれました。だから、もし浅見さんが金木に来たかったら言ってくださいね。僕の家に泊まれますから」

それはいいなと省吾は思った。けれども、その気持ちとは全く無関係に「太宰は好き?」だなんてどうでもいいことを聞いた。

「はい、好きです。でも、同じ東北の人なら賢治の方が好きかな。僕も詩を書きますから、彼のことはとても尊敬しています」

深川と詩はあまりにもしっくりとくる組み合わせだった。彼が書いた詩を読んでみたいと省吾は思った。

次はいつ会えるだろうか。二人で夕飯を食べに行った帰り、深川は「僕が春に青森から帰ってきたら」と言った。春までずっと青森で療養するつもりだろうか。そうであれば、少なくとも数か月彼と会えないことになる。省吾はそれを明確に寂しく感じた。

省吾はスマホを取り出す。

「連絡先、教えるよ。ラインやってるでしょ。なんかあったら気軽に送って来て。話聞くからさ」

深川も慌ててスマホを取り出す。

「あ、ありがとうございます。でも、もう大分いいんですよ。心配いりません」

それが嘘なのは知っていると省吾は心の中で言った。けれど口には出さない。

「もう、夜は怖くない?」

あっ、と深川は恥じ入るようにした。

「はい。その節は本当に。もう最近はそこまでのことは無くて、ありがたいことです。少し寂しくはあるけれど」

意外な言葉が出た。

「寂しい?」

「はい。こんなことを言うのは罰当たりなのかな……。」

深川は考え込むようにする。

「でも、うつの時の自分も自分ですから。苦しかったけれど、でもあんなに深く自分のことについて考えていた時期は他になくて。もうああなるのは嫌だけど、薬を飲んで落ち着いてしまうと少し寂しい」

やがて深川は寮から出て行き、省吾はそれを玄関から見送った。外ではもう雪が降り始めていた。一人になった省吾はロビーの万年こたつに入り目を閉じる。行ったこともない深川の故郷を思い描いた。雪に包まれた小さな町。彼は秋からその町でずっと療養を続けていたのだ。

深川の手帳にあった走り書き、あれは詩をつくるためのメモだったのだろうか。そこにはこう書いてあった。

一つの秋をかけて葬った私の片割れを懐かしんで

「そんなもの懐かしむなよ、深川」

腕で目を覆う。よくなるならそれでいいではないか。どうしてそう思わない。

「早く帰って来い」

省吾はため息とともに小さくそう言った。

 

 

二月、京都は恐ろしく冷え込む。その時期浅見省吾は再び寮で深川淳の姿を見かけた。なぜ彼が京都にいるのか分からない。けれど帰って来た。そのことを喜びつつ省吾は深川に声を掛けた。

「よ、どうした。帰って来れるようになったのか」

深川は答えなかった。ただ固い面持ちで省吾に一礼して去って行く。階段へ消えてゆく深川を見送って、省吾は胸騒ぎを覚えた。ただ事ではない。

 

 

淳は自室に入った。幸い中に他の住人はいなかった。冬休みに入っているから帰省でもしているのだろう。淳は部屋の奥に進み、机の引き出しを開け中に入っていた一冊のノートを取り出す。彼が大学時代を通して詩を書いていたノートだ。淳はその中から詩が書いてある部分を丹念に見つけ全て破り捨ててゆく。

ノート一冊をズタボロにした淳は本棚に入っている他のノートも全部取り出しチェックした。油断がならない。大学の講義ノートであっても、ページの末尾に詩がメモしてあったりする。

全て破る。

病気の影響だろうか、大学に入ってからはスランプだった。ろくに詩が書けなかった。しかし、それは今となっては幸いなこと。容易に全て処分できる。

淳は誰にも判読できないよう細片になるまで破いた紙を黄色いごみ袋に入れた。その上から他のゴミも詰め、袋の持ち手を結んだ。

他のものも片付けなければ。

本と服は段ボール箱に詰める。作業を進める内に部屋は次第に生活感を失っていった。

掃除を一段落させ、淳はゴミ袋の横に座り込んだ。片手で目を覆う。実家に置いていた自分の詩集は一昨日全てシュレッダーにかけた。淳は死ぬつもりだった。しかし、自分が死んだあと自分の詩が人の目に触れてはたまらない。きっと人は憐れむだろう。この程度のものを必死になって書いて死んだのだと。

結局残す価値のあるものは何一つなかった。自分がこれまで書いてきた全ての詩を処分した。そのことに悲しみはない。ただ安心した。

疲れたのかとても眠い。淳はゴミ袋の横に突っ伏して眠り込んだ。そして陽が沈もうとする頃起きた。部屋の中がオレンジ色に照らされている。寝起きなこともあって頭はぼんやりしているが、やるべきことははっきりしていた。

淳は食器棚から包丁を取り出し、鏡の前でそれを首にあてた。その姿を見て割とさまになっているなと冷静に思った。

しばらくその態勢のままでいると、机の上のスマホが振動した。振動が長い。電話だ。電話だろうが何だろうがもう自分には関係ない。無視すればいいと淳は思った。しかし、振動は一向に止まない。淳はついに苛立ちと共に包丁を片手にしたままスマホを取った。画面に名前が表示されている。

浅見省吾

淳は電話に出た。電話の向こうから浅見の柔らかな低い声が聞こえた。

「折角帰ってきているなら、久しぶりに飯でも食いに行こうかと思って。今大丈夫か。何してる」

淳は浅見の言葉に動揺した。

「……昼寝して、さっき起きた所です」

嘘は言っていない。

淳の言葉の後、スマホの向こうは沈黙した。淳は訝しむ。どうしたのだろうか。やがて短い声が聞こえた。

「部屋、どこだ」

淳は驚く。言葉が出ない。

「部屋どこだ。……いや、いい。思い出した」

電話が切られる。淳は固まった。かろうじて包丁だけ引き出しにしまう。二分もせずにドアが叩かれた。それが三度四度続く。淳は仕方ないので出た。

浅見は淳が僅かに開いたドアを大きく開け、部屋の中を一瞥する。極度に整然とした部屋がそこにあった。

浅見は淳を見下ろす。

「何があった」

淳は浅見の顔を見ることができない。

「何も」

「嘘だ」

「嘘じゃありません。何も無いです。何も無くても駄目なんです!」

何かあってこうなっているなら話は簡単だ。しかしそうではない。生きているだけでここまで追い詰められているのだ。言っていて淳は涙が出そうになった。そこでやっと淳は浅見を見た。浅見は笑みを一切浮かべず、淳をじっと見つめていた。

「……そのままの格好でいい。行くぞ」

「え」

淳は省吾に腕を掴まれ部屋の外に連れ出された。

寮の外に出た二人は何もしゃべらなかった。淳はもう浅見に腕を引かれなくても浅見に付いて行くが、二人の間に会話はない。日はほぼ落ちて、空は赤色と紫色が混じっている。

二人は近くの鴨川まで歩いて行き、川岸まで降りた。淳は浅見が促すまま浅見とベンチに座った。浅見は横に座る淳に自分の上着をかける。淳自身は何も上着を持っていなかったからだ。そうして浅見がようやく口を開く。

「……何かあったら話を聞くと言った」

「だから、何も無いですよ」

淳は浅見の言葉に苛立った。それは癇癪のようなものだった。一番苛立っているのは、さっさと死んでしまわずにここまでのこのこと付いて来てしまった自分自身に対してだった。

「それに、僕がどうなったとしても、それは浅見さんに言うようなことじゃない」

「どうして」

「どうしても何も、僕と浅見さんはそんな関係じゃないでしょ!」

いつもの淳は激高するような性格ではない。これは八つ当たりではないかと自分でも思っていた。しかし、そもそもなぜ浅見が自分にここまでするのか分からないのも確かだった。

「悪かった」

と浅見は静かに言った。日は完全に暮れた。街と車道を走る車の光ばかりが二人を照らす。風が冷たい。

「話を聞く必要が無いなら帰ろう。深川の様子が気にかかっただけで、これは俺が勝手にしていることだから。……でも食器棚の包丁は俺に渡せ」

淳は息を飲む。

「何で」

わかるんですか、と。省吾は淳の目を見る。

「人の話は一度聞いたら忘れない。だから、深川が言ったことも全部覚えている」

淳は飲んだ翌日の朝、浅見に包丁のことを話したことを思い出した。驚きとともに恐れのようなものがこみあげてくる。この人は一体。

「お前が何をしようとしていたのか俺は多分知っている」

「っ…」

抗いきれず淳の目から涙が零れた。手で顔を覆うと上着がずり落ちた。嗚咽の中から言葉が溢れてくる。

「……僕は、何もしていない、のに、うつが来るんです。薬は飲んでいるのに、繰り返し、何度も、何度も」

懐かしいとすら思っていたうつ。けれど来てしまえばやはりつらくて。それは毎日自殺を考えるほど。

「薬を飲んでいても、何度もうつになるっていうことは、一生このままだということじゃないですか!」

きりがない。双極性障害の患者は再発防止のために一生薬を飲み続ける。しかし淳は薬を飲んでもなお頻繁に躁とうつを繰り返していた。手の隙間から涙が落ちてゆく。

「そんなの、とても生きてはいけない……」

淳の声がつぶれた。

上着が再び淳の肩にかけられる。横から柔らかい低い声がした。

「その苦しさは一生は続かない」

それは確信を持った言葉だった。淳は涙に濡れた顔で浅見を見る。

「そんなこと、どうして分かるんです」

「いいから、信じろ。そういうものなんだ」

浅見は迷いのない顔をしていた。淳は呆然とした。この人の言うことが、よく分からない。浅見の言葉が淳の理解をこえた途端、意識が急速に遠のいた。

思えばただでさえ昨日青森から夜行バスで京都まで来て碌に寝ていない。そして京都に着いて休む間もなく自殺の準備として部屋を片付けた。それは普通の掃除とは違う、精神的にも肉体的にも極度に疲弊するものだった。その後床に突っ伏して眠ったところで回復する筈もない。

淳はその場で昏倒した。

「深川!」

 

 

目が覚めると淳はベンチの上で寝かされていて、上着が布団代わりにかけてあった。どれほど時間が経っただろうか。もう明らかに辺りの空気は夜になっていた。

顔をわずかに動かして見ると、浅見は隣の地べたに座ってタバコをふかしている。

「……タバコ吸うんですね」

浅見はくわえていたタバコを手に取り微笑んだ。

「吸うよ」

草がそよぐ音がする。

「気分はどうだ」

淳は目を閉じる。

「悪くないです。情けない」

浅見はクスクス笑う。

「なんで」

「眠って起きてしまえば軽くなるものだなんて。そんなものにあんなに一杯一杯になっていたなんて、すごく情けないです」

まだ、ここから帰ったら自殺しようと思っている。しかしそれは、あの夕方の部屋で抱いていたほど切実な感情ではなかった。

「そんなもんだよ。疲れてたら駄目だ」

空は満天の星。冷たい冬の風。川は流れ続ける。

「なあ深川、一つ約束をしよう」

淳は身を起こす。浅見は川の方を見ている。

「やっぱ、お前におごってもらうわ。それも、俺の最初の給料日におごってもらう」

「なんで給料日」

「めでたいじゃないか」

浅見は淳のベンチに手をかけた。

「春だ。戻って来るんだろ」

淳はうつむく。その言葉に彼はイエスと言えない。

「駄目か?」

浅見は困ったように笑う。

「それじゃあ、金木に戻ったら俺に電話をくれ。一度でいいから」

「浅見さんは、なんで僕にそこまでしてくれるんですか」

淳はずっと思っていたことを口にした。

そうさなあ、と浅見。空を見上げる。

「電話してくれたら言うよ」

彼は再びタバコをくわえた。

 

 

浅見省吾は自分の部屋に帰った。数度咳込み、そのままベッドに膝を立てて座る。風邪をひいていてもおかしくはない。二月の鴨川で長話をするなど無謀だった。

しかし、何かいい考えが練られる状態でもなかった。深川に電話をかけた時からひどく嫌な予感はしていたのだ。けれど、それでも彼の部屋を見た瞬間頭が真っ白になった。まともな思考など不可能だった。

もし、あの時電話をかけていなければどうなっていた?

省吾はため息をつく。

結局鴨川から戻って来た後包丁だけ奪ってそのまま部屋に帰した。しかし、死のうと思えばいくらでも手段はあるのだ。炊事場に行けば代わりの包丁くらい容易に見つかるだろう。

省吾は膝の間に頭を埋める。

「死ぬなよ、死ぬなよ……」

省吾がどうあがこうとも、深川の自殺を完全に止めることはできない。省吾の目に見えないところで深川は生きてゆく。深川が何かをしようとした時、それは十中八九省吾の預かり知らぬ所で起きるだろう。

胸のあたりが冷え込む。省吾は生まれて初めて神に祈りたくなった。ベッドに倒れ込む。

深川の前では余裕を装っていたが、内心怖くて怖くて仕方が無かった。あのタバコも落ち着くために無理やり吸っていたのだ。

一体どうすればいい。「お前が死ぬのは嫌だ」と言って何か救われるなら百万回でも言おう。しかし恐らくその言葉に効き目はない。

深川、淳。

青森の小さな町からやって来た色白で痩せた青年。省吾は病気の淳しか知らない。泣いていたり、苦しそうにしていたり、よく見るのはそんな姿。けれど時折はにかむように笑う。大人の顔と少年の顔、穏やかさと激しさが入り混じった詩人。

「淳」

双極性障害の自殺率は高い。どこぞのサイトに載っていた二十五パーセントという数字は眉唾であるとしても、一般的なうつ病よりも自殺リスクが高いことはよく言われている。

そして双極性障害が治ることはない。薬を使って症状を抑え、再発を予防し、一生をかけて付き合っていく病気だ。

その薬も最初に処方されたものが効くとは全く限らない。淳は治療を始めて半年弱、まだ状態は安定しないがそれは別に珍しい話ではない。彼が安定するまでまだ長い時間が必要だろう。

『その苦しさは一生は続かない』

『そんなこと、どうして分かるんです』

そんなもの分かりはしない。一般論を言っただけだ。淳がその言葉をどう受け取ったのか省吾は知らない。どうかその言葉から虚偽を感じ取らないでくれと祈るばかりだ。

ベッドの上に転がった省吾は自分の手のひらを掲げて見た。この手で出来る限りのことをする。それより他に道はない。

省吾はまたしてもため息をつく。

俺は厄介な相手に惚れた。

 

 

金木の駅に着いた。駅にある喫茶店は夕方の今も営業中。駅から出ると道が二手に分かれていて、その左の道を行く。行き慣れた道。けれど、こうして大学にいる内に病を背負ってここを歩くことになるとは思わなかった。

空は灰色。生まれ故郷の小さな町は色彩を失って雪の中に沈んでいた。そのまま家に帰ろうとして思い直した。家を通り過ぎ、太宰の家の前まで行く。その大き過ぎる家は来る闇を背負ってずしりと立っていた。

太宰の家は一般公開されていて誰でも入ることができる。けれど太宰の作品を読むようになってからはかえってこの家に入れなくなった。太宰はきっと嫌がるだろうと思ったのだ。

もう少し歩くことにした。太宰の家の先を左折し、右折し、小学校の側を通り抜け、しばらく歩くと、その先にはお気に入りの公園がある。芦野湖という湖に沿って広がる公園だ。津軽鉄道で金木の次の駅はこの芦野公園だから、ここまで来ると分かっていたなら電車に乗ったまま来ればよかったかもしれない。

線路を踏み越え公園の奥へ。雪に包まれた公園に人はいない。開けた場所まで行って、雪の上に横になった。冷たい水分の匂いがする。このままこうしていたら死ぬだろうか。死ぬだろう。けれど、どこか、自分は寒さに耐え切れずに立ち上がるだろうという気がしていた。京都でも死ねなかった。そして青森に帰って来た。

自分はどこに行くのだろうか。

横になったまま持って来たかばんを漁った。スマホを取り出す。約束だから。

何回かの呼び出し音の後、相手は電話に出た。

「浅見さん、深川です。金木に着きました」

いつもの柔らかい低い声が返って来る。

『おお、そうか。今何してる?』

「何って、家でくつろいでますよ。外は寒いですからね」

自分でも驚くほど平静な声でそう言う。

「浅見さん、僕は約束を守りました。浅見さんも約束を守ってください。なんで浅見さんは僕によくしてくれるんですか」

『うん……それなあ』

電話の奥から逡巡する声。

『悪いなあ、やっぱ言えないわ』

笑みがこぼれてしまう。

「ずるいじゃないですか、浅見さん。僕は約束を守ったのにそっちは守らないなんて」

『うん、だってさ』

次の言葉を待つ。

『お前、電話かけてていい状態じゃないじゃん。今どこにいるの、それ』

深川淳はがばっと起き上がった。雪のかたまりが背中から落ちた。

「なんで」

『なんでも何もない。声が震えている。今どこ』

声の震えなんて自分でも気付かなかった。

「……芦野公園です。金木から鉄道で一駅の所です」

『こんな時間に青森じゃ寒いだろ。帰った方がいい。まだ電車あるよな。それに乗って家まで帰ろう。話はそれからだ。だけど、電話は電車に入るまで切るなよ』

「はい……」

なんで自分は頷くのだろうと思った。携帯も何もかもかなぐり捨てて、朝まであのまま横たわっているのが本当じゃないのかと淳は思った。

けれど、淳の足は芦野公園の駅まで向かってゆく。そもそも約束だからといってなぜ電話をかけた。これではメンヘラではないか。構ってほしいだけ。違う、違う、真剣だったのに。……それは本当に?

雪はまだ髪にまつわりついているらしい。冷たいものが後頭部を伝った。

「浅見さん、なんで僕は生きているんでしょうか」

柔らかい声がする。

『それは知らないといけないの』

「はい。僕はどうしても知らなきゃいけないんです」

『うん……』

黒い林の中を行く。

『深川は文学部なんだろ、それに詩を書くんだろ』

「はい」

『詩でも、小説でも、映画でも、なんで生きているのかを語る作品は昔から沢山作られてきたし、今も作られ続けている。ということはさ、人類の理由探しはまだ終わっていないんだ』

足が線路に触れた。

『その理由なんて割とどうでもよくなっていたり、もうある答に納得している人も大勢いて、俺もその一人なわけだけど、深川は違うんだろ』

線路沿いに歩けば駅に着く。

「浅見さんはなんで生きているんですか」

『生きているからだよ』

遠くに見えた駅には薄ぼんやりと明かりが灯っていた。

「僕には分かりません」

『まだそれでいいんだと俺は思うけどね』

浅見さんはそう言うけれど、僕は今、切実に答えが欲しいと淳は思った。

駅で待っているとやがてゆっくりと電車がやって来た。

「電車が来ました。切ります。ちゃんと家には帰りますから」

『うん。家で落ち着いたらまた電話しておいで。そうしたら、俺が思っていることを伝えるから』

「はい」

淳は通話を終了すると、乗客もまばらな電車に乗り込んだ。

 

 

深川淳は風呂から上がった後布団の上に座った。家で落ち着いたらと言われたが、恐らくこれ以上落ち着いた状態は無いだろう。電話をかける。淳がいる場所からは掛け時計が見える。もう時計は九時を回ろうとしていた。例の如く相手は数コールの内に出た。

『今度こそ家だろうな』

「浅見さんは僕が言わなくても分かるんじゃありませんか」

『寒くはなさそうだ。まあ、ならどちらでもいいか』

コーン、コーンと掛け時計から九時を知らせる音がする。

『古風な時計がかかっているらしい』

「僕の家は古い旅館ですからね。浅見さん、約束のこと教えてください」

淳は話をわき道に行かせるつもりはなかった。なぜ浅見が淳に関わろうとするのか、それを聞かなければならない。電話先の浅見省吾はまた逡巡している。

『割と俺後悔しているんだよね。電話で言うようなことじゃないからさ。やっぱり京都で……』

「駄目です」

『じゃあ、言うけど』

相手はため息をついた。

『俺お前のこと好きなんだ』

淳は急に自分の身体からする石鹸の匂いが濃くなったのを感じた。

「え、何で……」

クスクスと笑っているのが聞こえる。

『お前、本当にそれよく聞くよな。そんなに何もかもはっきりさせないと駄目なのか』

淳は狼狽する。

「え、いや、待ってください。それって、どういう。その好きっていうのは付き合ったりしたいとか、そういうことですか」

『お前といる時間を最大化するのにベストな手段がそれなら俺はそれを取るけど』

淳はその極度にドライな回答に慄いた。この人は本気なのだと思った。

『別に付き合うとかそういうことには拘らない。手段だからさ、それは。聞かれたから答えただけで、そっちが気が進まないのにお前をどうこうしようとか思わないから』

少し間があって、

『本当に聞かれたから答えただけだよ』

と向こうは柔らかくそう言った。しかし淳は冷静ではいられない。

「困ります、浅見さん。浅見さん、僕のこと知らないでしょ、知らないからそんなこと」

向こうは笑っている。

『相手のことを全部知ってから好きになるには人生は短すぎるだろ』

「浅見さん」

『じゃあさ、俺がまだ知らないような所で、知ったら引くような所って何があるの』

淳は言葉に詰まる。

「病気のこととか……」

『それは知ってる』

「…………」

『無いの?』

淳は耳にスマホをあてたまま布団に突っ伏す。

「……僕は薄情なんです」

『薄情?』

「彼女に振られた話はしましたよね」

淳は昨年の九月彼女に振られている。そのことについては、意識を失うための酒を飲みながら浅見と寮のOBの松井さんに話した。

「二年付き合った彼女でした。いい彼女でした。僕は彼女に振られてすごく悲しかった。でも、すぐに嬉しくなったんです」

電話先の相手は黙って聞いている。

「だってこれだけ悲しかったら、いい詩が書けるだろうと思ったから。もっとよく詩を読んで、書けるようになるだろうって思ったから。だから嬉しかった。二年一緒にいた相手と別れてまず考えることが詩のことなんです。そんなのどうかしているじゃないですか」

『……』

「僕はずっと一緒にいた人間より詩が大事なんです」

時計の針がカチリといった。

『激しいやつ。俺はそれで構わないよ』

淳は起き上がった。

「どうして」

『俺の目的はできるだけお前の側にいることであって、大切にしてもらうことじゃないから』

淳は浅見のことが分からない。情が厚いかと思えばドライなことを言う。怖くなるほどの能力を持っていて、そして自分のことを好きだと言う。

『別にこの件で何か返事を聞こうとか思ってないし、あまり気にせずに日々を過ごし』

「無茶言わないでくださいよ‼」

あはははは、と向こうは笑う。

『ほらな、京都で言った方が多分良かったろ? じゃ、切るからな。おやすみ』

「待って、浅」

無音。スマホを確認すると切れている。信じられない。本当に切りやがった。

淳は呆然とせざるを得ない。掛けなおす?いや、掛けなおしても、また切られるだろう。一体なんなんだ。

おやすみと言われたところで、こんな状態から寝られるような強い眠剤は持っていない。

 

 

浅見省吾は朝十時過ぎタバコを吸いに寮の屋上へ上がった。深川淳と電話した翌日のことだ。外は極寒だが、気にしないことにしてタバコに火をつける。寮の中で合法的に一人でタバコを吸える場所はここくらいしかないのだ。

東にかかる太陽の光を眩しく感じながら、深川は昨日眠れたかななんてことを考えた。恐らく眠れなかっただろう。しかし、そちらだけとは思わないで欲しい。こちらだって眠れなかったのだ。全く面倒な約束をしたものだと省吾は思った。

タバコをくわえて昨日自分が言った言葉を反芻する。

『別に付き合うとかそういうことには拘らない。手段だからさ、それは』

「……建前だ、そんなもん」

付き合いたいに決まっている。でなければ、自分の感情をどうしていいのか分からない。深川のことは夢にも出てきた。あの白い肌に触れる夢だった。

深川の嘘をどうこう言っていられない。自分も正直には言わない。昨日はぼろが出ないうちに電話を切り上げた。深川は怒っているだろうか。まあ、いずれあちらから電話が来るだろう。

ジーンズのポケットが振動する。

ほら、来た。

省吾は手すりを背に屋上の地べたに座ると、スマホを耳にあてた。左手でタバコをコンクリの地面に押し付け消す。

「よお、深川。どうした、昨日は眠れたか」

『眠れるわけないでしょ』

ああ、今日は正直だなと思った。

『浅見さん、昨日の話聞かなかったことにさせてください』

浅見はたばこをくわえようとして、さっき消したことに気が付いた。

「理由は聞いてもいいのかな」

努めて柔らかに聞く。

『僕、今そんな余裕無いですから。それに浅見さんとそういうこと考えられないですから』

こいつオブラートをどこに捨ててきたんだと思った。こういう時にはっきり言うのは大事だが。

「……まあ、別に返答を求めていたことじゃないから。こっちが勝手に好きなだけでさ」

『ずるいですよ。浅見さん。そういうの』

「そうか?」

と、言いつつ深川の言いたいことはよく分かる。

『昨日結局聞きそびれました。浅見さんは何で僕が好きなんです。浅見さんは病気の僕しか知らないじゃないですか。僕は病気で僕を好きになって欲しくない』

「そうじゃない、深川」

そうじゃない。

「全部ひっくるめてトータルで好きだ。病気だから好きなんじゃない」

『浅見さんに会った時からの僕は特殊な状態で、それで好きだと言われても困る。これは本当の僕じゃない』

考えが甘かった。深川からしたらそれはそうだろう。自分の今の状態を抜け出るために治療をしているのだから。その段階で好きだと言われても受け入れ難いに違いない。

「もう一度言うけど、病気だから好きなんじゃない」

『分かりました。でもこの話はなしです、浅見さん』

「そうか、うん。ありがとうな、電話してくれて」

『いえ、それでは』

電話は切れた。

冷たい冬の匂いがする。省吾はもう一本タバコを吸おうとして、もう箱が空なのに気が付いた。

「……」

手すりに頭をあてる。

長期戦だと思った。

 

 

蛍光灯の明かりの下、詩を書く。詩はいい。時折自分の手が自分の頭を越える瞬間がある。自分が思ってもみなかったことを書ける時がある。それはまるで魔法だった。深川淳が唯一使える魔法。

淳は自身に絶望している。なんてつまらなく、生きるに値しない自分。けれど詩はそんな自分を超えてゆく。詩は淳にとっての希望だった。書くたびに思う。自分はこのために生まれてきたのだと。

自分の病気について調べた時、自分と同じく双極性障害を患った作家の一覧を見た。夏目漱石、宮沢賢治、ヘミングウェイ、太宰治……。まだその時は自分が精神疾患だということにひどいショックを受けていた。けれど、その一覧を見て悪くないと思った。彼らが本当に双極性障害かは眉唾だし、双極性障害と芸術的才能は必要条件でも十分条件でもないが。しかし、彼らと同じ病気なら悪くないと、そう思った。どこまでも詩が大事だ。詩を書いてさえいるならば、ある日机の前で血を吐いて死んだとしても本望だろう。

今調子がいい。躁でもうつでもない。長い間書けなかった詩が今書けている。

すみません、浅見さん。あなたが僕を好きだと言ってくれたことも、今この瞬間ばかりはどうでもいい。

淳は自分でも驚くほど浅見との一件が気にならなくなっていた。

自分は壊れていると思った。けれど、それは詩にプラスなのかどうかということをまず考えてしまう。

浅見さんはああ言ったけれど、僕は人と付き合わない方がいい。それに詩さえあれば人と付き合いたいとも思わない。

それは詩にプラスなのかとまた考える。逆に詩のためになるなら僕は喜んで人と付き合うだろうと思った。歪んでいるとは思うが。

淳は先日、自分の作品を全て廃棄したことを思い出した。調子がよくなった今となっては、あの中には良い作品もあったと思う。けれど、あまり興味が無い。淳はこれから書くものにこそ希望を持っている。詩を書くことへの欲ばかりが淳を生かしている。

書き続けることさえできていれば死にはしない。問題はそれが難しいということなのだ。一体何年書けなかっただろう。何故病気になったのかは知らないが、書けてさえいればここまで病まなかったと思う。

まだ言葉の感覚を掴むのが難しい。この数年は読む能力すらも失っていた。明らかに言葉のインプットの量が足りない。歯噛みする。人生で最も充実しているはずの時間を病に持って行かれた。そのことが悔しくて仕方がない。どうしようもない焦りがある。

『ただ、いっさいは過ぎていきます』

春が来る。

 

 

五月の土曜日、省吾は久しぶりに寮へ遊びに行き、ほどなくしてロビーのこたつで深川が寝ているのを発見した。深川の目の下にはくっきりとしたくまがあり、手には付箋をあちこちに貼った中国語の本がある。

ロビーで立っている省吾に知り合いは次々に声を掛けていくが、省吾は適当に応対しながらその場に立ち続けていた。

一時間ばかりそうしていたが、深川は目覚めない。このうるさい場所でそこまで熟睡しているということは余程疲れているのだろう。大学に復学した彼の戦いは続く。

やがて、省吾はその場を去った。深川は最後まで目覚めなかった。省吾は寮の門まで行って立ち止まる。どれほど、あの横に行って座ろうか、あるいは声をかけて起こそうかと思ったか分からない。

省吾はそのまま道を歩き出した。

 

 

九月になってしまった。省吾が深川を見かけたのは、あの五月のこたつで寝ていた姿が最後。それきり全く顔をあわせなかった。省吾は振られて以降遠慮して深川に連絡を取ることもなくなっていたが、さすがにこのままでは完全に会わなくなってしまうと思い、彼にラインを送ることにした。軽めのランチの誘い。それに対し深川は意外にすんなりOKを出してきた。

その日、省吾は約束の店の前で待っていた。植物園の横のこじんまりとした店で美味しいと地元民の間で評判になっている。空を見上げる。青く澄んだ美しい空。省吾は今日がいい天気で良かったと思った。

やがて深川がやってきたが、省吾は深川に対して「久しぶり」とも「元気?」とも言わなかった。そんなことを言っている場合ではなかったから。

「深川、病院に行こう」

深川は土気色の顔をしていて、明らかに以前より痩せていた。彼はその状態でも笑う。

「大げさだな、浅見さんは。別に僕普通ですよ」

それはもっとまずいだろうと省吾は思った。

「どうする、飯は食うか」

「食べます。割と楽しみにしていましたから」

店内に入って注文する時、深川は小振りなランチセットを頼んだ。昔ハンバーグLLご飯特盛を平気な顔をして頼んだ男とは思えない。

「足りるのか、それで」

「多分あのくらいしか無理です。昨日と一昨日は何も食べていませんから、あまり多いと胃が受け付けないでしょう」

「何でそんな」

何で?  何でかな、と深川は一人で呟いた。あまり考えたことがなかったようだ。そしてやっと一つ思い当たることがあったらしい。

「スーパーに買い物に行くとき、普通何日分か食材を買うと思うんですけど、僕その日の晩ごはんの分とかそういう一食分の食材しか買えないんです。今まとめ買いとかそういうの、僕の脳の処理能力を超えていて。それで大体冷蔵庫の中は空っぽなんです。でも毎日外に出るような元気はなくて」

これは思ったよりも重症だと省吾は思った。振られたことはもはや関係が無い。このまま深川を一人にしておいてはいけない気がした。

料理が運ばれてきた。二人はそれをゆっくり食べる。

「この頃どうなんだ、調子は」

「普通です」

「普通って、明らかに調子が悪そうじゃないか」

「これが普通です」

深川は何かを諦めた目をしていた。

「春からずっとこんな感じです。でも、うつが一番ひどかった時のめちゃくちゃな感じはもう無いから、うまく行っているんだと思います」

俺には全くそう思えないのだが、と省吾は思ったものの口には出さなかった。他人が軽々しく言っていいことではない。

「夏休みはどうしていた」

「大体寝ていました。だるかったから」

「……深川、やっぱり病院に行こう」

深川はふふふ、と笑った。

「僕、病院にはちゃんと通っていますよ。これ以上何を診てもらうんです?」

「だけど」

「大丈夫、大丈夫ですから、浅見さん」

食後、二人は店を出て鴨川沿いを歩き出した。空はあくまで美しい。

途中、深川の足がもつれた。それを見かねた省吾はそのまま深川を川へりに座らせ、自分も隣に座った。少し休ませたら道まで出てタクシーを呼んで寮に帰らせようと思った。

「悪い、歩かせるべきじゃなかった」

「いや、僕が悪いんですよ。不摂生がたたったんでしょうから。すみません。折角誘ってもらったのにこんな有様で」

省吾は違和感を覚えた。こいつはこんな殊勝なことを言うやつだっただろうか。

「深川、正直に言ってくれ。……今日何を考えていた?」

深川は驚いたような顔をして、それから苦笑した。

「敵わないな、浅見さんには」

彼は空を見上げた。

「今日は、こんな美しい日なら死んだとしても周りは許してくれるだろうと思っていました」

省吾は息が詰まった。

「病院も行って、薬も飲んでいるのか」

「はい。きちんと」

「なんでそんなに死にたい」

深川は首を傾けた。

「死にたいわけじゃないです。死ぬ以外の道が無いだけで」

「なぜ」

「希望が無いですから。多分僕はこのままだと卒業も就職もできない。この数か月は詩も書けません。少し書いても全て破ってしまいます。自分がいつまで生きているか分からないので」

深川は微かに笑む。

「毎日お別れをして回っている気分です。今日会った人に次会えるとは限りませんから」

「……今日俺に会ったのもそれか。次会うことは無いだろうと思ったか」

深川は答えない。ただ川の方を見ている。

省吾は自分の心臓が早鐘を打っているのを感じた。しかし、懸命に言葉を搾りだす。ここでこいつを一人にしてはならない。

「深川、それでも俺はお前を肯定するよ」

深川は省吾の方を向いた。

「俺はお前に死んでほしくないけど、でも今のお前を含めてお前を肯定するよ」

深川は口を開け、やがてかすれた声を出した。

「浅見さんは変だ。僕なんてすごくめんどくさいじゃないですか。それに今何もできない。浅見さんは僕の病気や不能性が好きなのではないのだとしたら、一体何が好きなんです」

「矛盾が」

自分でも思ってもみなかった言葉が出てきたことに省吾は驚いた。しかし、その言葉に確かにそうだと自分自身頷いた。省吾はこの穏やかさと激しさを併せ持つ詩人が好きだった。或いはその矛盾を深川は病気と言うかもしれない。しかし、省吾はそれを病気だとは思わなかった。彼のいいところだと思った。

省吾は日に焼けた大きな手を深川に向かって差し出した。精一杯の気持ちをこめて。

「俺を使えよ、深川。お前が生きていくために」

 

 

深川淳は部屋に帰り、机の前に座った。ため息をつく。よかったと思った。

あの差し出された手を取らなくて本当によかったと思った。

浅見はあの後、淳が拒んでからも優しく話を聞き、タクシーで寮まで帰らせてくれた。

淳は自分の手のひらを見る。どれほどあの手を掴もうと思ったか分からない。しかし、それは完全に浅見を利用するということではないか。俺を使えと言ってくれた。けれど、そんなありがたいことを言われたからこそ、あの手を取るわけにはいかない。僕はあの人を愛せない。

どこまでも自分が大事で。詩さえあれば何もいらないと思っていて。詩とあの人の二択なら僕は詩を取るのだから。

淳は本で埋もれた机の上で乱雑に散らばる薬に手を伸ばした。ラミクタール100mgを四錠出して噛み砕く。処方量の二倍を飲む過量服薬だった。

淳は春から何度も過量服薬をしていた。それもほんの些細なことでそれをしてしまう。半ばはやけになり自傷行為として、半ばは助けてくださいという痛切な願望を込めて。しかし、過量服薬はリストカットと同様決して淳を楽にはしないのだった。

眠るためのクエチアピンもいつもの四倍飲む。これで難しいことを考えずに朝が来るはずだ。頭が揺れるような意識の喪失がやってくる。

 

 

結局起きたのは昼だった。ぼんやりとした頭を抱えながら机につく。死んでしまえという声がいつものように頭の中で聞こえる。幻聴ではなくそれはもう一人の自分の声に違いなかった。

負けじと本を開く。詩を書くためにも、大学について行くためにも読まなければならない。しかし、何かを読んだり書いたりしていると頭の中の声が強くなる。

死んでしまえ、死んでしまえ。まだ生きているのか。この恥知らずが。

「死んでしまえ、死んでしまえ」

淳はぶつぶつ呟く。部屋に他の学生もいるというのに自分では我慢ができない。そのことに対する罪悪感もずっと持っていた。さぞかし迷惑な同居人だろう。

毎日のように希死念慮は襲ってくる。けれどこれほど苦しいなら、今こそ切実な詩が書けるのではないかと思う。いい詩が書けるなら途中でくたばっても構わない。

ノートを取り出し、詩を書こうとする。しかしこの数か月と同様一文字も書けなかった。

頭の中の声が大きくなった。

 

 

浅見省吾は昼過ぎに起き上がると頭を掻いた。休みの日とはいえ寝過ぎた。台所に行きコーヒーを入れる。お湯を注ぐとコーヒーのいい匂いがした。

省吾はぼんやりと自分の手のひらを見る。昨日あれほどのことを言っても手を取ってもらえなかった。一体どうすればいい。諦めるか。あちらにその気がないものをつきまとってどうする。

数秒で思い直した。コーヒーを空っぽの胃に流し込む。

付き合う付き合わないは今となっては本当にどうでもいい。だが、あれを放ってはおけない。あいつを死なせてたまるものか。

もう一度会う。

 

 

次に浅見省吾が深川淳に会ったのは二週間後の土曜日だった。近くの喫茶店に呼びつけたのだ。今回も深川は意外なほどすんなり承諾した。

省吾は深川に会うのが怖かった。あれ以上衰弱していてくれるなと願った。しかし、やってきた深川は元気そのものだった。

さすがに体重は戻っていないようだったが、見るからに快活で、笑顔を浮かべながら手を振って来た。

「浅見さん!」

まるで何もかもころりと忘れたように。

省吾は何が起こっているのか分からなかった。深川の様子はまさしく「豹変」と言うべきだった。とりあえず喫茶店に入り、二人分のコーヒーを頼む。

「元気そうだな」

「はい! もう本当に調子がよくて」

深川はにこにこしている。

「あの時はご心配をおかけしました。もう大丈夫です」

省吾は訝しんだ。

「病院か薬を変えたの?」

え?と深川は意外そうな顔をする。

「全く変えていないですよ」

どういうことなのかと考えた浅見は一つの可能性に思い当たった。深川の病気は双極性障害、躁うつ病なのだ。これまで省吾はうつの深川しか見たことが無かったが、これが躁の深川なのかもしれない。

「学校の方とかどうなの」

「そっちも良い感じですよ。ちゃんと課題は出せるし、授業も出られるし。ああ、あと英語も中国語もよく聞き取れるんです。すごく頭に入って来る。今語学の神様に愛されているのかもしれません」

深川は本当に楽しそうにしていた。この前まで死ぬといっていたのに、それが全く別人のことかのように連続性がない。浅見は恐ろしくなっていた。確かにこれは厄介だ。

「……深川は今自分がハイだということは自覚している?」

「浅見さんは僕が躁だと言いたいんですか。僕は単純に調子がいいだけだと思いますけど」

「大体患者はそう思うんだ」

省吾は深川の病気を知って以来、双極性障害について調べ続けていた。深川のような地味な躁を持つ患者の場合、多くは躁状態になっても調子がよくなったとは思うものの、それが病的な状態だとは思わない。躁状態は彼らにとって心地よい。

省吾の言葉を聞いた深川は真面目な顔になった。

「浅見さん、僕ね、春以来初めて自分がこの先もやっていけそうな気がしているんです。これから先も僕は生きていけるって。この状態が躁だと、異常な状態だと言うんですか」

それはあんまりじゃありませんか、と深川は言った。

そう言われると省吾は言葉が出ない。確かに深川にとって今の状態は長いうつの後にやっと差した晴れ間なのだ。それを異常だとは認めたくないだろう。

「深川、自分の体調には気を付けて」

省吾はそれだけ言った。ただ、深川の躁状態を心配しつつも、これは当分死なないだろうとその部分だけは安心した。

 

 

二か月後に同じ喫茶店で深川に会った時は軽いうつだった。

深川は留年したことが心苦しいと語った。深川は半年休学しているので、飛び級のできない日本の大学では自動的に一年留年することになるのだ。

「親のすねを余分に一年かじることになります。しかも、僕は大学院には行きたいですから、あと三年です」

浅見は深川が大学院に行こうとしていることを初めて知った。

「なんで大学院に行きたいの」

「このままではあまりにも心残りですから。僕はこの四年間ろくに本を読めなかった。まだ読んでいないものが沢山あります」

深川は苦笑する。

「もちろん、そのためには卒論を書いて、大学院入試も受けなければならないですけど」

「院試はいつ?」

「二月です。卒論を出した後。だから卒論を出した後も休んでいるわけにはいかないんです」

あまり大きく調子を崩さなければいいんですが、と深川は手をコーヒーカップにあてて温めながら言った。省吾はふと気になったことを聞いた。答がイエスであればいいと願いながら。

「今も将来やっていけそうな気はしている?」

深川は首を振る。

「全く。浅見さんが僕のことをハイだと言ったのは今思えば正しかったです。未来に安心している時は躁だと思っていいのかもしれませんね。切ない話ですが」

彼はコップの中の黒い液面を見た。

「正直、あの時の自分の心理状態をリアルに思い出すことはもうできないんです。記憶はあるんですけど、なんで自分があんな感じだったのか分かりません。自分には連続性が無い気がしています。僕は一体何なんでしょう」

自分が何か、それはみんな多かれ少なかれ考えることだけど深川の場合事情が違うよなと浅見は思った。深川淳という人間が何通りにも姿を現す。もちろんうつは心配だ。けれど他の部分もなかなか一筋縄ではいかない。

帰り際、省吾は深川が随分薄着なのに気が付いた。ペラペラの上着しか着ていない。

「もっと厚着しないと風邪ひくぞ」

「上着これしか持っていないんです。なんか服を買いに行く元気が無くて」

これから本格的に冬だと言うのにそれでは軽装すぎる。仕方ないな、と言いながら浅見は自分の上着を脱いで深川に渡した。

「新しい上着買うまで借りてていいから」

 

 

それから後、ちょくちょく省吾は深川と会ったが、時にはうつ、時には躁でなかなか安定しなかった。ただ、鴨川で話した時のような激しいうつにはなっていなかったので、そこは安心していた。深川も自分の状態をそこまで悪いとは思っていなかったようだ。

破綻は突然に、そして必然的に起きた。

 

 

五回生の一月、深川淳はボロボロの卒論を出した。出来がどうこうという以前の問題でそもそも文章がつながっていなかった。九月から書き始めたのにも関わらず、年明けまで五百文字以上に増えなかったのだ。年明けから提出日まで死に物狂いで字数を増やしたが、それでまともなものが書けるはずもない。

淳は呆然とした。自分は書けると思っていた。大丈夫なのだと思っていた。けれど今となってはなぜ自分があの状況で大丈夫だと思っていたのかが分からない。提出の一日前まで書けると思っていた。けれど書けなかった。いや、書かなかった。書かなければならないことは分かっていたのに、一年間ろくに書かなかった

一体何が起こったのか分からないと思って、淳は思い直した。何が起こったも何も僕がどうしようもなく怠惰だったのだと。

卒論は自分の無能さの証拠だった。淳は自分が無能であることに耐えられない。なぜなら自分が生きていてもいい理由は自分の有用性によって勝ち取るしかないと彼は思っていたから。

そんな淳の取るべき道は一つ、さっさと死ぬことだった。死ぬならば早くしなければならない。口頭試問の後に死んだのでは無用の誤解を与えてしまう。僕の死は僕だけの責任だと淳は思った。院試は残っているがそれどころではない。早くしなければ。

淳は部屋を自分が許せる程度に適当に片付けた。今回は徹底的にやっている暇は無い。そして遺書を書いた。いかに自分が追い詰められ、死ぬよりほかに方法が無いか、A4のノート一ページに綴った。これもろくに文章がつながっていなかったが仕方が無かった。末尾に書いた「読み書きさえできれば生きていけるのに」というのは心の底から出てきた言葉だった。

準備の終わった真夜中、炊事場に行き包丁を見繕った。先の尖った包丁が一本あったのでそれを外から見えないようにタオルでくるむ。

その時上着のことを思い出した。結局一年以上借りていた。淳がここで死んだら誰もあれが浅見のものだと知らずに整理してしまうだろう。部屋に帰って遺書にその上着が浅見のものであるから返却するようにと書き加えた。浅見にもラインを送った。「お借りしていた上着は僕の部屋のタンスに入っています」

自分が実行後発見された時のことを考え、実家への連絡先と自室に遺書がある旨を書いた紙を薬用の袋に入れ、ズボンのポケットにしまう。部屋で死ぬと色々と迷惑なので、包丁を持ち鴨川に行くことにした。鴨川だって迷惑だろうが、それよりいい場所が思いつかなかったのだ。

川原に降りてベンチに座った。

 

 

省吾はシャワーを浴びて部屋でくつろいでいた。深川は卒業論文を提出したはずだから、お祝いでもしようかと思いながら。

ふとスマホを見ると深川から一件ラインが届いていた。しかし、それは怪文書といってよかった。

「お借りしていた上着は僕の部屋のタンスに入っています」

それだけ。他には何もなし。これは何だろうと省吾は思う。しかし、文面を眺めてしばらくするうちに胸騒ぎがし始めた。

お借りして「いた」?

そして、まるで上着は省吾が見つけてくれと言うような内容。

「……!」

省吾はスマホと財布だけ掴んで部屋から飛び出した。

 

 

包丁の刃は一月の冷気をあびて冷え切っていた。首に刃をあてる。いや、こうじゃない。膝を立て包丁の持ち手の端を膝、包丁の切っ先を首にあてる。頸動脈は首の割と深い所にあるから、切るのでは死ねないのだ。こうすれば、腕の力と膝の力である程度の深さまで包丁が刺さるはずだった。

幸いほぼ人通りは無いし、あったとしても横にある暗いベンチに座っている人間なんか誰も見はしない。息を吐く。自分はこうするより仕方がないのだ。自分は自分が生きてあることを許せない。

さあ、やろう。ほんのひと突きだ。

「…………」

手と足に力を加えようとした時に急に恐ろしさと激しい疲労感が襲ってきた。疲れた。淳は首から包丁を離した。刃を自分の手のひらに何度も振り下ろす。傷一つつかない。とんだなまくらだった。それでも勢いよく突けば、淳が考えていた役割を果たしてくれるかもしれないが。

しかし、淳はもう自分が本気でそれをやるつもりがないことに気が付いていた。「乗り切れない」。自分はこのまま死ぬまで自分では死ねないのではないかと思った。

しかし、ならばそれは生きてゆかなければならないということで。

ろくに読み書きもできない、他にとりたてて能力も無い、躁とうつを繰り返し、躁でもなければ自分の未来に希望が持てないという状態で生きてゆかなければならないということで。それを自分は死よりも恐ろしいと思っていたはずだった。

しかし、今日死ねないのも確かだった。淳はベンチから立ち上がり、道路へ上がるスロープを歩いて行った。

 

 

省吾は自宅から寮に着くと寮中ひたすら深川を探していた。部屋にもロビーにも食堂にもいないことが分かって、外へ探しに行こうとしていた時、深川が寮の門の前に姿を現した。顔面蒼白で凍えていた。それはスウェット姿の省吾も同じことではあるが。

深川は手にタオルでくるまれた何かを持っていた。省吾はそれが何かは尋ねなかった。ただじっと深川を見る。深川は下を向いてポツリと言った。

「僕は生き残ってしまうかもしれません。どうすればいいですか」

浅見はため息をつくと微笑んだ。

「一個一個やるしかないさ。まず院試だろ」

深川は顔を上げると「身も蓋もないなあ」と言って、笑った。

 

 

「受かっていました」

「よかったじゃないか」

「何かの間違いです」

二月中旬、深川淳は自室のベッドで脱力しながらそう言った。スマホを耳にあてているのさえだるい。しかし、電話の相手、浅見省吾にはとりあえず報告しておかなければならないと思ったのだ。いかんせんお世話になり過ぎている。

「最近はどうだ、調子は」

浅見の質問に淳は少し迷ったが嘘をつく気力も無いのでありのままを伝えることにした。

「寝たきりです。二日食べていません」

電話の向こうから軽めのため息が聞こえた。しばらく沈黙。そして、

「なあ、家に来ないか。飯くらい出す」

「いや、悪いですよ。それに浅見さんの家がどこか知りませんが、外に出るような元気はありません」

それに人の家に行くなど肩が張り過ぎて苦手だ。

「迎えに行くし、俺の家でもずっと寝ていて構わないから」

「……そうですか……」

けれども淳には断る気力すら無かった。

 

 

省吾は深川を迎えに行って家に連れ込んだ。省吾の家は西院(さいいん)の辺りにある新しいアパートだ。深川は非常にだるそうにしている。省吾は奥の部屋にあるベッドを指差した。

「あっちで寝るか?」

深川は首を振ると、その場に突っ伏した。

「おい、床で寝なくても」

と言って省吾は困った。残念なことに省吾は一人暮らし。省吾のベッドを使わないならば確かに床くらいしか寝る所が無い。省吾はとりあえずそのまま深川を床に転がしておいて隣の大きなイオンに布団一式を買いに行くことにした。

イオンから帰って来た後は、新しい布団を敷いて、深川をその上に転がし放置した。深川はよく眠った。泥のように眠るとはまさにこのことだと省吾は思った。省吾が適当に料理を作って深川を起こすと、深川はそれを食べ、またすぐに眠った。

それから数日同様にして深川は眠り続けた。省吾は人間がこれほどまでに眠り続けられるとは知らなかった。「何もできないんです。だから何もすることがないんです。それで寝るんです」と起きている時に深川は言った。

深川が何日も泊まっているので、必然的に省吾は深川が薬を飲んでいる場面に何度も出くわした。深川が錠剤の一つを取り出すと甘い匂いがした。深川はそれを水なしでガリガリと噛み砕く。

「それ甘いの?」

省吾は少し興味があったのでそう聞いてみた。深川は首を傾ける。

「甘かったり、苦かったりです。すごく努力しているラムネみたいな味がします」

「なんじゃそりゃ」

「浅見さんはこれ飲んじゃ駄目ですよ。普通の人は僕が今飲んでいる量を飲んだらだめなんです」

「そんなことしないよ」

一週間ほどして深川は緩慢に活動を始めた。

「今日は病院に行く日ですから」

深川はもそもそ着替えている。

「病院に行ったらそのまま寮に帰ります」

まあ、状態はましになったようだしそれでもいいかと省吾は思った。

「うん。また食わない状態になったらいつでも家に来い」

出て行く深川を見送った後、省吾は部屋に戻ってベッドに腰かけた。思い人が自分の家に来て自分には構わずずっと眠り続けているというのは幸せなのかなんなのかよく分からないと思いながら。

 

 

ちゃんと治そう。

淳は二月末の空を見上げた。病院に行く道でのことだ。

これまでも自分の病気を良くしようとは思っていた。しかしその治療が腰の引けたものであったことは否めない。淳が病院で不調を訴えると先生は増薬を提案した。しかし淳はためらった。

一つには薬代がかさむから。払えない額ではない。しかし自分のために使われる金が増えるというのは、淳にとってひどく心苦しいものがあった。また一つには、薬を増やしてゆくやり方にはきりがないと思ったからだ。およそ自分の調子に不満の無い時などないだろう。その度に薬を増やしていたのでは追い付かない。それよりは現状の自分と折り合いをつけてゆく工夫をした方がいいと思ったのだ。

一つ目の理由はともかく、二つ目の理由には理があると今の淳も思う。しかし、折り合いをつけていこうとしてどうなったか。結局どうにもならず破綻。自殺を図るまで追い詰められ、そして死ぬこともできず、何もできることの無いまま眠り続ける日々。これまでの方針に限界があることは明らかだった。

病院に着くと混んでいた。淳は予約をして行ったのだがそれでも三十分待つ。その間淳は壁にもたれかかりボーっとしていた。これまで自分は病院のことも軽んじてきてしまった。いつまで経ってもよくならなかったからだ。行ってもあまり意味が無いと思っていた。薬も同様。けれどそれは自分も悪かったのだ。

名前を呼ばれて診察室に入る。この一年余り毎回五分ほどしか喋ってこなかった先生が目の前にいる。

「はい、調子はどうですか」

「悪いです。……先生、薬を増やしていただきたいんです」

 

 

インターホンが鳴らされたので、省吾がドアを開けると深川が立っていた。

「すみません、浅見さん。病院まで行ってきたんですけど疲れて寮まで帰れないんです。今日も泊めてくれませんか」

省吾は少し戸惑った。深川からこういう風に甘えられるのは初めてじゃないかと思った。

「別にいいけど」

深川を部屋に入れると、深川はビニール袋を差し出した。

「プリンです」

「あ、……ありがとう」

確かに中にはコンビニで買ったとおぼしきプリンが入っており、省吾はそれを冷蔵庫に入れた。こいつがこんな気遣いをするなんて珍しいなと思い、かつ気遣いの中身がプリンということに内心笑った。

「病院からここより、病院から寮の方が遠いの?」

「はい。四条にあるので」

「四条⁉ そんな所に毎回行っていたのか」

「すごく探してやっと見つけた病院なんです」

深川はちゃぶ台の前に座るとそこに突っ伏した。

「初めて行った病院ではコミュニケーションがうまく行きませんでした。死にそうになって行った初診で叱られて、正直道で泣きながら帰りました。その次の診察の時もそうでした。それから京都中の病院を調べたんです。それでやっと見つけたのが今の所。だから、僕はもっと今の病院も先生も大切にしなければならなかった」

「……」

省吾はちゃぶ台の横に座った。

「今日何かあったのか?」

「何も。ただ思う所はありました。今のままじゃ駄目なんだって、これから生きていけないんだって、あの日から思っていました。だから病院で薬を増やしてもらいました」

突っ伏していた深川は少し顔を上げる。

「浅見さん、僕は浅見さんとのことも変えようと思っています」

「変えるって何を」

「何をかな……。でも今みたいにだらだらと浅見さんの好意に甘え続けるようなことはやめようと思うんです。ちゃんとはっきりしたい」

「あー、うん」

省吾は苦笑した。

「はっきりしなくていいんだけどな。そんな人間関係はっきりしないだろ」

立ち上がる。

「でも、深川が次へ進もうって思ったこと自体はいいことじゃないかなって思うよ」

省吾は冷蔵庫からプリンを取り出した。

 

 

深川淳はそれから眠り、夜の八時ごろになって目覚めた。その頃丁度浅見が夕飯を作り終えたので、それを一緒に食べた。その日は豚の生姜焼きがメインでそれにポテトサラダ、白ごはん、味噌汁がついていた。品数が多いわけではないが、基本的に浅見は料理が上手い。

「すっきりした顔をしているな」

そうかなと思い淳は顔に触れる。しかし、本当にそうかはともかく、頭の具合はよかった。今なら何かしらの答が出せるかもしれない。

「難しい顔をするのは飯を食べてからだ。食え食え」

「はい」

淳は味噌汁を飲む。とても久し振りにご飯を食べて美味しいと思った。頭の風通しがいい。いつ振りだろうこんなことは。

「寮の方はどうだ」

「あんまり、迷惑かけているんじゃないかって思っているんです」

「迷惑?」

「僕独り言出ちゃって。死んじまえとかぶつぶつ呟いちゃうんです。怖いでしょ」

「それは多分」

淳は溜息をつきながら味噌汁のお椀を置いた。

「後単純に不特定多数の人間と暮らすのはもう限界ですね。ちょっと人間恐怖症みたいになっちゃって。半端な知り合いのいる空間に入っていくのが恐いんです」

「それは寮で暮らすのきついなあ」

浅見は生姜焼きを頬張って少し考え込んだ後、淳の目を見てこう提案した。

「お前、俺とルームシェアしない?」

淳はぽかんとなった。

「俺、独り言大丈夫だよ。それに俺は半端な知り合いじゃないでしょ」

「え、いや、でも迷惑じゃ」

「迷惑じゃない。……ってすまん。難しいことを考えさせてた。この話は食後」

浅見の宣言のもとに食事は再開され、話は皿洗いをした後に持ち越された。淳は考える。悪い話ではない。いい加減寮の方が限界なのは確かだし、かといって一人暮らしをする金はない。問題は浅見との関係だった。だらだらと浅見に甘えるようなことはしないと言ったばかりだし、そうしたいと思っている。イエスにせよノーにせよ、自分の考えをきっちり決めなければ。

「眉間にしわが寄っている」

浅見はカップに入れたお茶を持って来た。

「名前よく知らないんだけど、南米産の変な茶を貰ったんだ」

確かに変わった味がする。淳は自分の考えを決めるために聞かなければならないことを聞いた。

「浅見さんは僕とどうなりたいですか」

うん、と言って浅見は茶をすすった。

「正直に言うと、昔はやっぱりなんだかんだ言って付き合いたいとか思ってた。でも今はすげーほっとけないって感じ。頼むから関わらせてくれというか見てられないっていうか」

「そうですか……」

次に、ルームシェアすることは浅見を利用することにならないだろうかと聞こうとしてやめた。そんな否定してもらいたいがために質問するのは駄目だと思ったからだ。利用することになるに決まっているではないか。

やはりこの話は――。

「俺が言いたいのはさ、生きていくためのミニマムな共同体を作らないかってことなんだ」

「え?」

浅見は淳に向かってニヤリとした。

「別に生きていくのに便利そうだったらそれを選択すればいいと思うんだけどね」

「でも」

淳は逡巡する。

「僕は詩が一番大事で、それこそ浅見さんより大事だと思っていて、そして浅見さんにそういう気持ちも持っていなくて、なのに浅見さんにこれ以上甘えるようなことをするなら、僕は地獄行きですよ」

「行けよ、地獄に。文学者だろ」

淳は驚いて浅見の顔を見た。浅見は穏やかな表情をしている。

「深川は詩のためなら地獄に行っても構わないんじゃないのか」

確かにその通りだった。

「だったら、お前が生きて、詩を書くために最適な選択をするんだ」

「浅見さん」

浅見は淳に向かって手を差し出した。

「淳、この手を取れよ」

それは地獄への片道切符。なんという不義理、不人情。しかし――、

どこまでも僕は詩が大事だ。

淳は浅見の手を取った。

 

 

浅見省吾は深川淳とルームシェアするべく、以前のものよりもやや広めの物件に引っ越すことにした。しかし。

「何それ」

省吾は唖然としていた。

「え? 十三経注疏ですけど。そっちは唐詩選」

引っ越してきた淳は恐ろしい量の荷物を運びこんできた。しかも八割本である。床が抜けないかなと省吾は心配になった。

「お前、その荷物持ってあの狭い寮でどうやって暮らしてたんだ」

「机全部とベッド、たんすを半分明け渡すと何とかなりましたね」

省吾はくらくらした。

「オーケー、ここでも何とかしようじゃないか」

結果として、既存の棚には入りきらず、淳が寝るスペースの周りの床に高々と本を積み上げることによって応急処置がなされた。これは、地震でも起こったら死にはしないだろうが相当苦しいことになるぞと省吾は思った。しかし、今は仕方がない。

家賃は七対三で社会人の省吾が多めに負担。炊事洗濯掃除は完全当番制で淳が多めにするということで交渉は妥結している。

「でも、無理はしなくていいから」

省吾は淳に動けない時期があるということを納得の上でルームシェアを提案している。

「それは悪いですよ。多分リハビリになりますし」

「茶でも入れようか」

引っ越し作業が一段落したので、省吾は新しいキッチンで茶を沸かした。

「春から新学期だろ」

「そうなんですけどね……」

「どうした」

省吾は淳にカップを渡す。ありがとうございます、と言って淳はそれを受け取った。ああ、そんなに他人行儀にならなくていいのにと省吾は思うが、こればかりは仕方がない。時間のかかることだろう。

「結局僕は碌に本の読めない状態のまま、文学部の大学院生になってしまいました。諦めきれなかったから。でもこれからどうしていいのか分かりません」

「でも、何だかんだ卒論は通って、院試も受かったんだろ」

「そうですけど……」

本を読めないやつが曲がりなりにも卒論を書いて、院試に受かるかなと省吾は思ったが、そこらへんは何かあるのだろう。ともあれ、本が読めない状態でこれからどうすればいいのかというのは深刻な問題に違いなかった。どうすれば?

「……今、何てアドバイスしようか考えてたんだけどさ」

「え、はい」

省吾は渋い顔をしながら茶をすすった。

「多分俺がアドバイスできる領域じゃないんだよな。淳自身がすげー悩みまくってることだろ。多分俺が考えるようなことはもう淳が考え済みなんだ。俺は淳とは違う人間だから淳が考えなかったことをポンと言えることもあるだろうけど、今回は違う気がする」

「はい……」

自分は何ができるのだろうかと省吾は考えた。淳が抱える問題に対して解決策を提示出来たらそれが一番いいのだろうが、それができない時にはどうすればいいのか。

「でも、僕が浅見さんに何か話す時は、アドバイスを求めているんじゃないですよ。あ、それは嘘だな。浅見さんは何だかすごい人だから、僕が思ってもみなかったことを言ってくれるんじゃないかって少し期待していますけど、うーんけど大方はそうじゃないっていうか」

話そうと思ったから話してるって感じかなと淳は首を傾けながら言った。ふーんと省吾はまた茶をすする。まあ、これは今後の課題だろう。病気のパートナー、じゃなかった、同棲相手とどう暮らしていくのかというのは難しい問題だよなと思う。

というか。

淳を見ると、その少し陰のある青年は白く華奢な手でカップを持ちながら考え事をしていた。この前、ルームシェアの提案をした時、あの手に触った。その冷たさと細さにどきりとした。あの時手を握ってそして、もっとと思いはしなかったか。

目をつむり、苦笑しながら後頭部を壁にぶつける。病気のことはさておいて。自分で言いだしたこととはいえ、この状態結構きっついぞと思いながら。

 

 

淳がいつものように薬を飲んでいるのを見ていて省吾はあることに気が付いた。

「また薬増えた?」

淳は薬を飲み下す。

「あ、はい。そうです。昨日病院に行って増やしてもらいました」

「そうか」

薬を増やすことは一概に悪いこととは言えない。特に淳はこれまでずっと一定量をキープして最近やっと増やしたのだ。別に無闇やたらなことではない。しかし、とはいえ目の前の人間が飲む薬の量が増えていくと心配にはなる。

「まだ調子悪いか」

「はい。生きていける気がしません。でも前に増やした薬のおかげなのかな。あんまり死のうという気持ちにはならなくて。不思議なものです。そっちに思考がいかないようになっている。けど人が変わったとかそういう感じではないんですよね」

省吾には精神疾患の薬がどういうものか分からない。勉強はしたが、自分で飲んだことはないからだ。

「不思議ですね。薬というのは。前に増やした薬の飲み始めの頃は、目的意識の無いやる気に満ち溢れて、イライラして、すごく眠かった。一体僕にどうしろと言うんだと思いました」

淳は苦笑している。もう笑い話になっているらしい。

「今は?」

「前の薬の副作用はもう感じなくて、昨日から増やした薬はかなり眠たくなりますね。だから夜に飲んでいるんですけど」

淳はそれに加えて眠るための薬も飲んでいる。眠り過ぎるほどに眠る淳だが夜に眠るためには薬の力が必要なのだ。淳は今飲んでいる薬が好きではないらしい。飲んでから眠れるまでに二時間かかる上、その間能率は落ち続けていくからだ。眠る時は頭が揺さぶられるような感覚で眠りにつくらしい。淳はマイスリーの方が好きだったと言う。

「でも先生はマイスリーは量が増えていきやすいからっておっしゃって。先生がそう言うならしょうがないなと」

淳は布団に横たわり、本に手を伸ばす。しばらくしてもページは進まない。それでも本から手を離さなかった。あの執着はすごいなと省吾はいつも思う。自分なら諦めてしまうだろう。そして苦しいなとも思った。

 

 

淳が薬を飲むのを一度だけ止めたことがある。錠剤を取り出す音を数えていたら多過ぎたのだ。錠剤を口に放り込もうとする淳を手で押しとどめた。

「飲み過ぎだ、淳」

淳の目が泳いだ。

「でも、これは自分で量を調整していいやつで」

「いつもの何倍飲もうとしてる」

「……六倍」

「馬鹿」

手を開かせて錠剤を数える。クエチアピンが六錠もある。別に六錠飲んだっていいが、いきなりやけになったように増やすのは問題だ。

「ラモトリギン100mgを二錠、炭酸リチウム200mgを二錠、アリピプラゾール3mgを一錠、クエチアピン12.5mgを一錠。これがいつもの分」

それを淳に返す。それからクエチアピンを二錠渡した。

「それから眠れないなら仕方が無いからこのくらい」

淳は目を白黒させた。

「覚えてるんですか……?」

「何日一緒に住んでいると思ってる」

「でも」

「何があった」

淳は俯く。

「別に何も。ただまずいなっていうか。怖いものが来そうだなっていうか」

「なら、お前が寝るまでひたすら俺が喋るから」と言って、布団に入った淳の横に座った。

「広島は行ったことあるか?」

「ないです。ひょっとして浅見さんの実家広島ですか」

「そう。いい街だぞ広島は。牡蠣は旨いしお好み焼きも旨い」

「食べることばっかりじゃないですか」

「まあな。でも大事だろ」

淳は俯せの形になった。

「広島か。夏に旅行に行くのもありだな。どうせ社会人になったらそんなにポンポン色んな所には行けないし」

一緒に行くか、なんて言葉は飲み込む。

「カープ好きですか」

「別に好きじゃないけど、カープファンは好き」

「なんですか、それ」

「広島に来たら分かるよ。カープファンってすごく幸せそうなんだ」

省吾は大学に入って京都に来てから数回しか広島に帰っていない。少し実家のことが懐かしくなった。

「何年か前に久し振りにカープが優勝しただろ、俺あの時広島に帰ってたんだ。もうすごかった。店の中に入ってもずっとカープソングが流れてて、広島ってのは宗教都市だなと思った」

淳はくすくす笑う。

「カープ教?」

「そう」

そんな他愛もない話をしていると淳のまぶたが重たくなってきて、やがて淳は完全に目を閉じた。

「おやすみ。淳」

省吾は部屋の電気を消した。

「浅見さん」

省吾は驚き振り返る。まだ起きていたのかと。部屋は暗いのでもう淳の顔は見えない。

「今日は浅見さんの話がちょっと聞けてよかったです。いつも僕が話を聞いてもらってばかりだから……それだけ。おやすみなさい」

「そっか。おやすみ」

しばらくその場に立ちつくして、それから自分のベッドの枕元に行ってタバコの箱とライターを取る。そのままベランダに出ると、四月とはいえ夜の京都は寒かった。

「馬鹿」

省吾はタバコに火をつけた。

 

 

淳は料理当番の時は大体中華を作る。専門が中国文学だからかなと省吾は思った。五月のある晩淳が作ったチンジャオロースを食べていると、淳が何気ない調子で彼の予定を言ってきた。

「浅見さん、僕夏休みに一ヵ月中国に行ってきます」

「へ?」

「もう飛行機取っちゃいました」

待て、俺に何の相談も無く?と思いかけて省吾は自分を落ち着かせた。別に省吾と淳は事前に相談をしなければならない関係ではない。

「その、大丈夫なのか、体調とか」

「大丈夫です。最近調子が良くて」

それは、ひょっとして今躁状態で大胆な選択をしたものの、出発前にうつ状態になるとかそういうパターンじゃないよなと省吾は心配した。

「どこ行ってくるの。留学?」

「いえ、普通に旅行で。ウイグルとチベットに行ってきます」

省吾はのけぞった。春まで寝たきりだったくせにすごい所に行く。というかこの前の広島もいいかもしれませんねみたいな話はどうなったんだ。

「危なくないのか?」

「別に危なくないですよ。チベットはちょっと手続きが面倒ですけど」

「そうか、でも気をつけてな」

そうとでも言うしかなかった。

その晩、省吾がタバコを吸いながらベランダでたそがれていると、淳もベランダに出てきた。

「煙いぞ。大丈夫か」

「平気です。そのタバコの匂い嫌いじゃないです」

「あ、そ」

省吾はベランダの手すりを背にし、淳は手すりに腕をのせている。

「……やっぱり事前に言った方がよかったですか?」

省吾は笑ってしまった。

「おせーよ」

片手で淳の頭をわしゃわしゃしてしまいたい気分だ。

「まあ、でも事前に聞いていても止めたりはしなかっただろうなって思うよ」

心配はするけれども、省吾はそこまで淳の人生に干渉する立場ではない。

「やっぱ中国行きたかった?」

「そうですね。こんな大旅行するの多分人生で最後ですから。まだ見ていない所に行きたかった」

「人生最後とか決めつけなくていいよ。まだこれから長いんだからさ」

「はい……」

複雑な思いで淳がそう答えたのは省吾にも分かったが、だからといって何も聞かなかった。それは淳自身が自分の中で落ち着かせてゆく問題だからだ。

それにしても不安だなと省吾は思った。

 

 

夏休み、淳は一ヵ月旅行するとは思えない小振りのボストンバック一つを持って玄関に立っていた。特にうつ状態にはならなかったらしい。昨晩は「本当にやるのか」、「誰だこんな計画立てたやつ」とかぶつぶつ言っていたが。

「絶対に、絶対に連絡して来い。もう『あ』とかだけでいいから送って来い。生存確認をさせろ」

省吾がそう言うと淳はふわっと笑った。

「大げさだなあ、浅見さんは」

大げさではない。一ヵ月一人で中国旅行なんて心配になるに決まっている。多少は中国語も喋れるのだろうが。

「ライン使えるんだろ」

「はい。ちゃんと中国用に対策してあるルーターを持って行きますからね」

「本当に連絡しろよ」

できれば毎日と心の中で言った。

「はい、分かりました」

「……淳」

「え? はい」

省吾は苦笑しながら壁にもたれかかった

「楽しんでこい」

「はい」

淳は眩しく笑ってドアを開け出て行った。

省吾も玄関から離れリビングに行きちゃぶ台の前に座る。寝たきりだった頃に比べれば全然良い。例え一ヵ月会えないとしても喜ぶべき回復。

「……」

しかし、さっき危うくキスをするところだった。

 

 

淳が出発してから十日経った。省吾は出勤前と仕事終わりに必ずラインをチェックする。案外淳はまめでほぼ毎日ラインを送ってきた。その分連絡の無い日は非常にはらはらするのだが。

その晩もラインが届いた。大体写真を数枚送って、それで連絡代わりにしてくる。カシュガル故城やウイグル族の楽器店、明け方のタクラマカン沙漠など美しい写真がいくつも届いた。それはそれで省吾の楽しみになっていた。しかし、省吾はリビングで頭を抱える。

「いや、そっちもいいよ? そっちもいいけどさ」

淳は一枚も淳自身を映した写真を送って来ない。省吾はむすっとした顔で指を動かした。

『自撮りとかしないの』

しばらく待つ。ピコン。

『しないですね』

「だー‼ お前ってやつは!」

半分軽くいらだち、半分笑って、省吾は次に何を送るか考えた。

 

 

淳はタクラマカン沙漠の北辺を巡って、青海省の西寧に行った。そこから青蔵鉄道に乗ってチベットのラサに向かう。当然鉄道に乗っているうちに標高はどんどん上がっていった。

痛い。

標高三千メートルに近付いたあたりから強めの頭痛がしはじめた。恐らく高山病である。淳は寝台に乗っていたので、三段ベッドの真ん中の段に転がっていた。上下のスペースが狭いので座って過ごすことはできない。コンパートメントの窓から荒涼たる山の景色が見える。西寧を出発したばかりの時は大草原が広がっていたが、今はほとんど草も生えていない場所を列車が通り過ぎている。時折巨大な山が窓の外に現れた。スマホのシャッターをきる。撮った後の写真を見て巨大さというか、圧倒される感じがあまり出ないなと思った。

浅見に写真を送った。西寧、タール寺、草原、青海湖、山、山。寝台の上で目を覆った。今頃浅見さんはどうしているかななどと考えてしまった。寂しくないといえば嘘になる。毎日二人で暮らしていたところをいきなり一人なのだから。これまで自分がいかに浅見という存在に頼っていたかということがよく分かった。

返信が返ってきた。

『元気なのか』

頭が痛いですと書きかけてやめた。

『元気ですよ、今鉄道に乗っているんです。明日ラサに着きます』

『今の所問題なし?』

吐いたり、お腹を壊したり、風邪を引いたりだ。

『順調です』

『よかった』

淳は目を閉じて微笑む。浅見さんの神通力もラインには及ばない。ほっとする。

けれど、それを少し寂しいとも思う。僕は最低だ。構ってほしいんじゃないか、心配してほしいんじゃないか。拒絶しておきながら。

省吾さん……?

これまで何人もの相手と付き合っておきながら僕は答を知らない。

好きって何だ。

 

 

中国から帰ってきた淳は元々痩せているところを更に痩せていた。

「お前、元気なんてのは嘘だったんだな」

「うん、えと、はい」

「はいじゃない!」

省吾は頭を抱えてしまう。とにかくこいつを太らせなければ。

「何でそんなに痩せたの」

「ずっとお腹壊してました。あと途中吐いて、びっくりしました」

「……何が食べたい」

「羊以外なら何でも」

随分大雑把なリクエストだったが、省吾はそれに応えた。食後、二人はちゃぶ台の前に並んで座る。ちゃぶ台には淳のタブレットを置いた。土産話をする時間だ。

「これ、カシュガルで食べた羊です」

「結構大きいな」

「もうレストランで中国語通じなくて大変でした」

「どうしたの、それ」

「気合でウイグル語しゃべって」

「……そっか」

淳は次々に写真を見せてゆく。旅の途中で省吾に送らなかった写真も多かったのだ。喋りながら淳が楽しそうにしているので、体調を崩したとしても行ってよかったんだろうなと省吾は思った。

一つのタブレットを並んで見ているので必然的に二人の距離は近い。省吾は自分の左手が淳の右手に接していることに気が付いた。淳は左手でタブレットをスワイプしている。そうか、左利きかなんてことを今更思った。小指と小指の僅かな接触。それを省吾は愛しく思った。

自分の指を淳の指の上に乗せる。すると淳の指が離れた。逃げられたかと失望する。それからほんの少しして淳の指が省吾の指の上に乗ってきた。心臓が跳ねた。

淳の顔を見る。淳は穏やかな顔をして左手でタブレットをスワイプしていたが、こちらの視線に気が付くと省吾を見て微笑した。

省吾は黙って淳の手を取る。白くて細い、けれど骨格はしっかりした美しい手。しばらく見つめて、親指でそれぞれの指をなぞった。淳はその親指を人差し指で止めた。

「……」

人差し指を淳の人差し指と中指の間に差し込む。少し抵抗されたが淳はそれを拒まなかった。中指は薬指に阻まれた。指同士で揉みあいになった。結局省吾が勝って、淳の中指と薬指の間に指を入れる。くすくすと淳が笑っている。僕達何をやっているんでしょうね、という青年の笑いと、単純にちょっと楽しんでいるらしい子供の笑い。それを見て省吾は目を瞑った。

淳、お前が悪い。

省吾は淳の手から自分の手を外し、彼の腕を掴むとそのままその場に押し倒した。

 

 

硬く大きな手が頬に触れた。

今淳は浅見に完全に押し倒され、見下ろされている。浅見は事慣れた余裕のある様子でこちらを見ていた。

最初に誘ったのは僕で、僕がこの人にこうさせたのだと淳は思った。こうなる覚悟があった訳ではない。ただ愛着があった。久し振りに会って、そしてやはり寂しかったのだと思った。でもただそれだけで。それだけで誘った。

僕はこの人とどうなりたいのか。

「淳、お前はどうされたい」

低い声がした。

やめろと言えばこの人は必ずやめるだろう。けれど

「分からない」

小さくそう言う。それを聞いて浅見は首をかしげた。

「ああ、そう。じゃあ俺のやりたいようにやるから」

「待――」

出かけた言葉を唇でふさがれる。どこまでも優しいキス。手が首筋に触れる。淳と浅見では体温が違う。温かくて気持ちがいい。涙が出そうになる。この人に本当に恋をしていたのならどんなに幸せだっただろうか。淳は溶けそうになるなか強烈な罪悪感を覚えた。

浅見は唇を離し、淳の顔を見つめる。そして何かに気が付いた。しかし黙って再び唇を奪った。長い口づけの後浅見は淳の頭に手をあて、耳元でささやく。

「寂しかった?」

淳は自分の鼓動が更に速くなったのを感じた。そしてそれはきっと浅見にもばれている。

「……はい」

浅見は口の端に笑みを引いた。

「いい気味」

またキス。

そしてこのままこの世界が滅んでしまえと思うような泣きたくなるほど優しい愛撫が続いた。

 

 

浅見省吾はベッドから上半身だけ起き上がった。一瞬夢かと思った。しかし、横でまだ淳が寝ているので全て現実だったのだと分かった。省吾は静かに淳の頭を撫でる。

なんて甘く、そして苦い一夜だったことだろう。淳にそこまでの気持ちは無いことが分かっていたのに自分は最後まで止めなかった。省吾はこのまま淳から離れることが惜しくて、しかしタバコは欲しくて、枕元に置いてある箱から一本取り出すと火を点けないままそれをくわえた。

細かったなと思った。考えていたよりも更に細かった。痛々しい相手だ。

「省吾さん……」

まだ夢うつつらしいが、淳が起きた。本当にひどいなと思った。タバコを口から外す。

「何? まだそう呼んでくれるの」

省吾がベッドについている手に、淳は額を近付けた。喉が渇く。くっそ、ふざけんな。淳の顎に手をあて、口づけする。そして囁いた。

「地獄に行くなら一緒だ、淳」

 

 

淳はちゃぶ台でノートパソコンを開き、黒い画面にアルファベットや数字を入力している。省吾はコーヒーを差し入れた。

「何やってるの。それ」

淳はコーヒーを受け取る。

「プログラミングです」

「? なんで」

淳は何かプログラミングを使う用事があるのだろうか。

「いや、普通に今の時代プログラミングのプの字も知らないのは駄目かなと思って」

「ああ、そう」

真面目なやつだなと思った。

一週間後、淳はWebページを編集していた。

省吾はコーヒーを差し入れる。

「何それ」

淳はコーヒーを受け取る。

「ホームページを作って旅行の時の写真とかを載せてるんです」

確かに画面には中国で撮ってきた写真が並んでいた。なかなかデザインも整っている。

「プログラミングはどうしたの」

淳は苦い顔をしながらコーヒーをすする。

「Rubyをかじっていたんですけど、なんか自分のやっていることがすぐに見た目に反映される方がいいなと思ってHTMLとCSSをちょっとやったんですよね。そしたらWordPressに興味がいってそれで今ホームページ作っているって感じです」

「そっか……」

「何か写真と一緒だったら文章が書けるんですよ。これまでずっと書けなかったのに」

「あ、それは」

素直に大変喜ばしいことだと省吾は思った。それが詩でなかったとしても書くことができているだけで淳の状態にはプラスだろう。

「よかったな」

「はい」

次の週も淳はWebページを編集していた。それはすごい熱中ぶりだった。しかしこの前と明らかにデザインが違う。

「それは……?」

淳は画面を見ながら頬杖をついている。

「僕の病気の記録を書いたホームページをつくっているんです。僕のためにもなるし、僕と同じ病気の人のためにもなると思うから。もちろん病気じゃない人が読んでも面白いものにしようと思っていますけど」

「そうか」

こいつひょっとして躁状態じゃないのかと省吾は思った。

「省吾さん、僕すごく詩が書きたくなりました。これまでもずっと詩が書きたかったけど、もっと詩が書きたくなりました」

それはすごくいい。

「どうして」

「単純にこの二週間ずっと文章を書いていてエンジンがかかっているのと、あとこれまでの僕の人生のことをホームページに書いて、やっぱり僕は詩でしか生きていけないんだって思ったから」

「……そうか」

省吾と一緒に住んでいても、そしてああいうことがあっても迷いなくそう言う。省吾は淳の業の深さに心の痛みを覚え、畏れを抱き、そして感嘆した。

「今度は僕がもう捨ててしまわないように、ネットに残る方法がいいな」

 

 

その次の週、淳はほとんど真っ白な画面に何行にも渡る言葉を入力していた。それは美しい韻文。省吾はそれを見て声はかけるまいと思った。URLの最初にはkakuyomuとある。淳は彼の表現の力とその場を手に入れたのだ。そうなってしまえばそれはあまりにあっさりと達成されたように思える。何でもないプログラミングからの移り気な流れ。恐らくは一時的な躁状態による産物。しかしそれは長い戦いの末の結果。やっと何年かぶりに彼は一つの詩を書いた。全体を見直し、一息ついてその青年は画面右上の青いボタンを押し彼の詩を世界に公開した。

淳は公開後の画面を見てしばらく脱力した後、後ろを振り返る。省吾は淳の後ろに座って一部始終を見ていた。淳は黙って省吾の肩に顔を寄せる。省吾はその頭を抱いた。

「疲れた?」

「はい。すごく」

省吾は淳の頭を撫でた。詩に心を奪われ、決して自分のものにはならない相手。どれほどこちらが好きだと言っても、文字を見つめる相手。省吾の苦い恋は続く。そして淳の罪悪感も。

「省吾さん、僕は今躁状態なんでしょうね。いつまで僕は書けるんでしょう。またすぐに書けなくなるのかな」

省吾は笑った。

「それは今考えてもしょうがないじゃないか。また書けなくなったとしても、いつかまた書けるようになるよ」

「うん……」

淳は省吾の腕の中で目を閉じた。淳の問題は解決していない。まだ碌に本を読めない。薬で落ち着かせているとはいえうつと躁はこれからもやってくる。果たして自分がこの先も生きていけるかどうか分からない。けれど、詩を書いているあの時ばかりはそんなこと全てがどうでもよかった。

省吾の体温を感じながら淳は彼のノートパソコンを見つめる。

「明日も書く」

 

 

その晩省吾がベランダでタバコを吸っていると淳もこちらに出てきた。淳は省吾の隣に来る。秋の風が涼しい。

「タバコっていいですか」

省吾は片眉を上げる。

「よくない。どうした」

「最近ちょっとストレスで。タバコを吸ったら楽になるのかなと思って」

省吾は苦笑してしまう。

「タバコ吸っても楽にはならないよ。タバコを吸わないと楽にならなくなるだけで」

「そうですか……。省吾さんは何でタバコ吸ってるんですか」

「中毒、中毒。やめらんないだけ」

淳は意外そうに省吾を見る。

「省吾さんは、何だかそういうのとは無縁だと思っていました。何でもできるし、中毒とかならなさそうで」

「その言葉はどこから突っ込んでいいのか分からんな」

省吾は白い煙を吐き出すと目を伏せた。吸いさしのタバコを淳に差し出す。

「興味あるなら吸ってみる?」

「……」

淳は戸惑いながらそれを受け取り吸った。数秒もせず思い切り咳込む。テンプレな反応だなと省吾は思った。淳の手からタバコを奪いまたくわえる。夜の空気にタバコの先端が赤く光った。煙を吐く。

「省吾さんもつらいことありますか」

「あるよ」

「僕にできることってあります?」

省吾はむせた。信じ難い。こいつがこんなことを言うようになるとは。淳を見て目を細める。それだけ余裕ができたということかもしれない。最近調子がよさそうだ。よすぎる疑惑はあるが。

「省吾さん?」

「ああ、いやうん、そうだな……」

淳は不安そうにこちらを見ている。何をお願いしようか。……いや、省吾がするべきお願いは最初から決まっている気がする。

「生きててよ。それだけでいいから」

淳はその言葉に目を丸くする。

「ダメ?」

「ダメじゃ……ないです」

淳の黒い髪が風になびく。省吾は数年前に自殺をしかけた淳と二人で鴨川のベンチに座った日を思い出した。あの時淳は昏倒して、そして自分は淳が目覚めるまでタバコを吸っていた。

「今の僕は、それにはいと言えます。今だけかもしれないけど」

省吾はタバコをくわえた口に笑みをつくる。あの日から色々あった。あの日死にかけた相手は今省吾の前に立って自分の願いにイエスと答えた。願わくば常に同じ答えをしてほしいものだが。タバコを手に取り目を閉じる。

やっとここまできた。

 

 

碌に読めないのに生きていけるだろうかと考えて淳は頭を振った。まずい、また来た。この頃は調子がいい。けれど時折よくない考えは来る。それは多分健康な人と同じように。こればかりは仕方がない。

淳は秋空の下図書館で借りてきた大量の本を抱え研究室に向かう。多分この本の九割は読めないだろう。いや、一冊も読めないかもしれない。しかし淳が本を借りることによって行っているのは一種の祈りだった。それ自体に僅かばかりの意味がある。

 

 

夕飯を食べている時に、省吾が気まずそうに切り出した。

「淳、俺はあまりお前の生活に干渉するまいと思っているんだが」

「はい」

何だろう。省吾は淳のふとんスペースを指差す。

「少し片付けろ」

確かにそこではかつてはうず高く積まれていた本の山があちこちで雪崩を起こし「猖獗を極める」とでも言いたくなる惨状を呈していた。なるほど。淳は省吾の目を真直ぐに見る。

「しかしね、省吾さん。部屋がきれいな文学部生なんてモグリですよ」

「胸を張るんじゃない! あと全国の部屋がきれいな文学部生に謝れ」

淳は夕飯後しぶしぶながら蔵書を片付けた。なんで自分はこんなに本を持っているんだろう。一体買ったものの手を付けていない本がどれほどある?そう考えると呻いてしまう。いくつかの本はきちんと閉まっていない。開けると薬のからが入っている。そこらへんに転がっているのをしおり代わりにしていたのだ。その辺りは少し自分でもどうかと思った。

色々とがっかりした。けれども掃除が進むにつれ淳はある種の高揚感を覚えた。当たり前と言えば当たり前だった。自分が読みたかった本が次々に文字通り掘り起こされるのだから。「後で読もう」だなんて、読めないくせに無邪気にワクワクする。こういう状態になっても自分は本当に本が好きなのだ。一方省吾は次第に整然と積まれていく本の山を見て渋い顔をする。今こうやって片付けたところで早晩再びあれが崩れ去るのは目に見えている。

「やっぱり、そもそもが多いと積むのにも限界があるよな。思い切って大きめの本棚を買うか」

「無駄です」

「え?」

省吾はきょとんとする。

「一昨日古本屋に注文して旧唐書全十六册と新唐書全二十册を買ってしまいました。明日届きます。本棚なんて焼け石に水ですよ。どうせ入りませんからね」

「お、お前、なんでそんな」

「なんでって、バイト代が入ったからですよ。それに本を買うのに理由がいりますか」

「胸を張るんじゃない……」

省吾は顔を覆った。それを見て淳は笑う。淳はそのあたりのブレーキが全くない人間なので省吾の嘆きは心に刺さらない。ただ多少悪いなくらいは思った。

「まあ、これからは整理整頓に努めますから、ね?」

「信用ならん」

淳は苦笑する。自分もそう思った。

 

 

ある晩省吾は喉が渇いたのでベッドから抜け出し台所にお茶を取りに行くことにした。そして途中何かを踏みつけた。

「「‼」」

省吾は慌てて台所の電気をつける。台所の床には淳が布団を被って横たわっていた。淳は電気の光を眩しそうにして頭まで布団に入る。この期に及んでまだ寝ようとしているらしい。

「起きろ、淳。なんでこんな所で寝てるんだ」

布団の中からくぐもった声が聞こえる。

「もうあっちだと足を伸ばして眠れないんですよ」

省吾は淳の本来の布団スペースを見る。確かにまた本が増えて布団のエリアを侵食している。何故こいつは確実に訪れる破綻を回避しないんだと思った。

「そこじゃ休めないだろ。来い」

「うわああー」

腕を掴んで淳を引きずっていく。そして省吾のベッドに放り込んだ。

「寄れ寄れ。お前に貸してやるのは半分だ」

自分もベッドに入る。淳はベッドの中で非常に気持ちよさそうにしている。

「柔らかいですね」

「当たり前だ」

間もなくして淳は寝落ちした。静かな寝息が聞こえる。白く細い淳の顔が目の前にある。

「……」

ベッドに入ってからは指一本触れない。別にこれは寝床を貸してやっているだけなので。空気を隔てて伝わって来る三十六度の温かさだけを感じながら目を瞑る。しかし悲しくなってくる。何で自分は何も悪くないのにベッドを半分取られてこんな拷問のような目にあっているのだろう。省吾はどうにかして眠ったが眠りは浅かった。

だから明け方淳が密着してくるとすぐに目を覚ました。淳は依然として寝息をたてている。恐らく無意識でそういうことをしているのだろう。冷え込む明け方に熱源を求めて。省吾は憮然とする。来る者は拒まない、が。

朝、完全に淳が起きると省吾は淳をベッドから蹴り出した。

「わ、ひどい」

淳は床に手をついてこちらを恨みがましそうに見ている。省吾はベッドに横たわったままその同居人を睨んだ。

「何がひどいだ。ここは俺のベッドだ。もう貸してやらん。まともに寝たかったらあの布団周りを片付けろ」

「そんな、無理ですよ。もうどうにもならないから布団を明け渡しているわけで」

「知らん。何とかしろ。あと台所で寝るな。また踏むぞ」

「一体僕はどこで寝れば……」

「布団だ‼」

淳はのそのそと去って行った。省吾は広々としたベッドに身体を広げる。淳がいた場所には温かさが残っている。目を閉じた。一時期の淳に比べれば省吾も随分気が楽なのは間違いない。しかし相変わらず彼の同居人は厄介だった。

 

 

ウェブに詩を上げ始めてから淳は完全に中毒になっていた。朝目覚めると布団の中でまずスマホをいじり、自分の詩がどれだけ読まれているかをチェックする。その内目が覚めてくるので起き上がってノートパソコンを開く。それから昨日までに書いたものを読み返し、機械的にインスタントコーヒーを作り空っぽの胃に流し込みながら新しく詩を書く。そうしていると十時くらいになり、淳は意識が朦朧としてくる。そしてまた寝る。昼過ぎに起きると頭が多少すっきりしているので、再びノートパソコンに向かう。また詩を書く。夕方頃になると気が遠くなってくるので眠る。夜に起きる。そうすると少しばかり頭がすっきりしているので……。必然的に淳の生活は破綻した。

「淳、こぼれてる。こぼれてる」

「え、ああ」

この数か月淳はご飯を食べていても心ここにあらずで、遠くの方を見ている。省吾はそんな淳を見てこれはすごいなと思った。いい意味でも悪い意味でも。

「淳飲みすぎ、飲みすぎ」

「え?」

ある時はコーヒーを入れる淳の手を止める。

「この朝だけで何杯目だ」

「三です」

「もう十分だろ」

淳は本当に困った顔をする。

「でも、飲んで落ち着かないと今日は書けない……」

省吾はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。書けないと言われてしまえば仕方がない。淳が省吾の手をとったのは生きるため、そして書くためなのだから。淳はそのまま何かに操られるようにしてパソコンの前に座った。

ある日、省吾が仕事から帰って来ると淳が床に横たわって中空を見ていた。省吾はその姿にはっきりと病的なものを感じ取った。

「……淳」

「省吾さん、僕は浅ましいです」

省吾は淳の側に腰を下ろす。

「読まれたくてしょうがない。感想が欲しくてしょうがない。評価がほしくてしょうがない。暇さえあればサイトを見てしまいます」

「反応が欲しいのは当たり前だろ」

そう言うと淳はひどく暗い瞳をした。

「反応はもらえるんです。なんて幸せなことでしょう。僕は反応をくださった全員の名前を覚えているくらいです。けれどもっとと思ってしまいます。反応が無い日は生きている意味が無いのだと思ってしまいます。何故僕は満足できないんでしょうか。何故、僕は詩を書いているだけで満足できないんでしょうか。詩自体に対して欲望があるのはいい。けれど、これは」

浅ましいと淳はまた呟く。省吾はどうしたものかなと思った。淳にかける言葉は十通りくらい思い付くのだが。どれも今言うにはふさわしくない気がする。アドバイスじみた言葉も、慰めも、彼を肯定する言葉も。だから一つだけ聞いてみることにした。

「浅ましいものは嫌い?」

「嫌いです。浅ましいものも美しくないものも全て嫌いです」

省吾は苦笑してしまう。そういうものを許して表現していく道もあるだろうにと思う。激しく、そして狭量な。この気性が彼の創作に吉と出ているのか凶と出ているのか省吾は知らない。

「まあ、じゃあ俺に言えることは一つだな」

省吾は立ち上がった。

「全部書いて、全部取っとけ」

淳は横たわり暗い目であらぬ方向を見ながら口を僅かに動かす。

「はい」

 

 

「躁状態をおしまいにしようと思うんです」

淳は病院から帰ってきたその日の晩、省吾にそう言った。

「おしまいにするってそんなことできるの?」

「アリピプラゾールっていう薬はこれまでうつがひどかったので飲んでいたんですけど、少量だと躁に傾ける薬みたいなんです。だからそれをやめれば躁状態も終わるかもしれません。今日先生と相談してきました」

省吾はしばらく黙った後

「お前はそれでいいの」

と聞いた。確かに躁状態が続くのはよくない。躁の後には反動、つまりうつが出るし、淳の場合躁状態は必ずしも好ましいものではなかった。しかしそのおかげで数年ぶりに詩が書けるようになったのも事実ではないか、と多分言外にそう言っている。淳はその言葉に力なく頷く。

「生活が破綻しているだけじゃなくて、思うんですよ、自分はいいものを今書けているのかなって。書き飛ばして、書き飛ばして、書き飛ばして、自分の書いているものが宙に浮いている気がする。でも止まらないんです。手が」

「淳」

「省吾さん、一番まずいのはね、自分の作品を信じられなくなることです。これから先いいものを書ける望みが無いと思ってしまうことです。誰よりもまず先に僕は僕の作品によって僕自身を信じさせなければならない。この人生で希望はそこにしか無いのだから」

その日から淳は一切アリピプラゾールを飲まなかった。

 

 

一週間ばかりして淳は手ぶらで冬の街を滅茶苦茶に歩き回っていた。ここ数日希死念慮が出ている。やはり減薬の影響だろうか、覿面だなと思った。もうよく分からない。詩のことも生活のことも確かな質量をもって頭の中に渦巻いている。それらは全て淳の処理能力を超えていた。自分はもうどうすればいいのか分からない。今自分が取り得るシンプルかつ最強の選択肢は死ぬことだと思った。

忘れていた。しばらく調子がよかったからぼけていたらしい。淳は自嘲する。うつになれば、自分の作品を肯定する気持ちも失うのだ。もう何もかもがつまらなく感じる。この数か月自分が書き殴ってきたもの全てが限りない陳腐さを帯びて柔らかな死刑宣告を淳に告げてきた。

六年間住んだ街の片隅で淳はこれは罰だと思った。自分を肯定してくれる人を持ちながら、詩からの肯定にしか耳を貸さない薄情者に対する罰だと思った。しかも救いがたいことに、それにも関わらず自分はこの街頭で助けてくださいと叫び出しそうになっている。吐きそうだ。小さな路地に入り、建物の壁に寄りかかる。

咄嗟に省吾の顔を思い浮かべる。一体あの人に縋ってそれで生きていけると、そう思えるならばどれほど楽だっただろうか。非の打ち所がない同居人。あれほど思われておきながら、しかし渇きはおさまらない。胃からせりあがってきた不快感にしゃがみこんだ。黒いコンクリの地面がすごく近くに見える。

ああ。淳は歯を食いしばった。

お前が僕を殺すのが早いか、僕が生きるに値するものを書くのが早いか勝負だ。

 

 

淳が外から帰ってきた。手ぶらで随分長い間出かけていたようだが。淳は帰ってくるとすぐに洗面所に向かった。口をゆすいでいる音がする。おかしいなと省吾は思った。あの同居人は帰宅時に手洗いうがいをするような人間ではない。

「淳どこに行ってきたんだ」

「普通に三条とか四条とかあの辺りですよ。ウィンドウショッピングしてました」

「随分遠くに行ってきたんだな」

ただそのことよりは淳の声の明るさが気になった。あれは作っている声だ。淳が洗面所から出てくると省吾ははっとした。静かに殺気立つとでも言おうか、生気の無い顔の中で目ばかりが光っていた。しかし淳は省吾に対してはにこっとする。

「ただいま」

彼はそのままノートパソコンを開く。省吾はそれを見てこれは大丈夫だろうかと思った。別に殺気立つのはいい。けれど、省吾に対して過剰な社交性を発揮する時は決まって何かを隠そうとしているのだ。しばらく省吾は淳の様子を見る。その日、これまでならほとんど休むことなく動いていた指がやけに緩慢だった。

数時間して、淳はその場に仰向けに倒れ込んだ。腕を額にあて、何かを考え込んでいる様子である。

「何考えてるか聞いていい?」

それに対して淳は破顔した。

「別に。気合で書けたら苦労しないわなと思っていました」

今の淳には殺気が無く、九割の穏やかさと一割の諦めがあった。淳は目を伏せる。

「面白いですよ、これまで自分の文章だけは最初から最後まで途切れずに読めていたものが、今はそれができない。言葉の感覚も変わっています。書くものも変わっています。以前は随分明るい詩も書いたけれど、今はあまりそちらに意識が向かない」

淳は苦笑している。僕は詩だからいいけど、小説だったら連続性を保てなかっただろうな、と。

「調子が変わるたびに思うのは、自分の意思でどうにかなる領域はなんて限られているんだろうということです。とても大きな制約の中、僕達は生きている」

省吾は何も言わない。部屋の空気の密度が増した気がした。

「僕は二月末から段々薬を増やして調子がよくなっていった時、これは煮立っている釜に蓋をしたようなものだと思いました。釜の中は変わらないけど、もうそれは見えなくなって日々を過ごしているというか。今その蓋は外れつつあります。僕は向き合わざるを得ない。それは正直に言って怖いことです」

外の道路を車が走り抜ける音がした。

「でも、僕の求める普遍性はそちらにあるんじゃないかと思うんです」

苦しみと悲しみと葛藤と。省吾はそれを応援したく思った。けれど淳は大事なことを忘れていないだろうか。彼は過去同じことをしようとして失敗している。

「だけど、お前はこのままでは生きていけないからと言って薬を増やしたはずだ。それなのに薬を減らしたら後戻りじゃないか」

「その通りですね。でもあの時と違うのは書けているということ。これからうつになったとしても書き続けられるなら僕の勝ちです。それが難しいわけですけど」

淳は床に手をついて立ち上がった。省吾の正面に立って彼を見つめる。

「信じていてくれますか、省吾さん。僕を疑う人間は僕だけで十分です」

省吾はそう言う彼の眼の光に息をのんだ。それははっきりと目指すものがある人間の目だった。変わったと思う。病変とかそういうことではなく、ポジティブな意味で変わった。ならば恐らく自分が果たすべき役割も変わっていくのだろう。

「いいよ、淳」

彼等の一年が終わるほんの数日前のことだった。

 

 

だるい。午後二時に目覚めたにも関わらず、淳は眠気とだるさに潰されそうだった。だるすぎて、枕元に転がっているノートパソコンのふたを開ける力が無い。十分ほど呆然とした後、近くに転がっているスマホを手に取り布団を頭にかぶったまま詩を書く。スマホの変換機能は問題ありなので、本当はこういうことはしたくないのだが。

最近詩を書く頻度は減ったが、だからといって何をするでもなく、眠ったり横になったりしている時間が増えた。昨日までは焼けつく程自分の詩に対する評価も気になっていたのに、今となってはそれもあまり気にならない。眠るたびに自分を取り巻く様々なものが薄くなっていく気がした。

書けているうちは大丈夫。そう思いながら文字を入力していくが、瞼が極度に重い。心が折れるとかそちらの方を心配していたのだが、身体の方からも来ているらしい。

淳は今金木の実家にいる。この姿を省吾さんに見せなくてよかったと思った。何を今更だが、きっと心配するに違いない。しかし、幾ばくも無くしてそう思ったことすらどうでもよくなった。

帰納するなら首吊りだぞと言う声と、誰か助けてくださいと言う声と、今やっていることに意味はないと言う声と、とにかく色々な声が頭の中に響く。

「うるさいよ、お前達。少し黙れ」

淳の理性は、淳にもはや生きている理由が無いことを論理的に告げてくる。

「違うだろ、お前はこういう時に止める役だろ」

どいつもこいつも、頭に巣食う有象無象の声がうるさい。多重人格という訳ではないのだが、淳の中にはいくつも声があってそれが騒がしい。気を抜くと押し流されそうだ。しかしまだメインの自分は踏みとどまっていた。

『信じていてくれますか、省吾さん』

省吾はそれに頷いた。あの人が一度頷いたからには、どこまでも自分を信じてくれるに違いなかった。そのことが自分を繋いでいてくれている。すかさず、それもどうでもよくなるよと内側から声が聞こえる。淳はそれを振り払った。

「今はまだそうじゃない」

 

 

大晦日の夜、淳は実家の軒先に出て電話をかけた。相手はこの年末広島にいる。淳はその相手が出る数コールの呼び出し音すらも覚えておこうと思った。

『淳、どうした?』

電話が取られて省吾のいつもの声がした。

「少し話をしたくなって、今大丈夫ですか?」

『多分朝まで暇だからいくらでも付き合うよ。で、何の話?』

「特に無いんです。何か他愛もない話ありませんか」

ふうん?  と向こうから声がした。あちらからすれば訳が分からないだろう。電話をかけてきた相手から話をせびられるのだから。しかし省吾はそんなよく分からない頼みにも応えてくれるらしい。

『じゃあ、おすすめの本は?  実家に帰ってから暇で暇でしょうがないんだ』

「おすすめの本ですか」

淳はどうしたものかなと思った。さすがに漠然としている。

『お前が一番好きな詩人は?』

ああ、それなら。

「杜甫です。杜甫が一番好きです」

『日本人の名前が出てくるかと思ったが』

「僕は彼のせいで中文に入ったようなものです」

あの頃は世界が輝いていた。思い返せばとうに病気になっていたが、それを知りすらしなかった。今は昔のことである。

「杜甫に関する本なら特に吉川幸次郎先生が書くものが好きで。『新唐詩選』とか『杜甫ノート』あたりから入るといいんじゃないでしょうか」

『なるほど、ありがとう』

「いえいえ」

お礼を言いたいのはこちらの方だ。そこで淳は夜空を見上げた。金木の町を覆うのは満天の星空。

「……省吾さん、空は見えますか。今日はとても星がきれいです」

足音としばらくの沈黙。窓を開けるらしい音が聞こえた。

『うーん、こっちはそこまでじゃないな』

「そうですか、残念だな。金木では天の川までくっきり見えますよ」

『羨ましい』

「田舎ですからね」

人がこの地球に生まれてから変わらず夜空にかかる輝く星々の河。淳はそれを瞳に映す。ふとあることを思い出した。

「省吾さん、僕は高校生の頃に天の川の先についての詩を書いたことがあります。そして丁度その頃に杜甫ではなかったと思いますが、同じように天の川の先について書いた中国の詩を読みました」

『先には何があるの』

「別れて西へ向かった友人が」

天蓋を横切る星の帯の先に遠く離れた人を思い浮かべるのは今に始まったことではない。電話の奥から笑みを漏らす音が聞こえた。

『それで何が言いたい?』

「意地悪を言わないでください。僕に言えたことではないですけど」

本当ならば寂しいとも会いたいとも言ってはならない相手だ。けれども今の自分の状態を考えると、言える言葉は言っておいた方がいいという気もしている。恨んでもいいですよと言いかけてやめた。それを言えば省吾は決して淳を恨まないだろうから。

『淳』

「はい」

『ありがとう』

白く流れていく淳の息が止まった。

「……省吾さん、どうしてそうなんです」

『そうって? 淳、言っておくけど今日の俺は察しが悪いよ』

淳は苦笑してしまう。ひどい人だ。

『それはともかく、あと一分だ』

そう言われて腕時計を確認すると確かに時計の両針は間もなく真上を指そうとしている。彼らの一年が終わる。あまりにも色々あった一年が。

「本年はお世話になりました」

『全くだ』

「来年もどうぞよろしくお願いします」

『こちらこそ』

淳はその低い声をした相手の姿を思い浮かべ、その人の幸福を祈った。時計の針がぴたりと合う。

「あけましておめでとうございます」

 

 

『りんご羊羹と太宰ラーメンどっちがいいですか?』

「は?」

省吾は実家のリビングで電話先の相手に思わずそう言ってしまった。

『りんご羊羹と太宰ラーメン』

「いや、淳、俺は今聞き取れなかったんじゃない。その狭い選択肢は何だと言いたいんだ」

『りんご羊羹ですかね。太宰ラーメン持って帰れませんし』

じゃあ何で聞いたんだと省吾は思った。この相手は新年早々大丈夫だろうか。しかしともあれお土産を買って帰ってくれるらしいのは嬉しい。自分は何を持って帰ろうか。

「生もみじは食べたことある?」

『何ですかそれ』

「ああ、じゃあ決まりね」

両方甘いがまあいいだろう。とにかく今年の目標は淳を五キロ太らせることだった。全くどれだけ食べさせても淳は太らない。とはいえ自分は平日家にいないし、「読み書きしている時は食べない方が捗りますから」なんて栄養失調まっしぐらな馬鹿なことを向こうは言っているので、それは当たり前かもしれなかった。

「どうだ、そっちで。風邪ひいたりはしてないか」

『頗る健康です』

仰向く。強がりに違いない。全部分かってしまうのだから俺に対してはそんなことをしなくてもいいのにとは思う。けれど強がりというのは言う側にとって必要なのかもしれなかった。

「そう、ならよかった」

『それじゃ、羊羹買うので一旦切りますね』

「ああ」

通話は終了した。スマホをフローリングの床に置く。このところ、自分がひどく無力な気がする。以前は淳の近くにいれば助けられるだろうと頭の片隅では思っていた。けれどそれは随分な思い上がりではなかったか。詩を書くようになってからは、淳がほとんど自分の手が及ばない所で苦しんでいる気がする。

省吾はパソコンを開いた。淳の詩のありかは知っている。淳には殊更に見ていることを伝えていないが、定期的に読んでいた。省吾には淳の詩の良しあしは分からない。けれど非常に「らしい」詩を書くなと思った。

更新されている文字の連なりを目でなぞる。

「やっぱ調子悪いんじゃないか」

もう減薬なんかやめてくれと言いたくて仕方がない。ここまで調子を崩すのでは本末転倒ではないか。躁状態が終わったからといって、それでいいものが書けるとは全く限らないのであって、淳はただありもしない可能性を探して自分の状態を悪化させている気がする。アリピプラゾールを飲み続けたとしても躁状態が終わるのは時間の問題とはいえ。

リビングから玄関に行って、裸足の足につっかけを履いて外に出る。その玄関先でポケットからタバコを取り出し火をつけた。空を見上げると寒く雲のかかった冬の空があった。

『信じていてくれますか、省吾さん』

「……信じるとも」

しかし、周りにいて狼狽しないことが、こんなにきついことだとは思わなかった。

 

 

「あー、もう! マジでなんなんだよ」

淳はお土産を買ったその足でそのまま芦野公園に行ってしまった。つまりその程度には調子がいい。全体としてうつに傾きつつあるが、日によって全然調子が違う。混合状態というのかラピッドサイクラーというのか、その辺りのことは微妙なので淳には分からない。とにかく目が回るほど日々淳の具合は変化している。毎日おみくじでも引いているような気分だと淳は思った。

この数年で何回目だろうかこういうことは。うつも躁も、よく分からない状態も何度も繰り返した筈なのに一向にコントロールできない。もういい加減経験済みなのだから少しくらいどうにかなるようになって欲しいのだが。

芦野湖のほとりに行くと水鳥が水面近くを飛んでいた。それを素直にきれいだと思ったので、淳は自分の感性が死んでいないことに安心した。しばらくぼーっとする。それにしても自分はなんでお土産を買った後に家に帰らずこんな所まで来てしまったのだろう。

いい加減寒いので帰途についた淳は、家の手前の角を曲がったところで足を止めた。家の全体を見る。一応旅館ではあるが、何の変哲もない家。大学に上がるまでの十八年間ずっと住んだ家。そこに今帰ろうとしているのだが足が動かない。近付きたくないのだ。別に実家に恨みは無いし、帰省してからも今日まで普通に中で過ごしていた。なのにあちらに向かって一歩足を進めるということを考えただけで胸が塞がる。何か、すごく悪い「気」が家を取り巻いている気がしてしょうがない。理性的に考えてそんなことはあり得ないのだが。

……まずい。何がまずいって僕の状態が。

 

 

何とか実家には一旦入ったものの、淳はほとんどそのまま京都に帰った。

夜更け頃京都のアパートに入ると乾いた寂しい匂いがした。元々そこまで荷物は持ってきていなかったが何だか重い気がしたので床に降ろす。疲れた。今回は新幹線を使ったが、それにしても青森から京都は遠い。年明け早々なので当たり前だが、部屋の中に省吾の影は見えない。淳は分かっていたはずのそのことにダメージを受けながら歯を磨いて、就寝の準備をした。

が、いざ布団へ行こうとしたところで足が止まった。まただ。今度は悪い「気」が布団のあたりに凝集している気がする。気のせいだと分かっているのにそちらに向かうのはどうしても抵抗感があった。まして狭い室内のことである。

淳は仕方なく省吾のベッドに向かった。もう貸してやらんと言われた気がするが、これは緊急避難だから仕方ないと思う。ベッドに横たわると、この寂しい空気の中で確かに人間が残した匂いがしてひどく安心した。最近はクエチアピンが無くても眠りにつける。やがて意識が遠のいた。

明け方、何かの気配で淳が目を覚ますと、丁度そのタイミングで部屋に省吾が入ってきた。一瞬夢かと思った。

「……省吾さん、どうしてここに。まだ三が日も終わっていないのに」

省吾はかばんとお土産の入った袋を床に降ろす。

「それは俺のセリフだ。しかも、どうしてここで寝てる」

「勘弁してください。僕の布団の周りに悪いものが集まっているんですよ」

え?という顔をして省吾は淳の布団を振り返る。しかし、彼にそんなものが見えるわけもない。省吾は僅かに青ざめる。

「淳、お前」

「大丈夫、あり得ないことは分かってます。だから安心してください」

「安心できるか……」

省吾は悲痛な顔をして淳の頬に手をあてた。

「命まではとられませんよ。それよりそういうことなのでしばらくここを貸してください。多分何日かすれば散りますから」

「分かった。けど狭いぞ」

省吾は省吾でベッドに入る。確かに二人で寝るにはやや狭かった。省吾は明らかに疲れた顔をしている。それは別に今のやり取りのせいだけではあるまい。

「省吾さん、クマができてる」

「広島から夜行で帰ってきた。安いのに乗ったらさすがに一睡もできなかった」

「何でこんな早く」

「実家には顔見せたらそれでいいんだよ」

省吾は眠そうにしながら淳の顔を見る。

「お前の方は何でこんな帰って来るの早いの」

「何となく居づらかったので」

嘘は言っていない。しかし。

「具体的には?」

省吾に誤魔化しは通用しないのだった。

「……あの布団のあたりにあるののもっと大きいものが実家に集まっていて、あそこにいたくなかったんです」

省吾は深く長く息をついた。淳の額にかかる髪を大きな手が払っていく。それが一段落すると、省吾は目を伏せた。

「……許せ、淳」

抱き締められた。淳は随分久し振りの感覚に戸惑う。

「省吾さん?」

「…………」

身長差があるので丁度淳の顔のあたりに省吾の首がある。抱き締められたまましばらくすると淳は落ち着いて来て、その首筋をぼんやりと眺めた。

「省吾さん、心配しなくていいんですよ。ちょっと変ですけど、今トータルでは調子がいいですし。うつがひどいより、こっちの方が気が楽というか」

省吾は何も言ず、ただ淳の頭の後ろに手をまわす。淳はそれ以上釈明しないことにした。目を閉じる。

「省吾さん、すごく人間の匂いがする」

「何者だよ、お前は」

省吾はごく微かに笑っているらしい。淳も微笑んだ。

「おかえりなさい」

 

 

十時ぐらいに二人揃って眠たい頭を抱えながら目覚めた。

「僕はともかく省吾さんはもっと寝てていいのに」

「眠れん……」

省吾はふらふらと冷蔵庫を覗きに行く。帰省前に平らげてから行ったので見事に何もない。生ものどころか冷凍食品の類さえ。冷蔵庫にもたれかかり頭をかく。買い物に行くべきなのには違いないがめんどくさい。

「省吾さん、朝ごはんはりんご羊羹食べましょうよ」

そう言いつつ淳は彼のかばんから細長いやたら古風な箱を取り出す。

「それはごはんじゃない。おやつだ」

「いいじゃないですか。食べて元気になったら買い出しに行けばいいんです」

一理あった。省吾は淳からその箱を受け取ると、その薄黄色い羊羹から四切くらいを切り出して皿に乗せちゃぶ台へ持って行った。それを二人で囲んで食べる。

「思ったよりうまい」

「何ですか、失礼な! うちの特産ですよ」

「悪い悪い」

つい思った通りのことを言ってしまった。ほどよく甘い羊羹で、確かに元気は出てきそうだった。

「どうだった、実家は。出てきたとはいえ」

「父も母も元気そうでしたよ」

「何より」

周りが元気なのはいいことだ。本人の生活に集中できる。

「生もみじとやらも出しますか?」

「一個ずつだ一個ずつ。お土産をごはんにしようとするんじゃない」

駄目だ、頭がぼーっとする。徹夜なんてするものじゃないなと思った。淳の方はと見ると、あちらはそれなりに元気そうだ。ただ視線が不自然に固定されている。何かから目をそらしているような。彼が目を背けているものを探すと、そこには布団があった。

「淳、布団の方にはまだ何かあるの」

「はい。昨晩よりは薄いですが、まだ嫌な感じです」

そう言う最中も淳は努めて違う方向を見て喋っている。そう言われても自分には全く分からない。ごく普通の白い格安ふとんがそこにあるだけである。

「こうはっきりと『見える』わけ?」

「いや、そうじゃなくて、幻覚とかではなく、『ある』という感じなんです。うーん、どう伝えたらいいのかな……。でも普通に何もありませんからね。僕がおかしいだけですから」

淳はすこぶる冷静かつ平静だった。自分の言っていることの異常さがきちんと分かっている感じがする。けれど、だからこそそんな彼が言葉選びに迷う程の確かさをもってこの奇妙な経験をしているということに省吾は寒気を覚えた。正気を保ったまま狂うということが人にはあるのかもしれないと思って。

淳は羊羹を口にくわえて上目遣いにこちらを見てくる。

「だからおばけじゃありませんよ?」

「馬鹿」

心配しているのは全くといっていいほどそちらではない。淳は明け方に「命まではとられませんよ」と言ってきたが、それはとんでもない話で、うつと妄想の組み合わせは危ない。淳はちらっと布団を見て身を縮めた。

「あれ広がらないといいんですけどね」

普通に何もありませんからね、と言うくせにその様子は本当に心配しているようだった。省吾は黙って立ち上がると淳の布団を担いだ。

「省吾さん?」

「とりあえず干す。で、お前が最速で病院に行けるのはいつだ」

 

 

休みの日と予約の関係で淳のかかりつけの病院に行くことができるのはしばらく先になりそうだ。省吾は焦りはするもののジタバタしていてもしょうがないので、淳を伴って近くのショッピングモールに買い物に出かけた。用があるのはその一階のスーパーである。

「わ、混んでますね!」

昨日も開店していたはずだが、今日もいかにも初売りといった感じで店内のあちらこちらに赤い装飾がある。流れているのもお正月ソングだ。実にめでたい。いつもならば並ばないような食材もあるので、迷いながらぐるぐる回る。単純に寝ていないので判断力が低下しすぎているというのもあるかもしれない。そうしていると、省吾は時々淳が目を伏せるのに気が付いた。

「どうした、ここにも変なのがあるか」

「いや、そうじゃないんです。そうじゃなくて」

この人でごった返す新年の賑やかなスーパーの中、淳は何やらしょんぼりしていた。そういえば、うつの時は人混みや賑やかな場所がつらいと聞いたことがある。

「悪かったな、具合のよくない時に連れてきてしまって」

そう言うと淳は慌てた。

「ちっ違います! そうじゃないです。具合はいいんですよ。ただ」

「ただ?」

淳は観念したように棚の上の大きなお正月飾りを指差した。紅白の縞模様が入った額縁の中に大きく「2020」と書いてある。

「あれがどうかした?」

「その」

淳は口ごもる。

「あの数字が苦手で」

「はい?」

全く予想していなかった理由だった。

「だって、2020って何だかすごくきれいな数字じゃないですか。そんなきれいな数字の年の中に僕の居場所なんかあるのかなと思って」

「…………」

「わー! すみません! 新年なのに、オリンピックもあるのにこんなネガティブなこと言っちゃって」

「淳」

「……はい」

「兄ちゃんが好きなもん買ーちゃるけえ、何が欲しいか言うてみ」

「省吾さん⁉」

「いいから、何が食いたいか言え」

有無を言わさぬ口調でそう厳命すると、淳が「牛かな?」と言ったので、そこでやっとこの買い物の到達点が見えた。今日はすき焼きにする。省吾は徹夜の頭を回転させて、何が必要か考えた。

「じゃあ、ちょっと後ろの方まで戻って焼き豆腐と糸こんにゃく持って来てくれない?俺肉探しに行くからさ」

「分かりました!」と元気に答えて、淳はもと来た道を戻っていく。省吾は彼が人だかりに消えていくのを見送ってから、自分は自分で前に進んだ。

はらはらしたり、拍子抜けしたり、出会ってから何年も経った今なお淳からは新しい側面が出てくる。調子も気分もやることも考えることも大きく変動する相手。けれど、それでも「深川淳」という人間は続いていている。そして自分はずっと淳のことが好きなままでいる。これは不思議なことだなと朦朧とした頭で省吾は思った。

 

 

帰ってくると省吾は力尽きたかのようにベッドに倒れ込んだ。そのままちゃんと寝て休んで欲しいなと思いながら、淳は買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込む。それが終わると淳も眠気に襲われた。眠気というより、脳が慢性的に酸欠という感じかもしれない。ぼーっとして複雑なことが考えられない。

寝ようと思って布団を干しっぱなしなのに気が付いた。かといってあの布団に近寄りたくはない。一瞬ベッドで寝ようかとも思ったが、そこで寝ている相手にはゆっくり休んでもらいたかった。結局元々布団があったスペースの床に横になる。さすがに背中が冷たかった。この所寝てばかりだ。起きていてもぼーっとしてしまって、自分がどんどん無能になっていく気がする。アリピプラゾールを飲んでいても駄目だった。で、飲まなかったらこれ。両方駄目。

→死

いや、その極端な出力やめろよと自分に突っ込みを入れるけれど、かといって他に何が思いつくでもない。脳が樹脂みたいに固まって狭くなっている感じだ。起きたら頭がすっきりしているといいなと思いながら、丸まった。

淳が目覚めると省吾はとっくに起きてすき焼きの支度をしていた。寝過ぎた。そのことに罪悪感と自己嫌悪がつのる。この年末年始寝てばかりじゃないか。呻いていると菜箸を持った省吾がこっちを向いて笑った。

「そんな所でよく長いこと寝られるな」

淳は固まった。そっちじゃない、そっちじゃないと必死に自分に言い聞かせる。絶対に省吾に悪気は無い。百パーセントただの軽口。なのに今淳には彼の言葉が自分への非難に思えて仕方が無く、そしてそう思ってしまったことがひどく悲しかった。

「……淳?」

「いや、えーと、省吾さん何か手伝うことあります?」

「白菜切ってくれる? あ、というかその前に布団だ、布団。夜になると雨が降るらしいんだよ。俺が取り込むから鍋見てて」

省吾は突っ立っている淳に菜箸を渡すとベランダに向かう。淳が思考停止状態で鍋の水面を箸でつついていると窓にぶつかってガタガタと音をたてながら省吾は布団と共に部屋に入ってきた。

「どう、淳。大丈夫そう?」

淳は恐々布団を見る。そしてすぐに顔をそむけた。今度は悪い「気」が集まっているというよりは、その布団の「白さ」が目に毒で、すごく嫌な感じがした。そしてその「白さ」は自分が目をそらしていても、この部屋のどこまでも自分を追ってくるような気がした。

「駄目っぽいです。その布団が中に入って来るのはよくないです」

「だけど、取り込まないわけにもいかないしな」

「布団袋、布団袋に入れてしまうのはどうでしょう。密閉すれば抑え込める――」

そこまで言って淳は背筋が凍った。今更だが自分は何を言っているのだろう。淳はその場にしゃがみこんで口を覆った。

「淳?」

「省吾さん。……僕は変だ」

淳は省吾の方を見ることができなかった。一体今の自分は彼にどう映っているのだろうか。それを知るのが恐い。

「淳、ちょっと待ってろ」

ドタドタと足音がする。こっちに向かってくるのではない。クローゼットへ行って、そこから布団の所へ引き返しているらしい。ファスナーを引く音がした。恐らくは淳の言う通り布団袋に入れてくれているのだろう。中身の入った布団袋を叩く音がした後、足音はこちらに近付いてきた。視線の先に大きな二つの足が現れた。

「淳」

省吾もしゃがんだらしい。顔を覗き込まれる。淳は思わず目をつぶった。

「省吾さんは……僕のことどう思うんです」

言うなという声が頭に響き渡る。

「やっぱり変だって思ってるんでしょう?」

答は聞きたくない。

「淳、こっち見て」

恐い。

「大丈夫だから、こっち見て」

その柔らかい声に淳はやっと目を開けた。省吾はいつもと同じ様子で淳の目の前にいた。

「手出して」

手を出すと、その大きな手で包まれた。

「あのな、淳。確かに今淳は変なこと言っているしなんかよく分からないものを感じてるみたいだけど、だからって淳がトータルで変だということにはならないんだよ。それとこれは別。淳の全部が変になっているわけじゃないし、俺はそれをちゃんと分かってるから」

省吾が立ち上がり、淳は引っ張り上げられる。

「俺は多分お前が考えているよりも何倍も『深川淳』の味方だから。これから先何があってもそれは覚えていて」

淳は呆然と省吾を見上げる。省吾は本当にいつも通りの平常運転だった。

「省吾さんはいつも何でそんな」

省吾はその言葉を聞いてにこっとすると、そっちの方が大事かもしれないなと呟いた。

「俺はお前が考える世界の外側にいるんだよ。そのことも忘れないで」

 

 

「朝くっついてくるの禁止ね」

省吾はベッドの中で隣にいる相手にそう言った。

「え?」

「前回半分貸した時の朝、お前くっついてきたの。禁止ね、それ」

淳はみるみるうちに赤くなった。

「すみません! 気を付けます。けど」

いかんせん寝ているうちにやっていることなので。省吾も我ながら無茶振りだなと思う。しかし、困っている淳を眺めるのもなかなか楽しかった。省吾の言葉を聞いた淳は省吾からなるべく距離をとって、ベッドの端ギリギリで転がっている。極端なやつ。それを微笑ましく見ながら、省吾は気になっていたことを聞いた。

「淳、幻聴とかってある?」

淳はごろりとこちらを向く。

「無いですよ。僕幻覚も幻聴もありません」

そう、実家も布団も、淳は何かを「見て」いるわけではない。更に淳は自分の感覚がおかしいということを自覚している。

「もっと言うと、僕の考えが周囲にばれているとか、何かに操られているとか、FBIに追われているとかそういうことも考えたことが無くて」

「何だ、同じことを考えていたか」

省吾はベッドの上で頬杖をつく。実家布団騒動に関して、省吾が気になっていたのはそれが双極性障害の症状からは外れていることだった。そこで他の精神疾患との併発を疑った。具体的には統合失調症。今淳が飲むのをやめているアリピプラゾールは統合失調症の薬でもある。「重石」が外れたことで症状が出てきたのではと考えたのだ。だが、淳の申告通りなら統合失調症の症状に淳はあまりあてはまらない。

では一体何なのかと考えかけて省吾は頬杖を外した。そのあたりを考えるのは自分達の仕事ではない。専門家の仕事である。

「他の部分の調子はどう?」

そう言うと淳は笑った。

「なんか、全部どーでもよくて」

省吾はひやっとした。全部?

「もう僕と関係ないや、みたいな。ああ、そうですね。どうでもいいというよりは関係ないがぴったりくる」

省吾は淳の肩を掴んだ。

「詩も?」

「そう。詩も。何を僕はあんなに熱くなっていたんでしょうね。もうあまり思い出せないんですけど」

待て。それはお前が死んでも言ってはいけない言葉じゃないのか。

「お前この前まで」

「うん。でも関係ない」

省吾は淳を見た。淳は微笑んでいる。何だこの流れ。ほんのついさっきまで朝がどうだのとどうでもいい話をしていて、そして軽く調子を聞いたら、いつの間にか地獄の釜が開いている。しかも、淳は落ち込んでいる風でもなく至って平静で。

「淳どうしたんだ」

淳は省吾の顔を見てきた。心底不思議そうな顔をして。

「というか、この二ヶ月僕は何をしていたんですか?」

 

 

「忘れたわけじゃないんです。この二ヵ月で書いた詩は全部思い出せますし、それぞれの詩をどこでどの状態で書いたかも言えます。でも自分が何をしていたか分からないんです」

淳は起き上がるとベッドから離れた。省吾の手は空を切った。

「何を言っているって思いますか。でも僕の感覚をそのまま言うとそうなんです。この部屋ちょっと暑いな」

省吾は半身起き上がってその同居人を凝視している。背中に汗が伝っているのはその相手が言うように部屋が暑いからではない。省吾には今何が起こっているのか分からなかった。今日、広島から帰ってきたら、淳がベッドにいて、抱き締めて、買い物に行って、布団を袋に入れて、すき焼きを食べて、そしてもう寝ようとして。なのに、今何が起きて。

「調子が変わりました。他の人はどうか知らないですけど、僕の場合躁やうつの後って感情が連続しないんですよ。だからその時の自分の気持ちが分からないんです。僕はこの二ヵ月の自分の気持ちが今分からないんですよ。本当に何をあんな一生懸命になって。なんで?」

「なんでって、お前は詩が書きたかったんだろ。なのにずっと書けなくて、それが二ヵ月前やっと書けるようになったんじゃないか」

淳はベッドをぐるりとまわって省吾の足元の方に来た。リビングから差す光が逆光になって淳の顔が見えなくなった。

「記憶はあるんです。でもなんで? なんで僕そんなに書きたかったんでしたっけ」

「おい、淳」

「これまで書くことが支えでした。どれだけどん底にいても書けさえすれば生きていけるんだって思っていました。僕の詩が人に読まれるなんてどんなに素敵だろうって。全部覚えていますよ。でも分からないんです、その気持ちが。そして今日思ったんです。例え今詩で生計を立てられる状態でも、多分僕は思いとどまらないって」

省吾はベッドから出ると淳に歩み寄り腕を掴んだ。指が淳の腕に食い込む。しかし淳は動じない。

「省吾さん、僕にとって詩はね、魔法だったんです。僕はそればかりを信じてこんな碌にものも読めないまま生きてきたんですよ。けど、もう、理由は無いでしょ」

「惜しくはないのか」

「あっても無くてもいいようなのばかりじゃないですか」

そこで省吾は目を見開いた。自分は命は惜しくないのかと聞いたつもりだった。けれど、目の前にいるこいつは命よりも先に詩について答えた。「淳」はまだいる。省吾は淳の足を払うとその場に組み伏せた。

「忘れているようだから言ってやる。お前はこれからうつになったとしても書き続けられるなら僕の勝ちだと言ったんだ。あれから十日も経ってねえんだよ。いいか、ここが分かれ目だぞ。お前俺に信じろって言ったよな。そう言ったからには根性見せてくれるんだろ」

「あのね、省吾さん。根性とかそういう問題じゃないんですよ。もう話は終わっているんです。あと僕はうつじゃない。気分としてはごくノーマルです。冷静に考えてこうなんですよ。僕はどうしようもない無能で、この先食っていける見込みもなくて、もう書くことへの幻想も無くてって冷静に状況を考えればこうなわけでしょ。で、僕は他に解決策を見つけられないんでしょ。じゃあ、もう一つしか残っていないじゃないですか」

「俺が許すと思うか」

「無理ですよ。これは誰にも止められないんです」

「分かった、俺には無理なのだとしよう。でもお前になら止められる」

「僕が僕を止める必要はない」

「お前自分の詩は読んだか」

「? 僕が書いた。一体何度読んだと思っているんですか」

「その状態になってから、読んだか」

「読んでないですよ。読む必要が無い。全部覚えています。全部今殊更に読み返す価値なんてありません。いらないんですよ。僕は僕一人読む気にさせるものすら書けなかったんですよ」

「いいから、読み返せ!」

省吾は淳の胸倉をつかんだ。

「いいだろう、てめえがてめえの書いたものを読み返してぴくりとも心が動かないってんなら、てめえの負けでいい。それは寿命だからな。だが、読まねえうちから深川淳の生死をどうこうすることは許さねえ。言っとくが俺の方が淳との付き合いは長いんだ。勝手に俺の淳を殺そうとしてんじゃねえ新参者‼」

 

 

「省吾さん」

「なんだ」

「吐きます」

省吾が手を離すと、淳は洗面所に走り、そこで激しく嘔吐した。二度三度吐く。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。何だこれ。肩がバキバキになって、頭が一杯になって同時平行で色んな考えがグルグルグルグル回って。洗面所に膝をつき頭を掻きむしる。

「あああああああ‼」

何か生きる方法は無いか。

遺書は簡単に。いや、書かなくていい。知ったことか。

大事な人間がいるだろ、家にも、大学にも、ここにも!

飛び降り。三階。死ねない。

薬を変えろ!嘘みたいによくなるかもしんねえだろ‼馬鹿言ってんじゃねえ。効く薬見つけるまでにどれだけかかると思ってんだ。アリピプラゾール。だから、あれ飲んでても結局詰むんだよ‼

首吊り。何で括るんだ。くそ!

こんな状態で修論が書けるか。就職ができるか。どうやって生きていけって言うんだ!

オーバードーズでも何でもしろ、眠れ!

やっぱり包丁だ。首切りだ。それしか無い。

お前それ前回死ねなかったじゃないか。

今度は仕損じない。

まだ書ける。これからだ。これからもっと。

お前は誰だ。お前は誰だ。お前は誰だ。

また胃から何かこみ上げてきた。胸を押さえる。爪が食い込む。

「畜生、ふざけんな。冗談じゃねえ。てめえ、ぶっ殺す‼」

 

 

結局床に吐いた。口の中が胃の内容物の味でいっぱいだ。

「書くことに疑問を持つ奴はいらないんだよ。返せ、返せこの身体! お前にくれてやる筋合いは無い。気持ちが分かんないとか連続してないとかぬるいこと言ってんじゃねえよ。ぶっ殺してやる。僕の中から消えろ! 書くために生まれてきたんだ。書くことしか無いんだ。書くために生きてんだよ。こんな血反吐吐く思いして書かなかったら生まれてきた甲斐が無いだろが‼」

息が切れる。床に人影が差した。振り返ると省吾が立っている。

「省吾さん、今日は僕が勝った。今日は僕が生き残った。これから僕は手元に残っているクエチアピンを飲んで意識を落とす。危なくなったら救急車呼んでください。今日は僕の勝ちです」

 

 

昼頃起きて、えーと、なんで詩を書くんだっけと思って笑った。

気合いでどうにかなったら苦労しないわけで、劇的な展開と主人公の決意できれいに解決するのは小説だけで、戦いはこれから続くのだ。

と、そこで自分がまだ続けるつもりがあることに驚いた。

頭を抱えてベッドから起き上がる。ここで頭が嘘みたいにスッキリして、生きる気力とやる気に満ち溢れていたらよかったんだけどなあと思いながら。体感で頭の七割がホワイトアウトしている。僕に感知できない領域で僕は何か考え事を続けているらしい。感知できない以上僕には手が出せないので放っておく。

省吾さんはいなかった。仕事だ。その辺スパッと僕のこと信頼するよなと思った。僕以外誰もいない部屋でインスタントコーヒーを入れる。

熱い液体がコップに満ちたところで、僕はふと思い立ちコップを持ったままベランダに出た。一月初旬の京都。冬の空。

窓を閉め、ベランダの隅に行き、膝を立てて座る。ああ、寒い。普通に寒い。冷気が肌にビシビシとくる。そこで急速にぬるくなっていくコーヒーを啜りながら、生きてんなと非常にありきたりな感想を持った。

これを飲み終わったら研究室に行く。一文字も読めなくても研究室に行く。僕は僕の生きる場所を掴み取らなければならない。

今日の自分の中で生きることと書くことが少しずつ繋がっていくのを待ちながら、僕は冬の空気に白い息を吐き出した。

 

 

淳は夜の十時近くなって帰ってきた。正直昨夜のこともあったので、省吾が仕事から帰ってきて、淳の姿が見えなかった時は肝が冷えたのだが、ちゃんと帰ってきた。

「どこ行ってきたんだ、こんな時間まで」

「研究室ですよ。自分の論文も書かないといけないですし、レポートも山ほど書かなきゃ」

淳は疲れたように笑っている。確かにそんな時期だよなと省吾は思った。調子がよかろうが悪かろうが歳月は流れていく。それは時に残酷であり時に救いのようでもある。この場合どちらだろうか、やはり淳にとっては酷だろうか。それはともかくとして。

「調子はどうだ」

「うん……」

淳は省吾から目線を外して斜め下の方を見た。

「バツが悪いです」

「なんで?」

「生き残ると大体バツが悪いです。自分の中から声が一杯聞こえるんですよ。なんだ騒いだ挙句死なないのかよ、詐欺じゃないか、死ぬのが本当だろうって」

「淳、荷物くらい下ろしたら?」

そこで淳はやっと自分が荷物を持ちっぱなしだったことに気が付いたようで、大学かばんを彼の布団エリアまで持って行って置いた。省吾は台所に立って夕飯に作ったカレーを温めなおす。

「分かってるだろうけどさ、そういう声はお前が生きていくのに全く何の役にも立たないからな。無視しろよ」

はい、と小さく淳が答える。やはりこの話そこではっきりとはいと言えるなら苦労は無いのだろう。彼が生きていることは省吾にとって純粋に喜ばしいのだが。ルーをかき混ぜる省吾の横に淳が立った。

「省吾さん、昨日僕を止めてくれてありがとうございました」

「おう、すげー焦ったぞ」

その言葉を聞いて淳はしょんぼりし、それを見て省吾はめんどくさいやつだなと苦笑した。淳に好きな量の白ごはんを皿に盛らせ、その上にルーをかける。

「唐突だけどさ」

「はい」

「キスしていい?」

ぽろっと淳の手からカレー皿が離れた。

「わーーー‼」

危うく床に着くところを省吾はキャッチした。きれいに落ちたのでカレーはこぼれていない。

「お前、動揺してもいいけど、カレーは落とすなよ」

「すみません、すみません、でも」

まあ、自分もタイミングが悪かったなと思いながら省吾はカレーをちゃぶ台に置く。

「で、いい?」

「…………………………」

「オーケー、分かった、いいよ、カレー食べて」

「いいですよ。でも軽いのがいいな」

淳は顔をそらしながらそう言った。省吾は淳の顎を持ち上げるとごく軽くキスをした。淳は省吾を見上げる。

「どうしたんですか、省吾さん」

「別に普通に余裕無いだけ。さ、食べな」

 

 

淳はその日大学から帰って来て夕飯を作り、省吾が帰って来るのを待っている間Web小説をひたすら読んでいた。こういうのは読めるんだよなと思いながら。ツイッターも読める、ネットの記事も読める。でも紙の本がとにかく読めない。多分Web小説も紙になっていたら割ときついだろう。では紙じゃなければいいのかと言えばそうでもなく、電子でも読めないものは読めない。逆に紙でも病気関連のものは読める。淳は頬杖をついた。僕はただのわがままじゃないのか。

そう思うと途端に、死んじまえという声が聞こえた。淳は呆然とする。やっぱり、治らないのだ。あれから病院に行った、薬も増やした。その最初の二週間くらいは調子がよかった。けど、また。なんて成長の無い。それなら、やはり僕は……なんてグルグルした思考が始まった頃に省吾が帰ってきた。

「淳、俺が帰ってきた時何考えてたの」

トマト入りの卵焼きを食べながら省吾が何気なくそう尋ねてきた。

「本読めないわけですけど、読めない読めないと考えていると暗示がかかって更に読めなくなりそうだから、もう考えるのはよそうかなと」

「それと?」

「省吾さん、たまには隠し事くらいさせてください」

「その隠し事ってして意味あるの?」

この人は。

「ありますよ」

淳はそう言ってしまった。

夜になると二人は別れて眠る。もう淳は布団に嫌なものを見ないので布団が使用可能になったのだ。淳は横たわって、ああまずいなと思った。今日も「怖いもの」がやって来る。しかしまだ寝付けそうにない。もっと容赦なく寝付けるような強い薬が欲しいと思った。

「淳」

眠りに行ったはずの省吾の声が後ろから聞こえた。淳は寝返りをうたない。

「省吾さん、僕はね心配をかけたくないんですよ。今更ですけど。というか現在進行形で心配かけてますけど」

省吾は何も答えない。淳は僕はクズだと思った。こんなこと言って言い訳してる。

「淳、タバコ吸うのに付き合って」

「やだ。寒い」

ああ、そうと言ってタバコの箱を開ける音がした。

「省吾さん?」

「火はつけないよ。くわえるだけ。中毒者を憐れめ」

淳は省吾に背を向けたまま、そして省吾もタバコをくわえて淳に背を向けたまま、本の山に隔てられて話をする。

「淳、俺はお前に手を差し出して、お前はその手を取った。そうだろ」

「それとこれとは関係ない」

省吾は笑う。

「なに拗ねてんだ、めんどくせえ」

「僕には罰が降る。これから決定的な罰が降る」

「何の罰?」

「僕の怠惰と無能に対する」

淳は横になったまま本の山を眺めた。ほとんど読んでいない山を。僕はこれだけのものを読まなかった。きっとそれには相応の罰があるだろう。

「降ってから考えろ、恐れにリソースを使うな」

「省吾さんはなんでそうなんです」

「そうって?」

「だからそうですよ」

「ああ、今日のお前はめんどくさい」

省吾は本の山脈が途切れたところから淳の布団スペースに入った。

「そうってなんだよ」

淳はそこでやっと振り返った。

「有能で、なんでも分かってて、僕には思い付かないことを言って、僕にはできないことを軽々する」

「淳、お前は間違ってる。ずっと間違ってる」

省吾は乱暴に淳の唇を奪った。

「買いかぶってくれるのは嬉しいが、そうじゃない。いい加減分かれ。そんなスーパーマンはタバコを吸わないと生きていけないような身体をしてないし、お前に無理やりこんなこともしない」

「…………」

「お説教しちまうけど、周りを見てごらん、淳。ずっと自分を見てグルグルしてたら、そりゃ苦しい」

省吾は淳の頬にしばらく指をあてると、立ち上がってベランダに出て行った。

 

 

「省吾さん、ピクニック行きましょう」

皿洗いをしている淳がそんな提案をしてきた。省吾はちゃぶ台の前に座りながらそれを聞く。

「ピクニックってどこに行くの」

「鴨川とか」

正気とは思えんなと省吾は思った。一月末の京都の鴨川でピクニックなんてどうかしてる。そこで淳がはっとした顔をした。

「寒い、ですかね」

省吾はため息をついた。

「お前が気付いてくれてよかったよ。というかこの前俺がタバコ吸いに行く時は寒いって言って断ったじゃんか。あの時の理性はどこに行ったのかと思ったよ」

淳は洗い物を終えたらしい。手を拭くと省吾の側にやって来て座った。

「ちょっとくさくさしていて」

「なんで?」

「駄目レポートばかり量産していて」

今回、割と小さなところで躓いてるなと省吾は思った。

「レポート何本出して、あと何本あるの」

「四本出して、あと二本です」

「客観的に言って俺は出せてるだけ偉いと思うけどね。難しく考えずにあと二本も出しちまいな。単位取り切りたいんだろ」

そこで淳は固まった。

「出せてるだけ……偉い?」

「偉いだろ。考えてみろ。死にかけてたのが一月の頭でそこから一ヵ月経ってないし、調子良かったり悪かったりなのに授業出てレポート四本出してるわけだろ。それで十分じゃないの」

やはり淳は固まっている。省吾はつつきたいなと思った。

「あのな、淳、理想のラインとか目標のラインとかもあってお前はそれをクリアしてないのかもしれないけど、十分のラインもあるの。で、今回お前は十分のラインはクリアしてるの」

淳はえーとと言って頭に手をあてた。

「省吾さんの言っていることは理解はできます、けど、しっくりこない。分からない」

省吾は腕組みした。これは生きづらいだろうなと思った。ずっと理想のラインから自分のいる所を引き算して考えているわけだから。しかし、本人は理解できるが分からないと言う。案外このあたりに淳が楽になる道もあるのかもしれないが。省吾は思案した。

「ピクニックは嫌だけど、ケーキ買ってこないか。それで紅茶でもいれてお茶しよう」

幸い近くにおいしいケーキ屋もあるしということで二人はケーキを買いに出かけた。道中どんなケーキが好きかとか他愛もないことを話す。

「詩の方はどう?」

淳は苦笑した。

「いいのが書けたり、書けなかったり」

「まあ、そらそうだな」

「でも前とは違ってpv数とかは気にならなくなりました。ただ感想とかが嬉しい。シンプルになりました。そこはよかった」

淳はそう言いながら随分穏やかな顔をしていた。二人はケーキ屋に入り、それぞれ好きなケーキを買うと家に帰り紅茶をいれた。淳はショートケーキ、省吾はモンブランを食べる。淳はショートケーキの先端を食べると、紅茶を飲んだ。

「客観的に見て僕は幸福ですね。大学に行けてて、小説を書けてて、省吾さんもいて、今こうやってケーキを食べてる。幸せだと思わなければ罰が当たる」

いいことを言っているし、その方向で進んで欲しいが無理をしている。省吾はまだ淳の中に読めないことや病気への恨みがあるのを知っている。

「幸せだと思いながら恨むって可能なのかな」

「どうしたんですか、省吾さん」

「いや、淳の中には両方あるでしょって思って」

省吾はモンブランの中にあった栗を口に入れた。

「まあ、でも自分のことを幸せだと思っている深川淳が何を書くかは興味があるけどね」

そこで淳の手がピタッと止まった。

「どうした」

「省吾さん」

「うん」

「ひょっとして僕の詩読んでます?」

「読まれてないとでも思ってたの?」

「わーーーーーーー‼」

「暴れるな淳! コップがかやる。というか読まれたくないならガード甘すぎだろ」

そんなもの、淳が初めて投稿した日に後ろで見ているわけで、URLから何から何でも知っている。淳は頭を抱えて蹲っていた。

「…………した……」

「え?」

「……どうでした」

「すげーらしいなと思ったよ」

そう言うと淳はゆっくりと起き上がった。

「それなら、まだ、いい」

淳が放心したような顔をしているので、省吾は少し心配になった。

「俺が読んでると書きにくい?」

「いいえ」

淳はまたショートケーキを食べ始めた。

「僕が書くことは決まっています。それは省吾さんが読んでても読んでなくても一緒」

「ああ、そのあたりさ」

「何です?」

「いや」

強いよねと。ひどく生きづらそうなところもあれば、バランスとれてる所もあってそこらへん何とかうまく行けばいいんだけどなと思いながら省吾はモンブランを食べ終わった。

 

 

「淳、口紅がついてる」

研究室の飲み会から帰って来た淳の口元を省吾が見咎めた。

「え?」

省吾は淳に近付いて行って冷淡に見下ろす。ラメ付きの赤色が淳の唇と少しずれながら重なっている。省吾は洗面台の方を指差した。

「鏡で見て、石鹸で洗って」

淳は言われた通り洗面台の前に立ち、「うわ、ほんとだ!」と声をあげた。省吾はため息をつかざるを得ない。飲み会の会場がどこだったか知らないが、こいつはそこからここまで露骨なキスマークをつけて帰って来たのだ。

「お前彼女何人かいたんだろ、ならキスされた後確認くらいしろよ」

省吾は自分の声がとがっていることに気が付いたがどうしようもなかった。

「すみません、久し振りだったから忘れてました」

洗面所から淳が出てくる。省吾は淳の口元を見た。ラメが一つでも残ってやしないか。そんな神経質な確認をしようとしてやめた。省吾は腕組みして台所の調理台を背にする。

「何があったの」

自分は何を聞いているのだろうと思った。淳がキスマークをつけて帰ってきたとして、省吾はそれをとやかく言える立場にない。

「飲み会の後ドクターの先輩に話があるって誘われて、鴨川を二人で歩いてたら橋の下でキスされました」

「お前のこと好きだって?」

「別にそんなこと言ってなかった」

省吾は右手の手のひらを額にあてた。ふざけんなよな。

「でさあ、お前はその人のこと好きなの。つーか今彼女いるの。さっき久し振りとか言ってたからいないのか」

自分の質問が全て余計だということに省吾は気が付いている。淳は省吾の言葉の中に含まれる棘に気付いてか気付かないでかいつも通りの様子で答える。

「好き、とは思わない。それに彼女もいないですよ。当たり前じゃないですか」

「別にさ、いてもいいんだぞ」

省吾は乾いた笑いとともにそう言った。

「え?」

「別に、お前に彼女がいてもいい。つくりたいなら、つくればいい。俺達は付き合っているわけじゃないし、そのあたりに関して俺はお前に何も言わない」

「省吾さん、どうしてそんなこと」

「分かんないのかよ」

淳はしばし黙した。

「省吾さんは強い。僕は省吾さんにこんなによくしてもらって、省吾さんが俺のものになれって言ったって、僕を含めて誰も咎めることなんてしないのに」

「それとこれをトレードするつもりはない。あと淳、不用意なことを言うなら俺はそうする」

「……不用意じゃない」

省吾は口の片端を上げた。

「ああ、そう。覚悟の上ってわけだ」

省吾は淳に歩み寄ると淳を壁に追い詰めた。左手を淳の顔の側の壁について、にこりともせずに淳を見下ろす。一方の淳はというとキッと省吾を見上げていた。両者動かないまま一分過ぎた。省吾は目を伏せる。これじゃ交戦モードじゃないか。

省吾は左手を外すと一歩下がった。

「悪かった。こういうことはもっと幸福にやろう」

淳は追い詰められた時の状態のまま壁際に立っている。

「怖かったか」

「いいえ。僕省吾さんのことは信頼してますから」

省吾は首を傾けた。

その信頼は苦いよ、淳。

 

 

省吾さんが俺のものになれって言ったって、僕を含めて誰も咎めることなんてしないのに。

……不用意じゃない。

それってさ、オーケーってこと? 省吾は会社の屋上で紫煙を吐き出しながらそこにはいない相手に心の中で尋ねていた。鉄柵から見下ろせば四車線の道路を車がせわしく走っている。俺は馬鹿だと省吾は思った。あの言葉を聞いた時追い詰めてしまった。もっとやりようはあっただろうに。

省吾はまたタバコをくわえる。微妙な関係だ。淳はその気は無いと言っていた。だけど中国から帰って来た後襲っても何も言わなかった。大晦日の時は何か会いたいみたいなことを言ってきた。で、今回これ。何なんだろうこの関係は。淳は何を考えているんだろう。

と、そこで省吾はあるおぞましい想像をした。おぞましい、しかし十分にあり得る想像。口に苦いものが広がり、省吾はタバコを片手にして咳込んだ。それどころか若干の吐き気がして思わず口をおさえた。その想像というのはつまり、自分が淳に触れるのは淳にとって一種の自傷行為なのではないかということで。淳は自分の身体などどうとでもなれと思っているのではないか。俺はその自傷行為に一役買っているのではないかと思った。だとするならば、俺と淳は一緒にはいられない。冬の風が紫煙を乱した。

 

 

「それは違いますね」

夕飯後ちゃぶ台についたままその話をすると、淳は即座に否定した。

「省吾さんを使うだなんてことしないですよ」

それでも本当か?と省吾は思った。疑心暗鬼になればいくらでも疑える。何しろこの話、淳がそうですよと言うことはあり得ないのだ。省吾は何も言えないまま淳を見つめていた。すると淳は省吾の顔を一瞬見て目をそらした。右手でセーターの上から左腕の上腕部をおさえる。

「僕の自傷行為はもっと直接的です」

省吾はそこで胸を突かれたようになって、淳の左腕を掴んだ。一気にセーターを

まくり上げる。淳が身を縮めた。

「痛っ」

淳の白い上腕には赤く長い直線が数本引かれていた。

「馬っ鹿……!」

省吾は息が止まりそうになった。気付かなかった。全然気付かなかった。

「どうしてこんな」

「だって手首だとばれるじゃないですか、だから」

「そんなこと聞いてんじゃねえよ‼」

淳は俯いた。

「理由、なんて、無い」

省吾は腹立たしかった。自分の考えがぬるかったことが。そして何より淳の行為が。自分を自傷行為に使われている方がまだましだったのではないか。省吾は淳の両肩を掴んだ。

「淳、二度とするな。頼むから」

淳は目線を合わせない。

「ッ頼むから!」

声が震えた。淳はびっくりしたような顔をしてこっちを見てきた。

「省吾さん?」

淳の指が省吾の頬に触れる。

「…………分かりました。これはしません」

「全部だ。全部するな」

淳は困り顔をして笑った。ばれたか、と。

「でも、だったらどうすればいいんです? 省吾さん。僕には必要なんですよ」

「俺を使えよ」

あり得ない言葉が出た。淳は穏やかに笑うと自分の額を省吾の額にくっつける。

「言ったでしょう。省吾さんは僕の自傷行為としては機能しない。それよりね、省吾さん」

淳の額が離れた。そのまま淳の身体がグラリと傾く。

「眠い」

淳は床に身体を横たえると本当に眠たげに省吾に視線を送った。

「薬か」

「多分」

淳は薬を増やしているのだが、恐らくそれに身体がまだ慣れていないのだ。時折強めの睡魔が襲ってくる。

「でも、今日も飲まなきゃね。取ってくれますか」

省吾は立ち上がると淳の薬袋から一日分の薬を取り出した。増えた。錠剤を数えると省吾はたまらない気持ちになる。薬とコップ一杯の水を渡すと、淳は少しだけ上体を起こして薬を飲んだ。水が一筋顎を伝って床にしたたった。

「すみません。ありがとうございます」

淳は省吾にコップを返すと床に沈みこみ目を閉じた。息遣いとともに身体がゆっくりと上下に動く。省吾はコップを片付けると、またちゃぶ台の前に座り、肘をついて指を組み合わせた。横目に淳の姿を見る。

微妙な、とても微妙な関係。気があるのか、ないのか、これからどうなるのか分からない。けれど一つはっきりしていることがある。俺達は戦うために一緒にいるのだ。

 

 

淳が研究室でパソコンを叩いていると左腕の傷が疼いた。胸から微かな苛立ちのようなものがこみ上がって来る。こういうことのためにつけた傷だ。傷が痛めば生きているという気がする。

前の晩淳は省吾に自傷行為をする理由など無いと答えた。けれどあるといえばあるのだ。最近淳が腕を切りつけているのは、曖昧な状態を脱するためだった。この頃薬のせいなのかどうか分からないが頭がぼんやりする。それが淳には耐えがたかった。腕をカッターで切り裂けばその瞬間は頭が冴える。そして後からもじわじわ痛んで、自分がここに生きて存在するのだということを分からせてくれる。いわば淳は戦うために自傷行為をしていた。だけど、

眠い。

淳はパソコンを閉じ机に突っ伏した。腕の痛みにも関わらず眠気は襲ってくる。自分はクズ人間だと思いながらそのまま眠りについた。三十分ほどして起き上がったが頭が朦朧とする。そのまま研究室にいても何もできないので大学構内を散歩することにした。やはり僕はクズだと思いながら。

非常口の階段から夕暮れが終わりつつある外に出ると歯の根が合わないほど寒かった。だが眠気覚ましには丁度いいだろうと思った。そのままガタガタ震えながら散歩を続ける。思わず笑みが漏れた。これも一種の自傷行為には違いない。でも、このくらいなら省吾さんも許してはくれないだろうか。

淳はもう腕を切りつけるのはやめようと思っていた。もう彼にあんな顔はさせられないと思ったから。淳には好きという感情が分からない。いや、人間として好きというのは分かるし、その意味では省吾のことを非常に好きだ。けれど恋愛面で好きというのは分からない。だが、好きかどうかと大事かどうかもまた違っていて、省吾のことは紛れもなく大事なので、もうあんな顔はさせまいと思うのだ。

日が暮れた。授業終わりの学生たちが自転車に乗って淳の横を次々に通り過ぎていく。淳は近くにあったベンチに座って帰宅する学生達をぼんやりと眺めた。ふと自分が言った言葉を思い出す。

――省吾さんが俺のものになれって言ったって、僕を含めて誰も咎めることなんてしないのに

本心だ。そしてそれ以上でもそれ以下の意味でもない。咎めることなどできないと思う。そこに自分の感情は介在しない。

自分の手を見ると絶えず細かく震えていた。生きている。淳は両手をぎゅっと握りしめた。

僕と省吾さんは付き合ってみて違っていたら別れればいいみたいな関係ではない。そんなことで失いたくない。だから、生半可に好きだとか言うわけにはいかない。けれどそこで淳はあれ? と思った。

でも、じゃあなんで僕はあの口紅をつけて帰った日省吾さんにあんなことを言ったんだろう。というか。淳は手を開いた。

というか、僕は省吾さんを失くしたくないんだ。

当たり前の。あまりに当たり前すぎて気が付かなかった感情。淳は額に手をあてて仰向いた。そうか。

淳は遠い昔の電話を思い出す。あの時自分は金木にいて、省吾は自分のことを好きだと言った。そしてそれは付き合いたいということかと尋ねたら彼の返答は『お前といる時間を最大化するのにベストな手段がそれなら俺はそれを取るけど』。

ねえ、それじゃあ省吾さん。

「今の僕達にとってベストな手段ってなんですか」

 

 

淳は咳込みながら帰宅した。

「おかえり。どうした風邪か」

台所から声がかかる。

「ちょっと長い間外にいたので」

淳はマフラーと上着をクローゼットにかけた。生姜湯飲む? と言われ、淳はいまいちそれが何か分からなかったが、はいと答えた。しばらく待っていると省吾は、彼と淳の分の生姜湯をちゃぶ台にのせた。

「これ何が入っているんですか?」

「生姜と蜂蜜。結構効くよ」

一口飲むと確かに甘さもあるがしっかりと生姜が入っていて身体が温まった。淳はそれを飲みながら省吾に尋ねる。

「ねえ、省吾さん、聞きたいことがあるんです。もう何度も聞いたことですけど」

「なに?」

「省吾さんは今でも僕と付き合いたいですか?」

省吾は生姜湯を飲みながら目で笑った。

「なんだ、それ考えてたから外に長いこといたの?」

淳は咳込んだ。

「すみません、何回も聞いちゃって」

省吾は首を振る。

「いいよ。俺もこれまでそれを聞かれてあまり正直に答えてこなかった気もするからさ」

「そう、なんですか?」

淳はコップをちゃぶ台に置いた。省吾は自分もコップを置き頷くと穏やかに話した。

「うん。だから今日は正直に話すよ。シンプルにしようか淳。今俺達は同棲していて、今の状態と付き合うという状態、違うのは何だと思う?」

「え……と」

「分からない?」

省吾は笑うと淳に手を伸ばし柔らかく押し倒した。仰向けになった淳を眺めながら省吾は普段通りの低い声でしゃべる。

「つまりこういうこと。お前に触ったりとか……そういうこととかやりたいかと言われたらイエスだよ。一貫してね。あんまり露骨だから言ってこなかったけど。これで答になった? 淳。」

淳は頷いた。そう、ならよかったと言って省吾は淳の上からどき、淳は起き上がった。省吾は生姜湯で手を温めている。

「それで、どうしてそんなことを聞いてきたのか聞いてもいいのかな」

「省吾さんを失くしたくないと思って」

「嬉しいことを言う」

「そのためにどうするのが一番いいのか分からなかった」

「どっちでも。どっちだとしても、俺が淳から離れることはないよ。好きな方を選びな」

好きな方。どうなんだろうか。淳は首を傾げた。

「そういうのとかは、正直抵抗があります。でも省吾さんの手は好きです。触られるのは嫌じゃない」

省吾はそれを聞いて大溜息をついた。

「どうしたんですか、省吾さん」

「淳、お前男だろ? 自分がどんな残酷なこと言ってるか分かってる?」

「んー、分かり、ます、けど」

省吾は遂に諦めた。手を淳の頬に伸ばす。

「こういうことはしていいわけね」

「はい」

「キスは?」

「間」

「なんだ、間って」

「境界線上です」

「ああそう」

省吾は淳に顔を近付け、唇と唇を軽く触れさせた。

「じゃあ、好きにさせる」

 

 

淳が本格的に風邪を引いて帰って来た。

「今日は早めに薬飲んで寝ちまいな」

省吾がそう言うと淳はその通りにしたのだが、十二時頃になってまた目覚めた。

「あーあ、起きちゃいましたね」

「起きちゃいましたねじゃない。寝ろ」

「省吾さん、何かお話して」

「幼児か」

お話ね、と省吾は首をひねった。生憎ドラマチックな話は持ち合わせていない。

「お前が見たかどうか分からないけど、この前三番目の妹と四番目の弟の連名で手紙が来た」

「三番目と四番目って大家族なんですね」

「そう、であいつらが一番小さいの。六歳と三歳。そんなんだから手紙の内容ぐちゃぐちゃなわけ。クレヨンで書いてあるし。ただ、『かえってきて』とだけ読めた」

そこで省吾は目をすがめて笑った。

「でも俺親と仲悪いの。どうしたらいいと思う?」

淳は小さく息を呑んだ。どうしたらいいなんて省吾から初めて聞かれたような気がする。

「……間をとって、二年に一回くらい帰ったらどうでしょうか」

「ま、そんなところかな」

省吾はゆっくりと肩を上下させた。

「お前の所は? 親と仲良い?」

「良いですよ。でもあの家での生活は『痛かった』」

「『痛い』?」

「『痛い』というのは恥ずかしいとかそういう意味じゃなくて、痛覚的に心が痛いという、そういう意味です。省吾さん、僕はね病気のことは人に話せる。でも中学・高校時代の家とか学校のことはまだ話せないんです。『痛過ぎ』ますから」

「そうか」

省吾は目を伏せた。淳の傷は知ったつもりになっていた。けれどそれは氷山の一角だったのだ。まだお互い知らない所が沢山ある。

「でも、両親のことは好きですよ。僕が実家に帰って、初めて病気だと言われたことを伝えて、休学もしたいと言って、ついでに彼女に振られたこともばれた時、父は何と言ったと思います?」

「なんて言った」

「今のお前はいいもの書けるよと言ったんです。僕はそれを聞いて全てがどうでもよくなるくらい嬉しかった」

「大した親父さんだね」

「はい」

淳は本当に幸せそうな顔をしていた。省吾は淳の親がどういう人たちなのか全く知らない。けれど淳の父親は間違いなくその時息子が必要としていた言葉を言ったのだ。俺は果たしてそういうことが言えるだろうかと省吾は思った。

「で、話変わるけど、なんでそんなに風邪悪化してるの」

「……外にいて」

「また考え事? 中でしろよ」

「気合入れないといけないですから」

省吾は少し苛立った。

「なんでそこまで」

「ぼんやりしてますから。省吾さん、僕は自分が無能であることが許せない」

「無能は生きてちゃいけないと思う?」

「そうは思わない。だけど、僕は無能であるなら生きていてはいけない」

淳はやや荒い息をついた。顔が赤くなっている。熱が上がってきているのだ。省吾は話を打ち切って無理やりにでも寝させようかと思った。けれど、もう少しだけ話を続ける必要もありそうだった。

「僕が生きているだけですごくマイナスなんですよ。だから何かすごいことをしてそれを取り返さないといけないんです。『生まれて、すみません』という感覚はよく分かる。それは病気になる前から。でもいつからなのか分からない」

「生きているだけでマイナスだなんて、そんなことは絶対にないって俺がどれだけ言ったとしても駄目?」

「駄目」

取り付く島もない否定。

「そうか、淳もうほんとに寝な。でなきゃ少なくとも横になりな。気付いてないかもしれないけど体苦しいはずだ」

「はい……」

淳は素直に横になった。省吾は考えた。省吾は出会う以前の淳をほとんど知らない。けれど淳の根本的な呪縛はその時代まで遡るのだろう。それを解かなければきっと淳は楽にはなれない。

 

 

小さな子供が家で一人になっている。両親は旅館の方の建物で宿泊客の対応をしているのだ。子供は他に誰もいない家で食器棚の前に行くとその引き出しを開けた。中から果物ナイフを取り出す。子供はその刃を手首にあてると涙をこぼした。

「馬鹿だな……手首じゃ、死ねないよ」

深川淳は省吾と暮らしている家で目覚めた。身体が熱い。額に汗が伝っている。このだるさは完全に風邪のものだった。さっきのは夢?それとも。それにしてもまるで他人事のようだった。

淳は布団から出る。一晩汗をかいて身体がべとついて気持ち悪い。シャワーを浴びようとして立ち上がるとちゃぶ台の上に書置きを見つけた。お粥を作り置きしてくれたらしい。なるほど、コンロの上に鍋がのっている。淳はその鍋を見つめながら感謝した。

ひとまずシャワーを浴びる。お湯の粒を全身に浴びながらレポート書かなきゃなんてことを思った。けれどだる過ぎて、頭がぼーっとし過ぎて駄目そうだった。僕は馬鹿だ。結局能率を落としている。シャワーを終えると、お粥を温めなおし、冷蔵庫から出した梅干しと一緒に食べた。途中、あの夢にも似た何かについて考える。

自分がどうしてこういう厄介なことになったか考えた時に、親や自分の幼年期のことが頭をよぎらなかったではない。しかし淳はそのせいにする気になれなかった。自分の病気も、今の自分も、僕のものだと思った。人のせいでこんな苦しいことになっているだなんてまっぴらだと思った。

大学に入ってから小さい時のことは誰にも喋っていない。病院の先生も含めて。それはまずいのだろうか。病院の先生には中学・高校の時のことも喋っていない。それもやっぱりまずいのだろうか。でも話せないのだ。それに今更とも思う。

空になったお椀にスプーンが当たってカランと音を立てた。四歳か五歳か。特別何かあったわけじゃない。ただ母に叱られて悲しかった。あの時自分は本当に死のうとしたんだろうか。本気ではなかったという気がする。淳は空のお椀を見下ろした。ではあの頃から自分は死を弄んでいたのだ。

ふふと笑いながら淳はその場に寝転がった。度し難い子供。自分の状態をあの頃のことのせいにする気は無い。けれど、今の自分はあの子供とどうしようもなく繋がってはいるのだと、そう思った。

 

 

省吾はスーツを脱ぐと淳に尋ねた。

「今日は何してたの」

「ずっと家でうだーってしてました。あとレポート書いてました。明日締め切りだからさすがに書かなきゃと思って」

淳は赤い顔をして座って布団を足にかけている。熱はまだ下がらないらしい。

「そうか、もう授業が無いのか」

いつもならこの曜日淳は大学に出かける。熱があろうが出たい授業が淳にはある。

「そう、この前最後の授業でした。人生で最後の授業だったかもしれない」

もし、レポートを全て出せるならば単位はすべて揃う。そうなれば少なくとも単位の上からは淳が授業を取る必要は無い。それどころか、就職口を見つけ修論も書かなければならない来年において授業をとることは基本的に推奨されない。

「ねえ、省吾さん。僕は大学で何ができたのかな。本も読めなかったし、授業を聞いても死んでしまえって声が響いて集中できなかった……。これは、言い訳か。僕はどうしようもなく怠惰だった」

省吾は笑う。

「淳、教えて欲しいんだけどさ、真面目に勉強しようとしたやつで、大学を完全に満足しながら出て行ったやつっているの。俺真面目じゃなかったから知らないんだわ」

「そんなの僕も知りません」

淳は布団をかきよせる。省吾は淳の布団スペースに入っていった。

「省吾さん、今更ですがうつります」

「今更だな。同じところに住んでいる時点で諦めてる」

省吾は後ろから淳を抱き締めた。

「つらかったか、大学」

「楽しかった。病気でも怠惰でも、どうしようもなく楽しかった。僕は勉強も本も好きでした」

淳は身をかがませ布団に顔を押し付けた。省吾は淳の肩をポンポンとたたく。しばらくしてようやく淳は顔を上げた。

「病気じゃなかったら、元気だったらって何度も考えました。でもそれは無意味です。僕にそれは無いんだから」

「うん」

「僕は一体何ができたんでしょう」

「それは俺には教えてやれない。でも俺は淳が今生き残っていることをすげーことだと思う。この大学生活で生き残っただけですごいんだよ、淳」

「そんな甘いこと、他の人は思わないでしょう」

「何? 他人がどう思うか考えてるの? やめろやめろ。不幸になるだけだ。お前と、お前の周りにいる大事な人間と、気にするのはそれだけでいい」

スン、スンと淳は音を立てた。

「というかね、淳」

「はい」

「お前あと一年あるし、修論書かなきゃだから」

はは、と淳はやっと笑い声を漏らした。

「そうですね、書けるのかな修論」

「知らん、知らん。書けなかったら留年しろ」

淳は笑いながら省吾に体重をかけた。

「絶対に嫌」

 

 

会社の飲み会に二次会まで付き合って、省吾は帰り道を歩いた。オレンジ色の街灯が両脇にずっと伸びて行って、どこか魔界にでも通じていそうな夜だった。省吾は酒を飲んでも乱れることはないが、少し普段とは違う気分になるので、そんな街の風景をいいなと思いながら眺めた。

今日淳の方はレポートを出して病院に行ったはずだ。もう帰っているには違いないが、と時計を確認して省吾は愕然とした。日付を回っている。帰っているどころか寝ているだろう。ため息が出た。街を歩きながら自分の手のひらを見る。

昨日肩を叩いていた時、泣いてた?

分からない。敢えて見なかった。淳からすれば彼の大学生活は泣くほど悔しくはあるだろう。何か元気の出るものは無いだろうかと考えて省吾はあることを思い付き、近くにあったファミマに入っていった。

 

 

省吾がそーっと玄関のドアを開けると、まだリビングの電気がついていた。あれ、と思いながら中に入ると、淳はちゃぶ台で本を眺めていた。

「まだ寝てなかったのか」

淳は栞紐を挟むと省吾に振り返った。

「はい。眠れなくて。もう薬飲んだのに変ですね」

薬と聞いたところで省吾は頭を抱えた。

「どうしたんです?」

「いや、酔ってないつもりだったけど酔ってたみたい。そうだよな、お前飲めないよな」

「何をです?」

省吾は黙って片手に持っていた白いビニール袋の中身を示した。小振りの日本酒一瓶とアルコール度数低めの酎ハイ。淳は省吾の意図を理解した。省吾は淳と一緒に酒を飲もうとしていたのだ。しかし、省吾の言う通り淳は酒を飲めないことになっている。薬との飲み合わせの関係でアルコールの摂取は控えるように言われているのだ。

「でも飲みますよ」

「駄目」

「折角です。ちょっとだけ。省吾さん手伝ってください。僕それ一缶は飲めないけど、ほんの少しならいいでしょ」

省吾は渋々コップを取り出すと、淳に持たせた。酎ハイの缶を開けて傾ける。

「ストップって言ってね」

「ストップ!」

「お前ほんと少しだな。いいけど」

淳のコップには小指の太さくらいの酎ハイしか注がれていなかった。

「スーツ脱いでくるから待ってて」

スウェット姿になった省吾は淳とちゃぶ台を囲んで、酎ハイの缶とコップをコンといわせた。

「乾杯」

淳はただでさえ少ない酎ハイをちびちび飲んでいる。それを省吾は愛しく見つめた。

「そもそも弱いもんな」

「はい、よく覚えてますね」

「忘れるか、あんなもん」

省吾は前回淳と飲んだ時のことを思い出す。それは省吾と淳が出会った夜のことだった。

「今日はなんでお酒を買ったんですか」

「飲み足りなくて」

「うそつき」

省吾は何も言わず笑いながら酎ハイを飲んでいる。淳はというと彼の持ち分を飲み干した。

「足りない? まだあるよ」

「いいえ、これで十分」

確かに淳は白い肌をわずかに上気させて座っている。省吾は淳のあまりの弱さにおののき、同時に彼のいつもとは少し違った様子に目をそらした。

「病院はどうだった」

「先生と相談して薬を増やしてきました」

「……そうか」

「しょげないでください。必要な分を増やしただけです。僕だって薬はあまり好きじゃない。それにしても省吾さん、僕達長い付き合いですね」

前回酒を飲んでからだから三年半弱になる。

「……初めて会った時いきなり何も言わずに酒を飲み始めて、傍若無人なやつだと思った。かと思えば自分がどういう状態だったのか、すごく整った喋り方をして印象が変わった。本当は周りのことを気にしすぎるほど気にするやつだってことが分かったから。でもこうやって長いこといると、やっぱり傍若無人は傍若無人で、一体どうなってるんだお前」

「知りませんよ」

でも、そういう矛盾を省吾さんは好きでいてくれてるんでしょとは言わなかった。加えて、あの日省吾さんに会えてよかったとも言わなかった。

「省吾さんは酔いませんね」

省吾は朗らかに笑う。

「酔ってる。酔ってるよ。今理性を手放さないので手一杯。だから今日は間違っても近付くな淳。何をするか分からない」

「分かりました」

淳は微笑んで省吾を見る。

「お酒飲んだら眠たくなってきました。歯磨いてきますね」

歯を磨くと淳は省吾の後ろに立った。

「ねえ、省吾さん」

「うん」

「あの日、僕は松井さんと省吾さんと酒を飲まなかったら生きていない」

「……うん」

「その後も省吾さんがいなかったら、僕は生きていない」

「うん」

「つらいことが多いし、どうなるか分からないけど、僕は今日ばかりはここに生きていることを感謝したい」

「そうか」

じゃあ、いつのまにか俺の目的は達成していたのかもしれないねとは言わなかった。

 

 

「しばらく帰省しようかと思うんですよね。就活も始まってしまうから今の内に。どう思います?」

「必要なら止めないよ」

明け方、省吾はベッドで横になっていて、淳はベッドに腰掛けている。省吾は淳に手を伸ばした。その手を淳は握る。

「止めないけど、寂しい。すごく。それを言っても、もう許されるのだと思っているんだけど、合ってる?」

「はい」

そう淳が言うと、省吾は起き上がった。

「行っておいで、淳。ともかく元気で。何があってもそれが大事だ。寂しいけど、それより淳が元気なのが大事だ。……でも、たまにこっそり電話してくれるならすごく嬉しい。風邪ひくな」

 

 

淳はバスに乗っていた。弘前まではかなりの時間がかかる。じっと座っていると淳の内側に巣食う有象無象の声がし始めた。かなりうるさい。淳は顔をしかめる。省吾さんから離れた途端これだ。淳はその声達に命じる。修論と就職の話はするなよ。それはメインの僕が考えることだからな。お前達が口を出すことじゃない。

高速道路の料金所を一つ通過した。声達は一旦低くざわつき、その中から一つ囁きが漏れ出てきた。

――省吾さんのこと好き?

淳はその問いに思わず片眉を上げたが、暇なので付き合うことにした。

好きだよ。

――どこが好き?

全部。

――ずっと一緒にいられるとでも思ってる?

…………どういうこと。

――就職どこでするの。

関西で探してる。あの家から通える所で。

――文学部の大学院生がそんなに自分の思い通りになると思う?

うるさい。就職の話はするなと言った。

――それにさ、省吾さんがいつまでお前と一緒にいてくれると思う?あんなすごい人がお前にいつまでもこだわる理由なんてないじゃん。

そこで淳は口の端に暗い笑みをひいた。

やっぱりお前達ろくでもない。黙れ。

淳はバッグからスマホとイヤホンを取り出すと音楽を大きめの音で聴き始めた。「お前達」だなんて言って本当は自分の声であることを知っている。何もかも自分の不安なのだ。窓の外を見ると、京都から急速に遠ざかっているのが分かる。

でも、省吾さんを疑うのはナンセンスだ。いつか離れてしまうかもと離れない内から考えてぎくしゃくするのだけは避けなければならない。

――終わりは来るよ。必ず何かのかたちで終わりは来る。その時どうするの、お前は生きていけるの。

音楽を聴いていても否応なく聞こえてくるその声に淳ははっとなった。これは意味のある問いだ。そうだ、僕は省吾さんがいなくても生きていけるようにならなくちゃいけない。それは確かにそうだ、とそう淳は思った。

 

 

「いかん、無理してる。というか気負ってる」

省吾はタバコ片手にスマホで淳の詩を読んでいた。淳の詩は画面の中で張りつめんがばかりだった。省吾は思わず苦笑いしてしまう。まだ別れて一日も経っていないのにどうして?タバコを一度吸い、煙を吐き出した。

お前はお前のままでいいのに。でも。

省吾は画面をもう一度見た。

お前はお前のままでは飽き足らないんだ。

そして俺はその強欲さが決して嫌いじゃない。それは終わることの無い旅路だけれども。

「行け、淳」

 

 

ベランダにいると夜気が冷たい。

「元気にしてんの」

『はい、そちらは』

省吾は右手にしたタバコの灰を落とした。

「お前がいないとタバコが進んで仕方がない。ヘビースモーカーになってしまう。早く帰って来い」

『省吾さんは僕がいたってヘビースモーカーでしょ』

「もっとまずい。タバコの火が消えるのが怖いような状態」

『それは……僕ちょっと引いてます』

「だろ? どうにかしてくれ」

省吾はタバコをくわえながら本当にどうにかしてくれと思った。この頃はタバコをまさしく吸い潰すという感じで、淳が向こうに行ってから一体何箱買ったのか分からないくらいだった。

『じゃあ、省吾さん、僕と話している間は吸うのやめましょう。そうすればちょっと減ります』

「さぞ沢山話してくれるものと見た」

省吾はタバコを消すと部屋の中に入ってちゃぶ台の前に座った。

「今日何してた」

『今日はたまたま高校の頃の同級生と会って』

「友達?」

『そういうわけでも……』

「なんか話したの」

『計算が合わないって言われて。ほら、僕大学院に行く前に留年しているじゃないですか。なんでって。それで、病気の話をして』

「お前ね、さして仲良くもないやつにそんなことまで正直に言わなくてもいいの。それで、向こうは何だって?」

くすくすと笑う淳の声がスマホの向こうから聞こえた。

『俺も病気かもしれないんだよねって精神的に辛いこととか、ちょっと自分のうつっぽい所とかを山のように喋ってきて、僕圧倒されちゃいました』

省吾は顔をしかめた。

「お前、それ今笑ってるけど腹立つだろ」

『腹なんかもう立ちませんよ。よくある話なんです。みんな大変なんだなーって思いながら聞いて』

省吾の方は若干腹を立てていた。その同級生とやらと淳に。淳はそういう時もうちょっと怒るべきなのだと思った。電話で話しているのがもどかしい。

『省吾さんはそういうこと言いませんね』

「言う訳ないだろ」

『つらいこととか言ってもいいのに。僕今なら聞けますよ。僕がそういうことできるのが期間限定なのは申し訳ないですけど、でも今なら聞けますから言ってください』

省吾は考えた。仕事、問題ない。適当にやっている。実家、問題ない。もう出てきている。金、当座は問題無し。健康、ヘビースモーカーなこと以外は大丈夫。淳と会えないこと、言ってもしょうがない。割とのうのうと生きている。けれど、心の底にしまっていたことが一つあった。

「いつまでお前と一緒にいられるかと思うと時々たまらない」

『省吾さん?』

「もちろん離れ離れにならないようにお互い努力しているけど、それでもこの暮らしがいつまで続くかと思うと身体が冷える時がある」

『僕も昨日同じこと考えていました』

ああ、なんだお互い心配は同じかと思った。ただ、「離れ離れ」については省吾にはもう一つ気にしていることがある。これまで決して省吾から言おうとはしてこなかったこと。淳と正面から話したことがないもの。省吾は目の前の板面に肘をつくとそれを口にした。

「淳、自殺の話をしたい」

 

 

「自殺の話をしたい」。そう言われて淳は省吾の意図を掴みかねた。部屋の時計がコーン、コーンと鳴った。夜の十時である。

「省吾さん何で?」

『俺が一番恐れているのは死別だから。今お前が余裕があると言うなら、今その話をしておきたい』

淳は得心がいった。

「いいですよ。何から話しましょう」

『情報共有させて。一番最近で死のうと思ったのはいつ?』

「小さいのはあり過ぎて覚えていないですね。でも大きいのはやっぱりあの年初のやつです。そこからは段々落ち着いています。波はありますけど」

『……小さいのはまだ来るんだな』

「来ますね。でも昔に比べればはるかにマシです。死のうかなって一瞬思うけど真面目には考えない感じです。だから大丈夫」

『大丈夫じゃない。とにかくお前がやろうとした自殺について全部喋って。ただ、無理はしなくていい。苦しかったらこの話題はもうよそう』

えっと困ったなと淳は思った。全く苦しい話題ではないし、むしろ話す相手がいないので困っていたくらいなのだが、全部と言われてもそんなのあり過ぎてあまり覚えていない。とりあえず、一番初めのものから話してみる。

「じゃあ、覚えている範囲で。四歳か五歳の頃果物ナイフで自分の手首を切って死のうとしました。でもそこからは割と生に拘る子供になって、ただ中学の時はいじめられていたから、やっぱり死のうと思ってずっと遺書の文面とか考えてたんです。でも具体的な方法とかは考えなかったかな。高校生の頃は、なんでかな、詩がうまくいかなかったからかもしれないですけど、死にたくなっちゃって毎日毎日死ぬことを考えてた。方法は首吊りにしようと思って、近所のお店に下見に行ったりなんかして、でも結局縄は買わなかった」

淳はあれ?と思った。あまりにもすんなり喋れる。中学・高校時代のことは「痛過ぎ」て喋れないと言っていたのに、死を軸にするとなんて喋りやすいのだろう。もちろんまだ一部しか喋っていないのだけど。

「だから、結局真面目じゃなかったんですその頃は」

『馬鹿言ってんじゃない』

「松井さんと省吾さんと僕とでお酒を飲んだ日の晩、死ぬなら包丁でいいと気付いた話はしましたね。でもちゃんと死に方とか調べるようになったのは初めて病院に行った後です。僕この話したことなかったと思いますけど、初めての病院、今の病院とは違う所ですけど、そこではうまくいかなかったんですよ。先生とコミュニケーションがうまく取れなくて、初診の時に怒られた上に薬も出してもらえなかった。病院に行けば助かるかもしれないと思っていたのにそれでしたから、僕白状しますけど道で泣きながら帰りました。帰ってすぐ死に方をググって。馬鹿ですね。僕の検索能力じゃいい死に方なんて出てきません」

『…………』

「省吾さん?」

『聞いてるよ』

普段通りの穏やかな声だった。淳は安心した。

「それで……あとはあんまり覚えてないな。そこからの方が自殺とか沢山考えたんですけどあまりにも日常だったから。そう、二ヵ月とか三ヶ月に一回一日中自殺のことなんか全く考えない日があったら、その日は今日なんて幸せだったんだろうと思いながら寝てた。そのくらい自殺のことを考えるのは日常だったんです」

『一番危なかったのは?』

そこで、淳は顔をやや赤らめた。あれは恥ずかしい。

「卒論が破綻した時のです。省吾さん、寮まで来てくれましたよね」

『ああ。でも詳しい話は聞かなかった』

「部屋の片付けをして、遺書も書いて。遺書を本当に書くのは初めてだった。そして包丁を持って鴨川へ行きました。寮の中で死んだらまずいでしょ。ちゃんと頸動脈がどこにあるのかも調べて包丁を首にあてた。あの時の冷たさは今でも覚えています」

『……そうか。どうして生き残ってくれたの?』

淳はその場で膝を抱えた。

「怖かったから。それに疲れたから。本当に怖かった。死ねないことも怖かったけど、死ぬことも怖かった」

『それは今も変わらない?』

「はい、変わりません。怖い。誰か優しく殺してくれないかと強く思いました。でもあと少し」

『あと少し?』

「はい。あと少しで死ねるんです。あと少しだけ。省吾さん、僕はね自殺未遂者の自殺率が高いというのはよく分かる。だって、もう知ってるんですよ」

『淳、お前が死ぬと俺は悲しいとか、残された方の身にもなってみろとかそういうことを言う気はさらさら無いんだけど』

「はい」

『お前が死んだ後、ふつーに俺どうなると思う?』

淳は息が止まった。

『マジでふつーに』

「省吾さん」

『多分死ぬのはお前より上手いぞ、淳』

心臓が跳ねる。

「駄目だ、省吾さん」

『大丈夫、お前がしない限りしない』

淳は服の生地をぎゅっと掴んだ。苦しい、苦しい、そんなこと言われたら死ねないじゃないか。

「省吾さん苦しい」

『そのためにこの話をした』

 

 

あれから少しだけ会話をして電話を切った。省吾はスマホを片手にして寝転がる。

あれでちゃんと呪縛になっただろうか。あんな自分を人質にとるような形、無理矢理枷をはめるようなもので、いいとは思わない。思わないが、何かの歯止めになりはしないかと思った。

仰向いていると部屋の明かりが眩しい。目を閉じる。淳と話をしていて色々と分かった。まだこちらが聞いていないことが山のようにあること。この頃は元気そうに見えたのに、まだ死のうという気があること。

四五歳ってなんだ、いじめってなんだ、全然聞いてねえよ。あと少しで死ねるって……。

ポケットをまさぐってタバコの箱を取り出したが空だった。苛立たしく箱を握り潰す。時計の針は十二時を回ろうとしているが到底眠れそうにない。なら、眠らないのも手かなと思ってコーヒーを入れることにした。愚策。しかし、何かその手の物質を身体に入れないと落ち着けなさそうだった。黒い液体がコップを満たすと、省吾は調理台を背に座りながらそれを飲んだ。

淳は苦しいと言った。当たり前だ。あちらの問題を何一つ解決せずただ止めただけなのだから苦しいに決まっている。やることはまだある。あり過ぎるほどに。

 

 

実家にいるとうつっぽくなる。淳は十二時を回った時計をぼんやり眺めながら寝転がっていた。なぜうつっぽくなるのか、親とのわだかまりはもう無い。ただ環境がよくない。端的に言えば死ぬのにうってつけなのだ。京都では他人の迷惑にならない所といって鴨川を選んだ。しかし、最も他人の迷惑にならない所と言えば実家に決まっている。だから有象無象が騒ぐのだ。「やるなら今だぞ」と。

けど、あんなことを言われたら。僕が死ぬのは構わない。けれど省吾さんがすると言った。それはどうしても嫌だ。苦しい。苦しい。すっきりと自殺をやめようという気にはならないが苦しくて仕方がない。

あんなことを言われて自分は死ねるだろうかと思った。いや、死ねない。

淳は顔を覆う。苦しい。

眠れそうになかった。だから、クエチアピンを追加で一錠飲んだ。それでも眠れるまでには時間がかかる。

救いはどこにあるのかと思った。死ぬことが救いだと思っていた。けれど今それが絶たれた。ならば一体どうすればいい。錯乱しそうだ。有象無象が騒ぐ。

全部他人のせいにして、自分の無能さには目を瞑って生きていけばいいんだよ。

淳は微笑んだ。それは僕の救いとしては機能しないよ。僕はお前が考えているよりもっと芸術家肌なんだ。

じゃあ、勝ち取るしかないね。生きていてもいいと思える何かを詩で。

そうだねと頷く淳はそんなものはあり得ないのだと知っていた。どこまでも、どこまでもそんなものはあり得ない。今淳は詩の書き手として非常に幸福な状態にある。詩を読んでもらえて、感想ももらえる。例え書籍化したところで、別に全く新しい何かが開けるわけではなく、この幸福の延長線上だろう。だから淳は知っている。書き手としての幸福は自分を生かすに足らなかった。最上の幸福であるはずのそれが、自分を生かすに足らなかった。他の人間は知らない。だがこの生において、何かを勝ち取ることによって生きる意味を見出すことは結局のところあり得ない。

自分の生きる意味を勝ち取る、それは美しいし、僕はそれに頼ってきたのだけれど。

淳は顔を覆っていた手を外し、天井を眺めた。

普通ここまで考えたら死ぬ方向で頭をフル回転させるんだけど、今回どうしてもそうならない。理由は決まっている。

省吾さんもひどいことをする。

 

 

『なんで外から電話かけてるの』

「いいじゃありませんか、そんな気分なんです」

実家は閉塞感があって嫌だった。淳は雪を払いのけ、公園のベンチに座った。空は曇っている。午後からは雨になるらしい。周りにある雪も大分溶けるだろう。

「帰りますよ」

『もう、やることはやった?』

淳は苦笑した。

「何にもしてません」

『それでもいいの?』

淳は金木に帰ってきてからのことを思い浮かべた。何もしなかった。親と過ごして、詩を書いて、研究して。それだけ。

「気は済んだような気がします。何がしたかったって特に目的があって帰った訳じゃない。でも僕は実家に愛想をつかしたかったのかもしれない。僕が求めているものは無いんだって確認したかったのかも」

『そう?』

「はい。もちろん、これからも帰省はするんでしょうし、親のことも好きですけど、やっと自分の中で実家にさよならを言える気がします。それが、僕は嬉しい」

『うん、なら帰っておいで』

「はい」

鳥が林の陰で鳴いている。自分が今回そういうことをしたかったのだと、言ってから気付いた。そしてこういう方法があるのだということも、言ってから気付いた。

少しだけ家にまつわる自分の過去を切り離せた感じがする。

午前の曇天、午後の雨天、ただ今ばかりは陽が差していた。

「省吾さん、昨日の話はきつかった」

『話すのが?』

「違う。省吾さんが僕の死んだ後どうなるということが」

『嫌だったか』

「嫌というより、苦しい。どうしようもなく苦しい。ねえ、省吾さん、もう僕は死ねないですよ。あんなことを言われたら死ねない。でもどうやって生きていったらいいんです。何を頼りに。僕は何も持っていない」

『そこで俺の名前が出てこないあたりがお前らしいけど、そうだな……淳、俺はね、社会人で自分が食っていけるだけの金はあるってだけなんだよ。他には生きる方法も生きる頼りも生きる意味も自分の中には持っていない』

淳は省吾の答に困惑した。

「省吾さんでもそうなんですか。でもならなんで生きていけるんです」

『さてね、考えたことが無い。考える必要性を感じない。生きられるところまで生きるだけだ』

「僕には分からない」

『こっち来たら楽になるのかもしれないけど、淳には淳の道があるのかもしれないね』

風が吹いた。頭上の木々がざわめく。

『淳、それはそれとして俺はお前が愛しい。それこそお前のために生きてもいいくらいに。そういう道は無いの』

「ありません。僕はどこまでも自分の中にそれを見つけなければ気が済まない」

『らしいよ。すごく。寂しいけれど、その一方で好ましい』

日が隠れ辺りが暗くなった途端、雨が降り始めた。

『帰っておいで、淳。それを一緒に見つけよう』

ありがたい言葉だ。淳は目を伏せた。

「省吾さん、すみません。それはできない」

『おいおい、何言ってるんだ』

「だって本当は僕は知ってるんですよ。そんなものは無いって。それに省吾さんを付き合わせるわけにはいかない」

『……賢明だな。賢明なついでに家に帰れ。その音雨だろ』

「はい」

淳は電話を切ると立ち上がった。雨は勢いを増し、積もっていた雪に無数の穴を穿ち始めている。傘は持って来ていない。淳はその雨の中を手ぶらで歩き始めた。生きる意味など無い。とっくに知っていたそのことを自殺を禁じられた今やっと受け入れた。これからどうなるのかは知らない。

 

 

透き通る純粋な闇が自分を満たしている気がした。それは重たいものではなく、心地よいものだった。或いはその闇の別名を絶望というのかもしれないけれど、そんなに嫌なものではなかった。

淳は帰りのバスに乗っている。夜も遅いので窓のカーテンがしめられているが、その隙間からは高速道路の車やトンネルの光がチラチラ見えた。とても迂闊なことに、薬の入ったカバンを乗る時に預けてしまった。だからクエチアピンは飲めない。ほぼ朝まで眠れないことが確定していると言っていい。こう暗くては本も読めないし、スマホを点けるのは禁止されている。暇潰しになるのはごく細長い長方形の隙間を通り過ぎていく景色だけだった。今日は有象無象が喋らない。多分メインの自分がかなり頭を動かしているから。

あれほど拘っていた書くことが僕を生かさない。生きる意味も無い。どうやって生きていったらいいのかも分からない。こういう時、以前ならすぐに希死念慮が走っていた。どうやって死ぬかそれをすぐに考えていた。でも今はそうならない。ただ、透き通る純粋な闇が自分を満たしている。それは怖いものではなかった。

今だけだろうか。今だけな気はする。きっといずれ希死念慮に囚われ七転八倒するようなことになるだろう。けれど今はそうではなかった。いろんなものにさよならを告げ、いろんなものに意味を見出さなくなっていく。軽く虚ろになっていく、そんな自分をひどく心地よく思った。

 

 

省吾が帰って来ると、もう淳は麻婆豆腐を作って待っていた。

「おかえり」

「そちらこそおかえりなさい」

省吾は靴を脱ぐと淳に近付いて行って触れようとした。けれど、その数歩前で思いとどまった。淳があまりにも軽やかで透き通っている気がしたからだ。

「何かあった?」

「そりゃ何かはありましたよ。電話で沢山話したでしょ」

淳はおたまを鍋に置くと省吾に近付いて行って意味も無く小声で喋った。

「ねえ省吾さん、僕今なんかすっきりしているんですけど、これいい方に行くやつですかね、それとも悪い方に行くやつですかね」

省吾は腕組みした。

「さあなあ……。多分きっかけ作っておいてなんだけど、分からんなあ……。でも一つ言えるのは」

省吾は淳に向かってにっこりする。

「とりあえず、今の状態で詩を書いたら普段書けないものが書けるんじゃないかな」

「書きましたよ、そんなでもないけど」

「まあ、じゃあ、後のことは後で考えよう。ご飯食べようか」

「はい」

 

 

「うわっ、何ですか省吾さんこれ」

淳は翌日出そうとしている黄色いごみ袋を指差した。

「何ってごみ袋だけど」

「とぼけないでください。僕は中身の話をしてるんです」

省吾は冷蔵庫にもたれかかって朗らかに笑った。

「だから言ったろ、ヘビースモーカーだったって」

黄色いごみ袋を埋めているのは半分ばかりタバコの箱やら吸い殻だった。淳は恐れをなしている。

「省吾さんこれはまずいですよ」

「俺はそういう人間だよ、淳」

淳は省吾に歩み寄った。

「僕がいなくなってもこんなに吸わないでください。というか、普段からあんなに吸わないでください」

「生憎重度の中毒者なんだ」

「僕は心配なんですよ」

淳はしょげる。そんな淳を見て省吾は目を細めた。

「ねえ、淳、俺がタバコを吸わなくなる方法を教えてあげようか」

「え? …………って、そういうのはなし!」

「なんだ、言わなくても分かったか。すごいな」

「もっとこう自制心とか」

「過分な期待をされても困る」

のらりくらり。淳はやきもきした。あんなに吸っていてはいくら省吾が丈夫でも病気になってしまう。

「省吾さん、禁煙外来に行きましょう」

「あはは、淳、分かった。少し減らす」

 

 

深夜、淳が布団で寝ているとベランダに続く戸を開ける音がした。目覚めた淳はその音の主に声を掛ける。

「来て」

暗闇の中で影がベランダの戸を離れ、布団の所までやってきて座った。淳は身を起こして影の右手の部分を探った。やっぱり箱がある。淳はそれを取り上げた。

「取るなよ」

影は低く笑った。淳はタバコの箱を脇に置くと影に向かって言った。

「省吾さん、僕はこれまで省吾さんのことを強い人だと思ってた。でも違った」

「幻滅したか」

吐息交じりの低い声。今日は月が無いせいかいつもより一段と暗闇が深い。影の顔は見えなかった。淳はその見えない相手に対して首を振る。

「弱いあなたも好きだ」

そう言うと淳は影の肩を掴んで口づけした。

「今晩はタバコを吸わないで」

影は一瞬固まると、淳の腕を取り押し倒した。

「分かってるの?」

「分かってないですよ」

「なんだ、ひどいな」

影は淳にキスをした。舌が絡む。長い長いそれの後、淳は気持ちよさげに吐息を漏らす。

「馬鹿、分かってないくせに誘ってんじゃない」

影は余裕無く淳を抱き締める。

「淳、俺は汚いことを考えてる」

「何です?」

「もうこの体勢からならどうとでもなるって」

「でもしないんでしょ、ならいいですよ」

淳は影の頬に自分の頬をよせた。

「強い所も弱い所も好きです」

 

 

薬の副作用で朝五時に目覚めて、きれいだと思った。

 

 

「淳」

省吾は何かの気配で目を覚ますと隣にいる相手の名前を呼んだ。相手は省吾を見ると微笑んだ。

「省吾さんはまだ寝ていていいんですよ。五時です」

それを見て省吾はまただと思った。また淳が透き通って見える。

「お前の方もまだ寝ていていいのに」

「そうなんですけど、少し自分と遊んでいました」

「淳?」

「今、見えるんですよ。今まで見えなかったものが」

省吾は手を伸ばそうと思ったが伸ばせなかった。しかし、淳はそれに気が付いて省吾の手を取る。手を持ったまま淳は困ったように笑った。

「多分期間限定です。これが終わればきっとうつが来ます。その時僕はこれまでに無いくらい苦しむでしょう。いや、苦しみすらしないかもしれない。だって僕は見てしまいましたから。でも僕は死ぬわけにはいかない。だからもしその時が来たら手伝ってください。僕が生きるのを」

「淳、俺は」

飛躍した言葉を次々に吐く淳に付いて行くために省吾は寝起きの頭を精一杯働かせる。俺は正しいことをしたのだろうかと、省吾は思った。自分の呪縛が引き金になって淳がこうなったのだとすれば、自分の呪縛は正しかったのだろうかと。その続く言葉を聞かずに淳は頷く。

「省吾さんは正しい。だって、僕は見えている。そしてそれを書ける。書くことの幸福は僕を生かすに足らないけれど、書くという魔法ばかりは本物で、そして美しいのだから、省吾さんがやったことは正しいんです」

省吾は悲しげに淳の手を握った。

「淳、どこへ行く」

彼はにっこりした。

「僕全体のその先です」

 

 

省吾は淳のパソコンをちらりと覗いてのけぞった。淳はWordのファイルを開いているのだが、それは漢文でぎっしり埋められている。

「それ自分で書いたの?」

淳は笑い声をあげた。

「まさか、まさか。コピペです。中国の古典は割とネット上でテキストデータになって泳いでいるんですよ。本当は紙で読むべきなんですが、僕はこうするより仕方がない」

淳は紙の本が読みにくい。恐らくそのことを言っているのだろう。省吾は淳の側に膝をつくとしげしげとそれを眺めた。

「で、それは何してるの」

「読んでます」

「お前読めるのか」

「あー、嘘。眺めてます」

そう言うと、淳は一文を選択して太ゴシックにした。

「基本的に僕は読むのに不自由しています。それは漢文の読解能力の問題もあるけど、例の本が読めない問題が大きいです。文章を一つながりのものとして読めない。でも飛び飛びには読めるわけですね。だから『いる』所と『いらない』所を選別するくらいのことはできる。で、『いる』所だけを集めて後で気合で読む」

淳はエンターキーを押して、区切りらしいところにスペースを作る。

「それが僕の研究方法。泣きたくなるほど邪道かつイカサマです。でも他に方法が無い。僕にできることをやるしかないんです」

「音楽で気は散らないの」

「ああ」

淳は自分の耳から伸びるイヤホンの線を弄んだ。

「散ります。だからいい。無音でやると、脳が騒ぎすぎるんですよ。適度に邪魔してやった方が結局のところ効率がいい」

淳は所々色を変えて文章を入力している。恐らくメモだろう。

「お前が研究している所初めて見た」

「基本的に家ではやりませんからね。最近何となく研究室に行きたくないので仕方なく家でやっているんです」

「ちょっとかっこいいと思った」

「馬鹿言わないでください。本当にこれは何重にもイカサマなんです」

またエンターを押して文章を区切る。そこで淳は一息ついた。

「オーソドックスなやり方ができるほど能力があったら博士に行っていたかもしれないですけどね。そんな未来は大学に入った時点で無かったんです。読めやしなかった」

「でも修士には行った」

「ええ。間違っていたかどうかなんて、そんなことを言う時期はとうに過ぎたからもう言いませんが、本当は僕にその資格は無い。大学でする学問から離れる諦めがつかなかっただけです」

淳は無表情でそう言った。諦めと悔しさと悲しみと、省吾はその無表情から色んな感情を読み取っていたたまれなくなった。だから話題を変えた。

「何聴いてる」

「機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズのサントラ

省吾はまたのけぞった。淳のイメージからは程遠いものを聞いていたからだ。

「意外な……」

「僕が療養をしてた頃、丁度アニメの二期をやっていました。すごく楽しみにしてたし、RAGE OF DUSTを聞いて目をぎらつかせていました。Thank you, Mikaが僕の作業音楽。研究をしている時はずっと聴いてます。知らなかったでしょ」

「ああ」

「省吾さんの仕事している様子も見てみたいな」

「お前ほどの意外性は無い。……不思議なことだ」

「何がです?」

「こんなに相手のことを知らないのにルームシェアが成立している」

「省吾さん昔言ってたじゃないですか。相手のことを全部知ってから好きになるには人生は短すぎるだろって。ルームシェアでも同じなんでしょうね」

淳はまた一文を太ゴシックにした。会話している最中も目を通していたのだ。

「邪魔したな」

「いいえ」

省吾は台所の方へ行くと息を吐きだした。まだまだ意外な所が飛び出してくる。

 

 

淳はベランダの戸まで歩いて行くと、それを開け寒風の中ベランダへ出て行った。そして何をするでもなく隅の方に座る。三十分ほどしても戻って来ないので省吾は様子を見に行った。

「なに修業みたいなことしてるの」

淳は細かく震えながら外の景色を見ている。

「省吾さんがタバコ吸うみたいなことしてるだけですよ」

なるほどね、と省吾は思った。淳は酒を飲めない、タバコも咳込む、競馬もパチンコもしない。インスタントなストレス解消法が無いのだ。

「でもそれ、ストレス解消になる?」

「ならないけど、気はそらせますね」

省吾はベランダに足を踏み入れた。足元からも冷たさが上って来る。こんな所に三十分もいたのかと思うと胸が騒ぐ。

「今度は何で追い詰められてんの?」

「追い詰められてはいないけど、夢を見ました」

「ああ、お前うなされてたよ、今朝」

淳は膝を抱えてその膝を見つめた。

「うなされた方はいいんです。詩が全部文字化けして読めなくなる夢でした。うなされて当然。問題はうなされなかった方です」

「ふうん?」

「死のうと思って、ネットに上げている詩を全部非公開にする夢でした。途中で夢だと気が付いて、僕はとても安心した。そしてその夢を貪ったんです。所詮そういうことなんですよ」

省吾は笑ってしまう。

「そういうことってどういうことだよ。もっと言語化してくれよ」

「もう死ねないとか言ってやっぱり死ぬことを考えてる。自殺の準備をしている夢を見ると安心する。結局それって変われてないってことでしょ」

なるほどね、と省吾はベランダの壁にもたれかかった。淳はベランダの隅で丸まったままだ。

「お前ね、焦り過ぎ」

淳は顔を上げた。省吾は穏やかに言う。

「そんな急に全部変わらないから。希死念慮はお前にとっての日常だったわけでしょ。それが全部、それこそ夢の中まできれいさっぱり消えるのには時間かかると思うんだけど。基本的に全部焦り過ぎ」

「焦ってるというのは分かります。でも僕には取り返さないといけないものが多過ぎるんですよ」

失ったものを、できてしまったどうしようもない遅れを。この数年で手に入れるべきだったのに手に入れられなかったもの全てを。省吾は淳の前まで行って座って、彼の手をとった。淳の手は完全に冷えきっていて、仕方のないやつだと省吾は思った。

「忘れろ、淳。全部忘れろ」

淳の手がぴくりと動いた。

「マイナスを意識する戦いはつらいし、その戦いは本当はお前の中にしか無いんだから、わざわざそんなものに付き合う必要は無いんだよ。今からスタートで積み上げでいけ」

淳は皮肉げに笑った。

「省吾さんは僕に甘い」

「うん、甘いよ。お前が自分に甘くなれないだけ甘いよ」

省吾は立ち上がると、淳の髪をわしゃわしゃとした。

「辛いのが望みなら辛くしてやる。でもそれはお前が自分に甘いことが条件だ。そこで座っている限りはそんなことしてやらん」

省吾はベランダから部屋へ出て行った。

 

 

「理性が邪魔だな」

淳はパソコンの前でそう呟いた。書けない。書けない。書けない。今詩を書こうとしている。淳は自分のことを理性的すぎるほど理性的だと思っている。それで、それが詩にも反映される。良い所もあり、悪い所もあり。理性があれば安定する一方で、壁に阻まれ潜れない領域が出てくる。今淳はその壁を抜けたかった。

僕は詩のためなら狂っても構わないのに。それでトータルでいいものが書けるなら、理性などいらない。多分狂ったら省吾さんと話もできなくなるけど、それでもそれでいいものを書けるならそれでいい。

淳はちゃぶ台に肘をついて両手を合わせると、それに自分の額をくっつけた。省吾さんはじぶんのことをあんなに好きでいてくれているのに、そして自分はこんなにも省吾さんのことを好きなのに、やはり詩が大事だということには変わらない。

淳は思い出す。高校生の頃、神に祈ったことがある。よりよく読み書きができるなら自分はどうなろうと構いませんと。怖い祈りをしたものだ。結局病気になった。だけど、病気になったからこそ、読めるものがある、書けるものがある。神は僕の祈りを聞き届けたと思った。その一方で現状読むのに不自由しているし、しばらくスランプだったわけだから、その辺りはどうなっているんですか神様という感じだけど。

でも、自分の何かを差し出す代わりによりよく読み書きができるというなら、僕は何度でもその交渉に頷く。

そこで省吾が帰って来た。淳はパソコンの前で動かない。

「詰まってるの?」

「ええ。書くためには理性が余分なんです。狂ってしまえばいいと思ってます」

「淳が狂ったら、俺は困るよ」

「それでも」

淳は省吾を見た。

「ごめんなさい、省吾さん」

省吾はスーツを着て、カバンと上着を手にしたまま微笑む。

「……あれから俺達の関係もそれなりに変わって、お前は書くことの幸福は生きるに足りないと言っていて、もう何か変化があったんだと思っていた。でも、そうじゃないんだな。お前はそっちに行くんだな」

「ええ」

淳は自分の両手を広げた。

「生きる意味でもない、生きる方法でもない、生きる頼りでもない。でも、どうしようもなく生まれついた。……ごめんなさい、省吾さん」

「謝るな。それもこみで俺はお前といる。振り返るな、進め、淳」

 

 

省吾は部屋で淳と喋っていたが、スマホが鳴ると「悪い」と言って会話を打ち切った。画面で電話をかけてきた相手を確認する。そしてそのままベランダへ行き、電話に出た。一部始終を見ていた淳は呆気に取られていた。なぜなら、あんなに機嫌の悪い省吾を見たのは初めてだったので。

休みの日だったので、二人は近くのインドカレー屋に行って昼食を食べることにした。ランチメニューの一番安いのを頼んでわいわい食べる。

「ここのカレー屋毎回味が違うよな」

「僕好きですよ、そういう大雑把なの」

「俺も嫌いじゃないけど、話題にせずにはいられない程違う」

今日はやたら甘くてぬるかった。

「違うといえば、省吾さん今日普段と違いましたね」

「そんなカレーと繋げて語られても……。何が違った?」

「電話に出た時雰囲気が違った」

ああ、と省吾はナンをむしる。

「親だよ、親。基本的に連絡してくるなって言ってるんだけど、すげーどうでもいいことで連絡してきた。結婚しろってさ」

淳はナンを落とす。

「こら、淳。落とすな。安心しろ、別にそうしろと言われただけだから。結婚なんざしねーよと答えて、浅見の血を絶やすつもりかって怒鳴られた。あんな子供いたら普通に絶えねえっつーの。つーかそんな血勝手に絶やしとけよっていうか」

省吾はおしぼりで手を拭くと頬杖をついた。

「あいつら差別意識ごりごりだから俺がやっているようなこと認めないと思うわ」

「省吾さん、別にご両親に認められることなんか求めてないでしょ」

「うん……だけどさ淳、俺は卑怯者なんだ」

淳はきょとんとする。

「省吾さんが?」

「そう、俺は本当ならあの家で親と戦うべきだった。だけど実際はチビ七人を残して一人で家を出てきた。チビ達には親の言う事なんか聞くなって言ってるけど、そんなこと言ったってってところはあるだろ。俺は一人で逃げてきたんだよ」

省吾はひどく暗い目をしていた。淳は省吾を救う言葉を持たないことを歯がゆく思った。

「でも、省吾さんはこっちに出てきて、こっちにいて、もう何年も経って、これからもこっちにいるんでしょ。もうそうなんでしょ。じゃあ、そうなんじゃありませんか」

「そりゃそうだ。あー、悪い、ごはん時に暗い話をしちまった」

省吾はぐっと両手を伸ばすとまたナンをちぎり始めた。

「お前の親は結婚とかで何か言ってくる?」

「何も。望んではいるでしょうが」

「結婚したい?」

淳はナンを握ったまま俯いてふふふと笑った。

「結婚なるもの、人生経験として一度くらいするのはありだなと思っていましたよ。でもその程度。だから構わない」

「一度くらいって」

「僕は人でなしなんです。ご存知の通り。あと、親がたとえ何かを言ってきたとしても気にならないですよ」

「そうか」

省吾はカレーに目を落とす。実はこの関係、色んな可能性を閉ざしている。一つがまさしく結婚。自分は構わないが、淳はいいのかということが気がかりだった。目線が中々上にいかない省吾に淳は悪戯っぽく笑う。

「省吾さん、僕の幸福は僕が決めることです」

省吾はそれを聞いてやっと笑った。

「今日はお前元気みたいだな」

そうしている内に食後のチャイが運ばれてきた。

 

 

帰り道コンビニで適当に甘いものを買うとくじを引くことになった。お前引くかと省吾に促された淳がくじを引くと小当たりといったところで、乳酸菌飲料とエナジードリンクを一本ずつもらった。帰り道省吾はその二本をしげしげ眺める。

「お前運がいいのか微妙なやつだな」

「僕、運はいいですよ。でなきゃ生まれてません」

「あれ、すごく生に肯定的なこと言うじゃないか。良いことだけど」

淳は笑いながら首を振った。

「そういうことでなくて、本当に運がよくなかったら生まれてないんですよ。少しタイミングがずれていたら、この世にいません」

「その話聞かせてくれるの?」

「まあ、そんな大した話じゃありませんよ。母が僕を妊娠していた時、母はそれなりに重い病気になりました。それで、病院に行ったんですけど、そこでお医者さんに言われたそうです。もう育っちゃってて流せないから産んじゃおうかって。母が病院に行くのが早かったら僕は生まれていない」

「なるほど、それは運がいいな」

「ええ、そんな風にほんの少しだけ奇跡的に生まれておきながら、希死念慮でグチャグチャの数年間を過ごしたんですから罰当たりなんですけどね。けど言っても仕方がない」

目の前の交差点を渡ろうとして信号が赤になったので立ち止まる。車の音に紛れるか紛れないかの大きさで淳はポツリと言った。

「ねえ、省吾さん。秘密の話をしていいですか。省吾さんは僕の祖母を知りませんし、多分会うことも無いでしょうから」

「いいよ。今度はお袋さんでなくておばあさんの話?」

「繋がっています。母がその病気で僕を妊娠したまま入院していた時、祖母はお見舞いに行ったんですよ。そこで母は入院生活がこたえていたんでしょう。赤ちゃんなんかいらないと弱音を漏らした。別にね、そのことはどうでもいい。僕の生まれる前のことだし、生まれてから十二分に可愛がられましたから。ただ、高校生の時祖母が嬉しそうにそのことを僕にばらしたんです。母が僕をいらないって言ったことを。僕は祖母の邪悪さに驚きました。そして激しく憎悪した。病気で気弱になっている人間のふと漏らした弱音を一番知られたくない相手に漏らすなんて非道ですよ。でもこの話母に伝わるとまずいですし、祖母のことも可哀想に思うから親戚には誰にも言えなかった。それに話も重いですから知り合いにも言えなかった。ずっと抱え込んできたんです」

信号が青になった。

「すっきりした?」

「話してみると案外すっきりしない」

省吾はこけそうになった。

「あ、そ」

淳は通り過ぎる車と人の様子をぐるりと見回す。

「僕割と簡単に人のこと憎んだり恨んだりしちゃうんですよ。今も祖母を含めて色んな人を憎悪している。汚いですよ。僕が苦しんでいるのだってそれが諸刃の剣になっているからかもしれない」

「別に今の話だとそこまで簡単に憎んでるわけじゃないと思うけど」

「一例です、一例。気性が激しくて自分でも嫌になる」

「でも激しいのが好きなんだろ」

淳は遠くの空の方を見つめる。

「そう、激しいものと美しいものが好き。そして汚いものは嫌い。厄介ですね」

 

 

淳はパソコンを前にして口を覆っていた。自分の作品はなんてありきたりな表現ばかり繰り返されているのだろう。完全に言葉のインプットが足りていない。それは読めないということから必然的に生じる結果だった。

この詩、いるのかなあ。いらない気がする。というか、僕はいる詩なんて書いたことがあったっけ。

瞬間、これまでにもらった感想やレビューが脳裏をかすめて、淳は頭を振った。あれだけ貰っておいて、勝手に自分の詩を否定しちゃいけない。けど、これから先僕は魔法が使えるんだろうか。自分がいいと思うものを書けるんだろうか。ジリジリと何かが淳を焦がした。要は行き詰っている。

というか、僕の人生って必要なんだろうか。勿論必要じゃないっていうのが結論だけど、ならやっぱり行動に移さないといけないんじゃないか。軽めの希死念慮。そこまで考えて、また淳は頭を振った。省吾さんの問題がある。

ああ、まずいなあ。

省吾は淳の側を通りかかって、淳が暗い目をしているので気になって声をかけた。

「どうした」

「子供っぽく癇癪を起しているだけですよ。書けないだけで、それ以上でもそれ以下でもない」

「うん。問題を複雑にするなよ。間違っても人生とかに話を広げるなよ」

そこで淳はむせた。省吾はああ、やっぱりねという目で淳を見る。

「お前そこらへんの回路発達しすぎ。問題は問題。ただそれだけ」

「いや、本当に、僕のキャパを超えた問題が出てきた時にいきなり死を出力するの自分でもどうかと思います」

淳は一つ息をついた。

「書けないんですよ。あまり自分の不能性に目を向けるのはよくないと思っているんですけど、いいのが書けない」

淳は難しい顔をする。省吾もこれは俺手出しができないしなと思う。アウトプットがうまくいかないならインプットすれば?というのはよくあるアドバイスではあるのだが。

「怖いです、このままどんどん書けなくなるんじゃないかって」

「自分に呪いをかけるんじゃない」

「省吾さん、吐きそう。吐かないけど」

「うん」

「書けないというのは苦しい、苦しい上に作品にもできない。なにせ書けない」

淳は身体を曲げ溜息をついた。しばし沈黙。しかし、やがて何かに気が付いたかのように身を起こした。どこか向こうの方を見つめながら口を動かす。

「駄目だ、目が合った」

 

 

「目が合ったって何が? おい、淳」

淳は黙る。何?何なんだろうあれは。自分の不安と焦燥感と失望のかたまりとでも言うべきなにか。それが薄黄色い霧をまとって自分を取り囲んでいるような気がした。自分はこれまでそれを見ていた。そして到頭見つめ返された。

あれが僕に死ねと言っている。

それは何か逃れ難い言葉のように思われた。淳は冷静に頭を巡らせ始めた。生きる方法を、そして死ぬ方法を。思考は死ぬ方に傾いているのだが、問題は横にいる男の行く末のことで。

「省吾さん、死んだらいけません。死んだら僕は省吾さんのことを嫌いになります」

「お前もっとマシなことは言えないのか。生憎死後の世界は信じていない。というか、だから言っただろ、話を複雑にするな。それはそこまで考えなきゃいけない問題じゃない」

「でも、僕は修論も就活も行き詰っていて、この上書けなくなったら一体どうしろと言うんです。白状します。僕はこの数か月何もかも放り捨てて書くことに逃げてきたんです。書いてなかったら死んでる。それが、それが書けなくなったら? 僕は僕の書いているものに今何も展望が無い」

「落ち着け、淳。そう考え始めたのはいつからだ?」

「この二日です」

「断言してやる。この二日がおかしい。全部先送りにしろ」

淳は肩に手を置いた。肩が重い。くらくらする。頭痛い。

「省吾さん、僕は冷静ですよ。安心してくださいね」

「何言ってる」

「どうせまた詐欺、詐欺、詐欺なんですよ。心配させたいだけ。で、大丈夫? って大事にしてもらいたいだけ。薄汚い。最低ですよ」

「…………淳、俺は今お前のこと殴ろうかと思った」

「なんで?」

「言っていいに決まってるだろ。後になってなんで言ってくれなかったんだって泣かせるのが正しいとでも思ってるのか。死ぬほどつらいやつが一人になって誰にも言わずに黙っているのが正しいとでも言うつもりか。お前は間違ってる」

淳は彼にだけ見える薄黄色のかたまりから視線を外して省吾に振り返った。

「……省吾さん、つらい。今僕は後片付けの手順と省吾さんを死なせない方法をこうやって会話しながら頭の半分でずっと考えてる」

「うん、言ってくれてありがとう。とにかく今のお前の状態はおかしいから、それはいつまでも続かないから、休めるなら休んでしまいな」

淳は頷くとそのままゆっくりと床に倒れ込んだ。

 

 

省吾さん、やっぱり僕めんどくさいですか。こんなに迷惑かけて、助けてもらってばっかりで――なんて、卑怯だから言わない。

床に倒れ込んでいた淳は目を覚ます。身体には毛布が掛けられていた。ちゃぶ台の上には伝言。買い物に行ってきます。今日は僕の当番なんだけどなと淳は目をこすった。もっとも、今の状態ではろくに買い物もできないだろうけど。

頭がものすごく食われてる。色々と碌でもない思考が脳のキャパを占めていて頭が回らない。駄目だ。駄目だ。落ち着かなきゃ。

淳は調理台の下の戸を開けて包丁を取り出した。洗面所まで行って首に包丁をあてる。その姿をじっと見る。そうするといくらか落ち着いた。省吾が帰って来て見られるとよくないので、速やかに包丁を元の場所にしまう。しかし、そうすると頭がざわついてくる。居ても立っても居られなくなって、また包丁を取り出し、首にあてる。そして元の場所に戻す。それを三回繰り返した。

省吾が帰ってきた時は丁度包丁をしまって一息ついていたところだったので、よかった見られずに済んだと安堵した。

「起きてたか」

「はい、すみません。今日は僕が当番なのに買い物に行かせてしまいました」

「いいんだよ、今日は俺が夕飯作るし」

「よくありません。僕が作ります」

そう言って省吾が持っている買い物袋を見た淳は目を回した。別に特別なものが入っていたわけではない。ごく普通。白菜、ねぎ、豚肉、人参……。どうとでもなる食材。しかし、淳はくらくらしていた。今の自分の頭ではこの食材を使って二人分の献立を組み上げることが難しい。

「今日は鍋にしようかと思って」

あ、そうか、その手があったかと、淳はそこで人心地ついた。

「じゃあ、食材を切るのくらいはさせてください」

省吾はにこっとする。

「頼んだ」

それから淳は随分緩慢に食材を切ったが省吾は何も言わなかった。代わりに調子はどう?と聞いた。

「自分に嫌気がさしていますよ。僕は一体何度こういう騒ぎを繰り返すんでしょうか。僕は自分が嫌いです」

「あ、そ。俺は好きだけど」

淳は咳込む。ネガティブスパイラルに入っていたところを断ち切られた。少しほっとしたので、弱音を吐く。

「省吾さん、僕省吾さんが留守の間包丁出しちゃいましたよ」

「死のうと思って?」

「いや、落ち着こうと思って」

「うーん、それはあんまり賢くないなあ」

省吾の身も蓋もない言い方に淳は苦笑しつつ安心した。そのくらいの言葉の方がありがたい時もある。

「今回病院は行かなくて大丈夫?」

「はい、多分次回の予約まで待てますよ。軽かったですね今回」

「別に軽くはないから、それにまだ過去形でもないでしょ」

淳は鍋に野菜を入れると省吾の横に立った。

「省吾さん、教えて欲しいんですけどこの病気、落ち着くってどういう状態なんですか。一切希死念慮も出ないまま一生を終えられるんですか。それって全然僕にとってリアリティのある状態じゃないんですけど」

「俺も知らんよ」

「一生こんな? 三十になっても、四十になっても? というかこの問い自体僕は一体何回繰り返すんです」

「診断出てから三年半弱か。まあ焦るよな。でもこの間全く進捗無しじゃなかっただろ? お前が三十や四十になる頃にどうなっているかは知らないけど、今よりは進んでるんじゃないの」

省吾は淳に向かって笑む。

「それに俺がいるよ。助けられるかはともかく一人にはさせない」

「省吾さん、僕は省吾さんにそんなに迷惑をかけられないですよ」

「は?」

「え?」

「お前何言ってんの? 言ったじゃん、全部込みで一緒にいるって」

でも、そうは言ってもという言葉を淳は飲み込んだ。その先を言うのは卑怯だと思ったから。省吾に否定してもらいたいがために何かを言うのは甘えだから、それはなるべくしない。その代わりに淳は小さく一言だけ言った。

「ありがとう、省吾さん」

 

 

もう電気を消して寝ようかという時に、淳は自分の布団スペースに入るのをやめた。省吾のベッドの方を見る。

「省吾さん、今日はそっちに行っていいですか」

省吾は露骨に嫌そうな顔をした。

「駄目?」

「普通に狭いっつーか、俺にとって拷問なんだけど。まあいいよ、おいで」

淳はベッドに入ると省吾にくっついた。

「……おい、こら。拷問って言った意味が分からなかったのか。というか、どうした今回。また変なもの見えるか」

「いえ、ただ頭が騒ぎすぎてつらいんです。あっちで一人で寝ていたらずっと頭の声を聞いてしまう」

まあ、理由があるなら仕方がないかと省吾はため息をついた。省吾の首元に顔を寄せながら淳は囁く。

「ねえ、省吾さん。今僕は悪魔との取引をしたくてしょうがない」

「何だって?」

「躁状態に戻したいんですよ。ほら、僕やろうと思えばできるでしょ?」

淳はかつて微量のアリピプラゾールを飲むことによって躁状態になっていた。ならば、再びアリピプラゾールを飲めばそれができるかもしれない。そして、手元にアリピプラゾールは十分にあるのだった。なぜなら、今はかつての四倍の量を飲んでいるから。どうも量によって効果の違う薬らしく、今の分量だと躁状態を抑えるらしい。多いものを減らすのは簡単。やろうと思えばお医者さんに黙ってこっそりすることもできる。

「なんで、躁状態に戻したいと思ったの、躁状態には愛想つかしてたんじゃないの」

淳は身体を一旦省吾から離して、省吾の顔を見て話した。

「そうですし、躁状態になったら私生活も多分破綻すると思いますけど、読み返したんですよね、躁状態の時に書いた作品。今の僕よりよく書けてた。イメージも語彙も今の僕より豊富で、今より上手かった。もし、僕の私生活と書くことを天秤にかけるなら、僕は書くことの方を選びたい。あとね、今僕叙事詩を連載してるじゃないですか、あの一年経っても終わるかどうか分からないやつ。あれ、躁状態じゃないと上手くいきそうにないんですよ。折角書き始めた作品です。僕はそれを大事にしたい」

省吾は仰向いてしばらく考えた。そしてまた淳の方を見る。

「えーとね、大反対」

「え? 何でです。この前、進めって言ってくれたじゃないですか」

「その辺りの区別は微妙なんだけど、今回は賛成できないな。お前短期決戦しようとしているだろ。また焦ってる」

「短期決戦?」

「そうだよ。まず、躁状態なんて薬飲んでたとしても長いこと続かないだろ。どうせ切れるんだよ。その後どう書いていくつもりだ。躁状態の方が上手く書けるんだとしても、それは短い間しかもたないんだよ。叙事詩、一年経っても終わるかどうかって言ってたか、途中でうつになるのがオチだ。やめとけ」

「……」

「あと、これから耳に痛いこと言うけど、お前今生活を破綻させている場合じゃないから。就活と修論と、これからお前が生きて書き続けていくためにこなさなきゃならないものが残ってるから、それができる程度の状態ではいなきゃいけない」

「……」

「どうした、黙ってるけど」

「……いや、完敗です。省吾さん。ぐうの音も出ない」

あー、もう嫌だーと言いながら淳は頭を抱える。

「そんなに詩の調子が違う?」

「違いますよ。昔は一発でバシッと決まってた。この状態になってから僕が何回書き損じたり書き直したりしていると思ってるんですか」

「何回?」

「五回」

省吾は笑ってしまった。

「馬鹿野郎、その程度でうだうだ言ってんじゃねえよ。お前宮沢賢治好きなんだろ。賢治を見ろ、推敲の鬼だぞあの人は」

「でも、昔の方が出来がいいんですよ。今はいいものを書けている気がしない」

「良いこと教えてあげよっか、淳」

「何です?」

「お前が十二月に躁状態をやめるって言った時、お前こう言ってたんだよ。『思うんですよ、自分はいいものを今書けているのかなって』って。お前が今褒めている躁状態の時の作品をだ。要は、お前直近の自分の作品を信じられないだけじゃないの。今本当にいいものを書けていない可能性と同じくらいその可能性があるからしばらく様子見てみたら」

「……」

「どうした」

「いや、もう本当に完敗。分かりました、そうしましょ」

あーあ、と言いながら淳は再び省吾にくっつき、割と勝手に寝た。省吾は何だか淳と詩との惚気話でも聞かされた気分だと思った。最近あいつとうまくいかないんですよー、みたいな。そんなもの。省吾は淳を抱き締める。

「大好きだから言ってるんだろ?」

 

 

「書けた!」

淳はパアアとでも効果音の付きそうな笑顔を浮かべて詩を投稿した。それを省吾は呆れたように見る。

「お前な、今回のこと覚えとけよ。散々書けないって騒ぎやがって」

「はい。えへへ」

淳は上機嫌で台所にお茶を飲みに行く。自分のコップを出してやかんからほうじ茶を注ぎ、その場で飲み始めた。

「ところで省吾さん、これを機会に思い切って聞きたいことがあるんですが」

淳は上目遣いにちゃぶ台の前に立つ省吾を見た。

「なんだ」

「僕の詩をどう思っているんです?」

「え? 言ったじゃん。らしいって」

「いや、その評価とか……」

省吾は困ってしまった。評価と言われても。

「いや、俺詩の良し悪しとか分からんよ」

「うーん、そうですか……。それはちょっと残念だな。聞いてみたかった」

淳はほうじ茶をもう一杯注ぐ。

「たださ、淳」

「はい」

「らしいってことは俺は好きだってことだよ」

「え?」

淳はぽろっとコップを落とした。省吾は咄嗟に手を伸ばすが間に合うはずもなく、コップはお茶をまき散らしながら床に落ちた。淳は慌ててコップを拾い上げる。

「割れた? 割れてない?」

「わ、割れてはないです」

「お前、何かあったら物落とすのやめろよな」

「すみません」

淳はコップをひとまず調理台の上に置くと雑巾を持って来て床を拭いた。その最中に彼はもう一度確認する。

「好きって……?」

省吾は何を分かり切ったことをという顔をする。

「だって、俺はお前のことが好きなんでしょ。で、お前はお前を濃縮還元したような詩を書いてるでしょ。ならそりゃ好きだよ」

淳は見る見る顔を赤くした。駄目押しとして。

「多分、実際のお前を知らずに詩だけに出会ってたとしても詩人深川淳を好きになっていたと思う」

淳はその場で雑巾片手に膝を抱え俯き丸まった。

「おい、淳、なにコンパクトになってるんだ」

「……省吾さん、今自分がやったことの意味分かってます?」

「? なに?」

「それは、僕に対する最大級の肯定です。僕の魂の救済です」

「お前、おおげさだなあ」

「いいえ、いいえ。僕は僕自身に対する肯定は受け入れられない。でも、詩人としての僕に対する肯定なら受け入れられます。僕の詩に対して感想が届くたび、僕がどれだけ嬉しがっているか分かりますか。そして今近しい人からそんなことを言われて、どれだけ救われる思いでいるか分かりますか」

淳は顔を上げると省吾に向かって泣きそうな笑顔を向けた。

「数年前の情緒不安定な僕ならぼろ泣きしてましたよ。こんな明るい場所がこの世界にあっただなんて思いもしませんでした」

省吾には淳の言っていることが完全には分からない。しかし、自分はこの数年でやりたいと思っていたことを気付かずにやってしまったらしい。ならば、万事よしだろう。

「もうこれで死のうとか思わない?」

「いや、それは思いますけど」

省吾はこけそうになった。

「でも僕は今幸福です。ああ、これを書かなくちゃ」

「さっき書いたばかりじゃないか」

淳は構わずにパソコンにいざり寄る。

「省吾さん、僕はペシミストなんです。こんな幸福が長続きするわけないって思っているんです。だからこそ書かなくちゃ。こんな奇跡があったんだって記録しておかなくちゃいけません」

淳は画面を開くとパタパタとタイプし始めた。そうしながら笑って目尻を拭う。

「書ける」

 

 

「省吾さん、バレンタインですね!」

「で?」

買い物袋片手に目を輝かせる淳に省吾は思わずそう返した。淳はうきうきとしながら買い物袋の中身を省吾に見せる。ココアパウダー、ベーキングパウダー、クルミ……。

「僕ブラウニー作ります!」

省吾は思った。嬉しい。そりゃ嬉しい。しかしこいつ元気すぎやしないか。ひょっとして。

「淳、今の自分の状態ノーマルだと思う?」

「えーと、えへへ、軽躁かな?」

淳は買って来た材料を調理台の上に並べ始めた。省吾は手を額にあてる。やっぱり。なんかこの前からテンション高いし、楽しそうだし、朝早く起きるしで、おかしいと思っていたのだ。

「淳、いかん」

「いけなくはないですよ。僕今いい感じです」

「軽躁状態の人は大体そう言うの」

「ねえ、省吾さん」

淳は手を一旦止めて省吾の方を見た。

「うつの僕も僕であるように、軽躁の僕もどうしようもなく僕なわけです。そしてうつの時に、僕はほぼ否応なく苦しみます。だったら、軽躁の時に楽しんだっていいじゃありませんか。いや、省吾さんの言う事は分かりますよ。軽躁はエネルギーの前借です。だから自分の行動はセーブしなくちゃいけません。けど、だからといって軽躁が一概にいけないということではないと思うんです。うまく付き合うことさえすれば、僕は軽躁を楽しむことを悪いことだと思いません」

「うーん……」

今の淳は頭の回転が速い。何だかうまく言いくるめられた気がする。

淳は着々とブラウニーの準備をしている。省吾はその様子をぼんやり見る。確かに軽躁状態を楽しめないというのは切ない話だよなと思う。でなければ、普段より自分の調子がよかったり、気分がいい時にそれを喜ぶことができない。その間軽躁の後いずれ来るうつに怯えて過ごすことになる。確かにそれが百パーセントいいことだとも思えず……って。

「淳、今ベーキングパウダーどんだけ入れた?」

「割と」

淳は袋を斜めにしながら答える。

「何だそのアバウトな答は! 菓子ってのはちゃんと材料量らないといけないんだよ」

「まあ、何とかなりますって。あはは」

楽観主義。お前それ普段自分の人生にも言ってやればいいのにと省吾はまた手を額にあてる。結果として熱しられたブラウニーは当然のように型からはみ出てもこもこと膨れ上がった。

「大丈夫! 味は保証します」

淳はそのもこもこしたものを切って省吾に渡す。省吾が半信半疑でそれを食べると確かに見た目に反して大変美味しかった。淳は自分のブラウニーも食べてとても嬉しそうにしている。

このひとときを自分は純粋に喜びたかった。けどそれはできなくて。でも今この瞬間はかけがえがなくて。膨れ上がったやたらうまいブラウニーに目を落とす。

「複雑だね」

 

 

淳がスーパーに行った帰り、道を歩いていると側のバス停に市バスが止まった。全く乗る必要のないバス。それに淳はするりと入り込んだ。席に座ってドアが閉まると淳ははっとした。自分は何をやっているんだろうか。バスは家とは反対方向に走っていく。一つ、また一つとバス停に止まっていくが、淳は降りない。本当に何を?そう思って買い物袋を抱えたところで淳は気付いた。

これは自傷だ。

どんどんと、どうしようもなく家から遠ざかっていく感じ、それを自分は小気味よく思っている。次第次第に手遅れになっていくさまを自分は楽しんでいる。もちろん反対のバスに乗れば帰れるという保証付きでだが。結局淳は終点まで行ってしまった。降りたところで、もと来た道を歩き出し省吾に電話をかける。

『遅くなるって、なんでそんな所にいるの?』

「うっかりバスに乗っちゃって」

『どうして?』

「……省吾さん、どうしたら自分を大切にできるんですか。僕は今順調で、幸せで、僕の過去も現在も未来も僕自身も大事で、でもそれをどうやって大切にしたらいいか知らないんですよ。だってずっと自分のことを無価値でくだらないと思ってきたし、今も思っているんです」

『あ、お前そういうことか。やけになるんじゃない』

「僕は人に甘えているんですよ。僕が自分を惜しめない代わりに誰か僕を惜しんではくれないかって思っているんです。本当のことを言うと、省吾さんが僕を殺してくれないかって期待したこともあるんです。僕は僕の生き死にすら人に甘えている。でも、どうすれば? 僕はそれを自分の手に取り戻す方法を知らない」

スマホの奥からクスリと笑う音がした。

『いや、ごめん。俺も順調そうだなと思っていたから、お前が思ったより病んでて笑ってるとこ。そうだなあ、まあそう言われると深刻な感じもするんだけど、多分お前が思っているよりもゴールは近いぞ。もうちょっとあがいてみな』

「なんでそんなこと分かるんです?」

『勘。というかそういう問いを発するようになったこと自体が大進歩だと思うからさ。じゃあ、ちゃんと帰って来るんだぞ。つーかバスに乗れ』

切れた。淳は空を見上げる。もうじき夕暮れも終わる。星が見え始めていた。その景色はあくまで美しい。電柱のシルエットが行く先に続いて行く。京都に来て六年経つがここには一度も来たことがない。分かりやすすぎるほどに分かりやすい街だけれど道に迷いかねない。だから省吾の言う通りバスに乗るのが最適解。でも。

もう少し歩かなければならない気がしているんです。

 

 

二月の下旬省吾がベランダに出ると、淳はその隅で座っていた。

「また修業?」

淳は笑んで首を振った。

「いいえ、考え事。今日は暖かいですから、修行にはなりませんよ」

省吾は街の方を見る。確かに暖かい。そういえば先日淳が「暖かいということは春、春ということは就活、うわあああ!」とか言って暴れていたっけ。今は穏やかにしているが。省吾はベランダの柵に腕を預けると横目に淳を見た。

「何考えてた?」

「僕の学生生活は悪くなかったなあって思っていました」

「恨みは無いの?」

「ありますけどね。でも悪くはなかった。……と思ったのは昨日本を読んだからなんです。そうだ読めたんですよ! 好きな作家さんの本なんですが美しい本でした。人生に苦しいことや辛いこともあるけれど、美しいことや輝かしいこともあってそれを集めて編集して自分の人生を再構築することもできるよねということが書いてあったんです。別にありきたりな言葉ですよ。でも不思議と今の自分にマッチした。それで悪くなかったなと、というか」

「ん?」

「あまりに輝かしくて胸が痛い」

省吾は意外に思った。淳にそれほどの学生生活があったとは。そして安心もした。病とともに過ごした学生生活ではあったけれど、当然のことながらそれだけではなかったのだ。

「終わりが来ると分かっているから痛いのかもしれませんね。もう取り返しがつかないから痛いのかも」

「そうネガティブにならんでも」

淳はその場でぐいと手と足を伸ばした。

「ネガティブじゃないですよ。もう一つ本の話をしてもいいですか。僕は四回生の夏、京都から鈍行で実家まで帰ったんです。もちろん途中で泊まりながら。時期的に僕は生きる意味を見失っていました。東北に入るとずっと山の方を電車が走っていくんですけどね、乗っている間僕は一冊の本を読めないなりに読んでいた。日本史の本です。読んでこの国の歴史はなんて死に満ちているんだろうと思いました。中国の歴史は血の匂いがするけれど、日本の歴史は死の匂いがする。それでかえってこの死に満ちた国で生きていくことには意味があるなと思ったんです。その感慨が長続きしなかったのはご存知の通りですけど。僕の言いたいこと分かりますか」

省吾がまあねと言うと、淳は立ち上がって省吾の隣に立ち、同じく柵へ腕を預けた。

「ねえ、省吾さん、僕達の関係はいつか終わる」

「それで?」

「終わるし、僕はその終わった後で今の日々を思い出すことが正直怖いんです。多分それは胸が痛いなんてもんじゃない。でも僕は痛むなら痛む方を見ようと思うんです。それが表現者の道だと思うから」

省吾は苦笑した。

「真面目過ぎだよ、お前」

淳も苦笑して街の方を見た。彼が大学に出てきて六年住んだ街だ。

「僕は今修論と就活で毎日呻いてますけど、でもきっと今のこの日々は振り返れば胸を裂かれるほどに美しく輝かしい。それを今自覚することすら苦しいです。けど僕はそれを大事にしたくなりました。僕の話はそれだけ」

 

 

夕方、淳は阪急大阪梅田駅にいた。絶賛就職活動中。今日はグループワークがあったのだがうまくいかなかった。ついでに、一社から落ちたと連絡があった。スマホを見れば画面が割れている。この前落としたのだ。研究も進んでいない。詩だって最近書けていない。

要は何のことはない単純な重ね合わせで、いともあっけなく淳は凹んだ。やって来る電車に飛び込むのも悪くないと思うほどに。

悪くない。線路の方が明るく見えた。淳はふらふらとそちらへ歩き出した。

ドンッ!

ホームの上で横ざまから思い切りぶつかられて、思わず地面に手をつく。見れば淳と同じくらいの年のスーツを着た男性がよろめいていた。スマホを片手にしている。あちらはあちらで周りを見ていなかったのだろう。

お互い目が合って無言で頭を下げる。男性はそのまま向こうへ歩いていった。去り際小さな舌打ちを残して。

「…………」

助かった……?確かにもう一度線路の方に歩くのは「違う」という気分になっていた。簡単なことで。簡単なことで自分は死のうとするし、助かるのだということに嫌気がさした。

京都行の電車が来たが、この状態で乗りたくない。淳は駅員さんに断って改札から出ると階段を下りて脇に入った所にある飲み屋に入った。淳はこれまで飲み屋というものに入ったことがない。何故ならただでさえやたら酒に弱いので。入るとすぐに注文を聞かれた。淳は戸惑う。

「え……と、日本酒を冷で。あと焼き鳥の皮とももをタレでください」

注文してこれでよかったのだろうかと思った。注文すらどうしたらいいのか分からない。随分と自分が不格好に思えた。間もなくして日本酒が出てきたので、淳はそれを酔わないようにちびちびと飲む。しかし、焼き鳥が出て来る前に酔った。虚しい。虚しさややるせなさを感じないように酒を飲んでいる筈なのにどうしようもなく虚しい。淳は耐え切れなくなって省吾にラインした。

『今梅田駅です。電車に飛び込んでしまおうかなと思いました。省吾さんのことも忘れていました。それから電車に乗るのが嫌になって飲み屋で日本酒を飲んでいます。それで自分ではどうしようもなくなってラインしている。全部馬鹿でしょ』

半ばやけになって日本酒をあおっていると返信が来る。

『焦らなくていいから、ゆっくり帰っておいで。なるべくゆっくり飲んで、ゆっくり酔いを覚まして電車に乗ればいい。あと、飛び込まないでいてくれてありがとう』

そこで淳は胸のつかえがストンと下りた。早く電車に乗って帰らなければならないと思っていた。帰らずにこうやって飲んでいる自分はどうしようもないとどこかで思っていた。でもゆっくり帰ってもいいのだ。どうせ今日は他に用事も無い。もう楽しんで飲んでしまおう。そう思って淳はカウンターに肘をつき、溜息をついた。

「何お兄さんどうしたの」

店長らしき人が声を掛けてくる。淳は微笑んだ。

「いや、何でも。注文追加いいですか」

 

 

梅田から京都へ、そしてアパートの下まで帰ってきて部屋のベランダを見上げると、夜の闇の中で赤くタバコの火が灯っているのが見えた。そのタバコを右手にして省吾がこちらに向かって手を振る。また吸っていると思った。けれど今日彼に吸わせているのは自分なのかもしれないとも思った。あんなラインが来たら心配だっただろう。淳は足早に階段を上がっていった。

ベランダの省吾の隣に行くと省吾はにやっとして淳の髪をかき回した。

「いくら飲んだ」

淳は親指と人差し指を広げる。

「このくらいの瓶で出てきましたよ」

「ふーん、一合か。よく飲めたな」

確かに淳の酒量を遙かに上回っている。全部飲み切るのには時間がかかった。省吾はしばらく淳の髪をいじくっていると、タバコを消した。

「何があった?」

「色々。やっぱり就活つらいなというのと、手詰まり感と手遅れ感がしているのと、大きく分けるとそんな感じ」

「前半は分かるな。俺も就活は好きになれなかった。後半は分からん。俺から見たらお前は全然手詰まりでも手遅れでもないんだけど。お前は何度もそう言うけどさ」

淳はその言葉を聞いてかえってしょげた。省吾がなんと言おうとも手詰まりなことには変わりがないと思ったから。それを見て省吾も淳の気持ちが分かった。

「淳、できることしかできんよ。そしてできることをやってたら案外生きていけるよ」

「省吾さんだからそう言うんでしょ」

「あー、今日は拗ねてんな」

省吾は彼の指を淳の頬にあてた。

「まだ書くものがあるだろ。今書けなくても、将来書かなきゃいけないものがあるだろ。学生深川淳がどうであろうとも、詩人深川淳は生きなければならない」

淳ははっとして省吾を見上げた。省吾は苦笑する。

「業が深いな。いいことだよ。それは。たとえ俺を忘れたとしてもお前はお前が勝手に殺していい人間じゃないことは忘れちゃいけない」

淳の瞳に省吾がしっかりと映る。

「書くべくして生まれた、その責任をとる気はまだあるか」

淳は省吾から視線を外すとしばらく止まって、そして僅かに頷いた。

 

 

省吾がベランダに出ると淳が隅の方に座っていて、それはよくあることなのだが、その日は様子が違っていた。

「顔が死んでるぞ」

省吾がそう言うと、淳は傍らに置いていたスマホを指差した。

「さっき連絡がありました。早速一社落ちました」

あらら、という感じで省吾はタバコに火をつける。淳は膝を曲げて頬杖をついた。

「何が悪かったのかって考えてしまいますね。色々思い当たるところはあるけれど」

淳は落ち込むというよりは、死んだ顔をしたままぼーっとしていた。省吾にはそれが意外でもあり、その一方で案外そんなものかもなとも思った。省吾自身はかつて一社落ちて、さして何とも思わなかったのだが。

「ご縁が無かったと言うだろ。単純に縁が無かったと思えばいいんじゃねえの」

淳は仰向く。

「そうかもしれませんけどね。なんかいらないと言われた気がするんですよ。沢山の同年代と比べられて、その上で僕は取られなかった」

そりゃそうなんだけどねと呟いて、省吾は頭をかいた。いかんせん建築学科の自分と文学部の淳では就活の仕方が違う。アドバイスしようにもどうしたらいいのか分からない。淳が就活で苦労するかもとは思っていたが、自分がそれに対して無力であることは想定していなかった。省吾は紫煙を吐き出す。

「まあ、淳は負けず嫌いだからさ。それでダメージ受けてる部分もあると思うけどね」

「え、僕負けず嫌いですか」

「そう。すげー自己肯定感低いくせに負けるの我慢ならないでしょ。強気な所は強気なんだ。書いてるもの読めば分かるよ。どれもこれも弱気な人間が書くものじゃない」

「そうですか、ね」

「自分が何で苦しんでるのかばらしていったら少し楽になるよ。淳は自分がいらない人間だなんて心の片方では思ってないんだろ。それはそれでそのままでいいんだけど」

淳は頬杖を解くと、少しだけ生気を取り戻した顔で伸びをした、

「省吾さん、僕は言いたい」

「ん?」

「控え目に言って有能だから誰か僕を雇ってくれ」

お互い笑って顔を見合わせる。躁でもないのにそれが言えるのはいい。一社落ちたけど、今の所こいつの就活悪くないんじゃねえのと省吾は思った。

 

 

「淳、お花見をして帰ろう」

その日淳は研究室に遅くまでこもっていて、省吾は省吾で大学のあたりで仕事があったので、大学から二人して一緒に帰ることにした。疎水沿いを歩き、円山公園まで行き、鴨川に出て南下する。

淳と省吾が歩くのは満開の桜の下。空には満月がかかって人影のない川へりを照らしていた。夜気は冷たく少し湿り気を帯びている。

「もう一度桜を見ることはないだろうと去年思ったのを覚えています」

淳はぼんやり桜を眺めながらそう言った。省吾はその傍らをゆったりと歩く。

「今はどう思うの」

「半々かな。もう見ることはないと思うけど、何だかんだ生き残るだろうとも思うから」

風が吹いて桜の花が零れた。薄紅色の花弁が二人の髪にまとわりつく。省吾は淳の手を引いた。

「このまま歩き去るのも勿体ないから少し座ろうか」

ベンチに座るとそれを覆うように枝を伸ばしている桜の香りが少し強く漂った。

「不吉ですね。桜が不吉だっていうのは文学で何度も繰り返されてきたことですけど、僕もこの花は不吉だと思いますよ」

「嫌い?」

「好き。美しいから」

淳は桜を見上げ、今日この夜があまりにも美しくて怖いと思った。しかし、怖いことと好きであることは矛盾しない。

省吾はベンチの上で淳の手を弄ぶ。

「省吾さん、人が通るかもしれませんよ」

「通ったところで何だ。手をいじっているくらいで何かを言われる筋合いは無い」

指から手の甲まで撫で、指と指の間を広げ、そこに自分の指を入れる。

「手を触るの好きですか」

「好きだよ。淳の手はきれいだからね」

花びらが彼等の手の方まで落ちてきたので省吾は淳の手を離した。そのまま目を伏せる。

「生きるのは美しいと思わないか」

「省吾さんは思うんですか」

「思わない」

「僕も思わない。生きることはただそれとしてあって、それ自体は美しくないんです。それは死も同じ。僕は死が美しいとも思わない」

淳は苦笑しながらため息をつく。

「生と死と、僕の青春はそれに費やされました」

「過去形?」

「そう。僕の場合病気と青春があまりにも密接に結びついていたんです。でも今は自分のことをあまり病気だとも思いませんから、僕の青春はもうおしまい」

淳の上を覆うのは彼が京都に来て七年目の桜。彼は大学生活の春をこの花の下で過ごした。

「僕は自分の青春が終わるのが怖かった。だってそれは可能性の終焉でしょ。でも終わってしまえば大したことはなかったですね。僕の生活は続くんです」

「自分の青春はどうだった?」

淳は桜を仰いではにかむように笑った。

「こんなことを言うのはナルシストかもしれないですけど、美しかった。ぐちゃぐちゃでドロドロで苦しくて汚くて醜かったけど、でも美しかった」

 

 

淳は機嫌が悪かった。ウェブテストが壊滅的だったのだ。あれでは受かるものも受からないだろう。すごく行きたいかと言われれば微妙だが内定は取っておきたい会社だった。帰って来てかばんを置くと同時に床に座り込んだ。

一体就活というのは何なんだろう。『何者』くらい読んでおけばよかった。自分がこれから受ける所で自分を取ってくれるような所があるのか。この前は有能だから雇えみたいなことを言った気がするが、今日なんか頗る自信が無い。エントリーシートを出してウェブテストを受けて、とにかく目がまわる。淳は記憶力には自信があったが、それぞれの会社に何を書いたかなんか覚えちゃいなかった。とにかく向いていない。大体こちらが文章を書くのにどれだけ時間がかかると思ってるんだ、エトセトラ、エトセトラ。

淳は怒りといらつきで頭を一杯にしながら、不幸なことにそれがウェブテストがうまくいかなかったという些細な(?)ことから全て始まっていて、いわば八つ当たり的に就活全体に憤っているというしょうもない構造を自覚していた。自分はなんてキャパの小さくつまらない人間なんだろうか。

「すげー目つきしてんぞ」

省吾が隣に座ってくる。淳はしばらく考えて省吾の顔を見た。

……ねえ、省吾さん、しましょうか。

それを言う自分の低い声がリアルに頭の中に響いて思わずゾクリとした。駄目じゃ、ないか。これは完全に自傷であって、それにこんな形で省吾さんを使うのは決して許されないことだ。

「何考えた?」

「言えないことを」

「そうかなとは思ったけどね」

やらなきゃいけないことと、できなかったことと、焦燥と失望で頭が痛い。とりあえずどの会社でもいいから僕を必要だと言って欲しい。詩も調子が悪い。こんなもの書いて失望されやしないかといつも怯えている。つまるところすっかり弱気なのだ。

「調子悪いなー。病気じゃなくて普通に就活生として調子悪いなー」

「ベターじゃん」

「まあ、普遍性の獲得という意味では文学にとってもプラスかもしれませんが、就活で苦しんでるなんて俗っぽくて嫌い」

省吾は笑う。

「病気は俗っぽくないわけ?」

「ああ、微妙ですね。高尚なものかと言われると違う」

淳は伸びをした。

「まあ、病気をしている暇は、ない」

 

 

「省吾さん、公募も会社も落ちた!」

そう言われて省吾は額に手をやった。一筋縄ではいかない、けどね。困ったなあと思う。早くうまくいってくれるといいのだが。こればかりは省吾も助けてやれない。淳を見ると、淳の方はびっくりした子供みたいな顔をしている。どうも事態を受け止め切れていないらしい。

「淳、内定なんて一個でいいんだからね。で、公募の方はまた出せばいいんだから。お前が書き続ける限りそれができるんだから」

「省吾さん、僕ね、僕なんか誰にも必要とされないんだって、僕が生きていける場所なんてどこにも無いんだって最初から諦めて死のうって思ってたんです。でも、それはやめにしようと。本当の本当に誰も僕を必要としてなくて、生きていけないんだって分かってから死のうと思ったんです。……でも、なんか今回近付いちゃった感じがする」

省吾は台所に行くと茶を沸かし始めた。淳を後ろにしてやかんの方を向いて喋る。

「いつも思うけどさ、俺がお前のこと必要だって言っても駄目なの」

「それは別なんです。やっぱり自分が生きていく分を自分で稼げないと駄目だと思ってしまうんです。だからこの話は省吾さんとは別枠」

省吾はタオルで手を拭き、やかんから目を離すと淳に振り返った。

「お前って変なところで常識的だよな。どうかと思うぞ、それ。誰にも必要とされなくったって、生きていく場所がなくったって書き続けるのがお前の目指す文学じゃないのかよ」

淳は壁にもたれかかって省吾の言葉を聞いている。しばらく考えて淳は口を開いた。

「その通りですよ、省吾さん。そして今一番まずいのはそれなんですよ。僕が僕の詩を信じられないんです。僕の詩は多分トータルで五万人くらいに読まれました。でも駄目なんです。五万人に読まれたって十万人に読まれたって駄目です。それとこれとは違うんですよ。僕が僕の詩を信じられなきゃ駄目なんです」

「なんか年末にも同じようなことを言ってたな。それで俺がするのはお前に頼まれたことと同じで、お前を信じるってことだよ、淳」

「……そうですね」

やかんが高い音を立て始めたので省吾はコンロの火を切った。

「なんなんですかね、この就活の、HPとMPの最大値が半減して回復しない感じ」

「もっと詩的に表現したら詩にできるぞ、詩人」

淳は笑いながら頭に手を当てた。

「ちくしょう、もう! 分かりましたよ、書きゃいいんでしょ、書きゃ。この一生で僕の仕事はそれだけだ」

 

 

春の夜深川淳は桜並木の下、木屋町を歩く。あちこちに黒塗りの車が停まり、スーツを着たいかつい男たちがタバコを吸っている。夜の木屋町は笑えるほど柄が悪い。つまらないことでいついちゃもんをつけられてもおかしくない場所だ。しかし淳は敢えてその場所を歩いていた。会社に落ち続けお前はいらない人間なのだと、無能なのだと言われている気分になったとしても、そしてそれでこの社会の中疎外感を感じたとしても、この木屋町にいるならば深川淳はそんなことを問答無用にして端から異質な存在で、それは淳をひどく安心させた。

会社に落ちるたびに死ぬことを考える。ほら、僕の思った通りじゃないか。僕はやっぱりいらない人間なんじゃないか。馬鹿らしい。何もかもが。呼吸をし、飯を食い、眠る。そんなごく生物的なことを自分ごときが繰り返しているのがひどく滑稽で、やめてしまえばよいのだと思った。

木屋町を抜けた。そのままスロープを下って鴨川に降り川辺に座る。こんなことをしていると家に帰る終バスが無くなるなと思った。もっとも無理矢理歩いて帰れない距離ではないが。上着を羽織っていても少し寒い。けれど今の自分にはそれが似合っていると思った。

もう、さ、飽きたよ。

こうして落ち込むこと全てが、こうして失望すること全てが、この二十年来繰り返してきた事どもが、使い古され新鮮さを失い生ぬるくなってゆく。ぬるいのは嫌いだ。ぬるければ死んでしまう。生きるためには激しく、激しく、激しくなければならない。そして今の自分にできる最も激しいことは死ぬことではないのか。

自殺の夢想。しかし、それは途中で止まる。まだ、詩がある。淳は十二月から一つの長編叙事詩を書いていた。予定通り投稿したとして終わるまでにあと三ヶ月かかる。もう書き溜めてあるからその分は一気に投稿したって構わないのだが、それは惜しい。惜しいのは自分の命ではなく作品のクオリティである。もう既に作中の登場人物は生きていて、然るべく書け、半端なことはするなと自分に言ってくる。

かつては神が僕に書けと命じるのだと思った。やがてそれには絶望した。そんな声は無いのだと。僕は凡百なのではないかという疑いがある。それでは生きていけないというのに。それは紛うことなき死刑宣告であるというのに。

ただ僕の詩ばかりが僕に生きろと言う。死ぬことは許さない。俺を完成させろと。

「いいよ。お前の命は僕のもの。僕の命はお前のもの」

 

 

淳は凄まじい勢いで叙事詩を書いていった。リビングで淳が書いている様子を省吾は微笑ましく見ていたが、見続けている内に背筋がゾクリとした。ペースが、おかしい。週に一度三千字しか書けなかったものを、今日だけで何千字書いている? 調子がいいとか、これはそういう話か?

省吾は淳が一息ついたところで声を掛けた。

「淳、何考えてる」

「省吾さん、僕の目指す文学は、死にかけている人を救う文学です。僕みたいに自殺しかけている人を死なせない文学です」

省吾は淳の腕を掴んだ。

「本当の本当は何を考えてる」

「……今僕は痛切にそういうものを読みたい」

淳はぽつりと言った。

「誰か助けて」

 

 

淳は眠った。いつもは夜に飲んでいるラミクタール、炭酸リチウム、アリピプラゾールを飲んで、そしていつもは一錠か全く飲まないクエチアピンを六錠まとめて飲んで。

ふふ、寝逃げですよ。寝逃げ。じゃあ、おやすみなさい、省吾さん。

本が積み上げられたスペースにある布団で眠りについた淳を見下ろして省吾は複雑な感情を持っていた。クエチアピンは淳の場合勝手に量を調整してよいことになっている。だから病院の指示に逆らっているわけではない。しかし、いつもの六倍あいつは飲んだ。それは過量服薬以外の何だというのか。そして自分はそれを止めなかった。以前は止めたのに。

省吾はコーヒーを淹れ始めた。もう夕方だが、なぜかタバコではなくコーヒーが欲しかった。黒い液体がコップを満たしていく。これを飲めば、今夜は眠れないだろう。だがそれでいいと思った。

淳。

本当は髪を撫でたい。抱き締めたい。けれど眠りの妨げになることをしてはならなかった。

俺は何ができているんだろう。いや、何かができると言うのは驕りなのか? 淳が以前よりも自分でどうにかできるようになっているだけなのか? この頃の自分はひどく無力だ。

「まあ、そんなこと考えてどうにかなるってわけじゃないんだけどね」

省吾はコーヒーをすするとごく低音でそう呟いた。

翌朝九時に淳は目覚めた。昨日は六時に眠ったから十五時間睡眠である。起き上がった淳は爽やかな顔をしていた。省吾が目の下に隈をつくっているのとは対照的だ。

「あれ、省吾さん。眠らなかったんですか」

「寝たよ。二時間くらい」

省吾は台所の調理台を背に座っている。淳は近付いて行くと同じように並んで座った。

「省吾さん、寝逃げって良い言葉だと思いませんか。ツイッターで作家の大先輩に教えていただいたんですけどね。僕はこれからどうしても駄目になったら積極的に寝逃げしようと思います」

「それにしたって、クエチアピン六錠は飲みすぎだよ。三錠くらいにしときな」

二人の肩と腕の接触面に省吾が僅かに体重をかけると淳は笑ってそれを受け止めた。

「省吾さん、僕はあなたのことが大好きなんですよ。知ってました?」

「俺、この頃なんもしてないけど」

「何かしてくれるから好きなんじゃない」

「淳、今のお前の顔さ」

「はい」

「どこぞの聖人みたい」

淳はあはは、と笑った。

「安上がりな聖人ですね。でもね、結構今頭が晴れているのは事実。そして僕にとってその状態って貴重じゃないですか。だから今できることをやろうと思うんです。ねえ、省吾さん、僕はあなたのことが大好きなんです。知っていましたか」

省吾は口元に笑みを引くと、淳の頭に自分の頭をコツンとあてた。

「知ってたよ」

 

 

淳はこの頃薬を飲んで無理やり意識を落とす日々が続いている。確かに少なくともその日の夜は生き残るのだから、その点では淳のやっていることは正しいのかもしれない。ただ何か彼の根幹にあるものがそうした日々を重ねるうちに疲弊していくのは否みようもなかった。

淳はつい先日彼がずっと書いていた長編叙事詩を完結させた。淳はそれが完成してなぜ自分が生き残っているのか分からなかった。執筆の終盤になると彼は自分の作品と心中する心持ちでいたから。淳は戸惑っていた。なぜ自分は生きているのか。何か乗るべき列車に乗らなかった気がする。

淳は学食で昼食をとり、研究室に行って研究をした。しかし、ひどい低血圧で眩暈がして本が読めなかった。昨日死のうと思って薬を飲んで寝逃げして、今日は起きてきっと一日頑張ろうと思ったらこれだ。

そうこうしている内に就活も修論も何もかもが手遅れになっていく気がした。それも諦めのつくような手遅れではなく、自分がより勤勉な人間だったなら追い付くことができたであろう手遅れだった。

いとも簡単な単純な平凡なことで自分は死ぬ。

淳はまず親宛に研究室に持って来ていたノートパソコンで遺書を書いた。「これが限界でした」。ただそれだけ。それ以上何か書くことがあるとは思わなかった。省吾にはもう少し長いものを書いた。

「僕が死んだあと省吾さんがどうなるという話をしたのを覚えていますか。僕はやっぱり省吾さんが死ぬのは嫌だな。やめてくださいね。僕のわがままですがやめてください。

僕は色々と行き詰っているようです。とにかく今を生き残るのが大事なのだと先延ばしにして来たことが、見ないふりをしていたことが、到頭僕に追い付きました。もう逃げられません。駄目ではないか駄目ではないかと思いながらこの数年間を過ごしてきて、やはり駄目だったみたいです。

詩をまだ書きたくはないかと思ったのですが、今詩が頭から出てきません。新しい詩が出てこないのにどうして生きていられるんですか。僕はもう書かなかった頃には戻れないんです。

僕にはあなたも含めて愛しい人達が何人もいて、もう会えないということに心が痛みます。けれどそういったことも、もう僕には関係なく思えるんです。

今僕の半分が僕に生きる理由をいくつも提示してきます。でも彼は分かっていないんです。それはもう本質的に僕とは関係が無い。決して省吾さん達をつまらなく思ったから、僕が止まらなかったわけではありません。省吾さんも詩も他の作家さん達も読者さん達も僕は大好きです。でもそれは関係が無いんです。

これから多分色々と迷惑をかけることになるでしょう。それは申し訳ないです。でもできたらあまり悲しまないでくれませんか。僕はそこまで悲壮な気持ちで自殺をする訳ではありませんし。

深川淳」

飛び降りがいいと淳は思った。

 

 

淳は彼がいた総合研究棟の屋上に上がろうとした。けれど、屋上へ出る扉の鍵は閉まっていた。当たり前だ。そんな場所無用に開放しているわけがない。それにそもそも研究棟は三階までしかなく、この高さからでは死にぞこなう可能性があった。家の方なら七階まである。

淳は自転車に乗って大学から家まで帰った。自転車を走らせている途中、これを書かなくてもいいのかという思いが浮かんだ。今の自分の状態は何かの「最前線」なのではないか。それを書かなくていいのか。

家に帰ってノートパソコンを開けて書き始めた。詩ではなかった。散文で今の状態を書き綴った。公開するとすぐに知り合いの作家さん達からコメントがついた。悪いと思った。自分は非常に半端なことをした。自分は一体何をしているのだろう。こんな、こんな、全て言い訳ではないのか。助かりたいんじゃないのか。

唯一電話番号を教えている作家さんからは電話がかかってきた。長い長い間喋った。彼は淳を論破してくれようとした。しかし、論破されても、それは淳にとって最早関係が無かった。それからその話題はやめて、互いの詩について他愛もない話をした。淳がそれを望んだのである。

電話を切って、淳はまた一本散文に取りかかった。その時、アパートの廊下を走る音がした。ドアが開く。

「淳‼」

まだ四月だというのにスーツのジャケットを脱いで汗を流しながら省吾が部屋に入って来た。

「省吾さん、なんでこんなに早いんです」

「時計を見ろ。早くはない」

確かにもう七時だった。残業をしないならばこんな時間だろう。

省吾は淳の横に膝をついた。

「電車の中で文章を読んだ。どうしてだ、淳」

淳はパソコンをいじって、ファイルを開くと省吾にそれを見せた。研究室で書いた遺書だった。

「僕の言いたいことは全部これに書きました。それ以上言うことはありません」

省吾はそれを読み終えると淳の肩を掴んだ。

「じゃあ、なんでまだ生きてる。なんであんな文章を書いた」

「書くべきだと思ったし、書きたかったから」

「お前の場合書きたいってことは生きたいってことじゃないのか」

「違う。僕は書くだけ書いてしまうのを待っている」

淳は自分の肩を掴んでいた省吾の手を外した。

「省吾さん、静かだ。そして穏やかだ。まるで、この先に何もないかのように。すべて整っているのに、僕は何もしない。生きている。でも書いたその先に生まれるかもしれない。僕を殺す激情が。僕はそれを待っている」

「お前は矛盾している、淳」

「そうかもしれない。でも人は矛盾したまま死ねるんですよ、省吾さん」

「もう書くのなんかやめてしまえ。そんなもの待つな。このまま俺と生きよう。お前が書かなくったって、俺はお前のことが好きで、何もしなくったってお前には価値があって、いや、例え価値が無くったって生きていてよくて、お前は知らないかもしれないが、就職できなくても修論書けなくても人は生きていけて、まだ色んな事がお前に関係あるんだよ」

「省吾さん、僕はその価値観で生きていない」

「矛盾だ、淳」

「関係ない。僕に関係があるのは、ただ首が回らないという状況だけです」

「詩も関係ないか」

「関係は……ある」

「だったら!」

「でもこれ以上いいもの書けるんですか。いいもの書けないのに書く意味ってなんですか」

「いいから、そっちに行けよ、淳‼ 何端から諦めようとしてんだよ。お前は怖いんだ。自分に才能が無いと分かるのが怖いんだ。でもお前は自分に才能が無いっていう苦しさからでさえ何かを書ける作家だろ。いいからそれを見てこい」

淳は潰れそうな声で言った。

「酷なことを言う」

 

 

「ああ、でもそれはさておき僕はあまりそれには興味がないな」

淳は低い声でそう言った。

「僕はあまりそちらの方向に興味はない。別にそれは僕が書かなくてもいいことだ。もういいでしょう、省吾さん。分かった、僕はこの激しい疲労感を求めていたんだ」

「淳、それはそれとして俺に一日くれないか」

淳はちらりと省吾を見ると、ノートパソコンを閉じた。

「いいですよ。僕は今静かです」

よし、と言うと省吾は冷蔵庫にあるもので夕食を作り始めた。

「どのくらい食う?」

「……少し」

「あっそ」

玉子焼きにきんぴらに、味噌汁、そしてごはん。それが食卓に出揃った。省吾はそれをごく普通に食べた。それから、淳にその最近と同じだけの薬を飲ませると、ちゃぶ台で頬杖をついて淳が眠るのを見ていた。

「……省吾さん寝ないんですか」

「寝ないよ。最後の一日なのに勿体ないじゃん」

淳はその問答を最後に薬の作用に頭をぐらつかせると眠り込んだ。

――ええ。すみません。はい。すみません。今日はそれで。

淳が次の朝目を覚ますと省吾が電話をかけていた。省吾は電話を切る。

「省吾さん、何の電話?」

省吾はにっと笑った。

「有休取ったに決まってるだろ。これからもう一本電話だ」

そのもう一本の電話が終わると省吾は淳を適当に着替えさせて外に連れ出した。行き先は淳のかかりつけの病院だった。変なこと考えずに正直に話してこいと言われた淳は診察で思考停止のまま正直に話した。結果処方薬の容量が変更され、アリピプラゾール12mgが3mgになった。以前軽躁状態になった時と同じ処方になる。

薬局で薬を受け取って、家に帰る。家に帰ると淳は座り込んで冷蔵庫によりかかった。手で目を覆う。

「省吾さん、駄目だ」

「何が」

「楽しみになってしまった」

省吾も淳の隣に座る。

「今の処方は僕を軽躁にするものだ。今客観的に振り返って軽躁の時期が一番沢山書いてた。軽躁の時期が一番ビビットなものを書いていた。それが再来するかもしれない。僕はそれが楽しみになってしまった。どうして……」

省吾は淳の肩に手を回す。

「どうしてこんな……。だって、僕の状況は変わってなくて、もう僕を殺す理論は整っていて、なのに、どうして僕は楽しみなんです。どうして自分が書くものにわくわくしてるんです。おかしいじゃないですか。ひどいじゃないですか」

淳はそのまま深く俯いた。

「……地獄だ……」

省吾は微笑むと淳の身体を引き寄せた。

「それがお前の居場所だろ、淳。ずっとそうだったじゃないか」

「僕はまた生きるんですか」

「さあ。でも書くんだろ」

しばらくの沈黙の後、淳は「分からない」と言った。

 

 

淳は送られてきたメールを見て、この状態で一社また落ちたというのはやばいなあと他人事のように思った。就職もできず、修論も書けず、新しい詩も書けない。

ただ、今飲めばすぐに楽に死ねる薬があったとして、自分は即座にそれを飲むかと考えたところ、躊躇しそうな気もしていた。実際飲むかどうかはさておいて。

自分は一体何なのだろうか。どこへ行くのだろうか。そしてどうなるのだろうか。

そんな数千回繰り返したような問いがまた頭に浮かんでくるのだった。苦しい。どこにも行くことができず立ち尽くしている。

そして救いがたいことに今一つの疑問が生じ始めている。今自分が切望してやまない状況。すなわち、修論を出し終わって、定職にもついていて、詩も書いているという状況が果たして自分を生かすに足るのかという疑問が。答えは否だった。

「その疑問は僕がとっくの昔に考えていたことだね。だから僕は死のうと思ったんだ」

淳が振り返ると、高校生の時の自分が右手にロープを持って立っていた。

「やっぱりそうなんじゃないか。僕はこの先大学に行って就職をしたって生きる価値なんて無いと思ってる。それは七年後のお前からしてもそうなんだ。早く死んでおけばよかったのに」

「素晴らしいこともいっぱいあったよ」

淳は俯いてそう言った。「でも死のうとしてるんだろ」と言われてまた俯いた。

高校生の淳がロープを引きずって歩いてくる。彼はロープを淳に差し出した。淳はそれに向かって指を伸ばし、そして固まった。口を開く。

「救いはないのか。僕が生きる道は」

「無いんだろ」

「詩で食べて行けたら」

「それはお前が年明けに否定した」

「今は否定しない。いつかまた否定することになったとしても今は否定しない」

「それがどれだけ現実味の無い話かお前は知っているはず」

そう、高校生の自分はすっかり諦めているのだった。諦めて死のうとした。それを自分はまだ鮮明に覚えている。その後もあわよくばと思いながら、どこかで諦め続けた七年間だった。だが大学院生の淳は高校生の淳が持つロープをひったくるとそれを投げ捨てた。

「こんなことは何年振りだろう。僕はもう一度夢を見る」

高校生の自分はじっとこちらを見てくる。

「やめていたんだ。プロになろうとするのがあまりに苦しくて、なれてもなれなくてもいいやくらいのノリがあまりにも楽で、本気で目指すのをやめていた。でもそれはもうおしまいにする。僕は本気でプロを目指す」

「それも逃避だと気付いているのかな」

「逃避大いに結構。僕は僕が生きる所まで逃げ切ってやる」

七年前の淳はにこっとした。

「なんだ、生きる気満々なんじゃないか。じゃあそれ相応のことをしろよ」

今の淳は十字を切った。プロになれなければ死ぬ。

そこで目が覚めた。省吾が淳を覗き込んでくる。

「すげー難しい顔して寝てたぞ」

「省吾さん」

「ん?」

淳は晴れやかに笑った。あまりに晴れやかに。

「僕は詩人になるよ」

 

 

「あ、駄目だ。やっぱ吐きそう」

淳はその場にうずくまった。大丈夫かと聞いてくる省吾に、大丈夫、僕は吐きそうになっても吐かないからと答えてえずく。省吾は淳の背中をぽんぽんと叩いた。

「あんな爽やかに笑ってたのにだめか」

「駄目ですね。急速に駄目です」

淳は額に手を当てると息をついた。

「そういえば書けないの忘れてたし、何だかんだ言って就職はしないとだし、修論も書かないとだし。なんだあれ。夢と寝起きのテンションじゃん。ものすごく現実が胃袋にくるんですけど。やっぱ駄目じゃないか」

「お前ぶらんこみたいなやつだな。まあそんなものなんだろうけどさ」

「誰か助けてくれって叫びそうになって、直後に結局自分で助かるしかないじゃんって気付くの僕はあと何回繰り返すんでしょうね。吐きそう。肩がバキバキ。いつものやつだな」

というか今の僕は助かりたいのかなと淳は思った。そんな淳に対して省吾は真面目な顔をする。

「さっきお前が寝てた時にお前宛に荷物届いてさ、俺普段お前が何受け取ってるかとか詮索しないし、する気も無かったんだけど、今回ばかりは、あれ何? いや中身見えないけどさ、このタイミングだしすげー嫌な予感するんだよね。答えてくんない?」

「嫌です」

「今の顔見て大体察しがついた。とりあえず死ぬ道具だろ。ナイフか何か」

淳は黙った。図星だったので。

「没収していい?」

「省吾さん、僕は子供じゃない。あれは僕が持つべきものだ」

「……淳、俺は最近余裕がない」

「僕だって無いですよ、省吾さん。もうやめにしませんか、何もかも。僕を心配してくれなくったっていい。僕を救おうとしてくれなくていい。もうやめましょうよ、無益ですよ。……いいえ、はっきり言います。もうやめてください。僕はもう嫌だ」

省吾はそれを聞いて目を伏せると首をかしげた。

「それを聞いて何とも思わないほど俺は人間ができていないわけだけれど、でも今のお前を一人にしたらアウトだってことは分かってるよ」

「僕はそれで構わないと言っている」

省吾はクククと笑った。

「お前さあ、俺がお前の言う事聞くと思ってるの? 聞かないよ。俺わがままだし、自分さえよければいいって半分くらい思ってるしさ。俺、お前が思ってるほど聞き分け良くないし、穏やかでもないし、優しくもないから」

「僕は今、あなたが喋るであろう希望や慰めを一切聞きたくない。僕を黙って抱き締めるのもなしだ。側にいるというのもなしだ。詩で僕を焚きつけるのもなしだ」

省吾は立ち上がると玄関まで行って段ボール箱を取って来るとそれを淳に渡した。

「……過保護がすぎたかな。いや、そうじゃないな。俺もお前もお前を救えなかったというそれだけの話なんだ」

淳は段ボール箱を開き、包装を破る。そして一振りの先の尖ったサバイバルナイフを手にした。多分十分その用を果たすだろう。

「淳、神様は信じるか。というか文学の神様っていると思うか」

「いてもいいんじゃないでしょうか」

「じゃあ、お前は今一人きりで神様の前に立っているんだ。それだけ覚えておいて後は好きにしたらどうだ」

なるほどね、と淳は思った。省吾さんはうまいよね、ほんと。文学の神様の前でむざむざ死ぬのは僕のプライドが許さない。文学の神様に自殺を止められるに値しない人間なのだと思うのは耐えがたい。けれど、芥川も太宰も死んだのだし、夭折した天才たちなんて沢山いるじゃないか。だから文学の神様云々なんて最終的には僕は信じられないのだ。

ここを出よう。部屋で死んではアパートの持ち主に迷惑がかかる。

淳はナイフを持つと外に出ようと玄関に向かった。そこで腕を掴まれて無理矢理壁に押し付けられた。

「普通に生意気だよ、お前。本当は死ぬ気なんて無いの知ってるくせにさ。意地張って死のうとしてんじゃねえよ、馬鹿」

省吾は淳を壁に押さえつけながら低い声でそう言う。

「意地張ってるんじゃない」

「いいや、そうだね。しかも、お前は言ってもらいたいんだ。惜しいね、可哀想だねって。あわよくば、才能があったのに勿体ないねって。だが言っとくが、お前がその声を聞くことは無いぞ。未来永劫無いぞ。泣く人間も喚く人間もお前が見ることはないんだ」

「そんな薄汚いことで死のうとしてるんじゃない」

「本当か。嘘をつけ。惜しんでもらいたくて、惜しんでもらいたくて仕方がないくせに。お前は自分が嫌いで、大好きで、そのくせ自分のことは自分で大事にできなくて、誰かに大事にしてもらうのを指くわえて待ってんだよ。そんなもんてめえの文章読んだら分かるんだ。そんなお前が自分のことを粗末にして見せるのは戦略的に吐きそうなくらい賢いさ!」

「省吾さん、そんなことを言うのか」

「前回も言わなかった。前々回も言わなかった。俺はこんなこと言おうとは思ってなかったし、普通言うべきじゃない。だが今回は違う。言ってやる。お前は破滅が怖いんだ。怖くて怖くて逃げようとしてるんだ。詩人になるっていうのもそれで、死のうとしてるのもそれで、臆病なんだよ。意気地が無いんだ。要は目の前の問題から逃げてんだよ」

「……」

「じゃあ、死ぬかといったら、本当は別に死にたくなんかないんだろ。だって目的は死ぬことじゃないもんな!」

「僕は」

「そんなんさ、やめとけよ。馬鹿じゃねぇの……」

省吾は目元をおさえると淳から離れ、反対側の壁にもたれかかった。

「俺も馬鹿だ。なんでこんなことしてんだ」

「省吾さん」

淳は省吾に歩み寄ると、省吾の頬に手をあてた。

「ありがとう、本当は省吾さんの言っていることが正しいですよ。それはその通りなんです。だからここまで言ってくれてありがとう」

「淳」

「でも、その上でって思う」

「淳!」

「じゃあね」

淳はくるりと身を翻すと、ドアを開けて外に出た。

 

 

ドアから出た淳は魔法のように姿を消した。省吾が追いかけてドアから出た時にはもう姿も形もなかった。省吾はそれから淳を探し回ったが見つけることはできなかった。

 

 

淳は嵐山まで行くことにした。ほどよく人に見つからず、その後ほどよく人に見つかるだろう。バスに乗って移動した。嵐山に着くと山道を少し外れて人のいない方へ行った。そして土の上に座った。スマホを取り出す。

『もう駄目みたいです。僕は頑張ったんでしょうか。いや、そんなことはどちらでもいいですね。僕の作品を読んでくださった方々、そして僕に作品を読ませてくださった方々に感謝を申し上げます。僕はこの数か月間詩を書けてとても幸せでした。最後の数か月の過ごし方としては良かったのではないでしょうか。色々と考えましたが、僕がウェブ上に上げた詩はそのままにしておきます』

そこで淳はふふと笑った。

こんなに何度も何度も書いて馬鹿みたいだ。

淳はスマホを放り捨てると、ナイフを鞘から取り出した。

 

 

しかし、このままではあんまり後味が悪くないかと最後に思った。だからかっこ悪いなと思いつつ、放り捨てたスマホを取り上げて電話した。地面に座って、抜き身のナイフは持ったままだ。

「もしもし、省吾さん、聞こえますか」

『淳、どこだ、どこにいる!』

「僕謝らなきゃと思ったんです。省吾さんにはこれまで沢山助けてもらって、励ましてもらって、なのに僕はひどいことを言った」

『それは俺の方もだ。いいから場所を言え!』

淳は微笑んだ。

「省吾さん、僕達にも色々ありましたね。今となっては全て懐かしい」

『ふざけんな! 勝手に終わらそうとしてんじゃねえぞ! まだ書くものがあるだろ、淳!』

ふと淳の頬を涙が伝った。数年ぶりの涙だった。

「だって今書けないじゃないですか。これから書ける保証も無いじゃないですか」

『書けるんだよ! お前はずっと「自分」を書いてきただろ。お前が生きている限り何か書けるんだ』

「僕を待っているのは破滅だ」

『破滅したとしても、お前はその破滅を書けるだろ。みすみすそれを捨てるな』

「僕が書くものなんかくだらないんだ」

『くだらなくなんかない。何を書くにしても命懸けで書く限りくだらなくなんかないんだ。書けよ、死ぬなら書いて死ね。机の上で血を吐いて死ぬ以外にお前に許されている死に方はねえんだよ! どこにいるんだ、言え!』

なんで泣いているのかなと思った。泣く要素なんてないのにね。

「嵐山」

それから淳は省吾が来るまでの間、その場に横たわって待った。あまりにだるく、眠かった。まどろむ中、こちらに真直ぐ歩いてくる足音を聞いて目を開けると果たして省吾だった。淳は地面に横になったまま言葉を紡ぐ。

「省吾さん、僕はこの期に及んでまだ諦めていないんだ。まだこのナイフの使い道を探している」

省吾は膝をつくとナイフを持つ淳の手に自分の手を重ねた。

「お前はもうそういう人生を行くしかないのかもしれないね。そしてそういう作家なのかもしれない。お前は生涯希死念慮から離れられず苦しむのかもしれない。でもお前が書くなら、お前はお前と同じような人を救えるかもしれないんだ。それはいいことだとは思わないか」

「ああ、ひどいなあ。ひどい話だ」

省吾は淳の手から一旦自分の手を離すと、改めて淳の前に差し出した。

「もう一度言うぞ、淳。俺の手を取れよ。お前が生きて書くために。お前はそれでしか生きられなくて、それでしか死んじゃいけないんだ」

「救いは無いんですね」

「無いよ」

淳は笑うと身を起こした。身体や頭についた土やら落ち葉やらがぱらぱらと落ちていった。ナイフから手を離す。

「僕が甘かったのかな。救いとか幸福とかどこかで求めてた僕が」

淳は省吾を見つめた。二人の目が合った。

「僕の地獄行きを手伝ってくれます?」

「俺はそのためにいる」

淳は省吾の手をとった。

 

 

七月一日の深夜、省吾が家に帰って来ると淳の姿が無かった。こんな時間におかしいと思って家の中を見回す。中にいる筈なのだ。だって玄関のドアが開いていた。

「おーい、淳?」

台所、リビング、寝室……そしてバスルームの扉を開けたところで省吾はやっと淳を見つけた。淳は空の浴槽に服を着たまま膝を抱えて座っていた。俯いていて表情が見えない。遊びでとかふざけてとかそういう雰囲気では全く無い。というより省吾はその光景にはっきりと狂気を感じた。スーツ姿のまま生唾を飲み込んでバスルームに足を踏み入れると、淳がいつもより数トーン低い声を発した。

「ねえ、省吾さん。僕はこれほど自分を恨んだことは無い」

完全にバスルームの中に入ると浴槽の中の淳の身体がよく見えた。

「まだ足りないって言うんですか。もう何一つ理由は無いのに、あと何が足りないんです?」

省吾から見て奥側、淳の左手に握られているものがある。それは――ナイフだった。省吾はそれを見て一瞬で淳がここで何をしようとしたか悟った。心拍が上がる。手を伸ばして淳の左腕をおさえた。淳の虚ろな顔がこちらに向く。

「……僕は省吾さんにずっと頼みたいことがあって、でも省吾さんは絶対に聞いてくれないし、それにそんなこと頼んじゃいけないって、省吾さんにそうさせちゃいけないって思っているんですよ。でも今頭の中それで一杯で……省吾さん、お願いですから……僕を、殺してくれませんか、なんて、そんなこと今ずっと考えてる」

「……聞けない相談だ」

省吾はうまく回らない頭を可能な限りフル回転させた。これは俺の手に余る。最速で病院に連れて行かなければならない。それにしても、一体どうしてこんなことになっている。

「淳、ナイフを渡して」

「嫌だ」

「俺が帰ってきたんだから、今日はもう無理だ」

省吾は浴槽の中に手を突っ込むと、ナイフを握り締める淳の指を一本一本引き剥がしていく。淳はそれに抵抗したが幸い省吾の方が遙かに力が強い。省吾は淳からナイフを奪い取ると、それをバスルームの端に転がした。そして淳の手を握る。

「俺が悪いようにはしないから、今日は眠っちまおう、淳。クエチアピンでも何でも飲んで、それで――」

「無い」

「は?」

「薬は全部無い。捨てた」

「捨、てた?」

淳は淀んだ黒い瞳でこちらを見てくる。

「省吾さん、これは半月前から始まった計画的な自殺なんです。僕はこの半月、僕の自殺を阻むものを悉く抹殺してきた。薬はいの一番に捨てました。あれが死ぬのを邪魔していると思ったから」

待て。半月? 計画的? 省吾はこの半月のことを思い返す。そんな変わった様子……。でも、ぞっとした。そういえば、この半月薬を飲んでいるのを見たことが無い気がする。? なんで俺はそれを見過ごしてたんだ?

微かに笑う音がした。

「ああ、僕、ちゃんと省吾さんに隠せてたんだな。やればできるじゃん」

「――馬っ鹿野郎!」

省吾は淳の胸倉を掴んだ。

「おい、淳、冗談じゃねえぞ。そんな死にたい感情一人で抱えてずっと過ごして、なんで俺に言わない。俺に言ってくれれば、まだ」

「感情、ではない」

淳は胸倉を掴まれ省吾を真正面にした状態で首をカクンと傾けた。そして、さも当たり前のことを言うかのように口を開く。

「僕、死にたいだなんて思ってませんけど」

「……は?」

「感情ではないです。論理です。僕は理性的に当然の理屈として死ななければならない。僕はその与えられた解に従ってそれを達成するために最善を尽くしている、それだけです。僕は僕に要求されたことをかなえなければならない」

省吾は凍りついた。何を言っているのか分からない。こいつは誰だ。俺の知っている深川淳ではない。いや、誰だというよりも、もはや何だというレベルで。省吾はこれまで淳の病気を目の当たりにしても、それで正気を疑うことは無かった。けれども考えたくはないが、今淳ははっきりと狂ってはいないだろうか。

「馬鹿言ってんじゃねえぞ。どんな理屈だ、それは。お前が死ななければならない理屈なんてこの世にあってたまるか。お前は今おかしい」

「そんなことはどうでもいい。僕は死ななきゃ」

「おい、淳!」

「ふふ、あはははははは」

突然笑い出した淳に思わず省吾は手を離す。淳は浴槽にストンと腰をおろした。そしてその縁に頬を預けて笑う。省吾はそれをただ黙って見るしかなかった。

「はは、省吾さん、今から僕が言う事は間違っているんですよ? 正しくないんですよ? 何でこんなこと言うのか僕分からないんですよ? 言いたくないんです、これを言っちゃいけないって分かってるんです、でも僕の一部が言えと叫んでるから言うんですけど」

淳は頭を動かすと暗い瞳で省吾を見つめて唇を動かした。

たすけて、くれませんか。

省吾は思わず一歩後退った。

なんだこれ。

 

 

次の日の朝、省吾は有休を取って淳をかかりつけの病院に連れて行った。診察室には二人で入って、省吾が事情を説明した。主治医の先生はそれを聞くと、淳に向かってその話が本当かどうか尋ね、淳はそれに対して頷いた。先生は椅子に深く腰を沈める。

「深川さん、それは強制入院だわ。近くの大きな病院に紹介状を書くから、今からそれを持って行って」

やはりな、と省吾は思った。明らかに淳の様子は入院相当だ。入院と聞いて、これは大ごとだという気持ちもあるが、それよりも何よりもこれで淳は死なずに済むという安心感がある。そこで省吾は淳の様子をちらりと見た。

淳は、心底驚いたように目を見開いていた。

紹介状を持って、省吾は入院先となる病院に淳を連れて行った。その病院でも診察を受けることになったのだが、最初に淳だけ部屋の中に通された。そして後から省吾が呼ばれて中に入ると淳が書類にサインしていた。中年の女性の先生が省吾に向き直る。

「任意入院というかたちで閉鎖病棟に入っていただきます」

省吾は訝しんだ。

「任意ですか。強制ではなく」

「はい。ご本人はとても落ち着いていらっしゃいますし、お話もちゃんとできますので」

まずいと思った。任意入院ということは淳が出ようと思えば退院できてしまう。落ち着いているし話もちゃんとできるって? そうだ、淳はそういうやつだ。淳はいつだって落ち着いて話をしてくる。こいつに関してはそういうことで正気をはかれない。通り一遍の問診では役に立たないのだ。

「先生、強制入院にしてください。こいつは死のうとしています」

「強制入院というものは人権を制限するものですから、なかなかできることではないんです。任意入院と言っても明らかに希死念慮があるのに退院させるということはありませんから」

数回押し問答したが、結局省吾は引き下がらざるをえなかった。軽い失望感と焦りを覚える。それから入院手続きをするまでの間、しばらく待合室で待たされた。淳と二人並んで隣の椅子に座る。淳は多少疲れているようだった。

「さっき測ってもらったんですけど、体温が七度二分で血圧が八十の六十。嫌になりますね」

「ずっと調子悪かったのか」

「さあ、知りません。ずっと寝たきりだったけれども」

そこで淳は少し遠い目をした。

「省吾さん、なんで僕入院なんですか」

「分からないか」

「ええ。僕は僕の中に当たり前にあるものに従って順当にステップを踏んだに過ぎない。なのになんで入院になるのか分からない」

「……そんなこと言っている内は出すわけにはいかない」

省吾の言葉を聞いて淳の口元に笑みが引かれた時、二人は呼び出されて閉鎖病棟に連れて行かれた。閉鎖病棟と聞いて正直省吾は陰惨な場所を想像していたのだが、外見上あまり他の病棟と変わらないようだった。看護師さん二人にカンファレンスルームへ通されて入院のガイダンスが始まる。スマホなど通信機器の持ち込みは禁止とか紐の長いものやベルトの類も駄目とかそういう話だった。ここでもまた問診された。自殺を図ったということで入院してきたようだがなぜ死にたいのかと。

「僕が当然の理屈として死ななければならないからです」

二人の看護師さんはそれを聞くと顔を見合わせた。

「というと?」

「僕は生きているだけでひどくマイナスなんですよ。で、今の僕は就職もできていないし、修論も書けていないし、読み書きもろくにできない。マイナスを返せる見込みが無いわけです。僕が生きれば生きるほど負債が溜まっていく。だから僕は速やかに僕の息の根を止めなければならない」

看護師さん達は苦笑を浮かべた。無理もない。淳が「当然の理屈」というそれは、そもそも前提からして「当然」でも何でもない。対して淳の方はというと、その黒い瞳にあからさまな失望の色をたたえていた。けれど総体としては笑顔を浮かべていて、省吾はそれを見てぞっとした。理解されないことに失望はするが、分かってもらえるなどとは欠片も思っていない、そういう顔だった。

ガイダンスが終わると二人引き離されることになった。淳はこの閉鎖病棟に留まるし、省吾は帰らなければならない。省吾はカバンからペンを取り出すと、レシートの裏に自分の電話番号を書きつけ、淳に渡した。

「公衆電話は中にあるだろ。電話してこい」

淳は小さく頷くと看護師さんに促されて病室へと歩いて行った。省吾はそれを見て今すぐ追いかけて抱き締めたいような気がして、けれどその一方でどうかここにいてくれとも思った。

家に帰ると一人だった。これからしばらく省吾は一人だ。省吾はちゃぶ台に突っ伏すとひたすら淳のことを考えた。考えたところで何も分かりはしないのだが。そう、この数年一緒にいたはずの深川淳という存在が浅見省吾には今理解不能だった。

 

 

入院と言って何か特別なことがあるわけではなく、起きてご飯食べて寝て薬飲んで寝てご飯食べて寝てご飯食べて寝て薬飲んで寝るだけの生活なのだということに淳は割とすぐ気付いた。何か、自分を救ってくれるようなことが起きるのではないかと期待していたのだが、そんなことはどうも無いらしい。それどころかこんなことがあった。

入院初日の夜、淳が病室にいると看護師さんが薬を持ってきた。白い100㎎の錠剤が二つずつ二種類、名前は告げられなかった。けれど淳はその内の一種類から甘い匂いを嗅ぎ取った。

「これ、ラミクタールじゃないですか? 今の僕に200㎎も処方したら副作用出ますよ。僕が断薬してたのはお伝えしてあるはずですが」

ラミクタールは少量から段階的に量を増やして身体を慣らしていかなければならない薬だ。薬をやめてから十日以上経っている淳にはすでに耐性が無いはずだった。ラミクタールを飲むのであれば25㎎から始めなければならない。看護師さんに確認してもらいながら淳は暗然とした。駄目だ、ここ。早く出なきゃ。

断薬していたと言ったからなのか、翌々日には回診された。淳はそこで入院していることは自分のためにならないから通院治療に切り替えたいということを申し出た。するとここでは判断がつかないから一時外出してかかりつけの病院に行って意見を聞いて来てほしいということになり、淳は三時に病棟の外に出された。外で省吾が待っていた。省吾は厳しい顔をしていた。

かかりつけの病院の診察室に省吾と一緒に入ると先生が怪訝な顔をした。

「退院したい、と。希死念慮は?」

「不思議とありません」

淳の正面の先生と横の省吾が同時に眉間に皺を寄せた。

「たった二日で?」

「はい、ありません」

省吾が身じろぎして椅子がかちゃりと音を立てた。

「……先生、こいつ嘘をついてますよ。出たいがばかりにそんなこと言ってるんです」

「省吾さん、何言ってるんです? 僕嘘なんか」

先生が机の上で指を組み合わせため息をついた。

「深川さん」

「はい」

「僕は患者さんのことは信頼しなければならないと思っている。だから、あなたのことも信頼しようと思うのだけれど、本当だね。本当に死ぬ気はないね。あなたがもしこれから自殺を図ったりなんかしたら、僕は二度とあなたの主治医はしない」

「はい」

「あなたがよく言う、読めないという症状は治らないものかもしれないし、治るにしてもすごく時間のかかるものかもしれない。それでも生きる覚悟はあるの」

「っ――」

先生と省吾が淳の顔を見た。

「あります」

「……では退院で」

「先生!」

抗議の叫びを上げる省吾に先生は目を向ける。

「任意入院だから。法的にはこうする以外に方法が無い」

かかりつけの病院から入院先の病院に戻ろうとすると、省吾が途中駐車場のある所で立ち止まった。そしてそのまま淳を置いて駐車場の中に入っていってブロック塀に腰を下ろした。淳はそれを追いかける。

「省吾さん? 何してるんです。時間制限あるんだから早く病院に帰らないと」

「……嘘つき」

低い声だった。

「お前は早くあそこから出たくて出たくてしょうがなくて、騙してるんだ。俺も、医者も!」

「ひどいな、省吾さん。僕ほんとに嘘ついてないですよ。希死念慮無いです」

「これで、退院してきたお前に死なれでもしてみろ。俺は立ち直れんぞ」

「だから死なないですってば」

「俺は何が何でもお前を強制入院にするべきだった!」

「え? 省吾さん……なんで僕が生きていく邪魔をするんです?」

そう言うと省吾はサッと顔色を変えた。そしてそれ以上何も言わなかった。淳は淳で今自分が口走ったことを反芻して、狂ってるなと思った。

病院に帰って翌日正式に退院が決まったので寝る前に公衆電話から省吾に電話をかけた。明日退院するから、その時は荷物を入れるためにかばんを持って来てくださいと。省吾は分かったと短く言って電話を切った。

淳は病室に戻ると横になった。間もなくして二十二時になったので照明が落とされる。淳はその暗闇の中でしばらく起きていた。

死ぬ気が無いというのは本当の話で。だって、ここに入院していたら死にようが無いのだから、どうして死ぬことなんか考えるだろうか。そして、死ぬ気は無いと言って先生に信頼されて退院させられるからには倫理的に死ぬわけにはいかないのだ。と、ここまで考えて淳は寝返りをうった。

やはりここに辿り着く。空っぽの浴槽。

――僕は、あの時死んでおけばよかった。

 

 

翌日の昼、閉鎖病棟の外に出ると省吾が待っていた。省吾は淳に向かって笑いかけるとカバン持とうかと言ってくる。それに淳は呆気にとられた。

「どうした、淳」

「省吾さん、もっと怒ってるかと思いました」

「もともと怒ってるわけじゃない。それにつんけんしてたら居心地悪いかなとも思った」

省吾は有無を言わさず淳からカバンを取るとバス停に向かってゆったりと歩き出した。ありがたい。淳は今日もだるいままだから正直カバンを持つのはつらいし、省吾と険悪な雰囲気になるのだってつらい。

連日大雨が続いていたが、今日は晴れている。バス停で待っていると七月の日差しが強かった。ほんの数日とはいえ、ずっと空調の効いた屋内にいたから、外の空気に慣れなかった。けれどもこれからはこの夏の中生きていかなければならない。顔に滲んでくる汗を不快に思いながら淳は立ち続ける。

やがてバスが来た。中に入って座ると、淳は省吾にもたれかかって眠った。家までほんの三十分だったが起きていられなかった。最寄りに着いて省吾に起こされ朦朧としながらバスから降りると、その場にうずくまって吐き気をこらえた。省吾に背中をさすられる。

「そんな乗り物弱かったっけ」

「いや、そもそもずっと吐き気がしていて。嫌になる。こんな」

強いて立ち上がると淳は何度か口元を押さえながら家まで歩いた。家に入るとカーテンが閉められていて薄暗かった。玄関から足を踏み出すと視界に入るものがあった。バスルームと空の浴槽。淳は壁に手をあてると、黙ってそれを見た。

「淳?」

「……死んでしまえばよかったって思ったんです。入院して、何も変わらなくて、ただ時間ばかりが過ぎて、でも先生との約束で死ねなくなって、こんなことなら、あの時死んでおけばよかったって、昨日の夜何度も何度も思った。……あ、駄目だ、吐く」

淳はバスルームの脇の洗面所に行って身体をくの字にした。そして何度もえずく。けれども吐けない。ほとんど吐きそうなのに。

「淳、口に指突っ込んで」

言われた通りにするとなるほど効率よくえずけた。だけど吐けない。何度か試した後、淳はその場にうずくまった。省吾が側に立つ。

「……それでも退院したかったのかよ」

「あそこにいてもよくなるわけじゃないですから」

「でも、生きてはいけた」

「うん、それだけだ」

「それだけで十分なんだよ」

淳は立ち上がると省吾の腕に身体を預けた。

「僕は生きる意欲が希薄なくせに欲深で、生きてるだけじゃ満足できないんです。もっと、生きたかった」

「俺にはお前が分からんよ、淳」

淳は笑みを刷いた。

「僕にも分かりません」

生きたかったと言って、その感情がどこからやって来たのか淳は知らなかった。死の方が圧倒的に来歴が詳しい。自分は一体何なのか、何を考えているのか、淳自身にも分からなかった。

 

 

深夜、省吾は喉の渇きを覚えてベッドから起き上がると台所に行って茶を飲んだ。そしてそこからベッドに戻る途中、淳の布団の前で足を止める。掛け布団も何もかぶらず、身を丸めて眠る淳を前にして省吾はゆっくりと息を吐いた。

俺は何も知らない。こいつが死のうとしたきっかけも半月どういう気持ちで過ごしていたのかも、なんで今生きようとしているのかも、何も知らない。人と人はお互いを知らなくても一緒にいられるのかもしれないが、それにしても今回何も分からなさすぎる。

退院してきたのが全く嬉しくないかと言われればそれは違うのだが、けれどやはりもっと入院させておきたかった気持ちがある。だって俺はたとえこいつが明日自殺したって多分驚かない。そんな状態の奴を一人にしておきたくない。

「省吾さん」

見れば黒い瞳が二つ薄暗闇の中光っていた。省吾は何か道で獣に会ってしまったような気分になる。……実のところ今省吾は淳が怖いのかもしれない。

「さっき省吾さんにね、僕が死のうとした理由を無茶苦茶説明する夢を見た」

「……こっちの俺にも説明してくれよ」

「うまくできなかったんです。悪夢でした。だから目覚めた」

省吾は足を進めると布団の側にしゃがんだ。

「もう少し悪夢を続けようか」

淳の目が丸くなった。まあひどいことを言っているかもしれない。けれど省吾は淳のことを分かりたかった。あまりにも性質が違うからお互いある所からは理解しあえないことは分かっていたが、それでも分かりたかった。

「きっかけは?」

「……つまらないことですよ。会社に落ちたとか、才能が無いんじゃないかとかそんなことで遺書を書いて、そうしている内に、ああこれ何回目だろうって。もう何年も治療を続けて薬もちゃんと飲んでいるのに、こうなるの何回目だろうって。もう続けるべきじゃないと思いました。だから死ぬために薬をやめたんです」

「詩はどうした。未練じゃないのか」

淳は白い歯を覗かせて笑った。

「もういいやと思って」

「……今までこういうことは聞いてこなかったんだけど、……俺のことは?」

そう聞くと淳は笑いを収めて、

「省吾さんのことももういいと思いました」

と言った。省吾は淳から視線を切るとしゃがんでいる自分の膝や腕を見た。

「ごめんなさい」

「何を謝る。謝ることじゃない」

「傷つけた」

「傷つきやしないよ。ただ――」

ただ、俺は何のためにここにいるんだろうと、そう思っただけで。

「今もそうか?」

淳は頷いた。

「僕は今自分の中に何も持たないんです。何も理由が無い。空っぽです。詩を書きたいから生きようとか、省吾さんと一緒にいたいから生きようとか思わない。だから、なんで僕が今死のうとしていないかすごく不思議なんです」

不思議なままでも生きていてくれたら御の字なのだが。

「お前が生きていくために俺ができることは?」

「何も無いですよ」

「淳」

その声は懇願の響きを帯びた。淳は何度かゆっくり瞬くと肘を立てて上半身を起こし、ふうと息をついた。

「……少し、こっちに顔を寄せてくれませんか」

淳の意図を測りかねながら言われた通りにすると、淳は左手を省吾の顔に軽くあてて首筋に噛みついた。犬歯が省吾の肌に刺さる。省吾が戸惑っていると、淳の右手が背中に伸びてきて肩甲骨のあたりを引っ掻いた。しばらくそれが続いて数か所噛んだ後、淳は省吾の首筋から離れて、手を省吾の顔にあてたまま、目を斜め下の布団に落とした。

「自分の身体を引っ掻いたりとか噛んだりとかしているんですけど、もうそれだけじゃ足りなくて。あなたにこういうことしたいと思ってしまうんです」

「……」

「省吾さん、僕達はもう一緒にいるべきじゃないんじゃないかな。僕はあなたを困らせたりとか傷つけたりとか、そういう事ばかりしてしまう気がする」

首筋や背中がジンジンする。結構本気でやったなと思った。寂しい笑いが漏れた。

「淳、今更離れるには、俺達は長く側にいすぎた」

歪んでいる。だが、それが何だと言うのだ。

 

 

けれども結局それきりで、あれ以来淳が省吾に再び噛みつくことはなかった。省吾は朝一人でコーヒーを淹れる。淳は中途覚醒を繰り返すので省吾よりずっと早くに目覚めていることもあるが、今日はまだ眠っていた。省吾はドリップしている間、その丸まっている人間を見る。

優しくはないよね。

正直省吾さんのことはもういいと一人になって苦しまれるより、爪や歯でも立ててもらえる方がどれだけ救われるか分からない。そんなことぐらい、そっちも分からないではないだろうに。

全く何の足しにもなれている気がしないこの状況をどうすればいい。家賃・水光熱費は七対三で割って、最近は家事分担も省吾が多めに引き受けている。だから、「役に立っている」のだと「助けにはなっている」のだと、そう無理矢理自分に言い聞かせることもできようが。

横でコーヒーが溢れそうになったので、省吾は慌ててドリッパーを流しに置いた。なみなみとしたコーヒーをコップに注ぎ込む。その時淳が起きた。淳はふらつきながらこちらに近付いてくる。

「いいにおいしますね」

「飲むなら朝飯食べてからにしろよ。胃が荒れる」

こくりと、いっそ幼いほどに頷いた淳は食パンを取り出してそのままかじった。そしてその手でコーヒーを注ぐ。そのものぐさなありようは痛々しかった。早く自分を覚醒させろと。有為な時間を過ごさせろとそういう小さな叫びが眠たげな皮一枚下でなされているようで。

そんな観察をいつまでも続けているわけにはいかない。省吾はコーヒーを飲み終えるとスーツに着替えてかばんを持った。玄関まで行くと淳が見送りに付いて来る。身を曲げ革靴を履いたそのままの姿勢で省吾は淳に訊ねた。

「淳、俺って必要?」

「何言っているんですか省吾さん。僕は省吾さんが側にいてくれるだけでいいんですよ」

「――そうか」

死のうとした人間の言葉じゃなきゃ素直に聞いたのだがと思う。玄関を出てアパートの廊下を出たところで、まずいなと思った。自分もいくらか病んでる。この話終わりが見えない。しかし始業時間は刻々と迫るのであって、省吾は引き返すことができなかった。

 

 

省吾を見送って淳は一人になるとコーヒーを飲み干し、コンと流しにコップを置いた。

死のうと思った。

 

 

どこからが仕方が無いことになるのかなというのが退院の時に考えたことで。

退院の三日後に死んだら、それは出たいがばかりに自分の状態に嘘をついて退院したと、不義理だとそう思われても仕方が無いだろう。けれど一ヵ月経てば? それはもう一回頑張ろうとしたけど駄目だったのだと、仕方ないよねとそう見てはくれないだろうか。

全く回復しない。何もできない。薬を飲んで、休む、模範的な患者だったはずだ。一ヵ月何一つ進展が無い。というより――病気が分かって以来、治療が始まって以来、何か進んだということがあるだろうか。よくなるのを待っていたら僕はいくつだ。それまで何をしているんだ。僕は僕を許容するつもりなど無い。

無意味感とか無力感とか無価値感とかは通奏低音であり、それを殊更に取り上げる必要もない。何か書きたいとも思わないし書くべきだとも思わないし、やることは無い。この期に及んで惜しいものが何一つ無い。誰か殺してくれ、優しく殺してくれと願ってやまないが、そんな願望がかなう気配は無いので自分でやるほかない。

何の感慨も湧かない。

一刻も早く終わらせることが確固として正しいということ以外何も思わない。

 

 

深夜、省吾が家に帰って来ると淳の姿が無かった。こんな時間におかしいと思って家の中を見回す。中にいる筈なのだ。だって玄関のドアが開いていた。

すぐにバスルームを見る。すると空の浴槽の中に服を着たまま淳がいた。今度はぐったりと目を瞑り頬を浴槽の縁に預けて。傷は無い。「ああ、まただ」と思って、そこで省吾は気付いた。

なぜ今回、というか前回、淳がこうして浴槽で死のうとするまで自分は気付かなかったのか。気付かなかったのではない。見過ごしていたのだ。そこに至るまでの前兆、思いつめたように部屋を片付けるのも、それを匂わせるようなことを言うのも、夜を怖がるようになるのも、「ああ、なんだ、またか」とそう思って。

こんな近い距離の人間が死のうとすると、そしてそれに真正面から向き合おうとすると臓腑を下に引っ張られるような心地がする。淳との間のその何回目になるか分からないそれを俺はもう味わいたくはないときっとそう思った。

淳が身じろぎした。

「省吾さん、僕はどれだけ自分を恨んで呪ったらいいんでしょうか。何度こんな無様なことを繰り返すんでしょうか。死ねって声がずっとするんです、ぶっ殺してやるって声がずっとするんです、分かってるんです、それが正しいんです。ちゃんと分かってる。なのになんでこうなんでしょうか。僕は今全身全霊で自分を憎悪しています」

「まずその声正しくないから。お前に死ねっていう声は問答無用で正しくないから」

「何が分かるんです」

穏やかな、しかし確実に怒気をはらんだ声だった。

「適当なこと言わないでくださいよ。分かったようなこと言わないでくださいよ。省吾さんに何が分かるって言うんですか。正しいんです。僕は正気で平常で平静で頭は全然回っていて、その頭で必死に考えてそれが正しいんですよ。正しいほかないんです」

「お前は今おかしいんだよ」

「死に至る思考が異常だと言うのはあなた方の詭弁ですよ。楽ですよねえ、そう言ったら!」

「淳、お前だって少しくらい聞きかじったことはあるだろ。人間うつがひどくなると視野が狭くなるんだ。だからそんな選択肢を正しいと思うんだ。全然他にやりようはあるのに、そう思えないんだ。それは異常なんだよ」

「そんなもの宗教だ」

「今どっちが宗教じみているか分からないお前じゃないはずだ」

淳は目を開けると上体を立て直しそのまま沈み込んだ。

「これはそんなレベルで揺らぐ話じゃないんです。論理でどうこうなる話じゃない。あなた方はそれを皮膚感覚で理解することが決して無い」

「淳」

「はい」

「二人称複数で話を進めるな。今のお前の相手は俺だ」

「……省吾さん、僕が正しい。いや、正しさなんてどうでもいいくらい正しい。省吾さんがそれを理解できなかろうが、違うと思っていようがそれは関係が無いんです。あなたがどれだけ理屈で僕を説得しようとも、僕が正しいことにかわりはない」

省吾は軽くため息をついた。呆れたとかではなく、頭のエンジンをかけるために。論理でどうこうなる話じゃない、か。思い返すに、こいつが死にそうになったのを止めた時のことを思うに、論破したことは無いかもしれない。いつも情だった気がする。問題は、今回もこいつがそれを聞くキャパを持っているかどうかで。そして俺がそれを持ち合わせるかどうかで。詩も俺のこともどうでもいいと言っている相手に生きろと言うにはどうしたらいいか――ああ、この瞬間手持ちゼロなのだが。

浴槽の中にいる相手を見る。繰り返し繰り返し繰り返す、自分を恨み呪い憎悪している相手。死のうとするたびに俺は手を伸ばすが、それはほとんどまた奈落に落とすために引き上げているのではないかとそんな錯覚に陥るほど繰り返す相手。きっとこの浴槽から引きずり出したところで、それは無限の内の一コマに過ぎず、また次が来る。それをもうお互いよく分かっている。そのことに絶望するのはなにもそっちだけではなく。「ああ、またか」と思うのはそっちだけではなく。

「前にお前が嵐山で死のうとした時にさ、これ一生繰り返すのかもしれないねっていう話したじゃん。救いだとか幸福だとかを求めていた自分が甘かったのかもしれないって、地獄行きを手伝ってくれるかってお前言っただろ」

「言いましたね。もう今となっては全然乗れない話ですけど。それは詩への執着があること前提なのだから。ただの僕はそこまで強くない」

そこが問題で。これまでまがりなりにも淳を説得できていたのは、淳の詩に対する執着のおかげに外ならず、その特異な点だけ突いてきたのだ。人類普遍の生きる理由なんか説けないし、納得もさせられない。だとすれば――。

「だとすれば、褒め、そこねたなと」

「え?」

「らしいとか好きだとかは言ったことがあるが、良いとは一度も言わなかった、お前の詩」

「……だから何だと言うんです。褒めるとか褒めないとか関係ないじゃないですか」

省吾は頭を掻くと浴室の後ろの壁に背を預けた。足を軽く組む。そんなことは分かっていて。お前にムカついてほしいのはそっちじゃない。

「いや、残念だったなと思って」

それを聞いて淳はやや顎を上げた。そして「なるほどね」と呟く。

「過去形ってのは、きますね。なんでだろう、全部過去にする話をしている筈なのに」

どうか淳、そのまま嫌だと思ってくれと願う。お前がどうでもいいと言うそれを、実際過去形で扱われて、それに嫌悪を感じて欲しい。頼むから。

「ほんとは全然どうでもよくなんかないんだって気付けよ、淳」

人類普遍の生きる理由なんか説けないし、納得もさせられない。だとすれば、やはり書くとか、淳の個人的なそれに賭けるしかない。しばしの沈黙。淳は斜め下に目を落として何か考え、一つ頷くと省吾に顔を向けて唇の端を上げた。

その瞬間、省吾は負けたと思った。

「そうですね、きっとどうでもよくはないんです。だって省吾さんに言われて確実にざわつきましたから。省吾さん、僕は生きられるものなら生きたかったかもしれない」

「……なら、生きたいって言えよ」

首を振られる。

「いいえ、何度も言っています。終わらせるのが正しい」

「正しいとか正しくないとか言ってたらすぐ死ぬぞ! そんな考え方捨てろ」

「正しい、というのがよくないのであれば、それしか無いと言います。それしか無いんです。僕は現状必要とされていることが何一つできない、生きていく能力の無い無能であって、病気も治る見込みがありません。何にもできないんですよ、何にもできない。この先というものがあったとして、僕はそれをどうやって生きていったらいいんでしょうか。答なんて見つからないですよ。それしか無いんです」

「馬鹿言ってんじゃない。何もできない人間は生きていちゃいけないなんて、そんなふざけた話信じちゃいないだろ」

「他人の話をしているんじゃない、僕の話をしているんです。僕は何もできないなら生きていちゃいけないんです。省吾さん、嫌だ、全部嫌だ。僕は省吾さんが出かけて家で一人になるのを待っているんです。一人になったらなったで、『今だ、なにしてる』ってずっと声がするんです。そして自分をまた呪っているんです。呪って恨んで、なんでこんなもの繰り返すんです。繰り返した先に何があるんです。省吾さん、僕はきっと生きられるものなら生きたかったですよ、だけど無理じゃないですか。僕、ここから出たとしてどうなりますか、入院ですか、ただただ薬飲んで生きながらえてそれで何になるんですか、何にもできないじゃないですか」

省吾の背に汗が伝う。当然風呂場にエアコンなんてものはない。淳の言葉を聞きながら、頭の片側に自分の声がする。「大丈夫、あんなこと言って淳は死にはしない」と。そして――「死んだら死んだでもうそれは仕方がないじゃないか」と。

「落ち着け」

自分に言っていた。それに飲まれてはならなかった。だが、今初めて思ったことではないのだ。ある時期から何度も思っている。「死んだら死んだでもうそれは仕方がないじゃないか」どこかでそう思わなければ、どうしてやっていけるだろう。心臓がもたない。この繰り返しに絶望するのはなにもそっちだけではない。

ああ、なんで俺はこいつを生かそうとしているんだろうか。これは俺のエゴじゃないのか。薬飲んで治るならば、治療してどうにかなるならば、死ぬのは馬鹿らしい、だけどそうじゃないんじゃないか、こんなに何度も何度も繰り返して、そのたびドロドロになって、こいつを生かそうとするのは本当に正しいのだろうか。

そこまで考えて考え方がうつったと舌打ちした。淳が怪訝な顔をして見てきた。そこではたと気付く。目の前のやつは何してる。別に今首にナイフをあててすぐにでも死のうとしているわけじゃない。それに死んでいるわけでもない。俺の前に生きて座っていてこちらと会話しようとしている。

「……全然生きてるじゃねえかよ」

何と言おうが、どれだけ負の感情にまみれていようが、目の前に座って呼吸している。走馬灯のように記憶が蘇る。俺は昔こいつになぜ生きているのかと聞かれて生きているからだと答えた気がする。俺が拠り所にしてきたものなんてその程度で。こいつは昨日死ななかったし、今日死ななかった、俺が今立つ理由はそれで十分じゃないのか。

「俺にも限界というものがあってだな、淳。普通に分かりたいし共感したいし意思を尊重したいとは思うんだぜ」

淳の黒い瞳がこちらを射抜く。それと省吾の目が正面からぶつかった。

「でも悪いけど、俺は<ruby>お前<rt>生きてる人間</rt></ruby>の味方しかできねえんだわ」

 

 

僕の命の恩人です。本当にありがとうございました。

だったら

俺は君と酒を飲んでよかったと思うよ。

「でも悪いけど、俺は<ruby>お前<rt>生きてる人間</rt></ruby>の味方しかできねえんだわ」

目の前の男は、淳の目を真直ぐに見つめてくる男は、あの日のままだ。今、その瞳を揺るがせない。

その瞬間、淳は負けるかもしれないと思った。

自分は生きる僕を擦り切れるほど肯定してくるこの男を前にして、果たして今回も――なぜだ、どうして、ふざけるな、お前は死ぬしかない、それが正しい、なぜだなぜだなぜだ、その男の手を取るな、もう立ち上がるな、苦しむだけだ、繰り返しだ、繰り返し、早く終わらせよう、お前はこの先どうしようもないだろう、さあ!

省吾が身体を預けていた壁から背を浮かせたのを見て、淳は喉で息を詰まらせた。

「――っ、嫌だあああああああああああああああああ‼‼」

淳の両手が上がる、手にはナイフ、一閃、それは淳が繰り返し調べた首の頸動脈に向かって閃く。

血が淳の顔に飛び散った。

「淳、俺がいるならもう無理だよ」

両手が動かない、視界が揺らぐ、だがかろうじて捉える、自分の両手がナイフを握って、そして省吾の右手が、ナイフの刃を握っている、血が滴って。

「省吾さん……」

省吾は黙って左手で淳の手の指を一本一本ナイフの柄から引き剥がしていく。その右手から血は流れ続ける。

「省吾さん」

「ねえ、淳、お前が中国旅行から帰ってきた時、俺がお前の指で遊んだの覚えてる?」

「……」

「桜の下で指いじったのは?」

「……」

「きれいな手だ。この手は生きていくための手だよ」

ナイフから全ての指が離れる。省吾はナイフをバスルームの端に転がした。省吾は右手を淳の頬にあてる。白皙に赤がついた。

「それと生きていこうよ、淳。お前に囁き続ける声も、お前を引きずり落とそうとする手も含めて俺は一緒にいるよ。その病気は治らないけど付き合っていくことはできるんだ」

「省吾さん、もう嫌だ、繰り返したくない、もう嫌だ」

「それでも行こうぜ、淳。必要なら俺はお前が失った呪いを尽くかけ直してもいい」

「書けないんです」

「また始まるんだよ」

「僕にはこの先を生きていく手段が無いんです」

「馬鹿、修論書けなくて、就職できないくらいで悲観的になってんじゃねえよ。せいぜいお前の頭の中にあるのはその程度だろうがよ」

「読めない」

「戦ってきただろう、これからも戦える」

「省吾さんに何が分かるんです」

「分かんないけど、ずっと見てきたよ。だからその程度は分かる。淳、俺はずっと見てきたよ。ずっとって言っても四年しかないけどさ、それでも俺はお前を見てきたよ」

「また入院なんでしょうか」

「まあ、俺この件一人で背負い込む気ねえから。プロの手が必要なら借りるべきだ」

「……恨みます」

「いいよ」

省吾は淳の頬から手を離すと、深々と切られた血を流し続けるそれを淳の前に差し出す。その手は、三年前の鴨川で、二年半前のリビングで、四か月前の嵐山で。淳の手は。

ああ、なぜだなぜだなぜだ、怨んでやる怨んでやる怨んでやる、必ず膝をつく、必ずその手はまたナイフを握る、お前がここから抜け出すことは無い。

「……きっとそれでもを叫ぶために今の僕はいるんですね」

無限とも思える繰り返しの中、淳の手はその手を握る。

 

 

淳が散歩に行った。今日は選考を受けている企業の最終面接なので、緊張してとても家にはいられないから、面接の時間まで一時間くらい外を散歩してくるのだそうだ。余裕があるんだか無いんだかと省吾は苦笑する。

二月。入院から数えれば七ヵ月。淳は再び就職活動をしている。去年は大体一次か二次で落ちていたのに、今年は二月の段階で最終面接を受けているから、まあまあ順調なのだろう。さてどうなるかね、とベランダから京都の街を見ながら紫煙を吐き出す。ひょっとしたら、どうなるかではなくどうするかという話かもしれないが。

一時間後、散歩から帰って来た淳と入れ替わりで省吾は外に出て、三時間くらいして帰って来た。帰って来ると、淳が何やら考え事をしていたが、暗い様子ではないのでほっとした。

「どうだった」

「省吾さん……面接で社長と普通に入社後の話をして、最後に引き続きよろしくお願いしますって言われたんですけど、これって受かったんですかね」

「それで落ちたら大分性格悪いだろ」

淳がほっと息を吐いて笑った。

「今日、僕志望動機とか自分の話とかめっちゃ準備してたんですよ。でもそういうの全然聞かれなくて、あんまり聞かれないから、聞かなくていいんですかって言ったら俺の答は最初から決まっているからって言われて」

「面白い社長だね」

「僕あの会社好きだな」

省吾は少し考える。

「東京の会社だっけ?」

「そうです。……そうですよね、そこがありますよね」

ここは京都で職場が東京だとしたら、淳の引っ越しはほぼ避けられない。

「省吾さんとは離れたくないですけど、でも」

「うん、気に入ってるならその会社にすればいいと思うよ」

淳はためらいながら頷く。

「俺も引っ越そうかな」

「え?」

ぱっと顔を上げた淳がおかしくて、ちょっと笑ってしまう。おかしいことなんて無いのかもしれないが、自分の答はベランダで決めていたので、もう当たり前だった。

「東京、俺も引っ越そうかなって」

「でも仕事」

「転職すればいいからね。今の会社もいいけど、思い入れがそこまであるかと言われたら無い」

「だけど、転職大変じゃないですか?」

「あのさ淳、俺だよ?」

淳が唖然としている。

「考えてみ、淳。お互い京都と東京で働いててまともに会えるのなんかゴールデンウイークと盆と正月くらいで年三回じゃん。で実質毎年毎年三回も会わないと思うんだよ。それと残りの寿命掛け算してみろよ。俺は嫌だよ、それ」

「た、確かに」

「まあこれを機に一人暮らししたいなら止めないけど」

「……本当に省吾さんの人生が変わっちゃうというか」

「そんな変わらんし、好きでやることだし、それにとっくの昔から人生くらい変えるつもりでいる。淳はどうしたいの」

「僕だって省吾さんと一緒にいたいです。でも、こんな頻繁に死のうとする人間が、そこまで人を付き合わせていいのかって」

「いいよ」

目が合う。

「俺はいいよ以外に言うことが無い」

黒い瞳が揺れている。でも、ふと定まって。

「――僕に付いて来てくれますか、省吾さん」

目を細める。その言葉のチョイスは真面目過ぎる。

「決まりだ」

 

 

京都から離れたのは翌年の二月だった。「もうこの街でやることは無いですから」と言う淳に、省吾は「馬鹿だなあ」と言って、淳にも省吾はそう言う理由は分かるのだった。強がりが過ぎた。ただ、「修了式には出なくていいのか」と言われるのには、断固として首を振った。自分が学位を授与されるなんて不気味過ぎた。結局最後まで、大学院では自分がここにいていいとは思えなかった。「よく言うよ、あんだけ楽しそうに修論書いておいて」「楽しいとか幸福とかと、自分がそこにいていいかは違うんです」市バスから見慣れた京都市街の街並みを眺めて、その端々に過去の自分の影を見出しながら、それを喪うということを実感できないでいる。或いは――こういう時それを素直に悲しめる人間なら何か違ったのだろうか。

「楽なんです、今。これから先が見えないから」

「結構なことじゃないか」

だから――

ぽつりと漏らした言葉が新幹線の加速音に紛れた。省吾が視線を送ってきたが、淳は首を振った。

自分が嫌いです。

感情を消費する自分が。新生活に高揚して楽になれてしまっている自分が。たかだか社会人になるというお遊びみたいな先の見えなさに救われているなんて、いずれ落ちることが保証されているような。その程度のものしか用意できないのだ。

 

 

東京駅から中央線に乗り換えてしばらく電車に揺られれば、割に簡単に中野へ辿り着いた。駅の北口から出ると北に向かって商店街が伸びていた。商店街を行き交う人の肩と肩の距離があまりに近いので淳は目を回した。

「省吾さん、酔う」

「少し外れるか」

商店街から東の小道に入って、北上する。周りは飲食店がずっと連なっていた。自然と京都とは雰囲気が異なって、集合の結果の瀟洒に気を呑まれた。

新居は駅から北に十五分歩いた小さなマンションの三階にあって、入った瞬間消毒臭が強く香って、新しい家だということが自然と実感された。二月の弱い陽の光がカーテンの無い窓から、フローリングを照らしていた。

「笑えるほどなんも無い」

「はい」

「今だけだね。さてどうしようか。荷物が届くまで二人でどこぞに出かけるわけにもいかんし」

「じゃあ、僕コンビニでコーヒーでも買ってきますよ。それ飲みながら待ちましょう」

マンションの階段をまた降りて、地図アプリでコンビニを探すと強く風が吹いた。コートの端が呆気なく風にさらわれる。底冷えという意味では京都の寒さも厳しいものがあったが、風の分体感温度が下がって東京も冷える街なのだということを知った。

近くのコンビニで二つコーヒーを買って再び外に出る。手が暖まって、吐いた息が白く上って行った。束の間見ることは許されるほどに薄く雲を帯びて太陽。ふと祈りたくなった。けれど何を。

きっとこの街で死ぬのだろうなと思った。それがいつになるかは分からないけれど、だとすればどうか。大切な人を長く大切にできますように。不可能に、最後の裏切りに、祈りの背反に、それでも良い人間でいられますように。

ゴウと空気が鳴って風が通り過ぎた。

 

 

いつしか四月は過ぎて、五月も終わろうとしている。入社式に外部研修と、「儀式」はあったけれど、特にターニングポイントも無く案外ぬるりと社会人になってしまった。まだ一人前に仕事もできないのだから、社会人の自覚もあるかと言えば無かった。今のところ残業は無いが、八時間労働は長いと思った。帰ってきたら、疲れでほぼ何もできない。朝詩を書こうと思って、時間に押されてできず、夜になって気力が無くてできない。夜になって全て終わらせたくなるのを、明日も早いからと自分をなだめて眠らせる。休みの日になると、そうしてなだめるのがいらないから、早朝までそういうことを考える。意識が落ちる。こうしていつの日か、ろくに遺書も残さずに自分は死ぬだろう。なぜ? なぜ? と言われながら。なぜも何も、自分にとってそこに「なぜ」がそんなに明確にあるという感覚がよく分からないのだが。つまらなく死ぬのだろう。もう少し若い頃であれば、自分の死を実況中継しようと思ったかもしれない。自分の死に、自分の感情に、自分に価値があると、心のどこかでは思っていたからだ。絶望というものが深いと思えるなら、そうしてもよかった。しかし、今の自分はそうではない。絶望というものをちゃんとした覚えがないし、語るに足るだけの理由も無かった。ただ、もういいかなというか、死ぬべきだなと思うだけで、この希死念慮はくすんで淀んで数千万の類型の一つに過ぎない。

路地裏の壁に投げつけた豆腐が飛び散り流れ落ち、地面に点々とするそれが、やがて降る雨に流されていくように、無残に死ねればいいと思った。そうすればようやく自分の実態というものに、かたちが追い付くのだと。高架を電車が走っている。最寄り駅に転落防止柵は無い。きっと出勤するふとした朝に飛び込むのを耐えるのは難しい気がした。そう思うと、毎度毎度生真面目に電車に乗っていたのは不思議なものだなと思う。

翌日、そういう目で電車を見ると、思ったより遅いということに気付いた。もっと、空気を裂いてホームに入ってくるような、そんな気でいたのに、これでは長い重たい車に緩慢に轢き殺されるのと何が違うのか。即死はできない気がした。思ったより遅い電車に――。

日増しに切れ味の悪くなる包丁に。

縄をかける場所の見つからない家に。

屋上に出られないオフィスビルに。

呆然としながら、方法を探す。手近に方法が無いから仕方が無いねで終わらせていいようなものではないからだ。五月が終わろうとしている。

 

 

「みたいな」

「みたいなて」

家の中、省吾は頭を掻く。さっき淹れた二つのコーヒーがまだ湯気を立てている。金曜日の朝、少し時間があったからコーヒーでも飲みながら「どう社会人生活?」と気軽に聞いてみれば、返って来たのは豆腐がどうだ、電車がどうだという話で、雑談で済ませるには重い。

こいついつ頃からかそういうところあるよなあ、と省吾は頭の後ろに手を当て目を伏せる。助けてを言わないくせに、聞けばあっさり答えるというか。運命に対してガードが甘いのはわざとなのか、どうか。

「今はすっきりしています。ああ、これ死ぬんだろうなと思ったから。いつかは分からないけど、死ぬのなら、あとは死に方だけかなと」

「淳」

「死に方って言っても、電車とか包丁とか、そういうことを言ってるんじゃなくて、それまでの過ごし方というか。ねえ、省吾さん、僕は死ぬなら書き手として死にたいです。薄ぼんやりと死ぬのではなくて、僕の死を書いて死にたいです。僕の死に方なんて凡庸も凡庸だけど、僕のように書ける人はそう多くないから。僕の死に価値は無いけど、価値が無いものを書くことに価値が無いとも限らない気がしているんです」

「……俺が覚えていてほしいのは、俺は生きているお前の味方しかできないということだよ」

淳は微かに笑ってコーヒーを飲んだ。

「人間は生きたいと思っても死んでしまうように、死にたいと思っても生きてしまいますね。それこそ、一晩中全身を掻きむしりながら死にたいしか頭に無くても、死ねない時は死ねないですし、一方で何でもないときに今ならいけるなと思うこともある。だから、死ぬということも含めて、僕に選択権は無いんじゃないかと今日は思っています。ある日死ぬか死なないかです。今まで死ぬかどうかに判断コストを費やしていたけど、今それが無くなって楽になっています」

省吾にはこれがいい話なのかどうかさっぱり分からなかった。すっきりした、楽になったと言いながら、地獄に真っ逆さまの発想法をしているのではないかという気もした。「生きることにする」と言って欲しかった。でもそれが無理なのも知っていた。「生きていていい」も「生きていて欲しい」も薄い紙切れになって風にさらわれる。なぜなのか、分かるようで分からないでいる。

「省吾さん、見ていてくださいね。僕が何を書くか、どこまで行けるか」

「まだ俺が必要なの」

「うん、ごめんなさい。悪い人間で」

 

 

土曜日。淳はずっと寝ている。もう夕暮れも近付いて、低い窓から淳の布団に傾いた陽の光が差す。積み上げられた本に囲まれて、布団に丸まって寝息を立てる淳を見て省吾は目を伏せる。そうしていると、何も変わらないように見えるのにね。

淳の瞼が震える。

「……省吾さん、今何時?」

「六時。飯食うか?」

「ご飯……食べるって何でしたっけ……いや、分かるんですけど、脳のメモリが足りなくて、自分がご飯を食べるということが理解できない」

こりゃだめだと省吾は溜息をついた。豚肉とナスとキャベツがあるから、適当に味噌と豆板醤で炒めよう。

「これから飯作るから、メモリが解放されたら食えよな」

台所で豚肉を炒めながらキャベツを切る。包丁がまな板と音を立てる。毎週毎週こうだ。別に淳の職場はそうきつい職場ではない、はずだ。新卒でまだ慣れていないだけか。それとも――もっと根本的な話か。

ガチャン。

リビングから陶器が破砕する音が聞こえて、省吾はコンロの火を止めた。リビングを覗けば、淳の足元でコップが割れて麦茶が床に広がっている。

「淳、怪我しなかったか」

「…………」

「淳?」

「僕、馬鹿だなあ。分からなかったんですよ。手を離したら落ちるって」

「疲れてるんだ。ほら、足どけな」

省吾がしゃがんで破片を拾っていると、「それ一緒に住み始めた頃から使ってたコップでしたね」と声が落ちてきた。答えないでいると、淳がしゃがんで破片を拾い始める。二人で拾うたびに破片が浸っていた水面が揺れた。

「省吾さん、好きでしたよ」

「……何、過去形?」

「いえ、ただ今のうちにそうしてまとめておくべきだと思ったから」

気付けば破片で指を切っていた。血が水面に落ちて滲んでいく。一瞥すれば、かつてナイフで深々と切った傷跡が目に入った。

「省吾さん、血」

「多分俺は怒っていいんだ」

省吾は淳を睨みつけた。

「淳、お前は勘違いしている。これがきれいに終わるとでも思っている。きちんと準備して、自分の死を書いて死ぬのならきれいに死ねると思っている。冗談じゃないぞ。こっちはお前が死んだ後も続くんだよ。お前がどんなにきれいにまとめようが傑作な遺書を書こうが、俺は絶対に納得しねえ。それをお前が覚悟できてる気がしねえんだよ。お前自分がよさげなこと言って頑張れば、俺が笑って見送るとでも勘違いしてないか。それはあり得ないからな。せめて覚悟くらいしろよ」

 

 

――だとすればどうか。大切な人を長く大切にできますように。不可能に、最後の裏切りに、祈りの背反に、それでも良い人間でいられますように。

「省吾さんの言う通りで、僕は無理なことは知っていて、でも何とかならないかと」

「不可能に挑戦するロマンに熱くなって周りが見えてないんじゃ世話ない」

「でも、どうすれば? 生きましょうと言ったって早晩嘘になる。生きようとしても、毎日毎日生きるべきかの吟味が入る。自分は死ぬだろうと思って、やっと他のことをやる余力が出る」

「別にそれはいいんだよ、今日は。ただその先にきれいな終わりがあるとは思うなよという話だし、きれいな終わりを作ろうとしてんじゃねえって言ってんだよ。この場合やっぱり無理でしたねを美談にするのは醜悪だ」

「省吾さんは僕をどうしたいんです」

「自己満で小奇麗に言い残すなっつってる」

淳は手を見る。白く伸びている自分の手と、血を流している省吾の手。まただ、と思う。僕が僕を殺そうとしている話のはずなのに、傷ついているのはあっちだ。――淳はさ。顔を上げる。

「地獄に行くなら一緒だって言ったのは覚えてる?」

「はい」

「俺はお前に生きてほしいし、幸せになってほしい一方でお前とお花畑に永住したいからお前と一緒にいるわけじゃないし、お前を理解して側にいるなんて言ってるんじゃない。でも地獄への道行きくらい一緒に行くつもりでいる。書き手として死にたいって言ってたけど、全部諦めてカラッカラの美辞麗句を並べるのが深川淳の死じゃないだろ。もっと先まで行けよ。お前がもっと深いところまで潜れるなら俺がいる意味はあるんだ」

「……絆創膏くらい貼らせてもらえますか」

「いいよ」

立ち上がって引き出しの上の薬箱から絆創膏を一つ千切り取る。膜を剥がして省吾の指を一巡りさせる。省吾の方が体温が高かった。昔からそうだ。

「死んではいけない合理的理由なんか無いんです。理詰めで考えたら死なないといけない」

「奇遇だな。俺も死にそうになるお前に情でしか喋ったことないわ」

ふっと省吾が微笑んで、淳に顔を寄せて二言言って立ち上がった。そうして台所に歩いて行く。その背中を見送りながら、淳は顔を伏せる。あの人はなんでいつも。

――お前はもっと先に行けるよ。見せてくれるんだろ。

 

 

あなたが仕事に行っている間に書いています。僕はこの一月、仕事の合間を縫っていくつか文章を書いてきました。僕が書きたかったというのもありますが、僕は僕が死んだ後、あなたに僕の文章を読んでもらいたかったのです。不思議ですね。分かってもらいたかったのでしょうか。人間は分かってもらっても、希望があっても死んでしまうというのに。あなたが僕を分かってくれるから一緒にいたわけではないのに。人間の、根源的な、伝えたいという欲望の正体を僕は最後まで知ることがなかったようです。

一月前から死ぬのだろうなと思っていました。だから、僕はまた書き始めました。死ぬなら書き手として死にたいと思いました。僕を殺すものの正体。いえ、僕が死ぬ理由、それをきちんと書きたかったのです。

ふと昨日疲れたなと思いました。何かあったわけではないのです。ただ、疲れたので死にたくなりました。疲れたので。張り切っていたのに、くだらない理由ですね。

小難しいことを言えば、僕は人間が生きていたほうがいいとか、生きているべきだとか、死んではいけないとか、そういった宗教を信仰することができなかったのです。僕は「いのちを大事に」とか恥ずかしげもなく口にするやつらがどれ程慈悲深く微笑みながら手を差し伸べてこようが、その手を取る日などこの世の果てまで無いと思っています。

一般的に僕は病気とされるのですが、どうもそれは社会善のための恣意的なカテゴライズに過ぎないような気がします。僕が病気である理由なんか本当は無いのです。僕の言動が典型的な病者のそれであることは知っていますが、それはそう決めているだけではありませんか。

僕はずっと色んな人に、あなたに死なれると悲しいとか嫌だと言ってもらっています。つい昨日も言ってもらいました。死のうとしている人間に対して、一人の人間が言えることは悲しいとか嫌だとかそういうわがままだけで、僕は僕に対して「正しさ」を押し付けることなく、わがままを言ってくれた人たちにとても感謝しています。

あなたもそう言ってくれました。僕はあなたと生きたかった。でも球は坂道に置かれていて、どれほど手で押し止めていたとしても転がり落ちることが決まっているようです。僕はあなたと生きたかったその気持ちが何かに押し流されていくのを目の当たりにして、悲しんでいます。

これは何なのでしょうか。決まっていた気がするのです。多分僕がここで死ぬことは決まっていて、限られた命数を使ってどこまで書けるかという話だったのかもしれません。僕は僕がやってきたことに後悔はありません。それだけ握り締めて行きますね。あなたを巻き込んでしまってごめんなさい。あなたと一緒にいられて幸せでした。何もできなかったなんて、そんなことありませんよ。最後まで一緒にいてくれてありがとう。

 

 

窓を開け放つと、まだ涼やかな風が入って来て、窓を開けた状態で死ぬとどうなるんだろうなと考える。鳥とかが啄みに来るだろうか。さすがにそんなことは無いだろうか。ともあれこの時期は腐敗が早くて厭だ。死体はきれいなほうがいいな、と関係が無いことなのに考える。でも夜には見つかるだろうから窓を閉めてエアコンをつけていればいいかもしれない。多分自分には血を沢山流して死ぬのが似合うだろう。

鈍やかな。

激情のような死にたいも生きたいも無く、ただ生きられなかったのだなと。

社会人駄目だったかと考えて、馬鹿だなと思った。学生の頃は、社会人になればまだマシになるかと思っていたのに。だからいずれにせよ変わりはない。

大事な誰かがいるからと、生きられるような人間でありたかった。

そもそも死のうと思わない人間になりたかった。

まあ、これを選んだのは自分なのだけど。

一つ、息を吐いた。

外形が実態に追い付く。だとするならば、随分と長く彷徨っていましたね。

 

 

それは、包丁を掴んだ時のおかしな冷ややかさであったり、希死念慮以外の倦怠感だったりする。

淳は包丁を手に取った。ほんの僅かな違和感。なんとなく持ち手がいつもより冷たかった。引っ掛かりながらも無視して、呼吸を浅くする。すごく眠い。死のうとするといつもこうだ。あと――。

後ろに身体が傾いて、慌てて足でバランスを取るが、食器棚に頭をぶつけて、中の食器がさざめく。思わず額に手を当てる。

――?

やけに熱くはないか。

そのまま包丁を持ってリビングに行って、体温計のスイッチを入れてしまった。

馬鹿じゃないのか。馬鹿じゃないのか。もう死ぬんだから、関係ないじゃないか、そうだろう、おい。

――38.8℃。

この場合の社会人としての正しい対応を示せ。

 

 

「で、今に至るわけ?」

省吾は頼まれて買ってきたOS-1を淳の枕元に並べる。淳は端からそれを取って喉を動かしながら飲んだ。

「陽性? 陰性?」

「陽性です」

「まあ、こんなに熱出すなんてそう無いからら、そうじゃないかなとは思ったよ」

「ねえ、省吾さん、僕馬鹿なんですかね」

省吾は黙って淳の側に腰を下ろす。

「本気だったはずなんです。なのに、体温計の数字を見た途端、社会生活を続ける上での最適の行動を取ってしまった。東京都の窓口に電話を掛けて、病院を紹介してもらって、病院に行ってしまった。死んだら、関係ないじゃないですか。なのに。本気じゃなかったんでしょうか。あんなに」

「俺には分からんよ。分からんけど、今安心してる」

「省吾さんが帰ってくるまで、熱を出しながら、これで死んだら許してもらえるだろうかとずっと考えてました。自殺じゃなくてこれなら許してもらえるんじゃないかって」

「……うん」

…………。

なんだか。

ずっと。

あなたを振っている気がする。

省吾は横たわる淳に目を遣りながら笑った。

「どういうこと?」

僕は死のうとするたび、

あなたごと、この世界をいらないと言っているわけでしょう。

あなたと、一緒にいられる時間もいらないと言っているわけでしょう。

だから。

「淳、一つ言っとくとさあ」

「気がするじゃなくて、実際ずっと振ってるんだぜ」

「厳密にはお前がそういう意味で俺の気持ちに応えたことなんて無いんだから」

「もう五年半振られ続けてまだ一緒にいるんだから、そのあたりもういいじゃないか」

「早く寝ろ、馬鹿」

 

 

大体朝は省吾が先に出勤する。ただ、その日はいつまで経っても省吾が部屋着のままタバコをふかしているので、淳は不思議に思った。

「省吾さん、今日休みでしたっけ」

「休みっていうか」

省吾はタバコを咥えて口の端を上げた。

「今日から無職」

「は⁉」

淳は思い返す。省吾は東京に来て再就職していた。大手のゼネコンだった。そんなところにあっさりと転職してしまうあたりさすがだと思っていたのだが。

「何か……あったんですか」

「ないよ」

「じゃあ仕事が合わなかったとか」

「別に」

「だったらなんで」

「漠然とつまらなくて。あ、安心しろよ。貯金はあるし家賃も入れるから」

息を呑む。こういうことを自分の専売特許だと思っていた自分がどこかにいる。いつも何かしでかすのは自分で。自分と違うのは――省吾は遊びじゃないということだ。昨日辞めますと言って、今日無職なわけがない。大分前からこれは始まっていた。

「あと俺は明日からいなくなります」

「待って」

「安心しな。貯金が切れそうになったら帰ってくるから」

「なんで省吾さん」

「淳、勘違いしないように言っておくけど、俺は後悔してないんだよ」

困惑する淳をよそに、省吾は紫煙を吐いた。

「お前と住み始めたことも、こうして東京に付いてきたことも全然後悔してない」

「……」

「まあ、でも足りないし風通しが悪いし、どうもお前に対して雑になっているようで嫌だった」

「雑ですか」

「うん、雑に済ませるところは雑に済ませていいけど、多分俺はこれから先もお前といるなら、お前以外に大事なものを見つけるべきなんだ」

淳は省吾の話をどう捉えていいのか分からなかった。おしまいではないらしいけれども、限りなくおしまいに近いのではないかという気がした。省吾は「大丈夫」と言う。「だってさ」

「二人でいるって一人でいるよりずっと難しいんだぜ? それって本当は楽しいことだという気がするんだ」

 

 

省吾がいなくなってから一ヵ月が経った。どこにいるかは分からない。連絡はないし、淳も連絡はしなかった。連絡してしまったなら、彼が折角出て行ったのが不意になるのではないかと思ったのだ。

生活は、雑にはなったが回っている。回ってしまっている。ここで破綻しきって、野垂れ死ねてしまうほどドラマチックなら、まだ救いがあったのにと思う。近くのスーパーで買い物した帰り、冷凍庫に食品を入れながらふとそう思って、ああそうかもうドラマが無いんだと思った。自分自身にドラマがあるかないかなんて、鼻もちがならないには違いないけれども。

かつて、自分には詩しかないのだと、狂ったように詩を書いて、死にたいのだと喚いていた頃の自分なら、まだ少しは面白かった。けれど、今はどうだ。特に何を創り出すでもなく、詩からはすっかり遠ざかり、なんとなく疲れたと言って死にたがる。もう自分にかつての激しさは残されていない。

別にだから省吾がいなくなったとは言わないが、すぐ側でだらだらと曖昧な希死念慮を振りまかれては、距離を置きたくもなるだろう。何のドラマ性もなく――自分はこれから冷凍庫に入れたもののうちの何かを食べ、どこにでもいる疲れた社会人として明日を迎える。そうして、もうなんらの意味も持たない「死にたい」を繰り返して日々を過ごす。とてもがっかりだ。そうはなりたくないと思っていたのに。何者かにはなりたかったのに。

きっと、今の自分と省吾が出会ったとして、一緒に住むようにはならない。一緒に何かを食べに行きすらしないかもしれない。別に繋ぎ止めたいのだと、切に願えるわけでもない。だってそうするには自分は、あまりに省吾の足しにならなさそうなのだ。

淳は思う。それでも続く人生が、見るに値しなくなっても続いてしまう人生が、まだ誰かにとって意味を持ちうるだろうか。いや、多分本当は誰かではなく、自分自身に。

その時、電話が鳴った。省吾からだった。

 

 

「元気にしてるか」というその声に少し笑ってしまった。知っているくせになあ。あと、それに対してどう答えるかも知っているくせに。

「元気ですよ。そっちは」

「こっちも悪くない」

いつもの省吾だった。張り詰めた空気も無く、穏やかに話す。

「いま……どこにいるんです?」

「ん、宗谷岬」

「随分と行きましたね。宗谷岬まで電車なんかありましたっけ」

「電車一度も使ってないよ。全部ヒッチハイク。案外捕まってくれるもんだ」

淳はため息をつく。この人は、こういうことを軽々とやる。

「大事なもの、見つかりそうですか」

「だめ、お前のことばかり考えている」

息が止まって、不覚にも泣きそうになった。まだ、そうであってくれるのかというのと、それならなんでというのと。全部呑み込んで笑う。

「僕も省吾さんのこと考えてます」

「そう、ありがと」

伝わってしまうのだから、怖い。

「言いたいことあるんだろ」

「ないですよ、そんなの。安全に旅行してください」

「嘘だ」

「だって僕が言えたことじゃない」

「耐えられるの?」

耐えられるの? いや。だって、本当はそのことばかり考えている。

「省吾さんは、僕と離れている間に僕が死ぬことについてどう思ってるんです。僕を何度も助けてくれたあなたが、遠くにいて僕を止めないことをどう思ってるんです。分かってる。こんなこと言うべきじゃない。まず僕が僕をどうにかするべきで、こんなことあなたに言うのは間違ってる。あなたにはあなたの人生がある。だけど。あなたは僕が死ぬのを仕方ないと思ってるのか、どうせ僕は口だけで死なないと思ってるのか、どっちです」

「……うん」

省吾の頷きは穏やかなままだった。穏やかなままでしかなかった。省吾が話す。

「どっちでもないよ」

「どういうことです」

「多分、俺がいてもいなくても変わらないというのが答。お前の生き死にに俺は関係ない。俺がお前を助けられたことなんてない」

「そんなこと」

「そうだよ。多分俺がいなくてもお前はまだ生きてる。死にきれなくて生きてる」

「いや……」

「いつだって、お前は俺が話をする余地を残していたじゃないか」

言われてみれば、全部そうだ。死のうとして、死にきれなかったものと、死のうとして、その前に省吾と話したものと。それしかない。なぜ省吾と話をした。もうその時点で決まっていたのではないか。

「考えることがある。俺がいる意味はあるのかなって。意味なんかほとんど考えないくせに」

「…………」

「何かしたいと思ってた。支えになりたい、何とかしたい、放っておけない、そう思ってた。でも、それは思い上がりだったんだ」

「違う……」

「違わないよ。好きだという気持ちもかたちは変わっていく。好きになった頃のままじゃない。それは良い悪いではなくそういうものだ。でも離れられない。遠くにいてもお前のことばかり考える。これをなんて言ったらいいのか知ってる?」

「分からないです」

「うん、依存とか、共依存とか、言われたくないんだよ。分かった気にならないでほしい。とにかく――」

俺はこの名前のない関係を捨てられないんだ、と省吾は言った。

 

 

小さな線路を踏み越えて行った。秋枯れの木々が並ぶ道を行けば、開けたところに出る。蘆野公園。金木からしばらく歩けば着く。省吾は近場のベンチに腰掛けた。北海道から来た身が言うのもなんだが、青森は冷える。これで、昔淳は雪の中電話してきたんだから、馬鹿だ。

――もし浅見さんが金木に来たかったら言ってくださいね。

あれ言われたのいつだっけ。きっと、まだ寮にいた頃だ。こういうかたちで来るとは思っていなかった。一緒に来たいなくらいは思っていたので。

駅から出て目にした金木は思ったよりも小さな町で、ここで淳が生まれたということが、意外でもあり、腑に落ちもした。昔の淳を見てみたかった気もする。それは叶わないことではあるが。

なんだ、まだ「好き」なんだと、もう昔のような感情は持っていないと言っておきながら、そして思っておきながら、こうして不意に掘り返されるみたいに、昔通りの感情が見つかる。

省吾はタバコの箱に手をかけて、周りが枯葉だらけなのでやめた。吸いたい気分ではある。仕方が無いので、仰向いて空を視界に収める。息を吐く。

手立てがない。かつて、心の底から掛けていた言葉は擦り切れて使い物にならなくなってしまった。自分で口に出そうとして寒気がするほどに。まだ、他人であった頃なら、効き目があった言葉が、傍にいる時間が増えていくごとに力を失っていく。

分かっている。こうして旅に出ていたところで、それは解決しない。しかし、戻ってもまた同じことではないかとも思う。

迷子、というものに初めてなったと感じた。

 

 

最寄りの中野駅から出勤するところだった。駅の構内に入って、ホームへの階段を上がったところで、胃から込み上げてくるものがあって、急いで階段の下に降りて、途中で耐えきれず吐いた吐瀉物を、口を覆った手の中に溜めながらトイレに駆け込み思い切り吐いた。厭な臭いにまた吐きそうになりながら、色々なものがこびりついた手や口元をトイレットペーパーで拭く。そのまま水だけ流しながら、へたりこむ。

なんで……? いや、分かってはいるけれども。社会人になってから、それなりの頻度で吐いている。適応できなかったのか。社会人になるのが無理だったのか。普通に、働けなかったのか。その場で上司に連絡を取ると、今日は休んでいいと言われたので、有給を申請する。上司には恵まれているのに。

どうにか立ち上がって、改札に行き、事情を説明すると無言でICカードを奪われ、「140円です。どうぞ」とだけ言われた。

十二月の冷気を感じながら、家に帰る。自分は秋口とほぼ同じ格好をしている。なんだか、冬服が買えなかったからだ。お金はあるはずだった。休みもあった。なんならネットでだって買えた。でも、なんとなく買えなかったのだ。

家に帰ると、腐臭が鼻についた。台所は三ヶ月前から腐っている。厳密には、台所にあるものがだが。

――それで、その後お変わりありませんか?

病院に行くと毎回そう聞かれる。変わりはない。変わりがなくてこれだ。

最近、障害者手帳を持っている知り合いが増えてきたので、ほとんど知らなかったそれについて調べることがあった。

それでやっと、台所が腐ったり、身なりを整えられなかったり、清潔さを保てなかったり、掃除ができなかったり、買い物ができなかったり、役所で手続きができないといったことが「普通」ではないということを知った。

今日仕事にも行けなかった。この頃ずっと計算している。仕事を辞めたとして、そして手帳を取得したとして、障害者年金は自分の場合だと、七万円弱。東京で暮らしていくには足りない。貯金もさしてありはしない。だけど、このまま働いていても限界が来てしまう。

自分は普通に働けると思っていた。でもそれができないらしいと気付くようになった。障害者になることは、全く構わないが、自分が普通に働けなかったと思うのは涙が出るほど悲しい。変な話だ。そこそこ同義なのに。

とてもだるく、眠りに落ちた。

 

 

起きてからふと考えた。支援を受けて生きていくとして、生きている間何をするのだろう。ぽっかりと空いた、その時間。

もっと、詩が書きたいと思っていた。朝、詩を書く間もなく、乗り込んでしまう通勤電車を憎んでいた。もっと本が読みたいと思っていた。自宅の机に積み上がっていく本に、まだ封も開けられていない新しい本に、まだ未練の残る中国文学に、きっと手持ちの本すら死ぬまでに読めないと、悲しくなっていた。

だというのに、その残りの時間を、読み書きに全てあててよいと、己の人生の総量をそれに担わせるのだと考えたときに、怯んだ。この手に、それだけの才能があるだろうか。

この数年ずっと頼りにして生きてきたものを裏切り、何も残らない。もう何も残っていない。首を括るための縄はもう買ってある。涙も出ない。

台所は腐ったままでいいだろう。ゴミは捨てよう。食生活が察せられて惨めだ。適当に掃除機だけかけて。何か捨てなければならないものは。

詩――。昔、全部千切ってゴミにしたなと懐かしくなる。もういい。そのまま放っておこう。

さあ、どこに縄をかけたらいいかは、しばらく探して分かっている。ドアノブだ。うまくいくかは分からないが、うまくいけば発見も早い。

ドアの前で結び目を思案する。こういうことは得意ではないから。その時、ガチャリと鍵が開く音がして、ドアの隙間から直線で光が溢れる。そして、その隙間が大きくなって、そこにその人が立っている。

「……よう、淳」

「……あなたはいつもそうだ」

自分は何ができるわけでもないと言いながら、思い上がりだったと言っておきながら、こうして自分の前に最後に立ちはだかる。

浅見省吾は――淳を見て言う。

「やっと、迷いが消えた」

 

 

「入っていい?」

淳がためらいながら頷くと、省吾は歩を進めて、後ろ手にドアを閉めた。そのまま、縄を持った淳を抱き締める。

「……枯れ葉と微生物の死骸のにおいだ」

「ああ、上着着たままだからな、すまんな。金木、行ったよ」

省吾は淳を抱き締める手を僅かに強める。

「こういうことするのは久し振りだ。きっと、何の意味もないと、俺の押し付けなんだと、やらなくなっていた。今も、こうすることで、何かがどうにかなるなんて思っていない」

「…………」

省吾は、淳から身体を離す。

「何も分からなかった。お前から離れて遠くに行っても、何も分からなかった。なんとなく帰って来てしまって、そうしたら、お前が立っていた。やっと分かった気がする」

「僕を止めるんですか。もういいでしょう……」

「何か意味のあることをしたいと思っていた。止めたいと思っていた。自分の言葉が擦り切れていくのが嫌だった。自分の言葉がどんどん力を失くしていくのが嫌だった。回数を重ねるごとに、言えることが限られてくる。もう俺がいることに意味はないんだと」

淳は省吾が何を言おうとしているのか分からなかった。ただ、それは死のうとする自分には関係なさそうだった。抱き締められても、何とも思わなかった。省吾が何を言ったとしても、もう自分には届かない。

「でも、力のない意味のない言葉を言い続けることには、意味があるんだ」

全て――魔法は消え失せた。ある種の祝福された時期は過ぎ去った。出会って、暮らし始めて、恨みながら怨みながら、感情と言葉が価値を持った時期は終わった。物語は消え失せて、顔色を失った人生が横たわっている。

「俺は現代医学というものを信じているし、お前が死ぬことを仕方ないとか、道理があるとか言うわけにはいかない」

「…………」

「でも、自分が死ぬということが、お前の人生にこれだけ大きいなら、それを否定し続けても、同じところで巡り続けるのだと思う」

果てなく続く円環の中で。無限とも思える繰り返しの中で。それでも生きて行こうと手を取ったことはあるけれど、呪符は効力を失った。

「俺は、今日か、明日か、ずっと先か分からないけど、お前を一人で死なせないためにここにいるよ。意味のない言葉を力のない言葉を吐き続ける。それが、たとえお前を止められなかったとしても、最後までそれを言い続ける。死ぬときに、一人だったとは思わせない。そのこと自体にそれほどの意味がなかったとしても、俺はそうする」

「僕はあなたにそうしてもらう価値のない人間だ」

「馬鹿だな、それはいつだって俺が決めるんだよ」

「もう書くことも残っていない。僕自身には何も残っていない。僕はあなたと一緒にいて、生きようと思えるような人間じゃない」

省吾はそれに少し笑うと、縄ごと淳の手を包んだ。

「輝かしい時期が終わった代わりに、一緒にいるのに何かを必要とする時期も終わったんだと、俺は思う。全て色褪せて、豊かなものも、価値も、意味もなくなったとしても、淳は生きて、死ぬことができるよ」

「僕は」

「俺は淳が生きている限り、死ぬなと言い続ける。死のうとするお前を止め続ける。でも、死んでしまう淳を無いものにしようとは思わない。これは、俺自身もだけど、いずれ死んでいくそのことを含めて、俺は淳と一緒にいたい」

「僕は省吾さんの人生をめちゃくちゃにしている」

「光栄だね」

省吾の右手には消えない傷が残っている。

「損なわれて、傷ついて、破れて、老いて、失っていくことに、お前が関わってくれるなら、それはとても光栄なことに思う」

淳は膝の力が抜けて、その場に座り込む。省吾もかがみこむ。

「何を返せば……」

「何も」

「それはおかしい」

「何もおかしくなんかないさ」

俺とお前の人生がさしたる意味など持ちえないことは、果たして悪いことなのだろうか。それは、その実、とても優しいことだと思うのだが。

再び抱き締められた淳は、枯れ葉と微生物の死骸と、そして目の前の生きている人間のにおいを感じた。死んでいった生き物のにおいと、生きていて、やがて死んでいくもののにおい。自分が馴染んで、とても安心した。

「……このまま寝てしまいそうですね」

「寝てしまえばいい」

淳は少し笑うと、目を閉じた。眠りきれない微睡みのなかに、夢の切れ端に、死の背中が見えた。けれど、とても暖かだった。死ぬときは一人だという厳然たる事実。それを自分のナイフの矛先を自分に向けた時に知った。最後の最後には、省吾は付いてこれない。でも、それももういいと思った。

死に至る瞬間、この手が掴むものが何もなかったとしても、この手を掴むものが何もなかったとしても、自分は自分が生きてきた日々を恨まなくて済む。意識を失いつつありがとうと言えたかどうか、それにうんと応えがあったかどうか、それは夢のあわいに消えた。

街は――巨大な空虚を乗せて、色彩を失った信号機から吹く風が、上着の端をさらっていく。深川淳は不在を振り返る。

「大丈夫。ここまで来てくれてありがとう」

不在に笑んで、淳は色褪せた横断歩道を渡る。

不意に目の前に色彩が戻って、懐かしいにおいがして、温かい腕を感じた。ああ、と思う。

「淳?」

淳は、省吾の頬に手を伸ばす。その手に、省吾が手を重ねる。

「夢を見ていました。優しい夢でした」

省吾は、少しだけ驚いた様子を見せて、やがて懐かしく笑った。