九月、風は蕭々として冷たく、鈍色の雲が空を覆う。曇天の下、帝都ギン・ヘチェンの文武百官は観衆として刑場に集められ、処刑台を注視していた。処刑台の奥には皇帝の座る仮の玉座がある。十歳の少年アリンは麻の服を着て、玉座の横に立っていた。アリンと玉座に座る皇帝アルハガルガは甥と叔父の関係。三月前に崩御した大行皇帝はアリンの祖父だった。アルハガルガはアリンを横目にする。
「お前だけは我が娘たっての望みゆえ生かしてやるのだ。叛乱を企てた者共がどのような末路を辿るか、その目でしかと見届けるがよい」
アルハガルガはこの甥を常々苦々しく思っていた。普通の人間より一段と黒い髪と瞳。幼くしてすでに理知的で冷たさを感じさせる顔。そして遊牧民の末裔として申し分ないしなやかな身体。まるで兄ムドゥリの幼い頃の引き写しだった。できることなら、兄と一緒に殺してしまいたかった。だができなかった。溺愛している愛娘が泣いて取り縋ってきたからである。アルハガルガは顔をしかめると、肘置きに置いた右手を掲げて下ろした。
それが処刑を始める合図だった。刑場に百人余りの罪人が引き出されてきた。アリンの父ムドゥリ、兄、母、その他の妃達、その子供、父の配下であった官吏達……。すべてアリンがよく見知った人々だった。
処刑台の中央には斧を持った五人の処刑人がいて、末官の罪人から順に彼らの前に首を垂れる。
まず一組目の斧が振るわれた。首が飛び、斧の衝撃で罪人の足が跳ねた。首の無くなった罪人の身体は引きずられて処刑台の外へ持ち出される。太い血の線が処刑台を斜めに横切った。
また二組目に斧が振るわれた。処刑はほとんど果てが無いように思われた。それだけ、罪人の数は多かった。斧が血と脂に鈍って、処刑人が一息に首を落とすことができなくなった。斧は同じ身体に二度三度と振るわれ、その度に罪人の足が跳ねる。アリンの視界の端に外に積み上げられた死体の山が見えた。
ついに最後、アリンの父ムドゥリの処刑が行われる。アリンはそれまでと同様、処刑人の前に進む父の姿をただじっと見ていた。その父が膝をつく寸前、アリンの方に振り返った。父子の黒い瞳が交錯し、アリンに何事かを語りかける。その時実際に父が何を思っていたのかは知る由もない。しかし、アリンは「託された」と感じた。
処刑人は振り返った父の頭を掴んで無理やりあるべき位置に据えた。大行皇帝の長子、現皇帝の兄に対してあるまじき不敬。しかし、それを非難する者はこの場にいない。斧が振るわれた。
全ての処刑が終わったのを見届けた文武百官から歓呼の声が起こる。
「皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳‼」
それに対し右手を掲げ鷹揚に応えた皇帝アルハガルガは、横にいるアリンにふと目をやって息を呑んだ。十歳のアリンは処刑の後も顔色一つ変えていなかった。アリンは叔父に向き直り、膝をつく。父譲りの黒い瞳をした少年は言った。
「逆賊どもが絶たれましたことを、臣は衷心よりお喜び申し上げます」
「殺しておくべきだった」とアルハガルガは思った。しかし今となってはどうしようもない。一度は助命した十歳の子供を殺したのでは、風聞が悪すぎる。
「お前の処遇は追って沙汰する」
アルハガルガは方策を練り始めた。禍根は絶たなければならない。
アルハガルガの治めるドゥリンバイ帝国は世界一の版図を誇る大帝国である。帝国の北側には北河と呼ばれる長大な河が西から東に流れており、帝都であるギン・ヘチェンはその上流に位置していた。帝国の中央からはやや西北にあたる。
アリンは帝都ギン・ヘチェンからスンジャタという東北辺境の街に流罪になることが決まった。スンジャタは北河を河口までくだり、そこから北東へ進んで長城と呼ばれる壁を越え、更に東に進んだ場所にある。ギン・ヘチェンからは馬で三ヶ月の距離だった。
アリンは助命されたとはいえ罪人である。侍衛と呼ばれる護衛と監視を担う武官二十人と共に出発した。これから冬。厳しい旅になる。
出発してから三日目、森を進む中、馬を寄せ、ひそかにアリンに声をかける者があった。白い髭を蓄えた六十がらみの男だ。
「アリン様、覚えていらっしゃいますか。私は侍衛のナバタイ。あなた様が五歳の時までお遊び申し上げていました」
アリンは頷いた。彼が一行の中に混ざっていることは知っていた。
「私は表立ってはあなた様にお味方することはできませんが、ご不便があらばおっしゃってくださいませ。裏で取り計らいましょう」
「感謝する。ナバタイ」
ナバタイは頭を下げ、またアリンから遠ざかっていった。
孤独とも思われた罪人としての長い旅。しかし、その中でもアリンに味方する者はいる。それをアリンが心強く思ったかは分からないが。
十日ほど経った夜、一行は小高い山に宿営していた。アリンは帳の外に出る。
旅が進むにつれ寒さは厳しくなっていた。草木を枯らす粛殺の風が吹く。空に月は無く、ただ星々ばかりが不吉なまでに美しい。
ナバタイが帳の中から出てきた。
「アリン様、あなた様は恐れながら罪人の身。勝手に外に出てはなりません。」
「ナバタイ」
少年は空から目を離さない。
「父上は本当に叛乱を企てたのだろうか」
「アリン様」
「俺はそうは思わない」
「アリン様!」
ナバタイはアリンの正面にまわり、その肩を掴む。不敬ではあったが、思わずそうしてしまった。
「お命が危のうございます。どうか、どうか、これより以後そのようなことは決して人におっしゃいますな。ナバタイ畢生(ひっせい)のお願いでございます」
アリンはナバタイの肩に手を置いた。少年の黒い髪が風になびいた。
「すまなかった、ナバタイ。少しこのまま頭を冷やしたい。外してくれるか」
白髭の侍衛は頭を下げた。
「では私は帳の前に控えております」
帳の前のナバタイに監視はされているが、アリンは夜気のなか再び一人になった。また星空を見上げる。
父が叛乱を企てることなど有り得ない。全ては叔父アルハガルガの策謀だとアリンは確信していた。目の前で無残に殺された父達の姿が目に焼き付いている。
俺は決して叔父上を許さない。どんな手を使ってでも必ず叔父上を倒す。
それは即ち叔父を殺し帝位を簒奪(さんだつ)することを意味していた。この広大な大帝国を奪い取るということ、それにアリンは微塵も気後れを感じない。彼は必ずそれを成し遂げると瞼の裏に残る屍(しかばね)達に誓った。
少年の視線の先に赤々と輝くのは戦乱と禍の星、螢惑(けいこく)。
時は帝国暦一六三一年。デルギ・ハンことアリンが巻き起こす大叛乱から数えて十一年前のことである。
叛乱に至る歴史を語るにはここで数か月ばかり時を巻き戻さねばならない。すなわち、アリン一族の処刑前、父の叛乱企図「発覚」前に。
アリンの祖父である皇帝がまだ健在であった頃、皇子アルハガルガの家の庭先で、一人の少女が杏の花を愛でていた。透き通るような黒い巻き毛の髪に、薄く色づいた桃色の唇。彼女はユエラン、アルハガルガの娘。父に玉のように可愛がられ、今年で十三になろうとしていた。杏の花は盛りをわずかに過ぎ、風が吹けば無数の花びらが舞う。可憐な少女の姿を含めて、その光景は一幅の絵画のようだった。
その庭に黒髪の少年が入って来た。訪問用の礼装をしている。ユエランよりは幼く、まだ背も低い。アリン。彼は庭を横切りまっすぐにユエランの元に歩いてくる。
ユエランはアリンを見て微笑んだ。
「出陣前の忙しい時にごめんなさい」
「いえ、構いません。あと二日あります」
ユエランは他人行儀な従弟の言葉に苦笑する。他人行儀といえば自分もそうなのだが。彼女は瀟洒(しょうしゃ)な服の裾を揺らすと、杏の樹の下に置いていた箱から絹でくるまれた縦長の包みを取り出した。華奢な彼女の腕には些か重いようだ。アリンは様子を見かねてユエランの側に膝をつく。枝と薄紅の花々が二人に淡く影を落とした。
「これをお渡ししたかったの」
アリンはその縦長の包みを受け取る。
「中身を拝見してもよろしいですか」
ユエランは小さな頤(おとがい)でうなずいた。アリンは絹を取り払う。包まれていたのは、革の鞘に入った一振りの曲刀だった。鞘に三本赤い線が引いてある他は何も装飾が無い武骨なものである。アリンはそれを一目見て好ましく思った。鞘を払うと、触れたもの全てを斬らずにはおかぬような鋭利な刃が露(あら)わになった。間違いなくこの帝国で最高の仕事がなされた名器。
「何かあなたの役に立つものをと」
アリンは従姉を見つめる。
「あなたがこれを手に入れるのはご苦労なさったはず」
皇子の娘とはいえ、女性が容易く入手できるようなものではない。ユエランは首を振った。
「あなたにどうしても何か差し上げたかったから。西北の戦場では敵味方それぞれ一万を超える兵士達が死んだと聞きます。とりわけ、アザン・バリの酋長(しゅうちょう)ジバは手強い相手。どうかお気を付けて」
「ユエラン……」
そこに一人の少年が駆け込んできた。黒い巻き毛の髪をもった彼はそのままアリンにぶつかるようにして二人のもとにやってくる。彼はエルデム、ユエランの弟にしてアリンの従弟。アリンと同じく十歳。エルデムはアリンの肩に抱き着く。
「アリン! いよいよ初陣だね。無事に帰って来てね」
アリンはまだ年相応の子供らしさを残す従弟に向かって頷く。
「当然だ。心配するな」
アリンは立ち上がった。今彼と共にいるのは、ごく幼い時から互いに行き来した美しいいとこ達。春の柔らかな陽光が三人を照らす。そこでやっとアリンは少年らしい笑顔をみせた。
「ユエラン、エルデム、出陣前に二人に会えてよかった」
出陣の一日前、アリンと父ムドゥリ、兄のアリンタイは宮中の朝(ちょう)政(せい)殿(でん)に参上していた。普段そこは朝廷が開かれ政(まつりごと)が行われる場所である。黒い石畳が荘厳に広がり、陛(きざはし)を登った先、五匹の龍が彫られた玉座には老皇帝が座っていた。彼こそは帝国を六十年に渡り支えた名君。聖なるハン(エンドゥリンゲ・ハン)の聞こえも高いアリンの祖父であった。祖父は威厳と寛容さをたたえ、老いてもなお確固として彼らの前に君臨している。
ムドゥリ、アリンタイ、アリンは老皇帝の前に進み出て跪くと、頭を石畳まで下げて叩頭の礼を取った。老皇帝は玉座の高みから三人にねぎらいの言葉を掛ける。
「ムドゥリ。そなたは朕の息子にして朕が最も信をおく臣下。アザン・バリのジバを討つこの戦、そなたならば必ずや大捷(たいしょう)を掴むと信じている」
「はっ!」
「アリンタイ。そなたが戦に出るのはこれで三度目。これまでと同様、よく父を助けよ」
「はっ!」
老皇帝は最後に三人の端で叩頭する小さな孫を見た。
「アリンよ。そなたはまだ十。本来であれば初陣には早い。しかし、ムドゥリが是非にと申すので許した。その年でよく馬に乗り弓を使いこなすと聞く。我らドゥリンバイ帝国の創始者デルギニャルマがかつて長城の外側で武勇を誇った遊牧の者達であることは知っておろう。そなたはその血を濃く引いておるのかもしれぬ。朕はかつて彼の者達が使った古の言葉でそなたを送り出すことにしよう。グヌアリン。ベリジェイェンシムベヤルミ」
アリンは石畳に額を強く押し付けた。
「サハ!」
出陣の日、払暁(ふつぎょう)の光は、ムドゥリ率いる一万の軍勢が着る鎧を白く輝かせた。帝都ギン・ヘチェンから北へ向かう騎馬軍団の列が整然と伸びている。アリンと兄アリンタイは先頭で軍勢を率いる父ムドゥリの横をそれぞれ馬に乗り進んでいた。
アリンの背には使い慣れた弓と十分な矢。腰には赤く三本線が入った鞘の曲刀。血が騒ぐ。戦の前だというのに恐れは無かった。自らに流れる剽悍(ひょうかん)な遊牧民の血をアリン自身も自覚した。
アリンは夜明けの風を感じる。砂の混じる乾いた風。それは長城の外、この帝国の始まりの地から吹いてくるのだ。
グヌアリン(行けアリン)。ベリジェイェンシムベヤルミ(弓と刃がそなたを導く)。
アリンは馬の上で小さく息を吐きだしそれに答えた。
「サハ……(承知しました)!」
ドゥリンバイ帝国と西北の遊牧集団アザン・バリとの対立は休戦期を含めれば百年続いている。アザン・バリ討伐に向かうムドゥリ達の目的地はギン・ヘチェンから北へ行き、長城を越え、さらに西北に行ったアザン・バリの勢力範囲。とりわけ酋長ジバの居所となっている夏河(かが)河畔であった。
ギン・ヘチェンから長城に到るまでの間にある城や砦からこの遠征軍に参加する兵士達が合流し、軍勢は総計十万に膨れ上がった。この他ムドゥリの軍勢とは別にはるか西の都市西城(せいじょう)から進発している軍勢があり、これとムドゥリ達でアザン・バリを挟撃することになっている。
長城は帝国北辺の東西を走る巨大な壁で、いくつか南北に抜ける関門が作られている。ギン・ヘチェン出発から八日目、ムドゥリ達は長城における東から十番目の関門、天下第十関を通過した。十歳のアリンにとっては初めての長城外。辺りに広がるのは林とまばらな草があるばかりの大地。長城内外で急に景色が変わるということは無い。しかしここが内側と異なるのは、これより先の世界を遮る壁が無いということと、既に敵地であるということだった。
「今でこそ長城より北側はアザン・バリに奪われているが、元来この地は我らが父祖デルギニャルマの土地だ」
父ムドゥリは馬で進みながら隣を同じく進むアリンに語りかける。一陣の風が夜明けの荒野を吹き抜けた。
「長城南、今のドゥリンバイ帝国がある地には二百年前まで大瞭(だいりょう)という帝国があった。長城北にいた我らが父祖は二百年前大瞭が農民の反乱で四分五裂しているのに乗じて長城を越え、帝都京城、今のギン・ヘチェンを落とし、各地の残党を掃討して大瞭の領域を引き継いだ大帝国をつくりあげた。それが世界の中心(ドゥリンバ)たるドゥリンバイ帝国」
遊牧民デルギニャルマの子孫が支配層となり、定住農耕民である大瞭の遺民を統治する世界一の大帝国。
「元は大瞭の土地であるから帝国の中には大瞭の子孫が甚だ多い。ギン・ヘチェン守備の董(とう)松(しょう)はお前も知っているだろうが、あの者などはまさしく大瞭の後裔(こうえい)だ。大瞭の子孫に囲まれた我々デルギニャルマの子孫は風習も言葉も大瞭のものを使うようになり、次第に我ら第一の資質である武勇も廃れた。その結果長城北の父祖の地をアザン・バリに奪われることになったのだ」
父ムドゥリは苦々しげにでもなく冷静にそう言った。ムドゥリ自身は武勇に優れ、デルギニャルマの風習や言葉を怠(おこた)らず息子達に教えた。皇帝の長子にして、帝国一の大将軍。ドゥリンバイ帝国の皇帝は、皇帝にしてデルギニャルマの民を率いるハンでもある。武勇と質実剛健というデルギニャルマの特質を体現するムドゥリは、帝国の貴顕層の支持を集め、次代の皇帝と目されていた。もっとも、デルギニャルマの風習に長子相続の決まりはなく、誰を後継者とするかは皇帝のみが知っているのであるが。
アリン達は進み続ける。この荒野の中では水と草の関係で進める経路は決まっていた。つまりそれはアザン・バリに進路を読まれても全く不思議ではないということだ。緊張は続く。
長城を越えてから二十日目、ここまでは季節外れに寒冷なこと以外、天候、食糧、水ともに問題無く、敵地に入ったのにも関わらずまるで無人の境を行くようで、辺りに人煙は見えなかった。順調すぎる。
「父上、これは何かの罠ではありませんか」
アリンの兄アリンタイは自分の馬を父の馬に近付けてそう言った。父ムドゥリも懸念はしていたらしい。難しい顔をする。
「しかし、ならばどうする。この戦は西城の軍とアザン・バリを挟撃しようというもの。我らが引き返しては、西城の軍は単独でアザン・バリにあたることになる。それでは彼の者どもを見殺しにするようなものではないか」
アリンタイは頭を下げた。
「父上の仰る通りです」
「よい。そなたの言うことはもっとも。我らはこのまま進むが、西城の軍へ伝令を飛ばそう。あちらの情報も知りたい」
そうムドゥリが言い終えたところで彼等の目の前を白いものがちらついた。雪。まもなく六月になろうかというこの時期に突如現れた光景に軍のあちこちで驚きの声が上がった。これは吉兆か凶兆か。ムドゥリは空を見上げ呟いた。
「我らが帝国に天の加護あれ」
三十一日目夕刻、ムドゥリ軍は両脇に林が連なる場所で駐営した。この日の進軍はここまでである。夜に入りムドゥリ、アリンタイ、アリン、その他大部隊の指揮官は帷幕(いばく)の中に集まって今後の行程について話し合っていた。
そこに伝令が駆け込んできた。血の気も引いて汗を滝のように流す伝令の口から出たのはまさしく凶報。西城軍は既に敵アザン・バリと遭遇し壊滅。合流は不可能とのことだった。
帷幕の中はどよめいた。このアザン・バリ討伐はギン・ヘチェンと西城の両軍があってこそ成り立つ作戦。総勢十万とはいえ、それだけでアザン・バリの本営に向かうのは無謀というもの。
「退(ひ)くしかない」、そう帷幕にいる全員が心の中で言った時だった。別の伝令が先ほどの伝令に勝るとも劣らない勢いで帷幕の中に駆け込んできた。伝令はムドゥリの前にほとんど倒れんばかりに膝をつく。
「偵察に出ていた者達が接近してくるアザン・バリの軍を発見いたしました。こちらとの距離は十里。敵方は約二十万の軍勢です!」
今度はその場が凍り付いた。十万対二十万。それが正面からぶつかれば、まず間違いなくこちらが負ける。では逃げるか? しかし、既に十里の距離まで近づかれている上、アザン・バリは騎馬部族。ムドゥリ達騎兵の主力部隊は余程運が良ければ逃げ切れるが、他の歩兵、輜重(しちょう)部隊は全滅だろう。事はそれだけでは終わらない。皇子と騎兵が他の兵士達を見捨てて逃げ帰ったとなれば、今後の戦に誰が従軍しようと思うだろうか。
一体どうする。帷幕の中の者達は固唾を飲んでムドゥリの言葉を待った。ムドゥリは黙って考えている。しかし、やがて彼は漆黒の瞳をそこにいた全員に向けた。
「ここで迎え撃つ」
空が白みはじめると、アザン・バリ軍の影は明らかになった。アザン・バリ軍はこちらから一里にも満たない距離で陣を敷いている。対してアリンの父ムドゥリの軍は林を両側にしてそれを待ち構えていた。
自軍より敵軍が多い場合危惧されるのは、包囲殲滅されることである。林の間に布陣しておけば敵騎兵の進路を制限することができ、林ごと大きく迂回されない限りは包囲もされない。ムドゥリがここで迎撃することを選んだのはそれが理由だった。もっとも自軍に倍する軍隊を相手にしなければならないことに変わりはないが。
完全武装したムドゥリのもとに、同じく武装した息子のアリンタイとアリンが近付いてきた。ムドゥリはアザン・バリ軍の中央に掲げられている紅い旗を指差す。
「二十万と聞いた時からそうであろうとは思ったが、あれは酋長ジバ率いるアザン・バリの本隊だ。あの紅い旗のある所にジバがいる」
アリンタイは父の顔を見た。
「西城軍を破ったのもあの軍でしょうか」
「かもしれん。だとするならば多少は疲弊しているかもしれんが」
しかし、やはり自軍十万に対し敵方二十万である。一体ここにいる何人が明日の朝を迎えられよう。ムドゥリは幼いアリンが哀れになってきた。この幼い息子は自分が父に願わなければここに来ることはなかったのだ。
「そなたを連れてくるべきではなかったのかもしれない、アリン」
父が珍しくもらした弱音のようなものに、アリンタイも俯いた。しかしアリンは真直ぐに父の顔を見つめていた。
「いいえ、父上。私はデルギニャルマの末裔。武勇の者にして皇孫。それよりも持ち駒としての私の価値をよくお考えください」
十歳の少年から発せられたその言葉にムドゥリとアリンタイは唖然とした。だが、すぐにムドゥリは破顔する。
「私は愚かなことを言った」
顎に手をあて、しばらく黙考した後ムドゥリはアリンの肩に手をおいた。
「我が小さな勇者(ミニアジゲバートル)、そなたに頼みがある。アリンタイもよく聞け」
次第に夜が明けてくる。アザン・バリの本陣からゆっくりとした太鼓の音が聞こえ始めた。アザン・バリは隊列を整えている。太鼓の音が段々と早くなりだした。自軍の先頭に立つムドゥリは自身も弓を持ちながら号令する。
「来るぞ! 構えろ‼」
背後の兵士達が弓を構えるザッという音がした。
アザン・バリの中央にいる騎兵がこちらへ伸びてくると、それに吸い寄せられるかのようにアザン・バリは雪崩を打ってこちらに迫って来た。土煙が朦々と上がり人馬というよりは巨大な砂嵐が向かってくるかのようだった。ムドゥリはそれが十分な距離まで近付いてくるのを待って再び号令した。
「放て‼」
数千を超える矢が放たれ、空に黒く線を引いた。それに当たって次々に人馬が倒れてゆく。しかし、それはアザン・バリ全体に比べれば僅かな損害。アザン・バリは勢いを緩めず迫り続ける。
第二矢を放った後ムドゥリは剣の柄に手をかけた。
「抜刀‼」
ムドゥリと背後にいる前衛達の白刃が朝日を受けて煌(きら)めいた。
「突撃‼」
後方からの弓による援護を受けながらムドゥリ達は巨大な人馬の群れと衝突した。
デルギニャルマの第一皇子がどれほどのものか見てやろうとアザン・バリの酋長ジバは馬で駆けながら考えていた。ムドゥリは第一皇子にして帝国内外で聞こえ高き大将軍だ。しかしジバ自身も大遊牧集団アザン・バリをまとめ上げる酋長である。恐れなど無かった。
なるほどムドゥリの布陣は悪くない。先に戦った帝国の軍隊はあっという間に包囲して殺し尽くしてしまえた。それがこの地形では不可能である。もっともこちらの半分に過ぎない軍隊など踏み潰してしまえばよいのだが。
アザン・バリ軍の中央にいるジバも帝国軍との衝突面に近付いて行く。そこでふとジバは奇妙に思った。話に聞いていたよりも帝国軍が少ない。斥候(せっこう)からは総勢十万だと聞いている。もちろん十万全てが戦うのではない。従者や輜重部隊は戦闘員から除かれる。しかしそれにしても少なくはないか。まさか――。
嫌な予感がした時、ジバの横側、軍団の端の方から人馬の悲鳴が上がった。
乗馬した皇孫アリンと兄アリンタイは両軍西側にある林の中から、敵軍の側面に向かって飛び出した。背後からは一万の騎兵が続く。突如思わぬ方向から飛び出してきた敵軍にアザン・バリ軍は混乱した。怯む敵兵にアリンは冷静に矢を射かけていく。矢が次々と風を切り、アリンの先に立ちはだかる者を打ち倒していった。この少年はその乱戦の中で一矢も無駄にしなかった。
近付いてくる敵に対しては腰の曲刀を抜きざま斬りつける。帝国最高の仕事がされた曲刀は皮甲ごと敵を切り裂く。そして相手の血飛沫を浴びるより前に少年の馬はそこを走り去った。
先頭を走る幼い皇孫の奮戦ぶりに彼が率いる一万の兵の士気は否が応でも上がった。その様子を兄アリンタイは感嘆しながら見る。確かにアリンは十歳の皇孫という手駒としての価値を十二分に発揮している。しかもどうだ、アリンはこの圧倒的な敵軍を前に平然と馬を走らせて行くではないか。
父上の跡継ぎはアリンだとアリンタイは思った。俺とアリンでは器が違う。しかし、アリンタイのその感慨は嫉妬ではなく一種の誇らしさを伴って訪れた。自分は途方もない勇者(バートル)の兄に生まれたのだと。
「行け、アリン! 後ろはまかせろ!」
アリンの部隊が目指す先は紅い旗の下、酋長ジバその人である。アリンがジバに肉薄すると、ジバはアリンの腹を目がけて長刀を振るってきた。取った、とジバが思った瞬間、アリンの姿が馬上から消えた。ジバの右腕に灼熱の痛みが広がる。ジバは自分の腕の上腕から先が無くなっているのを見ると同時に落馬した。
アリンはジバの刀を鞍から飛んで避けた後、そのまま伸びたジバの腕を切り落としたのだ。恐るべき跳躍力だった。地に倒れたジバに漆黒の風が迫って来る。腕も刀も失ったアザン・バリの酋長ジバはその凶風(まがつかぜ)に向かって呪詛を吐いた。
「呪いあれ、デルギニャルマ‼」
言い終わるや否やジバの首が飛んだ。周囲のアザン・バリに動揺が広がり潰走が始まる。
「アリン!」
アリンタイが馬上から手を差し出し、アリンを自分の馬の上に乗せた。そこから更にアリンはアリン自身の馬に移る。アザン・バリを押し戻してきた父ムドゥリと合流して追撃戦が始まった。
林の間の荒野は死体で埋め尽くされた。帝国軍のものも多かったが、アザン・バリのものの方が遙かに多かった。三里追撃して全軍が帰って来ると、自然にムドゥリ親子を囲んで大歓呼の声が上がった。
「我らが主! 我らが勇者!」
特に酋長ジバの首を獲ったアリンに対する賞賛の声が口々に漏れた。ムドゥリ自身もアリンを誇らしく見つめながら、しかし全軍をぐるりと見渡す。
「この勝利は皆のもの。皆よくぞ戦った。今はしばし休め!」
兵士達は馬から降り兜を外す。傷ついた者もいたが、全体としては戦勝の歓喜と安堵に満ちて、笑顔が覗いていた。そうした中、ある部隊長がムドゥリに近付いてきた。
「ムドゥリ様、ギン・ヘチェンから使いが参りました」
ムドゥリは訝しんだ。
「使い? 用件は」
「分かりません。しかし白い麻の服を着ております」
ムドゥリは息を呑んだ。白い麻。それは喪服である。
「どこにいる」
「あちらに」
ムドゥリは部隊長に連れられて、その使者に会いに行った。その白い麻の服を着た使者はムドゥリの前に跪いた。ムドゥリは即座に使者に訊く。
「どなただ、どなたが亡くなられた」
「皇帝陛下です。十日前に崩御なさいました」
半分はその答は予期していたのだが、それでもムドゥリは愕然とする。
「何故だ、我らが帝都を発った時にはまだお元気であられた」
「ムドゥリ様達が出発なさって数日した頃からだったでしょうか。お身体の調子がすぐれないようでした。それから血を吐いてお倒れに」
ムドゥリは考え込む。確かに父はすでに齢七十を超えていた。しかし、あまりにも急な話ではないか。
「よい、分かった。下がれ」
「いえ、まだお伝えするべきことが残っております。私は新しい皇帝陛下の使者なのです」
「何」
まさかとムドゥリは思った。
「恐れ多くも御尊名を申し上げます。弟君アルハガルガ様が陛下の御遺言を受けて崩御の翌日に即位なさいました。アルハガルガ様からの勅命です。ムドゥリ様におかれましてはすぐに帝都へ戻られますよう。戻らなければ……」
使者は言い淀む。
「戻らなければ叛意ありとみなすと」
その言葉を聞き、全てはアルハガルガの策謀だとムドゥリは直感した。しかしどうする。戻らなければ傷を負った兵士ともども補給の一切を絶たれた状態で長城外に孤立する。帝都から討伐軍が差し向けられては勝ち目がない。罠だと知りながらムドゥリには選択肢が無かった。
「すぐに帰還する。……陛下にそう伝えよ」
その日の内に皇帝崩御の知らせは全軍を駆け巡り、ムドゥリ軍は喪に服しながら帰途についた。
帝都ギン・ヘチェンに戻ると帝都守備軍が陣を敷いて待っていた。それは凱旋した軍隊を歓待する陣の敷き方ではなかった。陣の先頭にいた隻眼の男がムドゥリに近付いてくる。帝都守備軍を司る武将董(とう)松(しょう)。帝都の厚い壁が両軍を見下ろす中、董松はムドゥリに向かって何やら耳打ちをした。ムドゥリはそれに対し驚き、首を振る。董松の左目に言いようの無い色が浮かんだ。董松は今度はアリンとアリンタイにも聞こえる声で言う。
「ムドゥリ様、アリンタイ様、アリン様は宮中に急ぎ参上せよと陛下の御命令が下っております。私と共に来てください」
三人は董松と彼が率いる百人の兵士と共に宮中へ入った。当然武具の類は全て外す。アリンは弓矢とユエランの曲刀を全て門にいた武官に預けた。しばらく宮中の道を進んだところで董松が立ち止まった。三人の周囲を百人の兵士がぐるりと取り囲む。
「何の真似だ、董松」
ムドゥリが問いかけると、董松は暗い左目でムドゥリを見つめていた。
「叛乱者は捕えよとの勅命です」
董松が目で合図すると、兵士達が三人を取り押さえ縄で縛った。やはりこうなったかという絶望の中でムドゥリは息子達の姿を見、妻や他の子ども達、自分が目をかけた官員達のことを思った。この禍(わざわい)を蒙るのをどうにか自分だけで止(とど)められないかという痛切な、そして有り得ない願いを抱きながら。
結果はこの書物の冒頭に書いた通りである。
ムドゥリ一族は族滅され、唯一死罪を免れたムドゥリの息子アリンも帝国東北辺境の地スンジャタへ流刑となった。アリンとそれを護送する侍衛達が帝都ギン・ヘチェンを発ってから半月後、ギン・ヘチェン守備董松は宮中の朝政殿に参上していた。皇帝アルハガルガを運ぶ輿が黒い石畳の上を過(よぎ)り、陛を登って、玉座の前で止まる。アルハガルガは玉座の肘置きに手を置いて体重を支えると、腕の力で玉座に身を移す。董松は左に片方だけ残った目でそれを見る。
皇帝アルハガルガが歩くこともままならないということは、大っぴらには口にされないものの、帝都ギン・ヘチェンである程度の身分にある者には周知の事実だった。アルハガルガの脚は彼の若い頃から震え、次第に動かなくなった。宮中に仕える医師や宣教師を一つ所に集めても治癒の方法が見えない奇病だった。
董松は若かりし頃を思い出す。ムドゥリと董松が兵を動かす練兵場で、アルハガルガは一人木陰で大瞭の史書を読んでいた。武勇を重んじるデルギニャルマでは、ムドゥリのように戦場を自在に駆け回り、戦士として戦うことが求められる。しかし、アルハガルガにはそれが不可能だった。董松は今でも昨日見たように思い出すことができる。史書から時折目を移し、練兵場を見つめる、青年アルハガルガの暗い瞳を。
兄ムドゥリの瞳が純粋な黒さを印象付ける一方で、アルハガルガの黒い瞳は拭いがたい暗さを感じさせた。董松は考える。自分に近しいのは、ムドゥリではなく、目の前にいる皇帝だ。しかし、実際のところ自分はムドゥリに惹かれ、この暗い男を厭うた。
同族嫌悪なのかもしれませんがね、と内心呟く。
アルハガルガは今、玉座の上に君臨する。一人では立てぬ男。それが、世界一の版図を誇る帝国の帝王として董松の前に在る。彼はその位を自らの手で掴んだ。それ自体を評価しないのは公平ではないだろう。その手段がどれ程黒く血に塗れたものであったとしても。
「董松を除いて、皆下がれ」
アルハガルガは朝政殿にいる人間を全て退かせた。巨大な空間にアルハガルガと董松の二人のみが残される。董松は口の端を僅かに上げた。これはこれは、と。どうも、厄介な話らしい。
アルハガルガの即位に伴って、アルハガルガの妃と子供は宮中に移った。アルハガルガの息子エルデムは宮中での暮らしの中、よからぬ噂を聞いた。その内容は、父アルハガルガが祖父である大行(さきの)皇帝を毒殺したのではないかというものだ。
エルデムはその夜、姉のユエランの元へ行った。宮中の中でも最も瀟洒(しょうしゃ)なその部屋を蠟燭の明かりが照らしている。ユエランは牡丹の花が刺繍された絹の服を着て、本を読んでいた。美しい顔に愁いが見える。
「姉上、アリンはスンジャタに着いたでしょうか」
エルデムがユエランの椅子の前に立つとユエランは本を閉じ首を振った。
「アリン達はまだ北河を下りきってもいないでしょう。北河の河口からスンジャタまでは長城を越え随分東へ進まなければなりません」
「姉上が父上にアリンの命を助けるようお願いをしたのだと聞きました」
「そう」
ユエランが目を伏せると彼女の長い睫毛が顔に影をつくった。
「本当は皆様をお救いしたかった。けれどそれは無理です。十歳の子供なら助命の望みがありましたから、アリンのことだけお父様にお願いしました」
エルデムはムドゥリ一族族滅の知らせを聞いた時のことを思い出す。とても恐ろしかった。自分の見知った人達の命が潰えたということ、そしてその手を下したのが自分の父であるということが。エルデムは迷った末、今日聞いたことを姉に告げた。
「姉上、父上が大行皇帝陛下を毒殺したのだという噂が宮中に広まっています」
姉は透き通るような大きな瞳でエルデムを見た。彼と同じ黒い巻き毛を持つ乙女。彼女は驚くべき言葉を発した。
「だから何だと言うのですか、エルデム」
エルデムはたじろいだ。父の祖父殺しという話を聞いて、この優しく可憐な姉がよもやそのようなことを言おうとは思いもしなかった。
「姉上、けれどそれが本当なのだとしたら父上は大変な罪を犯したことになります。大逆です」
「だから、それが何だと言うのです」
戸惑うエルデムに姉は常日頃の穏やかさをそのままにして語りかける。
「エルデム、仮に本当にお父様がそのようなことをなさったのだとしましょう。けれど今更それを言った所で何になります。もうこの帝国の皇帝はお父様なのです。私達が一番に考えるべきなのはお父様を支えてどのように帝国の民を救っていくかであって、お父様を断罪することではありません」
「姉上、一体どうなさったのです、そんな」
ユエランは石畳の床を見つめた。蠟燭の明かりが二人の影を揺らめかせている。
「伯父様一族の族滅、そしてアリンの流刑を聞いて私はとても恐ろしかった。お父様のなさることを……非道だと思いました。けれどだからこそ私たちは変わらなければならないように思います。いつまでも子供ではいられません」
ユエランはエルデムの手を取った。まだ彼の手はユエランのものよりも小さく柔らかい。
「エルデム、あなたの名前の意味を知っていますか」
エルデムはおずおずと答える。
「徳です、姉上」
「そう。徳とはなんでしょう、エルデム。清さを人に求めることでしょうか。罪を裁くことでしょうか。私は違うと思います。帝国の民に恵みを施すため、あなたには清濁併せ吞む人になって欲しいのです。お父様が間違っているなら諫めるべきです。しかし裁くべきではありません。それをしても最早帝国に混乱を生むだけなのですから」
「姉上……」
エルデムの手を握るユエランの手は震えている。エルデムは知っていた。姉はアリンのことを慕っていたのだ。けれども今姉はそれでも父を支えようと言う。エルデムは姉の手を握り返した。
「分かりました。私は私の名にかけてお父様を支えます」
「もう一つ選択肢があるんですよ、お二方」
突然割って入ってきた声に二人の兄妹は驚き振り返った。部屋の入口に一人の男が立っている。柱の影になっていて顔が見えない。長身の男だ。
「お父上を打倒して、自らが玉座に即(つ)くんです。そうして仁政でも善政でも行えばいいんですよ。そうではありませんか」
ユエランは弟を抱き寄せ、その顔の見えない男を睨みつけた。
「何者です。大逆不道のその言葉、首が飛びますよ」
男は部屋の中に一歩入ってきた。蠟燭の明かりが彼の顔を照らす。
「いいのですか。私の首を飛ばして。清濁併せ呑むのではなかったので」
男は右目が無かった。董松。ギン・ヘチェン守備の任を帯びた司令官にしてアリンの父ムドゥリ亡き今となっては帝国一の武将。
「董松なぜここに」
董松はユエランに向かって皮肉げな笑みをつくった。
「帝国一の美女のお顔を拝見しに参ったのです、公主(ひめ)さま」
ユエランは訝しむ。何故この男は部屋まで入って来られるのだろう。一体部屋の外にいる宦官(かんがん)は何をしていたのだろうか。董松は肩をすくめた。
「怖い顔をなさる。それにしてもご立派なお話でした。けれど私が申し上げたことも真剣に考えられてはいかがです。皇子さまも公主さまも」
「口を噤(つぐ)みなさい、董松。それ以上言えばお前の命はありません」
董松は面白がるような視線をユエランの上から下まで向けた。
「まあいい。今日はあなたがただの馬鹿可愛がりされている娘ではないということが分かっただけでよしとしましょう。しかし、あなた方の耳に入るほど噂が囁かれているのは少し異様な状況だと思いますよ。身の振り方はよく考えた方がいい」
董松は踵(きびす)を返しそのまま部屋から出て行った。後に残されたユエランとエルデムは蠟燭の薄暗い明かりの中沈黙するしかなかった。
北河の濁流のその先には一つの城(まち)があった。河(か)城(じょう)。北河下流域の要衝にして、三重の城壁を持つ大要塞都市である。アリンと彼を護送する侍衛達は長城を越える前にこの城に立ち寄り、食糧などを補給することになっていた。夕刻、西からの赤い光を受けて河城は北河河畔に鎮座している。アリン達はどうにか閉門前にこの城へ入ることができた。
「罪人である皇族をスンジャタまで護送している途中なのだ」
城の門番に侍衛の一人が説明すると、門番達は顔を見合わせた。
「しばしここで待たれよ」
門から使い走りが城の中心に走って行く。
使い走りが帰ってくるまでの間、アリンは城の様子を観察した。城の城壁はどの箇所もなおざりにされておらず、堅牢に高々と聳(そび)え立っている。門も厚く「難攻不落」という言葉はこの城のためにあるようなもの。駐屯している兵力の関係から帝国で陥落させるのが最も難しいのは首都ギン・ヘチェンだろうが、単に城だけとってみれば、或いは河城の方が落としにくいかもしれない。城の中も栄えていて、軍事的にのみならず商業的にも東方の要(かなめ)となっている都市だ。
使い走りが帰って来た。
「提督の如冀(じょき)様が今晩は如冀様の私邸で過ごされるようにと」
提督如冀は河城を含めたこの辺り一帯の武官の頂点にいる男である。皇族ということで城内に放置しておくわけにはいかないと判断したのだろう。侍衛達は相談してそれに従うことにした。
如冀の私邸は城の中心部にあった。さすがに一般の民のものよりは大きいが、提督の家としてはこじんまりとしており、豪奢なところが無い。如冀自身は家の門の前で一行を待っていた。意外に若く怜悧な印象の人物である。隣には大柄で赤銅色の髭を生やした男が立っていた。如冀は一行に向かい礼をする。
「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れになったことでしょう。手狭ですが今晩は私の家でお過ごしください」
中へ通される。家の中も提督のものにしては質素だった。
「アリン様はこちらへ」
如冀はアリンを邸宅の一室に通そうとする。それに対し侍衛の一人が異論を唱えた。
「いくら皇族とはいえ、その方は罪人。お一人にする訳には参りませぬ」
「ではそちらから一人来てください」
「私が参りましょう」
白髭のナバタイが進み出た。
「よろしい、では」
如冀と赤銅色の髭をした大男、アリンとナバタイは応接間に入った。
「どうぞお掛けになってください」
アリンと如冀は並んで椅子に座り、両脇にナバタイと大男が立つ。如冀は十歳の少年に向かって堅苦しく、しかし柔らかい言葉をかけた。
「申し遅れました。私は河城提督の如冀、こちらの男は私の副官ギョワンと申します」
大男ギョワンもアリンに目礼する。
「スンジャタへ行かれるとのこと、河城にいる私も聞き及んでおります。まだまだ遠い道のり、私にできますのは補給のお手伝いくらいですが、できる限りのことをさせていただきます」
「礼を言います、如冀」
そこでアリンと如冀の目が合った。瞬間如冀の全身に寒気が走る。その少年は光をも通さぬ深淵のような目をしていた。数々の賊党や叛乱者を討ち取ってきた如冀でさえも見たことの無い目だった。
「……恐れながらアリン様、何を考えていらっしゃるのですか」
「何を、とは」
アリンは異なことを聞かれたというふうに首をかしげてみせる。その素振りに如冀は更に寒気を覚えた。これは普通の子供ではない。
「何かお心の晴れぬことがあるようです」
アリンは僅かに俯いた。
「ギン・ヘチェンからの長い旅、疲れが出ているのかもしれませんね。未熟なことです」
違う、そんなことではないと如冀は思った。しかしそれ以上追及もできない。如冀は最後にせめてこう言うより他なかった。
「スンジャタは寒冷過酷な地。しかしどうかアリン様、穏やかに日々を過ごされますよう」
自らアリン達を寝室に送った後、如冀は再び応接間に帰って来た。副官ギョワンはまだそこに立っていた。
「らしくなかったな」
ギョワンは如冀を見下ろす。二人きりでいる時如冀とギョワンの間に上下の隔たりは無い。如冀はため息をつきながら椅子に腰掛けた。
「お前は何とも思わなかったか」
ギョワンは口を曲げ首を傾げる。
「随分大人びた子供だと思ったがな。さすがに皇族は違う」
如冀は顎に手をあてた。自分の取り越し苦労かと思った。しかし即座にその考えを打ち消す。あの感覚が間違いである筈はない。
「このまま彼等を行かせてよいのだろうか」
如冀は何か自らの手中から巨大な禍(わざわい)が放たれようとしているように感じた。
「何だ、本当にらしくないぞ」
如冀は目を伏せた。
「そうだな。私にはどうにもならん」
流刑地に向かう彼らを留めるような権限は如冀には無い。分を越えず自らの職務を果たすこと、如冀が自らに課すのはそれだけであり、この男は忠実にそれを守ってきた。胸騒ぎは止むことがないが、彼にできることは決まっている。
「私達も休もうか」
応接間を出る時蠟燭の芯をつまむと、微かに白い煙が立ち上り部屋は完全に闇に包まれた。
朝起きて髭を撫でるとパリッという音がして、侍衛ナバタイは自分の白い髭が凍っていることに気が付いた。彼はブルリと震えながら外套をかき寄せ辺りを見回す。風が吹くと落ち葉が土の匂いを運びながら宙を舞った。冬になろうとしている。しかし、と。ナバタイは髭に触れる。今年は随分寒くはないだろうか。
ナバタイがそうしていると、他の侍衛も起き出した。アリンを探すとその少年はとうに起きて自分の馬の横に立っている。近付いてくるナバタイに気が付くとアリンは馬を撫でながら尋ねた。
「今日はどこまで行く」
「順調に進めれば天下第一関山海関まで行けるはずです」
天下第一関山海関は帝国北辺を東西に走る長城の最も東に位置する関所である。アリン達が向かう東北地方に陸路で向かうには、この関所を通らざるをえなかった。長城南の帝国本土と長城北の東北地方との結節点である。
アリン達は出発した。夜明けから昼まで馬で進むとやがて彼らは平原に出た。遥か彼方に地平線が見えるほど広い平原。天に浮かぶ雲の影がまばらに草の生えた大地を横切ってゆく。空から見れば、黒い外套を着て進む彼らの姿はまるで芥子粒のように見えるだろう。
北へ目を向ければ天を衝かんばかりの峻厳な山々が雪を纏って聳え立っている。東は茫洋(ぼうよう)たる紺碧(こんぺき)の大海。「初めて見た」とアリンは呟いた。内陸の都ギン・ヘチェンで育った彼にとってはいずれも音に聞くばかりだった。巨大な自然の中を彼等は行く。
夕刻まで進むと目前に天下第一関山海関が現れた。長城は東に広がる海にやや突き出し、山海関はその東端のごく近くに門を構えている。東は海、西北は高山に挟まれた関所。まさしくその名に違わぬ要地である。
山海関の門前に着くと、ひどく太った男が一行を出迎えた。ここの守備を司る司令官らしい。ナバタイはその男を見てよくこんな場所でああも太れるものだと思った。司令官は慇懃(いんぎん)に一行を食堂へ案内すると料理人に食事の用意を命じた。出てきたのはほとんど水のような粥だった。侍衛が不満を唱えると、司令官は手を揉む。
「これ以上お出しできるものが無いのです。支給される銭が少なくて。都に帰ったら少しはここにも回すよう提言してくださいませんか」
無いと言われれば仕方が無いので侍衛は引き下がった。
寝室は司令官室の直下にある一室だった。部屋の中には全く炭をくべておらず、外と変わらないくらい冷たい。侍衛達は文句を言いながら眠りにつく。ナバタイはアリンの方を見やって、その子供が外套を着たまま布団に包(くる)まっているのでさすがに哀れに思い司令官に直接話をつけることにした。
司令官は部下の何人かと談笑をしている最中だった。
「炭は無いのですよ」
司令官は困り顔で言う。司令官室には赤々とした炭がくべられていて暖かであった。
「嘘をつくでない。ここにあるではないか」
「これが最後です」
ナバタイは司令官の言葉を苦々しく思った。どう考えても嘘である。しかしここで咎めていたらきりが無い。
「悪いが分けてくれ。下では皆凍えている」
司令官は仕方がないといった様子で炭の一部を下の部屋へ持って行くよう部下に命じた。
「しかし、都の方に言ってくださいね。炭にも事欠く有様だと」
僅かな炭を部屋にくべてナバタイが眠りにつこうとすると、上から部下に喋る司令官の太い声が微かに聞こえた。
「どうせあんなガキすぐにおっ死(ち)ぬのさ」
ナバタイは思わず寝台から立ち上がった。しかし、その時小さな声が聞こえた。
「ナバタイ」
振り返ると起きていたアリンがナバタイへ手を向け指を下げる。構わないから落ち着けと言うように。ナバタイは寝台に座った。アリン様がどうお考えであろうとも、あやつは斬るべきではないのかと思いながら。しかし、強いて布団に包まる。このいまいましい場所からも明日になれば出てゆける。
皇帝アルハガルガの息子エルデムが宮中を歩いていた時、一人の官員が紙片を取り落としたまま歩き去ろうとしていた。エルデムはそれを拾って彼の元へ小走りで行く。
「これを落とされましたよ」
「あ、恐れ入ります。皇子」
官員は恐縮してそれをエルデムの手から受け取った。その官員は金髪碧眼(へきがん)で高い鼻梁を持っており、まだ三十にならないくらいだった。巻物や紙の束が腕から溢れそうになっている。
「すごい荷物ですね」
碧眼の官員は苦笑した。
「人手が足りないのです」
「お手伝いしましょう」
官員は焦った。
「そんな、皇子に運んでいただくなんてとんでもないことです」
エルデムは「構いません」と言って、その小さな手を広げた。官員はしばし躊躇したが、結局皇子が手伝わねば気が済まないという様子だったので少しだけ彼に荷物を渡した。
荷物を持った二人は宮中の大きな庭園を通り抜けてゆく。亭(てい)の周りを水路が巡り、さやかに流れる水が、陽光にきらめいていた。エルデムはその金髪碧眼の官員を見上げる。
「あなたのことは宮中で何度か見かけたことがあります。でもお名前を存じ上げません。お聞きしてもよろしいですか」
官員は頭を下げた。
「勿体ないお言葉です。私はルスタチオ・アルドロヴァンディと申します」
「ルスタチオ・アルドロ……」
官員は笑みを漏らした。
「長い名前ですね。どうぞルスタチオとお呼びください」
エルデムはこくりと頷く。エルデムは透き通る瞳でルスタチオを見つめた。
「では、ルスタチオ。一つお尋ねしたいのです。あなたは私達と少し顔や髪が違っているように思います。それはどうしてですか」
ルスタチオは皇子の幼い質問に微笑んだ。
「私は異国の生まれなのです。この国から西へ船で一年旅をしたところに私の国はあります。私がこの国に来たのは神の教えを広めるためなのですが、なかなかお許しが下りず、今はこうして宮中で天文のことを担当しております」
「神……。私達は天や山を拝みますが、ルスタチオの言う神とはそれとは違うのでしょうか」
「はい。違います。神には御意思があります」
エルデムは考え込んだ。未知の概念を理解しようと精一杯努力しているようだった。ルスタチオはその様子を見て、この小さな皇子を可愛らしく思った。
「お時間のある時に天文台へ来てくだされば色々とお話します。きっと皇子がまだご存知ないことが沢山ありますよ」
エルデムは目を輝かせた。
「本当ですか」
「はい。もしお許しが出るようなら今晩天文台へいらっしゃいませんか。今日は月が無いですから星がきれいに見えます」
エルデムはその場で飛び上がらんがばかりに喜んだ。
「父上に聞いてみます」
「是非とも」
庭園に降り注ぐのどかな陽の光が二人を包んでいる。この皇子と異国の宣教師との出会いが後の歴史において大きな意味を持つようになるのだが、そのことを今の彼らが知る由もなかった。
その夜エルデムは天文台の螺旋階段を駆け上った。階段は円形の部屋に続いており、部屋の中はエルデムの知らない器物に満ちていた。
「ルスタチオ!」
名前を呼ばれて異国の宣教師ルスタチオ・アルドロヴァンディは振り返った。
「ようこそいらっしゃいました、皇子。今晩は冷えますよ。寒くはありませんか」
「問題ありません」
エルデムが腕を広げると上着がゆれた。皇室御用達の上等な毛皮で作られている。確かに寒さには強いだろう。
「それならばよかったです。ささ、こちらへ」
ルスタチオは太い筒状のものの前にエルデムを促した。エルデムはそれが何か分からない。
「これは?」
ルスタチオはにっこりした。
「私が説明するよりも実際に覗かれた方が早いでしょう」
エルデムはルスタチオの方をちらりと見てから、筒の先端を覗いた。
「わ!」
筒の先端にあるレンズのその先、エルデムの視界には星の海が人の目では決して見ることのできない鮮やかさで広がっていた。
「望遠鏡と言います。銀漢も北斗も参宿(しんしゅく)もよく見えるでしょう」
「ルスタチオ、これすごいよ!」
喜びのあまり皇子の言葉は随分子供らしいものになった。それを微笑ましく見つめながら、お見せしてよかったとルスタチオは思った。
「こちらに良い渾天(こんてん)儀(ぎ)もありますよ」
ルスタチオはその天球を象った丸い模型をくるりと回す。しかし黒い巻き毛の少年は望遠鏡を覗いたままである。
「……ルスタチオ、あれは何?」
「どれですか」
ルスタチオはエルデムと代わって望遠鏡を覗いた。
「真ん中あたりにある赤い星」
「ああ、あれは螢惑(けいこく)ですね」
「少し気味が悪い」
「そうですね。戦乱と禍の星と言われています。私の国でも軍神の名が取られています。火星(マールス)と」
エルデムは少し俯いた。ルスタチオは少年の顔を覗き込んで微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あの星は本当は私達の星と兄弟とまではいかなくても親戚のような星なのです」
エルデムは固まった。
「私達の星? ここは星なの?」
ルスタチオは呆気にとられ、しまった、ここからかと内心呟いた。彼は神の教えも大事だが、この皇子に自分の知識を伝えることも自分の義務だと思った。そこから少しばかりの講義が始まった。この世界は球体をしていること。そして螢惑とともに太陽の周りを回っていること……。皇子は興味津々で聞いた。
「ルスタチオの国はすごいね。こんな遠くを見られるものを作って、沢山色んなことを知っている」
「は、恐縮です」
ルスタチオは頭を下げつつ、顔を曇らせた。
「しかし、私の国は素晴らしいものばかり作っているわけではありません」
宣教師は遠く星空を見上げた。
「私にはベルトランド・シモーニという兄弟子がいます。今彼はここから南に行った南城にいるのですが、そこで私達の国の技術を使い恐ろしいものを作っています。私達の国はそういうものも作る国なのですよ」
ルスタチオはその悲しげな青い目で小さな皇子を見る。
「ですから私は自分の国を愛し、同時に厭(いと)うております。皇子はどうですか」
その質問にエルデムの透き通る黒い瞳は若干の迷いを見せた。しかし幾ばくも無くして、
「私がこの国を愛さないでどうするというの」
と確かな口調で言った。
「……愚問でした」
ルスタチオは再び頭を下げる。この方もどうしてただ人ではないと思いながら。
山海関から出て十日後、アリン達は吹雪の中スンジャタに着いた。猛吹雪の中辛うじて街の影が見える。五つ(スンジャ)の塔が一つの小高い山を囲み、街はその山にへばりつくようにして造られている。アリンと二十人の侍衛は山裾にある一邸の屋敷に着いた。その屋敷がそれなりに大きいのはアリンだけでなく監視の侍衛達も寝泊まりするからだろう。
侍衛の一人はそう言うと、他の侍衛と固まって相談を始めた。二十人の内半数は首都ギン・ヘチェンに帰るので、誰がスンジャタに残るかという相談である。わざわざこの寒冷過酷な地に残りたいという者は少ない。だからここに残るというナバタイの希望はすんなり通った。結局ナバタイを含めた十人が屋敷に留まり、他の十人は山道を登って行った。報告と宿泊を兼ねて今日のところはスンジャタの総督府へ行くのだ。
アリンは屋敷に入り用意された自室に落ち着いた。備えられていた経書を読んでいると食事が運ばれてきた。離れにある厨房で作られたものである。久しく口にしなかったまともな食事が胃袋を満たす。流刑とはいえ劣悪な待遇を受けるわけではないらしい。吹雪の中屋敷に閉じこめられているものの、アリンはそれなりに快適な日々を過ごした。
「……お風邪を引いてはおりませんか」
スンジャタに着いてから何日か経ったある日、ナバタイは窓辺に座っているアリンに向かって声を掛けた。アリンは読んでいた本から視線をナバタイへ移す。
「いや?」
「あまりお身体の調子がよろしくないように見えます」
他の侍衛が決して気付かぬような僅かな変調をナバタイは見逃していなかった。アリンは宙を見る。
「確かに少しだるくはある」
「お気を付け下さいませ。ギン・ヘチェンに比べて格段に寒うございます」
「分かった」
アリンはまた本を読み始めた。本当に分かっていらっしゃるのだろうかとナバタイは溜息をついた。
それから更に何日か経ってやっと吹雪が止んだ。アリンは監視役の侍衛一人を伴って外に出る。アリンのいる所はスンジャタの中でもかなり外れたところにあり、街というよりは村に近い。
まばらな人家の間をあてもなくふらふらと歩いていると人だかりができていた。見れば弓射の勝負を行っている。黒髭で筋骨隆々とした男が、大きな弓を引き絞って五十歩の向こうにある的に向かって矢を二三度放った。なかなかの腕前でいずれも的の中心近くに当たる。
「どうだ、俺より上手いやつがこの中にいるか!」
誰も名乗り出ない。辺りはざわつくばかりである。アリンはそこで付き添っている侍衛の顔を見上げた。侍衛は戸惑っているものの何も言わない。少年は男の前に進み出た。
「俺がいる」
黒髭の男も周囲の人々も、その小さな挑戦者に驚いた。黒髭の男はニヤリとした。
「いいぞ坊主。小さい弓を持ってこようか」
辺りから笑い声が起こった。
「いや、それでいい。貸してくれ」
アリンは男の持っている弓に向かって手を伸ばす。男は眉を八の字にした。
「しかし、お前の力じゃこれは引けんだろう」
「いいから」
男はしぶしぶ弓と矢をアリンに渡した。アリンは弓を持ち、的が正面に見える位置に立った。周囲は固唾を飲んで見守る。アリンは矢をつがえ弓を引いた。弦が見事に引き絞られる。少年は矢を放った。矢は彼らのいる所まで聞こえるダンという音を立てて的に刺さった。射貫いたのはまさに的の真中。歓声が上がった。黒髭は信じられないという顔をする。アリンは彼に向かって再び手を差し出す。
「もう一本射ようか」
「いや……もう十分。お前の勝ちだ」
それならとアリンがその場を去ろうとすると、黒髭はアリンを押しとどめて耳語(じご)してきた。
「お前何者だ」
「別に、そこらへんに住んでいる子供だ」
黒髭は腕組みする。
「もう少し育たなならんが、俺の部下にならんか」
アリンは爽やかに笑った。
「それは育ってから考えよう」
アリンはそれから辺りの見物をすませて家路についた。久し振りに弓を射ることができたので気分がいい。角を一つ曲がったところで少年は咳をした。やはりナバタイの言う通り風邪をひいたのかもしれない。息が落ち着いてから口を覆っていた手の平を見ると、そこにはべっとりと血がついていた。
アリン吐血の噂は屋敷中に広まった。そしてその日からアリンの容態は悪化しはじめた。しばしば血を吐くのでたらいが部屋に置かれる。外出もほとんどしなくなった。
ナバタイは頻りにアリンの様子を見に彼の部屋へ行った。アリンは概して気怠そうに椅子にもたれかかっている。かつての尚武の皇孫。数日前には見事的を射抜いて人々を驚かせた少年。その人がこのような有様になると誰が思っただろうか。
ナバタイは激しく狼狽(ろうばい)する。ナバタイはアリンのことをごく幼い時から知っていた。五歳までは親しく遊び、それから後も彼の姿を宮中で見かけてはその成長を喜んでいた。不敬ながらまるで自分の孫のように思っているところがある。そのアリンが自分の目の前でむざむざと病み衰えていく。
ナバタイは厨房に行き料理人達に言った。
「精のつくものをお作りするのだ。それに食べやすくなければいかんぞ」
街から医者も探してきた。しかし少年を診察した医者は首を振る。
「分かりません」
「なに、それでも医者か」
ナバタイの言葉に医者は再び首を振る。
「分からないものは分からないのです。私の知っている病気ではないようです」
医者は何も打つ手がなく帰り支度を始める。彼は帰り際その場に突っ立っているナバタイに耳打ちした。
「しかしこれだけは分かります。このままですと、長くはありません」
ナバタイはその場に崩れ落ちた。その後何人も医者を連れてきたが、彼等も一様に首を振った。ナバタイの焦慮は止まない。
ある日ナバタイはアリンの元に料理を運んだ。最近アリンが料理にほとんど口をつけなくなったので自ら食べさせなければと思ったのだ。部屋に入ると、アリンは寝台に横たわっていた。ひどく痩せ衰えている。その姿をナバタイはとても見ていられなかった。しかし平静を装って言葉をかける。
「アリン様、夕餉(ゆうげ)をお持ちしました。どうか召し上がって精をつけてください」
「食べたくない」
返ってきたのは弱々しい声だった。ナバタイは無理もないと思う。
「食欲は無いかもしれませんが、しかし召し上がらないことには御快復もしません」
「ナバタイ、俺も迂闊だったのだが」
アリンは目を閉じる。
「それは毒だ」
ナバタイは盆を取り落とした。陶器の器が石畳に当たって砕けた。
「何ですと」
「叔父上もうまく考えたものだ。幼い甥は死罪を免れたものの東北の慣れない土地で衰弱死するという筋書きらしい。確かにこれなら死罪にするよりは風聞も悪くないだろう」
ナバタイの顔はみるみる赤くなった。
「き、斬りましょう! あの料理人ども、生かしてはおけません!」
「無駄なことだ。料理人を替えても叔父上が俺を殺す気なら他の方法を考えて殺すだろう」
アリンは息を漏らす。俺にはやることがあるのだがと呟きながら。ナバタイは寝台の横に跪いて、細くなったアリンの手を握った。目頭が熱くなっている。
「いいえ、このナバタイがお助けします。必ず!」
それからナバタイはスンジャタ中を駆けずり回った。医者を探して、或いは薬を探して。しかしいずれも効果が無い。仲間の侍衛に料理人を見張るよう頼んでいるが、或いは彼らも共謀者かもしれなかった。いずれもギン・ヘチェン、アルハガルガの命を帯びてここに来た者たちである。アリンの命を救う手立てを何一つ見つけることのできないまま日々が過ぎていった。
スンジャタの街の中心で到頭ナバタイは座り込んだ。このままアリン様を死なせてしまうならば、自分も生きてはゆけない。ナバタイは手で顔を覆う。
「どうなされた御仁」
ナバタイは手を外し、声の主を見上げる。そこには立派な官服を着た黒髭の大柄な男が立っていた。
「どうやらただ事ではござらぬ様子」
見ず知らずの男。だがナバタイは藁にも縋る思いでその男に事情を説明した。
「私の孫が毒にあたって血を吐き弱っているのです。しかし医者も薬もまるで助けになりません」
「なんと、それは一大事」
黒髭の男は太い腕を組んで思案した。そして、片目を開く。
「……この街の周りには五つの塔が立っているが、その内の東の塔にメルゲンという老人が住んでいる。凡そ知らぬことの無い古老だ。あの者なら或いは……」
細かい雪の向こう、白く煙って塔の影が見える。ナバタイは勢いよく立ち上がった。男に向かって手を合わせる。
「感謝します!」
塔は街の外れの辺鄙なところにある。ナバタイは街から森を越え、塔の下に馬を繋いだ。石造りの小さな門をくぐり、塔の内側を巡る螺旋階段を上り始める。日頃の疲れが溜まっているせいか、上に行くにつれて、この老練の侍衛も息が上がった。
「こんな所に本当に人など住んでいるのか」
「五つある塔で人が住むのはもうこの塔だけじゃ」
ナバタイが見上げると吹き抜けになっている先に小さな老人の姿が辛うじて見えた。塔の一番上まで登るとそこは壁をぐるりと本が取り囲む部屋になっている。老人は紫の衣を纏い案(つくえ)の前に座っていた。
「メルゲンというのはあなたのことか」
「いかにも。ここにやって来るそなたの姿は塔の上から見えた。こんな所に来るということは何かお困りかな」
ナバタイは事情を説明した。それを聞き終えるとメルゲンは白く長い髭を撫しながらこう言った。
「その子供というのは皇族のアリン様じゃの」
驚くナバタイを見てメルゲンはほっほと笑う。
「そなたの服は侍衛の服じゃ。ならばその子供が何者かも分かるというもの。噂には聞いておる。一族族滅の上スンジャタまで流されたとか」
紫衣の老人は杖を持ち立ち上がった。
「参ろうか。デルギニャルマの子孫を救うこと、これは儂に課せられた務めなのじゃから」
アリンの部屋に大きな木箱を持ったナバタイと紫衣を着た老人が入ってきた。アリンは横たわったまま尋ねた。
「ナバタイ、そちらの御老人は」
「こちらは東の塔に住まわれているメルゲンという方です。アリン様を癒せないかと思い連れて参りました」
「ナバタイよ、その箱を寝台の横に置くのじゃ」
メルゲンはアリンの側までやって来て彼の腕を取り脈をみた。
「なるほど、これは重篤じゃの。参るのが三日遅ければお亡くなりになっていたところじゃわい」
ナバタイは生唾を飲み込む。
「お助けできるのか」
老人は木箱を開けた。その中には種々の粉薬が詰まっており、ツンとした臭いが部屋に漂った。
「既に毒がお身体を深く蝕んでおる故、完全に癒して差し上げることは出来ぬ。しかし、再び弓を持てる程にはなろうぞ」
ナバタイは胸を撫で下ろした。老人は粉薬の袋をいくつか取り出し混ぜ合わせ始めた。
「薬は二つお作りする。一つは今すぐ飲むもの。すでにお身体に入った毒を弱めるものじゃ。もう一つは毎日飲むもので毒の入りを防いでくれる」
「まことか」
「まことよ。しかし、毒の種類が変われば効果が無い。そのあたりを防ぐのはその方らの仕事よの」
ナバタイは深く頷き、メルゲンの元に水を持って行った。老人は調合した薬と水をアリンの口元に運ぶ。アリンはそれを飲み干した。
「よくなり始めるのには十日ばかりかかる。無理はなさらぬことじゃ」
メルゲンは次に毎日の薬を調合し始めた。粉薬を混ぜ合わせる。そこで紫衣の老人はふとアリンの顔を見て手を止めた。
「ナバタイよ、外してくれるか。儂はアリン様と二人で話をしたくなった」
「それはできかねる」
ナバタイがこの場からいなくなってしまえば、万一メルゲンがアリンに危害を及ぼそうとした時にどうにもならない。メルゲンは「まあ、そうよの」と言って髭を撫した。
「……それではナバタイ、フェギスンバサミニ?」
「は?」
ナバタイはきょとんとしている。メルゲンはほほと笑った。老人は同じ言葉を今度はアリンに向かってかけた。
「古の言葉を知っておられますか(フェギスンバサミニ)?」
アリンは応える。
「はい(サミ)、父に教わりました(ミニアマミムベタチブハ)」
メルゲンが頷くと、それ以後の二人の会話はナバタイを蚊帳の外にして全てデルギニャルマの古い言葉で行われることになった。メルゲンは粉薬を包み紙に入れながら、アリンに語りかける。
「復讐をお考えなのじゃな」
そのメルゲンの言葉にアリンは淀みなく答えた。
「私は罪を背負った身。私が考えておりますのは、いかにこのスンジャタの地で静かに償いの日々を送るか、そればかりです。復讐などとんでもありません」
メルゲンは悲しげな眼をする。
「非凡よな。竜(ムドゥリ)の息子。そなたが屈託なく育つことができればどれほどよかったじゃろうか。そなた達が被った災難については儂も聞き及んでおる。儂に対して言葉を偽る必要はない。他言はせぬゆえ」
「何を仰っているのか分かりません」
「無駄よ。そなたの瞳を見れば分かる。篝(かがり)火(び)一つない闇夜のような目じゃ」
「父譲りです」
「お父上ならば、そなたの考えるようなことはなさるまい」
「何が分かるというのです!」
アリンは寝台に横たわったまま小さく叫んだ。アリン様、と心配げなナバタイに目で何でもないと伝える。メルゲンはしばし黙して薬を包む。包み紙を折るパリパリという音だけが聞こえた。
「……これは年寄りの繰り言なのじゃが、この世はそなたの知らぬ美しいものや素晴らしいものに満ち溢れておるのじゃ。流刑の途上とはいえ、そなたはスンジャタの地に来るまでにそれを見たのではなかったか。そなたが執着しておるそれは本当にそなたがこの世界で成し遂げるべきものなのか」
アリンは山海関までの道のりで見た大平原、そして海、高山を幻視した。
「……賢者(メルゲン)、あなたの言う通りだ。確かにこの世界は美しい。しかしだからこそ私はあの不合理が許せない。あの讐(しゅう)敵(てき)が許せない」
その時少年の瞳はメルゲンがはっとする程暗さを増した。
「世界が輝くならば私はそれに倍して彼(か)の日を怨む。この世の何ものも私の未練にはなりえない」
老人は薬包に目を落とす。
「行かれるか、覇道を」
「それが私の道です」
半年分の薬包を包み終わって、メルゲンは立ち上がった。
「その薬が切れたらまた儂のもとに来なされ」
老人はナバタイに箱を持たせて部屋を出て行く。
ナバタイがメルゲンを塔まで送り終え帰って来た時には、アリンは眠りについていた。ナバタイは寝台の横まで行ってその寝姿を見る。まだ苦しそうだが、あの老人の言っていたことが本当ならこれからよくなってゆくのだろう。どうか老人の言葉が嘘ではないようにとナバタイは祈った。
「ナバタイ」
見ると眠っていたはずのアリンがナバタイの方を見つめていた。少年はナバタイに向かって手を伸ばす。ナバタイはその手を取った。
「お前がいなければ俺は助からなかっただろう。なんと礼を言ってよいのか分からない」
「そんな、アリン様、私は当然のことをしたまで」
「いや」
少年は少しだけ微笑んで首を振ると再び眠りについた。ナバタイはメルゲンとの問答について訊くつもりだったが、結局その機会は訪れなかった。
次第にアリンは回復し、一月経つと人の付き添いがあれば歩けるようになった。アリンは不自由な中よく屋敷の近辺を歩き回った。
アリンが住む場所はスンジャタの中でもそこまで栄えている場所ではない。総督府がある街の中心から馬で一時間の距離があり、市が並んで賑やかになることも無い。しかし、「寒村」という程でもなかった。
人家が数十軒と廟堂があり、周囲には畑が広がる。アリンがかつて黒髭の男と弓射した広場では、アリンよりも幾分年下の子供たちが楽しげに遊んでいる。アリンは次第にこの場所にも馴染んできていた。
ある晩のことである。アリンは叫び声と焦げ臭いにおいで目を覚ました。侍衛の声が聞こえる。
「ナバタイ、アリン様を連れて逃げろ!」
アリンは寝台から起き出し、近くにあった柱に掴まって立った。そこにナバタイが飛び込んでくる。
「何があった」
「賊です。馬賊が五十騎ほどで攻めて参りました。ここは危険です……失礼します!」
ナバタイはアリンを抱え上げ、厩のある場所まで走って行った。
「他の者達は」
「屋敷の者には逃げるよう指示しました。侍衛は残って戦います」
「な」
ここには他に戦える者もいないだろう。侍衛九人と賊五十騎では勝ち目がない。しかし、侍衛が逃げてしまえば賊を押しとどめる者がいなくなり、民の被害が広がる。そして、より確かなことはアリンがこの場にいても何の役にも立たないということだった。
「ッ……!」
ナバタイはアリンと共に馬に乗ると一散に駆けだした。屋敷の外では炎が禍々しく輝き、家が焼け崩れる音と悲鳴が聞こえる。ナバタイとアリンはその中全てに背を向け、闇夜に逃れて行った。
帝都ギン・ヘチェンの宮中、五匹の龍が彫られた玉座にその男は座っていた。炯炯(けいけい)とした眼光を放つ壮年の男。皇帝アルハガルガ。父と兄の死について色々と黒い噂が宮中でも囁かれているが、彼は尚も厳然として玉座に在る。彼の前に黒い巻き毛の髪をした幼い皇子がやって来て叩頭(こうとう)した。彼と皇后の間に出来た長子エルデムである。
「面(おもて)を上げよ。よくぞ来た。今日はそなたに話がある」
エルデムは不安げに皇帝の言葉を待つ。彼は事前に何も聞かされていなかった。ここでは父と子ではなく皇帝と臣下として対面している。
「朕はそなたを太子としたい」
「え……」
エルデムは思わずそんな声を漏らしてしまった。太子、すなわち次の帝位を継ぐもの。太子になるということは、この大帝国がいずれエルデムの双肩にかかることが予定されるということである。無論エルデムとて帝位を継ぐ可能性を全く予想しなかった訳ではない。アルハガルガには他の妃達に産ませた皇子が数多くいるが、皇后の息子は彼のみである。しかし、このような早い段階でその未来を約束されようとは思ってもみなかった。
「どうした、何か不満があるか」
無論断れる話ではない。しかし、エルデムはどうしてもそのまま承諾することはできなかった。
「陛下、一つお聞きしたいことがあります」
「なんだ」
「私は帝位に在って何を為すべきか分かりません。陛下は何を為さんとして帝位に即(つ)かれましたか」
エルデムの言葉を聞いて、皇帝アルハガルガは拳を玉座の肘掛けに振り下ろした。その震怒の音はエルデムが跪いている場所まで届いた。
「そなた、途方もない思い違いをしておるぞ。帝位とは何かを為すべくして即くものではない。即くべくして即くものなのだ。朕は大行(さきの)皇帝陛下の遺勅をもってここに在る。たわけたことをぬかすな。そなたの返答を述べよ」
エルデムは俯くと深く深くその巻き毛の頭を下げ、冷たい床に押し付けた。
「謹んで承ります……!」
皇女ユエランは付き添いの宦官と宮中を歩いていた。宦官は両手でずっしりとした絹の包みを持っている。宮殿と宮殿を繋ぐ道にあってユエラン達の眼前に一人の男が現れた。男は武官の姿をしており片目が無い。「董(とう)松(しょう)」とユエランは小さく声を上げた。エルデムと話していた晩、あの男が部屋へ入ってきたことを思い出す。ユエランは隣にいる宦官に顔を向けた。
「あなたはそれを持って先にお行きなさい」
「ですが……」
「構いません」
宦官は戸惑いながらもユエランから離れて道を進んで行った。それとすれ違うかたちで董松がユエランに近付いてくる。この帝都ギン・ヘチェンの守備を司る男は皇女に向かってニヤリとした。
「ここに一人残ったということは私に何か御用ですかな」
「ええ」
ユエランはその男の気に飲まれないように精一杯気を張ってそこに立っていた。その様子を見て董松は愉快に思う。
「あなたに聞きたいことがあるのです」
「ほほう、直接御下問頂けるほど気に入ってくださっているとは思いませんでした」
「誰が!」
ユエランは唇を噛む。もとよりこの男に良い感情など持っていない。董松は自室に勝手に入って来ただけでなく、ユエランとエルデムに父の打倒を唆しさえしたのだから。しかし、この男なら臣下の正直な感想、つまりユエランが普通に過ごしていたのでは手に入らない情報をもたらしてくれるに違いなかった。
「……あなたは私の弟エルデムが太子になったことについてどう思っていますか」
「ああ、なるほど」
董松は顎を撫でた。この公主(ひめ)の身からすれば、自分の弟が次代の皇帝になるというのは大事件だろう。しかし、ただ自分の周りの事件として考えているならば、わざわざ自分に尋ねることはするまい。もしこの太子の件がより大きな話であることに気付いているのだとすれば勘のいいことだ、とそこまで考えて、
「思い切ったことをなさるなと思いましたよ」
と董松はごく真面目に答えた。
「十歳の皇子を太子にするというのもそうですが、そもそも立太子自体本来大瞭の制度であって、あなた方、というかこの帝国の制度には無いでしょう。だから大行皇帝陛下がお亡くなりになる土壇場でお父上に帝位を継がせる遺勅が出るだなんて話が成り立つわけで。エルデム様を太子としたのは、何も次の皇帝の候補が決まったというだけでなく、皇位継承制度の大変革であるわけです」
ユエランは透き通る瞳で董松を見つめている。ユエランが知りたいと願うことが端的に提示される。今の彼女にとってこの好ましからざる男の言葉は必要だった。
「そう言えば面白い話を耳にしましたな。なんでも、太子の話をエルデム様が聞いた時、陛下は何を為さんとして帝位に即かれたかとお聞きしてひどくお怒りを買ったとか。陛下のお答えとしては、帝位とは為すべきものがあるから即くのではなく、即くべくして即くものなのだと。それを聞きましてね、私はまあ陛下がお怒りになるのは無理もないと思いましたよ。エルデム様の質問はありえないものですからね。しかし」
そこで、董松はクククと笑った。
「反面こうも思いましたよ。嘘おっしゃいと。あんなあからさまにやりたいことのある皇帝なんてなかなかいませんよ」
「そう、なのですか?」
男は三十ばかり年下の少女を見下ろした。若い、若い。頭は良いのだろうが、まだ隙が多い。
「あなた方の目からどう見えているかは知りませんが、陛下は変革者なのですよ。それも急進的な。陛下は随分な大瞭趣味をお持ちで、この帝国の中心部を本格的に大瞭化しようとなさっているんです。今回の立太子の件はその大変革の狼煙(のろし)です」
そもそもこの帝国の版図は二百年前まで大瞭という帝国のものだった。その帝国を内乱に乗じて掠め取ったのが長城の北にいた遊牧集団であるデルギニャルマの子孫達である。それ故帝国の中には圧倒的多数の大瞭の遺民と、少数ながらも皇族を構成しそれを支えるデルギニャルマの子孫が併存している。
その二つの集団の文化と制度はどちらかが一方を完全に呑み込むということもなく、せめぎ合いながらデルギニャルマが次第に大瞭風に染まるかたちで留まっていた。皇帝アルハガルガは帝国全体を一気に大瞭風に改めることによって、その状態を変えようとしているということらしい。
「どうしてそのようなことを」
「さて。しかし、二族の制度が並立する今の状態が特に政(まつりごと)の面で合理的でないのは確かですな。あとは分断の問題。帝国ができて二百年経ったにも関わらず依然として大瞭とデルギニャルマの子孫との間には溝があるわけです。或いはその辺りの解決が狙いなのかもしれません。あとは兄君のムドゥリ様とは対照的に陛下の支持層は大瞭系でしたからな。もっとも、そもそも陛下は尚武をはじめとするデルギニャルマの特質がお嫌いだというそれだけのことかもしれませんがね」
ユエランは袖を握りしめた。
「陛下のなさることは正しいのでしょうか」
「御自分でお考えなさい」
ユエランは俯く。この話、大瞭側からはともかくデルギニャルマの保守層から反発が出るのは間違いない。なにしろ自分たちが保持に汲々としてきたものが上から切り捨てられるのだから。しかし、利点があるのも確か。
「ユエラン」
ユエランは驚いて顔を上げた。
「という名前は、大瞭風の名前ですな。大瞭文字で書けば月蘭(ユエラン)とでもなるのでしょうか。あなたの名前がデルギニャルマの貴顕層へ伝わって来た時には非難囂囂でしたよ。弟君の時はさすがにデルギニャルマ風に戻しましたが、それでも徳(エルデム)だなんていう非常に大瞭的な概念を名前にした。あなた方は生まれた時からこのあたりの事情を背負い込まされとるわけですな」
「……董松、礼を言います。今日は得るものが多かった」
「礼には及びませんよ。それより前回私が申し上げたことを少しは考えてみましたか。あなたが帝位を取るつもりなら私が手伝って差し上げる」
ユエランは激高した。大きく足を一歩董松に向かって踏み出す。
「あなた! よく今まで首がつながっているものね」
董松はどこ吹く風という表情をしている。
「話す相手は選びますし、こういうことを言い始めたのは陛下の御代(みよ)になってからですよ。お父上のことをこう言って申し訳ないのですが、私は陛下が嫌いなのです」
「本当にどうして生きていられるか不思議」
董松は口の端を上向かせた。
「だって、私は陛下第一の忠臣ですもの」
「どこが」
「私の内心はともかくとして立場としてそうなのだと言っているのですよ。いいですか、この帝都にいる軍勢を預かっているのは私です。ムドゥリ様亡き今、ギン・ヘチェン一帯で私に比肩しうる武力を持つ者はいない。だから陛下も私が第一の忠臣でないと困るわけです」
「でも、あなたを罷免するのも処刑するのも陛下の意のままよ」
ユエランがそう言うと辺りに男の哄笑が響いた。ユエランはそこで今までよりもなお一層董松から異質なものを感じ取った。この男は自分達の秩序からは外れたところにいるのだと。男は目の端を拭うとユエランに再び語りかけた。
「残念ながら、そして意外なことに私は人望がありましてな。賭けてもいい。私の身に縄一つでもかかろうものなら、帝都に駐在している軍の八割は蜂起します」
ユエランは絶句した。そんなことがあり得るのか。皇帝ではなく一人の武官がそれほどまでに支持を集めるなどということが。しかし、目の前の男は恐らくこういうことで嘘はつかない。
「ムドゥリ様がいらっしゃれば話は別だったのですがね。陛下もこの事はご存知で、だから私には指一本手出しができない。帝国の命運を握っているのは陛下だが、陛下の命運を握っているのは私です。私がその気になれば何もかも覆る」
「でも、今はそうするつもりが無いのね」
ユエランは青ざめながら縋るような気持ちでそう聞いた。
「ええ。一人ではね。私には決定的に欠けているものが一つだけあるんですよ。私には武力もある、知恵もある、人望もある、そして天下を取る野心もある」
暗い片目がユエランを覗いていた。言い知れぬ雰囲気が辺りに漂う。しかし、ユエランが唾を飲み込むと、男は相好(そうごう)を崩した。
「しかし、天下を治める気はないんです。そして、取った後の天下が滅茶苦茶になるのは居心地が悪いと思うだけの理性はある。だから今は何もしません。組む相手を探しているだけでね。その気になったらいつでもお声掛けください。女帝というのも悪くない」
言い終えると男はユエランの側を通り過ぎ歩き去って行った。ユエランは男を呼び止めようとしてやめた。これ以上あちらが答えることも無いだろう。道で一人になったユエランは考える。
知れば知るほどお父様も私達も危うい。
朝になるとアリンの屋敷がある辺りはほとんど灰燼(かいじん)と化していた。家は焼け黒くなった柱だけが傾いて立ち、刀傷を負った死体が転がっている。アリンの家は石造りであったから焼失を免れたが、中は当然のように荒らされていた。
「これはひどい」
ナバタイはアリンに肩を貸しながら半ば呆然として周囲を見回す。そこで彼は壁にもたれかかっている傷ついた侍衛を見つけた。アリンと共に歩み寄る。その侍衛は肩口から胸まで斬られていたが、幸いにして傷は浅く一命をとりとめていた。
「大丈夫か、他の者は」
「死んだ者もいる。生きている者もいる。よく分からない」
そこに二人の侍衛が歩いて来た。一人がもう一人に肩を貸してほとんど引きずるような形で近付いてくる。二人の服を濡らしている血は引きずられている侍衛の血だろう。入口から入った所で侍衛はその血を流し続けている侍衛を横たえた。無事な方の侍衛はナバタイに無感動に言った。
「使用人が三人、料理人が二人死んだ。逃げ遅れたらしい」
「侍衛は」
「六人死んだ」
十人いた中の六。その数字にナバタイは慄然(りつぜん)とする。無事な侍衛はそう言ったところで横たわっている侍衛の方を見た。血は床に広がり続けている。
「……七だ」
翌日、生きている者達全員で死体を墓地へ運び出し葬儀を執り行った。全てのことがあまりに簡素だったが仕方がなかった。葬儀が終わったところで、アリンはナバタイの手を離れよろよろと墓石の前に行くと、そこで座り込んだ。少年は墓に向かって手を合わせる。
「ターナ、マンギル、ソンギナ、ユルフ、スリ、ウヘル、ハルガナ、田晃(でんこう)、丹(たん)同(どう)、趙(ちょう)策(さく)、馬端(ばたん)、李迅(りじん)、すまない」
そこでその場にいた全員に驚きが広がった。自分達とほとんど口もきかぬ皇族の子供。それが使用人や料理人に至るまで全員の名前を覚えていた。しかも、自らあのように死を悼んでくれているではないか、と。
葬儀の後、生き残った料理人二人は相談をした。なにしろ、料理長が死んでしまったので今後の方針を決める必要があったからだ。料理長にどちらがなるかという話は、年長の方がやるということであっさり決まった。ただ、二人が戸惑っていたのはアリンの件である。おかしいのだ。毒は盛り続けているのにまだ死なない。それどころか回復しつつあるではないか。皇帝陛下からはゆっくり殺せと命令を受けているのだがこのままではそれが果たせそうにない。
「別の毒を使うか」
「しかし、そんなものは用意していないぞ」
「そうだな……」
他の毒が無いということの他に、二人とも言葉にはしないがアリンに情が移ってしまった。これまで話したことも無い子供だったが、今日二人は明らかに彼のことを「知って」しまったのである。
「まあ、仕事を続けようじゃないか、いつも通り。俺達は仕事をしているのだから、何も咎められる筋合いは無いだろう」
いつも通りの毒をいつも通り盛り続ける。その方向で彼らの方針は固まった。
それから三日ばかりしてアリンが侍衛を伴って出歩いていると、広場で黒髭の男に出会った。前に弓射をした相手である。アリンと黒髭は互いを認め合うとそれぞれの無事を喜んだ。
「俺は生まれこそここだが、今は山上の方に住んでいてな、賊が来た時にはここにいなかった。無事なのも当り前さ。それよりお前はよく無事だった。……だがえらく弱っていないか」
「訳ありで。それよりあの賊は何なんだ。よく来るのか」
黒髭は腕組みをする。
「そうだ。スンジャタの周縁を荒らしまわっとる。しかし、どこから来るか分からん。賊(ぞく)巣(そう)が分からんのでスンジャタの兵も手が出せん。山裾の村が襲われて総督府が兵を出しても、賊はとっくに引き上げとる」
「なぜ普段から分駐させておかない」
「分駐させて意味があるほどの兵をスンジャタは持っておらんのよ」
アリンは眉を顰(ひそ)めた。東北辺境とはいえ、一応は総督府のある拠点にもかかわらず、賊一つどうすることもできず周縁を荒らされるまま。守ろうにもそれに足る兵力が無い。どう考えてもそもそも必要な兵が足りていない。この状況はアルハガルガが皇帝になってから始まったことではあるまい。聖なるハン(エンドゥリンゲ・ハン)と呼ばれた祖父の時代から恐らくこうなのだ。盛世の影で見捨てられていた場所がある。
「それにしてもあんたやたら詳しいな。何者だ」
そう聞くと黒髭は悄然と項垂(うなだ)れた。
「別に、ちんけな親父だよ」
物音と声がするので振り返ると、広場の近くで十人ばかりが集まって家を建て直そうとしている。
「こんなになってもまだ住もうとしている」
「そのまま逃げるのもいるがな、結局行く場所なんて無いんだ。スンジャタ全体が貧しいからな。賊が来たってここで生きていくんだよ。坊主のところはどうするんだ。ここにいるのか」
「ここにいるしかない。それにやることができた」
黒髭が目で問うと、アリンは気負いもせずにこう言った。
「奴らに一泡吹かせる」
黒髭と話した翌日、早速アリンは行動を始めた。アリンはナバタイを伴いスンジャタを東へ横切り森を抜けた。赴くのはスンジャタを囲む五つの塔の内の一本である。東の塔へ辿り着くと螺旋階段を上った。その一番上の広間には紫衣の老人メルゲンが座っている。少年は老人の前に行くと膝をついた。
「まだ薬は切れておらぬはずじゃが」
「今日はお知恵をお貸しいただきたいのです。私も含め誰一人知らず、あなたならば或いはと思って参りました」
メルゲンは目を細めた。アリンの覇道を助けるわけにはいかないが、頼られるのは嬉しい。デルギニャルマの子孫を助けるのは彼の血筋の定めるところである。
「何かの」
アリンは賊に略奪を受けた件と彼の今後の計画を話した。つまり、「奴らに一泡吹かせる」ということの具体的な中身を。それを聞いて老人は呵々と笑う。
「物騒なことを考えなさる」
「御存知ですか」
「知っておるには知っておる。しかし、面倒じゃぞ。その面倒なことをする気がおありか」
「大概のことは」
メルゲンは頷いた。
「よろしい。三つ集めるものがある。この内二つは街で手に入るからよいとして、もう一つは自分で作らねばならん。まず、土を集めるのじゃ。よいか、この土は日に当たっておっても湿っておってもいかん。その土を水に漬けて一晩おくのじゃ。それからその水を釜に入れてしばらく煮詰め、そこに灰を入れてかき混ぜる。そうしてそれを木綿で漉して釜に入れ、半分ほどになるまで煮詰めてそれを桶に移す。そうやって冷やしていると桶の内側に付いてくるものがある。それが塩硝じゃの。これを残りの二つと混ぜ合わせるわけじゃ」
確かに恐ろしく手間がかかる。途中から口を開けて説明を聞いていたナバタイはくるりとアリンに向き直った。
「アリン様、本当にこれをなさるのですか」
「こうでもしなければ、どうにもならない」
「しかし、この話、周りに住む者達の力も必要でしょう。その協力はどうやって取り付けるのです。我々はよそ者です。我々の言う事を聞いてくれるとは思いません」
少年は仰向いてため息をついた。
「甚だ醜悪な話だが、そこは俺の血筋にものを言わせることにしよう」
アリンの心は揺るがないようだった。メルゲンは少年を見て感嘆していた。この年で大人顔負けの知略と行動力を持っている。しかし、老人の胸に暗いものも去来する。少年が覇道を進もうとしているからというだけではない。彼が些かメルゲンの孫に似ているからだ。メルゲンの孫も抜群の知略と行動力を持っていた。しかし、心性邪悪。肉親の情で忍びなかったが、本来であれば殺しておくべきだった悪鬼羅刹の類である。今はどこに行ったか分からない。老人は密かに祈った。どうかせめて、アリン様と孫が出会わぬようにと。
エルデムは天文台の螺旋階段を上って行った。その先には碧眼の宣教師ルスタチオ・アルドロヴァンディがいる。ルスタチオは皇子の姿を認めると恭しくお辞儀した。
「よくぞいらっしゃいました、太子」
その太子という言葉にエルデムは身体をぴくりとさせる。ルスタチオはおや、と思った。
「どうなさいました」
エルデムは頭を振る。
「何でもない。それより、ルスタチオ、今日はお願いがあって来たんだけど」
「何ですか」
ルスタチオはかがんで目線の高さを太子のそれと合わせた。
「私は太子になったんだけど、どうしたらいいか分からなくて。でも、ちゃんと役目を果たさないといけないって思うんだ。だからもっと勉強しようと思う。ルスタチオ、正式に私の先生になってくれない? ルスタチオさえよければ陛下にお願いしてみるから」
「もちろんですとも!」
ルスタチオ・アルドロヴァンディは歓喜に打ち震えた。幼い太子に頼られたという純粋な喜びだけではない。ただの天文官から太子の教育係となる、これは布教への大きな一歩である。いずれ太子が帝位に即いた暁には本格的に布教が許されるのではないか。この宣教師はその期待にほとんど喜悦の涙を流さんがばかりだった。
「殿下が神の国をつくるお手伝いを、このルスタチオ誠心誠意させていただきます」
「? ルスタチオ、私がつくるのは神の国ではなくて人の国だよ」
「分かっております、分かっておりますとも。殿下はいつか分かってくださいます」
結局のところルスタチオ・アルドロヴァンディを太子の教育係にするという話は実らなかった。皇帝アルハガルガが許さなかったのである。皇帝は前代に引き続いて宣教師達を危険なものと捉えており、彼等に技術者以上の役割を与えることを決してしようとしなかった。よって教育係の件は却下、それどころか太子に悪影響を与えかねないとしてエルデムとルスタチオの交流は禁じられた。しかし、史上大きな責任を負うことになるこの太子は異国の宣教師の下に通い続けた。全て耳目を避けたお忍びであった。
これが帝国暦一六三二年二月のことである。
それから一年半後の帝国暦一六三三年八月、ギン・ヘチェンからスンジャタへ一人の使者がやって来た。歳は二十。名を胡(こ)仁(じん)という。胡仁はスンジャタに着いたところで薄手の上着を一枚買った。冷気が官服の下まで染みわたるからだ。東北というのは夏でもここまで寒いものなのだろうかと彼は思った。胡仁は罪人の皇族アリンが住む屋敷に向かう。その近くの広場で少年が他の子供に囲まれながら弓射をしていた。三本射て三本真中を射抜く。凄まじい腕前である。その少年は射終ると胡仁の元にやって来た。
「その身なり、ギン・ヘチェンからの使者と見受けるが違うか」
胡仁は狼狽した。一体この少年が何者なのか分からない。いや、まさかと思う。
「そうだ」
「何用だ」
「皇甥(こうせい)のアリン様に手紙と贈り物を届けに来たのだ」
そう言うと少年はにこっと笑った。
「ならば一旦屋敷に戻って聞こうか」
そこで胡仁の背に寒気が走った。まさかとは思ったがやはりそうだったのだ。叛乱企図の咎で一族族滅の中一人生き残った皇甥、アリン。アリンと胡仁、アリンを見張っていた侍衛は屋敷へ歩いて行く。胡仁は横目でアリンを見た。幼いながらも逞しく引き締まった身体をしている。おかしい。この少年は元気そのもの。本来であれば毒によってとうの昔に死んでいるはずなのだが。
今回胡仁がわざわざスンジャタへ派遣されたのは、まさしくこの奇妙な状態のせいだった。ギン・ヘチェンへ齎(もたら)されるべき訃報が届かない。胡仁はその真相を探り、そして訃報を持ち帰る任を帯びてここにやってきた。手紙などはそのついでである。
アリンは胡仁を自室へ通した。
「では、俺宛のものを貰おうか」
胡仁は素直に手紙とずっしりとした絹の包みをアリンに差し出した。アリンは絹の包みを手に取ると眉を開いた。だが、その場で開くことはせず、まずは胡仁に応対する。
「スンジャタに来たのはこれを届けるためだけか」
「は、いえ、総督府の方にも用事があります」
嘘だった。
「そうか、寝食はこちらでも用意できる。この屋敷も空き部屋が増えてしまった。好きに使うがいい」
胡仁は頭を下げると部屋を出て行った。一人になったアリンは絹の包みを開く。まず真っ先に赤い三本線が目に入って来た。やはり、そうだと胸の高鳴りを抑えながら絹を取り払うと皮の鞘に入った曲刀が現れた。かつてユエランから渡されたものである。父と共に捕縛される直前、宮殿の門番に預けてそれきりになっていた。また自分の所に帰って来ることがあろうとは思いもしなかった。手紙を開く。美しい筆跡が目に入った。
『アリン、日々あなたの無事と健康を祈ってやみません。そちらの土地は過酷でしょうがどうかご自愛ください。こちらではエルデムが太子となりました。エルデムはあの通り頼りない所がありますが、それでも太子にふさわしくなれるよう努めているようです。私の弟はいずれ立派に役目を果たすだろうと思うのですが、それは姉の贔屓(ひいき)が過ぎるでしょうか。私の方は何事もなく過ごしております。アリン、叶うならばあなたの様子が知りたい。使者に手紙を託してくださいませんか。私もエルデムも心配しています。ああ、書きたいことが沢山あります。けれどここに書くことはできません。お分かりでしょう。最後に、包みの中身は私が一年以上前に宮中から取り返してきたもの。本来の持ち主にお返しするべく送りました。あなたのお役に立てればと思います。ユエラン』
アリンは読み終えると手紙を額にあてた。
「ユエラン……エルデム……」
胡仁の方は厨房に顔を出していた。料理人二人がせわしく働いている。「お前達に話がある」と胡仁が彼等に言っても、料理人達の手が止まることはなかったが、「俺は皇帝陛下の使いだ」と言うと二人は鍋を置いて胡仁の方を見た。
「どういうことだ。お前達は毒を盛っているのではないのか。なぜあの方はまだ生きておられるのだ」
料理人達は互いの顔を見合わせ、一人が口を開いた。
「毒は盛り続けているのです。一旦は効いて随分と衰弱しておいででした。けれどそれから次第にお元気になられて。どうも毒が効いていないようなのです。私共は他の毒も持っておりませんし、どうしようもなく」
胡仁は唸った。
「ならばそれはそれで、こちらに報告するべきではないか。まあいい。ここからは俺に任せろ」
アリンを殺す。胡仁はそのための方策を練り始めた。
「召喚? 俺を?」
蠟燭の灯りに照らされる部屋の中、胡仁はアリンに向かって頷いた。
「そうです、スンジャタ総督府がアリン様にご足労願いたいと」
「では明日行こうか」
「いえ、今日今すぐです」
アリンは窓の外をちらりと見た。
「もう夜だが」
「それでも来ていただくようにと」
結局アリンは釈然としていなかったが、胡仁と侍衛を連れて山上の総督府まで登っていくことになった。胡仁は総督府に出向く途中で賊に襲われたことにしようと考えていた。侍衛には皇帝陛下の命だと口止めをすればいい。凶刃が閃いたのは山の中腹でのことである。
胡仁は懐に忍ばせていた小刀でアリンの背後から襲い掛かった。しかし、もう少しでその小刀がアリンの背中に突き刺さるかという所で、アリンは身を翻し、その勢いそのままに胡仁の鳩尾(みぞおち)に拳を叩き込んだ。崩れ落ちる胡仁の腕を取り捻り上げ背中側に押し込むと、胡仁は悲鳴を上げた。
「お粗末なことだな。言い分を聞こうか」
空にかかる大きな月を背景にして、黒い瞳をした少年が胡仁を見下ろしていた。
「っ、言いません……!」
アリンは捻り上げた胡仁の腕をさらに背中側に押し込んだ。苦悶の声が上がる。胡仁は苦し紛れに付いて来ていた侍衛に向かって叫んだ。
「お前、この方を斬れ! 皇帝陛下の命令だ」
侍衛は動かない。それどころかため息をついた。
「アリン様、腕を離してやってください。もう吐いたようなものではありませんか」
アリンが腕を離すと胡仁はよろよろと立ち上がり、侍衛を指差した。
「何故だ、陛下の命令だぞ。何故それを聞かない」
「命令を聞く聞かないの話ではない。俺とお前が束になってもこの方には敵わない」
胡仁は呆気に取られている。その間にもアリンは素知らぬ顔して山を下り始めていた。殺すまで帰って来るなと言われているのだが、もうどうしてよいか胡仁には分からなかった。
賊襲があったのはその三日後のことである。
冷夏の白昼堂々、五十騎の賊群はスンジャタ周縁の一点を目指し駆けていた。収穫後でもない時期。それにも関わらず賊が掠奪に向けて駆けているのは選択の余地が無かったからだ。有り体に言えば、スンジャタを掠奪して回る彼ら自身の窮乏も甚だしかったのである。そもそもスンジャタ自体がさしてうまみのある場所でない上に、例年より寒冷な気候によって貯えの量を減らしていた。白昼を選んだのは掠奪物を取り逃さないためだ。危険は危険だが、スンジャタ周縁部には別に兵士が駐在しているでもなく、いるのは鋤や鍬ですら戦えない無力な住民だけだから、特に問題は無いはずだった。
掠奪地が近付いてくると、鐘の音が鳴り響いていた。いつの間にか物見櫓を立てていたらしい。住民に逃げるよう促しているのだろう。実際賊が櫓の側を駆け抜けると一散に家の陰へ逃れていく住民の姿が見えた。しかし、一つ奇怪だったのは彼等が壺をいくつか地面に置いて行ったことである。賊の先頭のものはその壺の側に馬を止めて一体それが何か見てみた。壺の口は固められており、何か芯のようなものが出ている。そしてその芯にはジリジリと火がついていた。賊の他の者も駆け寄って来る。
「何だと思う」
その内、一人が顔色を変えた。
「まずい、逃げ――」
彼の叫びは致命的に遅かった。次の瞬間には爆音と破裂音が上がり、最も近くにいた者二三人を巻き込む爆発があった。爆風と共に壺の破片が四方に飛び散る。その音と光景に人馬共に混乱状態に陥った。「違う」。彼等の見込みからも目論見からもこの状況は違っていた。そこに上の方から矢が飛んでくる。慌てた賊が立ち上る白煙の奥を見れば、家の屋根の上から矢を射かける人影が四つあった。すかさず、賊の中で弓を持ったものが応戦するが、屋根の上の人影はその反撃者達を優先的に射殺していく。
「おい、あいつらをどうにかするぞ」
悲鳴にも似た声がどこかから上がった。賊は恐慌状態に陥りながらもその声に従って家の周りに集まった。すると屋根の上の人間が何かを賊達に向かって放り投げ全員伏せた。落ちてきたのは、壺だった。再度爆発。そこで、賊達の心を圧倒的な恐れが占めた。彼等の心は完全に折れたのである。賊は互いに声を掛け合うことすらせずに、逃走を始めた。その時にも弓矢による容赦のない追撃がかかる。
その時四人の背後からよじ登って来るものがあった。賊の一人で自分の命よりも復讐を選ぶ類の男だった。男は四人の内もっとも小さな相手に向かって大上段に鉈を振り下ろす。しかし相手はくるりと身を翻してそれをよけるとそのまま腰に佩いていた曲刀で男の胴を真っ二つにした。二つになった男は血を吹き出しながら屋根の下に落ちる。
「まるで冗談のような切れ味ですな」
側にいた白髭の男は少年に向かって言った。少年は笑む。
「なにせ送り主が違う」
他の賊は完全に逃げたらしい。逃げた賊が見えなくなった時には、賊の骸(むくろ)が三十ばかり打ち捨てられていた。小さな黒髪の少年アリンはそれを冷徹に見下ろしながら呟く。
「思ったより逃したが上々だろう」
隣にいた白髭の男ナバタイは屋根から下を見下ろした。
「この家の主には詫びねばなりませんな。火薬のせいで家が壊れてしまった」
確かに家には穴が開き外から中が見えてしまっている。アリン達が壺に詰めたものは硫黄と炭と住人総出で手作りした塩硝の混合物、いわゆる黒色火薬であった。
アリンはナバタイの言葉に頷くと、屋根の端まで行ってそこから軽やかに地面へ着地した。アリンの周りには逃げていた住民が集まって来る。アリンは彼等を見回した。
「皆よくぞやってくれた。皆の力が無ければこの勝利は無かっただろう。これは皆の勝利だ!」
勝利。火薬で武装した住人のいる所に最早賊は来ないだろう。賊を逃がしたのだとしても、ここに二度と来るまいと思わせられたのならばそれは大勝利なのだった。そしてアリンの言う通りこの勝利をもたらしたのは住人の協力であった。しかし、最も称えられるべきはやはりこの戦法を思い付き指揮を執った者。周囲の誰からともなくアリンに対して「勇者(バートル)」と称賛の声が上がる。かくして防衛戦は終わった。
その翌日、アリンが自室で本を読んでいると侍衛が入口に立った。
「アリン様、スンジャタ総督がお目通り願いたいと門の前まで来ております」
アリンは本を閉じた。少し思案する。
「分かった、出よう。悪いが胡仁を見つけてきて物陰で俺達の会話を聞くように言ってくれないか」
「承知しました」
侍衛はその奇妙な注文について尋ねることをせずに胡仁を探しに行った。アリンが門の前に行くと立派な官服を着た男が跪いていた。
「顔を上げろ。仮にも総督が俺にそのようなことをする必要は無い」
総督が顔を上げると、それはいつぞやの黒髭の男だった。
「お前……総督だったのか」
「はい、お恥ずかしい限りございます。この身総督の地位にありながらこれまで賊に対し為す術ものうございました。それを今回あなた様が指揮を執られ見事賊を退散させたとのこと。あなた様の御正体もお聞きしました。これまでの御無礼の段どうかお許しください」
「やめろ、やめろ。そんなにかしこまって話すな。俺とお前は一緒に弓を射た仲じゃないか」
「そうも参りません。ところで、お礼をさせていただきとうございます。ここよりも総督府の近くにお移りになりませんか。お屋敷も整えますゆえ」
「いらん。生憎ここをそれなりに気に入っている。そんなことより、礼と言うなら一つ聞いてもらいたいことがある」
「何でございましょう」
「これまで通り話してもらいたい」
黒髭は目をぱちくりさせた。思ってもみなかった要求だった。
「できないと言うか」
「いえ……」
「そう言えば聞いていなかった、お前名前は」
そこで黒髭は遂に観念した。アリンに向かって太い笑みを漏らす。
「ナシン。俺の名前はナシン」
「なるほど熊(ナシン)か。らしい名前だ。既に聞いているかもしれないが俺の名前はアリン」
アリンも笑っていた。実の所、幸か不幸か皇族として育ったこの少年にとって、友人らしい人間はこの男が初めてだったのである。そしてこの二人の様子をギン・ヘチェンからの使者胡仁はただ物陰に隠れて見ていた。彼はどうして自分がこうしていなければならないのか分からなかった。けれども、彼の疑問は間もなくして氷解した。
アリンがナシンを置いて、物陰に隠れている胡仁の元にやって来た。少年は胡仁を見下ろし、何気なくその言葉を口にした。
「死んだことにしてやってもいい」
「は?」
「総督にお前は死んだと伝えてやってもいい」
胡仁には訳が分からなかった。
「どうしてそんなことを」
「俺を殺すまで帰って来るなと言われているのだろう。ならばお前が選べる道は二つ。死んだことにしてここで暮らすか、勅命に背いて帰るかだ」
胡仁は絶句しつつなるほどと思った。胡仁にアリンを殺す手立てが見つからない以上、アリンの言う通り選択肢は二つしか無い。どちらがましか微妙な所だ。しかし。
「私はギン・ヘチェンに親がいます。私が死んだことになれば両親は悲しむでしょう」
「そうか、残念だな」
胡仁はまじまじと少年の顔を見た。あまりにも短い出会い。年齢に明らかに不相応な武術と知略、それが少年を胡仁に異様なものとして見せていた。しかし、人間として見ればこの少年にも情のようなものがあるのではないか。この少年がどう育つのか見てみたいと胡仁は思った。行き着く先は王者か、或いは――。
「私も残念に思います」
翌日、胡仁はスンジャタを去って行った。結果としてギン・ヘチェンに帰った胡仁が罰を受けることは無かった。吉事が迫っていたからである。それは即ち皇女ユエランの結婚であった。
「お前にはすまないと思っている」
この帝国の絶対的な主からのその言葉に、皇女ユエランは思わず顔を上げた。ユエランと父である皇帝アルハガルガは、宮中における皇帝の私生活のために設えられた一室で向き合っていた。
「ユエラン」
アルハガルガは娘の頬に手を伸ばした。愛しくその玉の肌に触れる。透き通る大きな黒い瞳。薄桃の唇。黒檀の長い巻き毛。十五の乙女はあまりにも可憐だった。ユエランは伸ばされたその手に自らの手を重ねる。
「陛下」
「よせ」
「お父様、どうかすまないだなどと仰らないでください。私は皇女。こうなることは初めから分かっていたことです」
「しかし、それにしても相手は選んでやりたかった」
父の無念。ユエランは首を振る代わりに一度目を閉じ、否と示す。
「お父様はお父様のなすべきことを。私はお父様のお手伝いができるなら本望です。どうか離れ離れになっても覚えておいてください。私は何があろうともお父様の味方です」
数日後ギン・ヘチェン守備を司る隻眼の男は慣れない吉服に身を包んで自らの屋敷を歩いていた。片目が暗い光を放つ。可哀想に、とこの武人にしては珍しくそんなことを思った。三十も違う。皇女が政略結婚に使われるのは珍しいことでも何でもない。しかし、なにも俺のような男に。
皇帝陛下は俺のような男を抱えていることが余程不安だったらしい。一番の愛娘を自分に嫁がせた。
董松は廊下の突き当りまで行くと目の前にある扉を開けた。中は蠟燭の明かりに照らされて、香が焚き染められていた。彼は無風流な男なのでそれに顔をしかめる。奥にある寝台には一人の少女が座っていた。頭から紅の覆いを被っているので顔は見えない。董松は彼女に近付くとその覆いを取り払った。
その幾度か董松と言葉を交えた少女は、董松をキッと睨みつけていた。
「怖い怖い。お嫁さんはそんな顔をするもんじゃありませんよ」
董松はそう言いながら、彼女が泣いていなかったことに心の底から安堵した。
「ユエラン、もう私はそうお呼びする。いいですね」
「好きになさい」
男は苦笑いすると彼女の横に腰掛けた。
「ユエラン、この結婚の話はね、二年前あなたのお父上が帝位に即かれた直後にもう出ていた。私を朝政殿に呼び、他の者は全て下がらせた上で、陛下は私にこの話を持ち出したのです」
ユエランは男の顔を見る。
「だから、私があなたの部屋を訪ねた時は、もう陛下のお墨付きがでていたわけです。私はあの後また陛下にお会いして、十三ではあんまり哀れだから、せめて十五まで待ったらいかがですと言った。十三でも十五でもさして変わらん気もしますがね」
「全部分かってて私と話していたのね」
「ええ。中々骨でしたよ。ユエラン、あなたは自分の生まれを恨みますか」
「いいえ」
「そう? 私は恨みましたよ。それなりに年がいくまで私は恨みと憎しみに取り憑かれていました」
大きな瞳が吸い込むように董松を見つめていた。この状況はさておき興味はあるらしい。董松は一つ頷いた。
「今日私は休みを頂いているのでね、暇です。一つ昔話をして差し上げましょう。私は叩き上げの武官。あなたの年の頃には一兵卒として西北へ戦いに行っていました。それでね、そこそこ運もよかったのでしょう。いくつか武勲をあげた。するすると昇進しましてね。けれどあるところでピタリとそれが止まった。そこから上にはいけなかったんですよ。どうしてだと思います?」
「あなたはデルギニャルマではないから」
「その通り。私は恨みましたよ、自らの出自を。私にはどうにもならないことで、私の行き着く先が違ってしまう。それを私は激しく憎悪しました」
「でも、今はギン・ヘチェンの守備。この帝国一の武官。それはなぜ」
「ムドゥリ様ですよ。ムドゥリ様が私を拾い上げてくださった。大行(さきの)皇帝陛下を説得してね。まさしく数百年来の秩序の打破でした。別にデルギニャルマと大瞭の隔てを無くそうというのはあなたのお父上だけがなさろうとしていたことではない。もちろん方向性は違いますがね。ムドゥリ様はデルギニャルマの文化を残したままそれをなさろうとした。やはり私はそちらの方が好きだな。こんな日にお父上を批判して申し訳ないですがね」
ユエランは思う。しかしこの男はそのムドゥリ親子を縄にかけたはずだと。ユエランの疑問に気が付いたのか男は続きを話した。
「ムドゥリ様達がアザン・バリとの戦いからギン・ヘチェンへ帰ってきた日、私は守備兵たちを率いて城の外に陣を敷いていた。ムドゥリ様達に叛意があるならそのまま中に入れるわけにはいかない……というのは表向きの理由。本当はね私はムドゥリ様と叛乱を起こそうとした」
この男ならやりかねないこと。しかしそれでもユエランは驚いた。
「私はムドゥリ様に玉座をお取りなさいと言った。簡単だったはずですよ。私とムドゥリ様ならそのくらい半日もかからない。でも結果はご存知の通りです。断られました。それで勅命だからああした。けれど本当はあの人を殺したくはなかった。お父上のことは昔から好きではありませんでしたが、はっきりと嫌いになりました」
「逆賊」
「違いない」
董松はユエランの頬に触れた。柔らかい肌をがさついた武骨な手が撫でる。
「あなたは皇帝陛下第一の愛娘。私は未だ叛していないだけの大逆賊。望まぬ結婚でもこうなってしまっては仕方がない。お互い仲良くやりましょうや」
男は少女の唇を強引に奪った。
当人同士がどのように思っていようとも、この結婚は帝国にとっての大慶事。しかし、その慶事も間もなくしてかき曇る。加えて東北にいるアリンの元へ再び刺客が派遣されるようなことも無くなった。全くもってそれどころではなくなったからである。その朝廷を大混乱に陥れた出来事とは、前(さき)にアリン達が討伐したアザン・バリ部の再攻であった。
「ルスタチオ」
深更、エルデムは密かに宮中にある小部屋の一つに入り、小声で宣教師の名を呼んだ。その声に応じて、物陰から手燭を持った碧眼の男が姿を現す。
「こちらです」
ここはもはや宮中の行事で稀にしか用いられなくなった物品を収める倉庫であり、それでも本来掃除されるべきものを担当する官の怠慢によって埃まみれのままにされている。エルデムとルスタチオはここの古ぼけた踏み台を椅子代わりとして、太子と宣教師という立場、そして教えられる学問の華やかさに似つかわしからぬ場所で密会と講義を重ねていた。
「ルスタチオ、私は二か月後に初陣に出ることが決まった」
青い目が大きく見開かれる。
「そんな、殿下はまだ十二でいらっしゃるではありませんか。なのに戦に出るなど」
「決まったことだよ。このアザン・バリとの戦いはギン・ヘチェンと西城、南城の合同作戦になる。この三つの都市の軍隊を纏めて士気を上げる人が必要なんだ。本当は陛下の親征がよいのかもしれないけど、陛下はお身体に障りがあるから私が行く」
ルスタチオは彼にとっての凶報に首を振る。
「無茶です。しかし、それで得心がいきました。昔私の兄弟子が南城にいると申し上げたことを覚えていらっしゃいますか。ベルトランド・シモーニという男です。彼から二か月後ギン・ヘチェンに来るという便りが来ました。恐らく南城の軍隊と共にこちらへ来るのでしょう」
「どうして宣教師が軍隊に付いてやって来るの?」
「彼は私達の国で発明されたあるものを南城で作っていました。それが戦でも使える程になったと手紙には書いてあります。恐らく陛下にお披露目するのでしょう」
エルデムは寒気を覚えた。昔ルスタチオは南城で恐ろしいものを作っていると言っていた。恐らくそれのことだろう。
「それは何」
「この国にそれを表わす言葉はまだありません。けれど訳すならば恐らく鉄砲と」
「鉄砲……」
「ああ、殿下に神の御加護がありますように」
「私にはやはり今一つ神というものが分からないのだけど、本当に私達を守ってくださるの?」
「はい、いずれ分かります。祈りましょう」
ルスタチオとエルデムはそれぞれ指と指を組み合わせた。
「 阿們(アーメン)」
二ヶ月後、西城、南城の軍勢は帝都ギン・ヘチェンに集結し、南城にいた宣教師ベルトランド・シモーニの元で開発された鉄砲のお披露目も皇帝の御前でなされた。エルデムの初陣は迫っている。初陣の五日前、エルデムが宮中を歩いていると一人の男に出会った。男は茶色の頭髪と口髭を蓄えている。エルデムは彼のことを覚えていた。皇帝の御前で鉄砲を披露した時に、前でその素晴らしさについて滔々と喋っていた男だ。男はエルデムに気付くと深々と頭を下げた。
「これは太子殿下ご機嫌麗しゅう」
「顔を上げてください。あなたがベルトランド・シモーニですね」
エルデムはその茶髪の宣教師に興味があった。なぜなら彼はルスタチオの兄弟子だというし、彼の作った鉄砲はエルデムのみならず、見物していた将吏皆を驚かせるものであったから。
「はい。覚えていただき光栄です。殿下はお披露目にいらっしゃいましたね。いかがでしたか、我々が作ったものは」
鉄砲。エルデムは思い出す。聞いたことも無い大きな音と、そして射抜かれた遠くの的を。あれが人に向けて放たれることになる。
「すごいと思いました。私達の戦い方は変わるでしょう。けれど……」
「けれど?」
「怖いとも思いました」
あまりにも率直な言葉だった。宣教師はその茶色の瞳で笑った。
「殿下は幼くていらっしゃる。そうも言っていられなくなりますよ。殿下だってあれを使うのですから」
「ルスタチオも恐ろしいと言いました」
「あれは半端者ですから。私達は布教のために信用を取り付ける必要がある。あなたがたも新しい兵器を手に入れる必要がある。それだけの話なのですよ」
エルデムはベルトランドを見上げた。ルスタチオと同じ海の彼方から来た宣教師。けれど彼とは違うと思った。どこか嫌な感じがする。
「私は人殺しの道具は嫌いです」
エルデムがそう言うとベルトランドは腰を屈めて彼の顔をエルデムのそれに近付けた。茶色の目が輝く。
「しかし太子ということはいずれ皇帝になられるのでしょう。その時殿下はもっと人を殺すものを望み必要とするようになります。必ずそうなります」
それはまさしく呪いだった。エルデムははっきりとこの男を厭わしく思った。
「……私は行かねばならない」
茶髪の宣教師は幼い太子を見下ろして目を細めた。
「私も行きましょう。あの音に馬を慣れさせなければ」
ベルトランド・シモーニは深々と頭を下げ去って行った。彼の後姿を見送り、エルデムはルスタチオから聞いた物語を思い出した。その物語にあの宣教師にそっくりなものが出て来る。悪魔。
それから自室に戻る途中、エルデムはギン・ヘチェン守備の董松に出くわした。
「義兄上」
エルデムにそう呼ばれて董松は口をひん曲げた。
「やめてください、こそばゆい。元の通り董松と。出陣の用意はお済みですか」
「概ね。董松、一つ尋ねたいことがあるのです」
董松はかつて父の打倒をそそのかしてきた相手。しかし幼いエルデムはどこか彼に気を許していた。姉と結婚した相手でもあるし、董松には危うさと共に懐の深さがあったので。或いは彼のありえない人望もその辺りに理由があるのかもしれない。
「なんです」
エルデムは周囲に視線をめぐらせる。近くには誰もいない。しかしそれでも一歩距離をつめた。
「董松は初陣の時不安でしたか」
ああ、と董松は破顔した。この太子は可愛らしい。そしてこの可愛らしい太子が十二で戦に出て行くことを哀れにも思った。董松は膝をついて太子と目線の高さを合わせる。
「私が初陣したのは太子よりも幾分年上の頃でしたがね、不安でしたよ。一晩中ガタガタ震えていました」
エルデムはふふふと笑う。いくら若かりし頃とは言え、この武将に限ってそんなことはあるまい。
「それはさすがに嘘ですね」
「ばれましたか。しかし不安に思わなかったかと問われれば、私は否と答えましょう。もう少し若ければ否定したかもしれませんが、この年になるとその辺りどうでもよくなるものです」
エルデムは僅かに下の方を見て安心したように笑った。
「董松でもそうなら仕方がありませんね」
少年は少し迷うような顔をして再び口を開いた。
「もう一つ、情けない質問をしてもよいですか」
「どうぞ」
「私にはアリンという従兄がいます。アリンは本当に私が見ても信じられないくらい武も智も兼ね備えた子で、傑物というのはああいう子のことを言うんだろうと思います。実際十歳の時の初陣でも大功をあげたとか。でも、私はそうじゃない。何にもできないし、何も分からない。私は一体どうすればいいのでしょう」
太子が発するにはあまりに情けない、しかし当然の疑問。董松はそれに間髪入れず答える。
「誰もあなたに将としての知略や、士としての武勇を期待してはいない。それはあるにこしたことはないが、本来あなたには必要の無いものです」
「では私は何を」
「それは私が答えるわけには参りませんな。あなたはあなたの王道を探さなければ」
エルデムはしばし考え込み、やがて董松の目をしっかり見た。
「はい」
董松はほっと息をつくと立ち上がった。
「では私は参ります」
そうして歩き去ろうとしたところで董松は振り返った。
「殿下」
エルデムも振り返る。
「え?」
「お行きなさい(グヌ)、天命があなたを導きます(アブカイヘセシムベヤルミ)」
エルデムは董松がデルギニャルマの言葉を口にしたことに驚きつつ、にっこりとした。
「ありがとう(バニハ)」
未だ夜も明けきらぬ頃、西城、南城、ギン・ヘチェンの軍勢は西北アザン・バリの夏営地に向けて出発した。帝国暦一六三四年五月のことである。先頭には征狄(せいてき)大将軍の厳(いか)めしい肩書を持った皇子エルデムが馬で往く。その左隣にはエルデムの替えの馬を引く従者、右隣には白志という南城から来た巨漢の将軍が付き従っていた。白志は肩書としては副将、実質としてはこの戦の総大将であった。
白志はエルデムに馬を寄せる。
「失礼ながら不安でござられるか」
少年は首を振る。
「いいえ」
「ははは、殿下はお強い。なに、心配はいりませぬ。此度(こたび)の戦、指揮を執るのはこの白志です。殿下は大船に乗ったつもりでいてください。アザン・バリと合戦になりましたら、殿下は後ろへお下がりを」
「それはできないよ、白志。私は前にいなきゃ」
「いいえ、駄目です。殿下には傷一つつけられません。本当の指揮官は私です。私のお願いは聞いていただかねば」
十二歳の少年エルデムは、これまで白志のような巨漢の武人と一対一で交渉する経験など持ち合わせていなかった。気後れするところが無いとは言えない。
「……分かった」
白志は頷き、馬をエルデムの馬から離した。エルデムは密かに溜息をつく。彼は自分の返答を後悔していた。アリンならどうしただろうかと思った。きっと譲らなかっただろう。三城連合四十万の兵を率いながらエルデムは心細い。この戦いにアリンと一緒に出られたならどれほどよかっただろうか。そして今彼はどうしているのだろう。
そんなことを考えていると知らず知らずの内に顔が曇っていたらしい。従者が声を掛けてきた。
「殿下、どうなさいました」
エルデムは慌てて気を引き締める。
「何でもないよ」
「それならようございました」
従者はかなり若い。二十を少し出るくらいか。周りにいる人間に比べれば年が近いのでエルデムは少し親しみを感じた。
「そういえば、名前を聞いてなかった。あなた名前は?」
「胡仁といいます」
エルデムは息を呑んだ。
「あなた、ひょっとしてスンジャタにいるアリンの所へお使いに行っていた人じゃない?」
「はい、そうです」
「話を聞かせて。アリンはどうしていたの」
胡仁はエルデムに語った。もちろんアリンを殺そうとしたことは秘したが、彼が元気であったこと、そして火薬を使って賊を撃退したことなどをまるで目の前にその光景が広がるように雄弁に語った。エルデムは聞き終えてほっと息をつく。
「やっぱりアリンはすごい」
「私もそう思います」
エルデムと胡仁は互いに笑い合った。
「これからもアリンの話を聞かせてね。道のりは長いから」
胡仁と話し終えると少年ははるか東の方を見やった。遠く地平線の向こうで白く輝く太陽が昇りつつある。このアザン・バリとの戦い、万全を期しているとはいえ、危険には違いない。しかし、間違っても死ぬわけにはいかなかった。
アリンに再び会うまでは。
六月に入り、エルデム達は天下第十関を通り長城を越えた。長城以北はかつてエルデム達の父祖デルギニャルマが駆けていた場所だが、西北の遊牧民アザン・バリに奪取され、三年前に行われたアリン達による討伐の後もその趨勢は変わらない。アリンの手により酋長ジバを失ったアザン・バリは、その息子ジバツェリンのもと周辺にいた他部族も糾合して再興し、長城を越えんと帝国に攻撃をしかけていた。この作戦はアザン・バリの夏営地まで遠征し、今度こそ完膚なきまでにその遊牧集団を叩こうというものである。
「ジバツェリンはいくつくらいなんだろう。ひょっとして私と同じくらいだったりするのかな」
荒野を行きながらエルデムはそう胡仁に語りかけた。
「殿下はいくつにおなりですか」
「三日前に十三になったよ」
「前にジバツェリンを見たことがある者の情報では、殿下よりは少しだけ年上のようです。しかし、このような忠告まがいのことを申し上げるのは恐れ多いのですが、あまり敵がいくつかなどということを考えてはなりませぬ。敵は敵ですから」
「うん」
でも向こうも人だからねとエルデムは心の中で言った。エルデムは辺りを見回す。草木もまばらな荒野。
「ここが私達の御先祖様の土地だと言うけれど寂しい所だ」
「アザン・バリの夏営地に近付けば幾分緑も多くなります」
「ねえ、胡仁はなんで私達の御先祖が東の人(デルギニャルマ)と呼ばれるか知っている?」
「いえ、存じ上げません。私は大瞭の後裔ですから、あまりデルギニャルマの歴史には詳しくないのです」
「うん、私も知らないんだ。情けないことにね。今まで考えもしなかったんだけど、そういえばここって別にギン・ヘチェンから見て東でもなんでもないよね」
要はそういった話をエルデムと胡仁が延々とし続けられるほどには、ここまでの行程は順調だった。それに天候もエルデム達に味方している。長城を出てから今に至るまで晴れ続けていたので行軍に支障が無かった。
「ああ、これは良い。この浅さならば渡れますぞ。近道ができます」
副将白志は目の前に流れる幅広の川を指差した。確かに水かさが大分減って徒歩でも十分渡れる水深になっている。
「この川はムドゥリ川と言います」
白志は川を渡りながらエルデムに語りかけた。
「ムドゥリというと私の伯父上の名前だ」
大罪人についてエルデムが触れたので些か顔をしかめながら白志は話を続ける。
「確かデルギニャルマの言葉で竜という意味でしたな。その名の通りこの川は本来暴れ竜なのです。雨が降ると随分と水かさが増えて流れが速くなります。もしこれから先雨が降るようなことがあったら迂回しましょう。危険ですから」
それから一日行軍し、大平原を進んでいた時、地平線の向こうに黒い軍勢が見えた。哨兵が白志の元まで報告にやってくる。
「数はおよそ二十万です」
白志はその軍勢を見据える。
「二十万ということは、アザン・バリの本隊か」
「恐らくは」
白志は頷く。
「よかろう。鉄砲兵と歩兵は中央。騎兵は両翼だ。……殿下はお下がりください。後は私にお任せを」
エルデムは馬首をめぐらせた。
「御武運を」
アザン・バリと帝国の戦いは太陽が中空を過(よぎ)るころ始まった。アザン・バリの騎兵が歩兵中心の帝国軍を蹂躙するべく朦々と土煙を上げて突撃してくる。それを帝国側の将兵は固唾を飲んで待ち構えた。そしてあと幾ばくも無くしてアザン・バリの蹄が帝国軍にかかるというところで、白志の号令がかかった。
「撃て‼」
アザン・バリの騎兵に向けて、その最新兵器は火を噴いた。耳を聾する銃声が響く。アザン・バリはその弾丸を受けて、そしてその音に人馬共に恐慌して乱れた。その乱れた敵に対し、鉄砲の第二射と共に弓を射かけ、両翼の騎兵を展開させて包囲を仕掛ける。そこから白志を先頭に歩兵の突撃が行われた。結果は四十万対二十万の戦いで帝国軍がほぼ完勝した。
エルデムはその一部始終を陣の後ろから見ていた。なんと鮮やかな戦いだったことだろう。それは白志の力量でもあり、そして新しい兵器鉄砲の力でもあった。エルデムはベルトランド・シモーニの言葉を思い出す。
――殿下はもっと人を殺すものを望み必要とするようになります。必ずそうなります。
あり得ないと思っていた。しかし、こうまで鮮やかに勝ち、味方の損害も抑えられるのを見てしまったからには、或いは自分もあの宣教師が予言した通りになるのではないか。エルデムは身震いした。
白志の元に他の将軍たちが集まって来る。白志は彼等に言った。
「目的は達した。これよりギン・ヘチェンに帰還する」
再びエルデムと従者の胡仁、副将の白志を先頭にして、帝国軍は悠々と撤退を始めた。平原に軍勢の長い列が伸びる。白志は少しばかり大勝に酔いながら、はてと思った。アザン・バリの本隊と戦ったはずだが、そういえば最初から最後までジバツェリンの居所を示す紅い旗を見なかった。
顔に入れ墨し、長い頭髪を三つ編みにまとめた青年は小高い丘の上で疾駆する馬を止め、平原に伸びる四十万の帝国軍を見はるかした。帝国軍は臨戦態勢も取らずに東南に去って行く。もはや脅威は無いと思っているらしい。視線を平原の片隅に移すと大地を血で濡らすアザン・バリ二十万の死体があった。青年は舌打ちをする。
「左賢王め、愚かな。俺を待てと散々言っただろう」
青年の両脇に紅い旗を持った騎兵が追いついた。少し遅れて四十万の騎兵が青年の背後に到着する。実のところ白志達が戦ったのはアザン・バリの左翼に過ぎなかった。本隊は今この青年が率いている。青年は四十万の騎兵に号令を発した。
「駆けろ、我が同胞(はらから)。大地を奴らの血で染めろ」
言い終えると青年ジバツェリンは彼の軍勢と共に帝国軍の無防備な後尾に向けて嵐のように駆け始めた。
あり得ない筈の四十万の大軍勢が小高い丘の上から下って急速に帝国軍へ迫って来た。先頭には紅旗がはためいている。
白志は気付いた。自分達は決定的にアザン・バリの総数を見誤っていたのだと。あまりにも迂闊だった。巨漢の将軍は壊滅を直感する。
「駆けろ、振り返るな進め!」
そう白志は騎兵に指示した。
「そんな、あの人達を見殺しにするのですか」
エルデムは白志に向かって思わず声を上げる。騎兵達ならば逃げ切れるかもしれない。しかし、これでは歩兵や輜重部隊は全滅だろう。それに対し白志は怒声を放つ。
「それ以外にない!」
帝国軍の隊列は長く伸びていた。再び陣を展開させようにも到底間に合わない。白志の言う通り、事ここに至っては騎兵だけ逃がすのが最も被害を少なくする方法だった。エルデムにもそれは分かる。エルデムは胸に強い痛みを覚えながら後ろを振り返った。あの人達が全部死ぬ。エルデムは傍らに立っていた胡仁を見た。
「胡仁、私の替えの馬に乗って」
「そんな、殿下の御馬に」
「構わない。私はあなただけでも救いたい」
胡仁は引いていたエルデムの替えの馬に跨る。エルデム、白志を先頭にして騎兵は駆け始めた。アザン・バリは帝国軍の後尾を食い尽くしつつ、騎兵達にも追撃をしかけてくる。帝国軍にとってそれは決死の逃走だった。半刻(はんとき)ばかり駆けると騎兵の後尾で脱落しアザン・バリの餌食になる者が出てくる。エルデムは馬で駆けながらも恐怖で自分の心臓が大きく脈打つのを聞いた。しかし、彼は決意した。
「白志、私が殿(しんがり)をやる」
「馬鹿な! 気でも狂われたか‼」
殿ということは部隊の最後尾につくということである。
「私は正気だよ。この長い逃走を支えるには部隊の後ろでみんなを鼓舞する人がいなくちゃいけない。それは太子である私がするべきだ」
「断じて許せません! あなたは一番先に逃れるべきお方です」
「白志!」
太子の叫びに巨漢の武人は一瞬怯んだ。どこか聞き捨てられない迫力があったのだ。
「忘れるな、征狄大将軍を以って任じられたのはこの私。お前は副将だ。私に従わぬならば軍律により斬る‼ お前はこのまま先頭を走り導け!」
「殿下!」
言い終えるとエルデムは騎兵の最後尾に向けて疾走を始めた。胡仁も馬首を巡らし、エルデムの後ろにぴたりと付く。固より胡仁はこの主人を一人で行かせるつもりはなかった。
エルデムが殿についてから一時間、脱落するものはいない。しかし、空がかき曇り激しい雨が降り始めた。白志は呻く。この先にはムドゥリ川がある。この雨では増水するだろう。果たして渡れるかどうか。だが、迂回している余裕は無い。
「南無三……!」
ムドゥリ川に近付いた頃、後ろでは次第にアザン・バリに距離を詰められていた。盛んに矢が飛んでくる。しかし、それが殿のエルデムに当たることは無い。なぜならば、
「申し訳ございません、殿下。お別れです」
「! 胡仁⁉」
エルデムの盾になるかのようにその真後ろを走っていた胡仁の背中には、十数本の矢が肺腑に至るまで刺さっていた。血が胡仁の口から溢れ出す。胡仁はグラリと傾き落馬した。
「胡仁‼」
胡仁の身体を激しい雨が打った。馬から落ちた彼は土の上で薄れゆく意識の中後悔していた。自分はあのままスンジャタにいるべきではなかったのかと。死ぬことが恐ろしく口惜しい。しかしこうも思った。このままエルデム様が逃げ切れるならば、自分の選択にも何か意味があるのではないか――。
胡仁はアザン・バリの蹄の音を間近に聞きながら事切れた。
部隊の先頭で、白志は信じられない思いでいた。ムドゥリ川が大雨にも関わらずまるで増水していない。
「渡れー! 渡れー!」
しかし、と川を渡り切った白志は振り返る。全く増水していないということは上流のどこかで増えた水が堰き止められているということ。それが破れれば一気に水が流れ込んでくる。それまでに全軍渡り切れるか。
「殿下……!」
エルデムは前屈みになって駆けていた。矢がしきりに飛んできて前を走る騎兵がバタバタと死んでゆく。全身が痺れそうな恐怖がエルデムを襲った。その時目の前にムドゥリ川が広がった。水かさが増え始めている。だがエルデムは構わず川に馬を進めた。その間にもアザン・バリは追ってくる。
そして、エルデムの馬の蹄が対岸の土を踏んだ時、轟音を立て奔騰する濁流がムドゥリ川を満たした。エルデムの近くにいたアザン・バリの十数騎は流され、アザン・バリの後続と帝国軍は幅広の暴れ川によって完全に分かたれた。
「奇跡だ」
と軍中の誰かが言った。エルデムは荒い息をつきながらその川を見る。ルスタチオの言葉が想起された。
『殿下に神の御加護がありますように』
『はい、いずれ分かります。祈りましょう』
エルデムは豪雨の中頬を涙で濡らした。
三城連合軍は惨憺たる有様でギン・ヘチェンに帰還した。誰もそれがもとは四十万いた軍勢だとは思わなかった。エルデムと副将の白志は鎧も脱がぬまま宮中の皇帝アルハガルガの元まで参じる。油断して撤退していたところをアザン・バリの本隊に攻撃され壊滅したという報を既に聞き知っていたアルハガルガによる叱責は苛烈を極めた。太子エルデムは蟄居(ちっきょ)ということで、部屋から出ることは許されず、白志には斬首が言い渡された。
「お待ちください、陛下!」
叩頭していたエルデムは斬首の言葉を聞いた途端顔を上げた。
「この戦、総大将は私。罰するならば私を罰してください。どうか白志の命だけは」
「殿下よいのです。おやめください」
隣で叩頭する白志はエルデムに向かって声を潜めて言う。エルデムの嘆願に対しアルハガルガは眉間に皺を寄せた。
「お前を殺すわけにはいかぬ。この敗北の責は副将に負わせる」
「陛下! 白志は一度は勝ちました。アザン・バリ二十万の軍を破ったのです」
「その後壊滅したのでは話にならぬ。もうよい。侍衛よ、副将を刑場まで連れて行け」
エルデムは立ち上がった。
「陛下‼ 此度(こたび)の戦、私や白志が総大将、副将の任を帯びたのは何故です!」
白志を連れ出そうとする侍衛の動きが止まった。アルハガルガもエルデムを見下ろす。エルデムは一歩足を進めた。
「他に人がいなかったからではありませんか。伯父上もいない。董松もここを動けない。陛下も戦には出られない。恐れながら陛下の持つ武将はそう多くはないのです」
「太子!」
「それを更に白志を殺して何になります。また陛下の手駒を減らすのですか。確かに此度の戦は我々の大敗北です。しかし白志を殺したところでそれは変わりません。これからもアザン・バリとの戦いは続くのです。ここでアザン・バリ二十万を破った将軍を殺して最も喜ぶのは誰かをどうかお考えください」
朝政殿がシンと静まり返った。二人の親子は相対している。白志も侍衛も気が気でない。やがて皇帝の声が降った。
「太子、お前はやはり蟄居だ。副将については追って沙汰する」
エルデムと白志は顔を見合わせた。
朝政殿から出てしばらく歩いた所で、白志はエルデムに叩頭した。エルデムは慌てる。
「何をしているんですか、白志」
「お礼を申し上げます、殿下」
エルデムは微笑した。
「まだ早いですよ。助かるとは限りません」
「いいえ、もう十分、もう十分です」
巨漢の将軍は額を石畳に擦り付けた。
「殿下とまた戦に出る時にはこの白志、必ずや一命を賭して戦わせていただきます」
結局白志が死罪になることはなかった。南城に帰還の上、しばらく牢に入っただけである。大敗北を喫した将軍に対しては異例の処置と言ってよかった。アザン・バリとの戦いには、これ以降帝国側が大規模な遠征軍を送ることは無く、アルハガルガは和平の道を模索することになる。しかし、アザン・バリの若き酋長ジバツェリンはそれを呑まず長城線に対する攻撃を繰り返した。そして帝国側の防戦一方のまま、二年が過ぎた。
帝国暦一六三六年十月、十五歳のアリンはスンジャタ東部の塔へメルゲンに会いに行った。彼に調合してもらっていた薬が切れたのだ。侍衛は連れて行かなかった。もうこの頃になると、アリンも侍衛もお互い監視を面倒に思うようになっていたので。このような東北辺境の地ではこの怠慢を見咎められることもなかった。
「メルゲン?」
塔の一番上にのぼって声を掛ける。しかし、そこにいる筈の老人の姿が見当たらなかった。アリンが来て彼がそこにいないということはこれまで無かったのだが。どこか出掛けているのだろうということでアリンは諦めて帰ることにした。
塔の庭に繋いでいた馬を引いて森へ歩き出した時、風が吹いた。庭に敷き詰められていた落ち葉がアリンの足元から遠ざかってゆく。アリンが何の気もなくその落ち葉の行く先を見ると、一人の青年が墓標の前に立っていた。年はアリンよりも少し上だろうか。髪を長く伸ばし、長身に紫色の衣を着ている。青年はゆっくりとアリンに振り返った。その時一際強く風が吹き、二人の間から落ち葉が一掃された。青年はアリンに向かって完璧な笑みをつくる。悪魔(ディアボルス)というものをアリンは知らなかったが、知っていればそれを想起したに違いない。あまりにも完璧、故にその笑みは人外の雰囲気を漂わせた。紫衣の青年はアリンに向かって口を開く。
「こんにちは、此の塔に何か御用ですか」
アリンには青年が何者か分からなかったが、ただならぬ雰囲気を漂わせているので、こういう人間ならばひょっとすると何かを知っているのではないかと思った。
「メルゲンという老人を探している」
「それは残念ですね彼はもうここに眠っています」
青年は満足気に墓標を撫でた。アリンも墓標まで近付く。墓標は白石で作られた新しいもので、メルゲンが死んだのはつい最近のことかもしれなかった。
「お前は誰だ」
「私? 私はメイレン。メルゲンの孫にして此の塔を継ぐ者です」
「メルゲンに孫がいたとは知らなかった」
「長い間ここを離れて旅をしていましたから。祖父は私のことを疎んじていたので、ここには居づらかったのです」
メイレンは墓標から手を離した。
「さあ私の方は名乗りました。差し支えなければそちらの名前も伺いたい」
「俺の名はアリン」
アリンはそう口にしたところで何故か少し寒気がした。メイレンはぱっと顔を明るくさせる。
「ではあなたがデルギニャルマの後裔、前(さき)の聖なるハン(エンドゥリンゲ・ハン)の孫なのですね。私は随分辺境をさまよっていたのですが、あなたの話はよく知っています。族滅の中一人生き残りスンジャタへ流されてきた」
そこまで言って、紫衣の青年はアリンに向かって首をかしげた。
「しかし、失礼ながら何をぼやぼやなさっているのですか」
「何?」
「あなたの目は野望のある目。あなたの境遇を考えれば何をなさろうとしているのか察しがつく。だというのにあなたはこの数年何をしましたか。何もしていないではありませんか」
アリンは敢えてメイレンの目を真直ぐ見た。
「何を言っているのか分からない。俺は罪人だ。この地でひたすら日々を送ることが俺の為すべきこと」
「あはははは、それ、祖父にも言ったでしょ。で、きっと祖父はあなたを止めようとしたんだ。図星ですか。まだまだ可愛い所がありますね」
メイレンはその長身をかがめる。その時、塔の周りの森が一際大きくざわめいた。しかし、彼の囁き声はその中でもよく聞こえた。
「私なら止めない。私ならあなたを助ける。あなたがその野望を果たすのを手伝ってあげる」
アリンは一歩退いた。この果敢な少年らしくもなかった。
「お前何者だ」
「言いました。私はメルゲンの孫にしてこの塔を継ぐもの。デルギニャルマの子孫を手助けするのは私に課せられた務めです」
そう言われてもアリンは得心がいかない。警戒を解かないアリンに対しメイレンは紫の衣で口元を隠し目で笑ってみせた。
「あなたはこのままだとスンジャタで何もできないまま凍えて死にます。でも私が一緒ならそんなことにはなりません。一緒に来てもらいたいところがあるんです」
「メルゲン殿の孫と共にアマルギ湖まで行くですと?」
「ああ」
驚愕するナバタイをよそに、アリンは屋敷の厩で馬の準備をしている。ナバタイはアリンの決意が固いようなのでおろおろし始めた。
「なんでも俺に会わせたい者達がいるのだそうだ。丁度無聊をかこっている。信用ならない相手だがいざとなれば斬ればいいだろう」
アリンは馬に鞍を置き振り返った。
「お前も来るか」
ナバタイは溜息をつく。
「アリン様が何と仰ろうとこのナバタイ付いて行くつもりです」
そのまま出発したが、スンジャタの街を出る前に二人は総督府に立ち寄ることにした。スンジャタ総督である黒髭のナシンに会うためである。ナシンは彼の執務室までアリン達を引き入れた。
「メルゲン殿の孫と共にアマルギ湖まで行くだと?」
「ああ。ということで、罪人の俺がしばらくスンジャタを離れることになるが目を瞑っていてくれないだろうか」
「お前の頼みなら目は瞑るが、必ず帰って来いよ。でなきゃただでさえてんやわんやなところひどいことになる」
「なんだ忙しいのか」
黒髭の総督はふうと長く息をつく。
「忙しいと言うより追い詰められているな。打つ手が無い。冷害で不作なところ賊の数が膨れ上がっておるのだ。この数年はずっとこうだ。やけに冷えるのは一年きりのことだと思っていたら、一年で終わらない。別にこれはスンジャタに限らず多かれ少なかれ帝国全土こうだろうよ。ギン・ヘチェンにいる陛下も頭を悩ましておるに違いない」
ナシンの目の下にはくっきりと黒いクマができていた。ナシンは頭を掻く。
「実は長いこと分からなかった賊の本拠地を突き止めたのだ。しかしこれが二重に手が出せん」
「何故だ」
「まず賊に比べてこちらの兵力が足りん。それに本拠地というのがここから海に出て行った先の島でな。そこまで遠くはないから、そこから毎回船でやってくるらしい。しかし、スンジャタは海軍を持っていない。返す返す情けない」
アリンは思案した。確かに島を攻めるのに海軍が無いのではつらいものがある。陸に上がっているところを逃がさず討ち取るくらいしか方法は無い。しかしそんなことがスンジャタの兵にできるだろうか。
ナシンは紙束を持って立ち上がった。
「まあ、分かったから、行ってこい。俺はこれから用がある」
アリンとナバタイがスンジャタの北門から出るとメイレンは先に来て待っていた。三者とも馬に乗っている。
「では行きましょうか」
スンジャタからアマルギ湖までは三日の距離がある。気温は零度をとうに下回っていた。アリン達の上着はそこまで質の悪いものではないが、それでも凍えそうだった。一行の中で一番上等な身なりをしているのはメイレンで、紫衣の上に黒貂の外套を着ていた。
「おぬし一体何者なのだ。その格好、普通の人間ができるものではあるまい」
ナバタイがアリンの向こう側からメイレンに尋ねた。メイレンは微笑む。
「私は五つの塔の内の一つを継ぐ者。……と言ってもスンジャタの歴史を知らなければ何のことか分かりませんね。暇ですから一つ昔話をしましょう。あなた方はデルギニャルマがなぜ東の人(デルギニャルマ)と言うかご存知ですか」
アリンもナバタイも黙る。
「おやおや、伝説も廃れたものですね。よろしい、そもそもの所からお話ししましょう。あなたがたもご存知の通りデルギニャルマはギン・ヘチェンを奪取する以前長城の北側にいた訳です。その北側というのが今アザン・バリに奪われている故地と言われる場所ですね。しかし、一番最初の故地は遥か遥か東。山海関の西北を走る東天山を越えたその先にある街、ここスンジャタなのです。今は流刑地のようになっていますが、実はスンジャタこそがあなた方の故郷なのですよ」
アリンは後ろに霞むスンジャタを振り返った。メイレンは馬上で身体を揺らしながらその様子をにっこりして見る。
「さて、帝国ができて以降は総督府が造られましたが、昔のスンジャタは五人の王(スンジャ・ベイレ)が治める場所でした。スンジャタの周囲に聳える五つの塔こそが彼等の住まい。ここまで言えば私の正体も分かりますね。スンジャタは昔から寒冷過酷の地です。ある時到頭スンジャタの民は食い詰めました。そこで五人の王はある若者をハンに推戴して民を率い新天地を探させることにした。その若者に率いられた一群こそが、後にデルギニャルマと呼ばれるようになる人々です。彼等は東天山を越え、遥か西に進み、今故地と呼ばれている場所に落ち着いて繁栄しました。めでたし、めでたしという訳です」
アリンは顔をしかめた。
「それはうまくいったからいいものを、体のいい棄民じゃないか」
メイレンは目を細める。
「その辺りがハンの推戴だなんてものを必要とした理由なのでしょうね。大壮行を喧伝(けんでん)する必要があった。ちなみにそういう土地なので、今でも民はデルギニャルマ風の名前ですし、デルギニャルマの言葉も通じるのですよ。ここは帝国の古(いにしえ)を残す地です」
凍てつく大地には万古からの変わらぬ風が吹く。
「ひょっとして、今から会いに行く相手とやらもその話に関係しているのか」
「はい、今から会いに行くのはアマルギ湖のほとりを遊牧するアマルギ部の人々です。ハンになった若者は彼等の中から出たのですよ。お互いの子孫同士数百年ぶりの再会ですね」
二日ばかり馬で行ったところで、草木もまばらな平原に出た。空は薄灰色で雪がちらついている。遠くに凍った広い水面が見えるからあれがアマルギ湖だろう。白い包(バオ)が点々としている。近付いて行くとそちらの方から一騎鮮やかな赤い服を着た少女が駆けてきた。抜き身の刀を持っている。馬を止めると、彼女の二つ垂らした三つ編みが揺れた。
「止まれ(ナカ)。お前達は何者だ(スウェウェ)」
彼女は一行をキッと睨み据えて高いよく通る声でそう言った。アリンより年は下か、しかし刀の構えも一見して優れていてアリンは感心した。メイレンは彼女に向かって馬を進める。彼は彼女と同じくデルギニャルマの言葉で返答した。
「私を忘れたの、アルタガナ。小さい時は一緒に遊んであげたのに」
アルタガナと呼ばれた少女は一瞬え? という顔をして、そして気が付いた。
「もしかしてメイレン?」
メイレンが穏やかに頷くと彼女はすぐに刀を仕舞い、幾分幼い少女らしい笑顔をメイレンに向けた。
「おかえりなさい! メイレン」
「ただいま。お父さんはいる?」
「もちろん! 案内する」
四人は三つ編みの少女アルタガナを先頭に包の集まりまで進んで行った。羊の毛で作られた住居が湖の側に連なっている。アルタガナは三人をその中でも最も大きな赤と黒の房飾りがついた包まで連れて行った。
包の中に入ると岩のような男が座っている。その男は髭を三つ編みにして両脇に垂らしていた。メイレンは恭しくお辞儀する。
「ハダ、久し振りだね」
「なんだ王(ベイレ)の所の子倅か。何しに来た」
雷鳴のような声である。
「ご挨拶だなあ。もう祖父は死んだから、私が王だよ。今日はハダ達に会わせたい人を連れてきたんだ」
そこで男はメイレンの後ろにいるアリン達をちらりと見る。
「心当たりがない」
「無理もない。そこの若い人はこの帝国の皇族。あなた方から出たハンの末裔だよ」
「何でそんなやつがここにいるんだ」
そこでアリンは一歩進み出てこれまでの経緯を話した。すなわち叔父の奸計にかかり一族は殺され、当時幼かった自分だけが助命されスンジャタに流されたという事由をである。それを岩男ハダは三つ編みの髭をひねりながら聞いた。そして話が一段落したところで口を開く。
「なんだ、敗北者ではないか」
このハダの言葉をナバタイが聞いていたら激怒したことだろう。しかし、ここまでの会話は全てデルギニャルマの言葉によってなされているので、ナバタイは全く内容を理解していなかった。ハダは立ち上がりアリンを見下ろす。
「もてなすだけの価値もない。我らアマルギ部は武勇を至上とする。敗者に用は無い」
その時アリンの瞳が、ハダも思わずたじろぐ程に暗さを増した。
「俺が敗者かどうかは後の歴史が知っている」
メイレンはアリンの後ろで密かに笑む。ハダはまじまじとアリンを見た。
「ならば証明してみろ小僧。寝床ぐらいは貸してやる」
そう言うとハダは包の外に出て行った。その様子を見ていたナバタイはこらえきれなくなってメイレンに詰め寄る。
「何を言っておるのか分からんが、何やら険悪ではないか。お前は何がしたくてアリン様をここまで連れてきたのだ」
それに対してメイレンはさも異なことを聞かれたという顔をする。
「え? 私は歴史的対面が見たかっただけですけど。数百年ぶりの再会って高揚するものがありませんか」
ナバタイは思わず「は?」と言い、アリンも少しく呆れた。メイレンは莞爾(かんじ)する。
「まあ、寝床は貸してくれると言いますし、ゆっくりアマルギ部の様子でも見てから帰りましょう。アルタガナ?」
メイレンが名前を呼ぶと、包の外で待っていた彼女は布の隙間からひょっこり顔を出した。
「アリン様をぐるっと案内してくれる?」
「何で? いいけど。じゃ来て」
何処かに行こうとするアリンにナバタイもついて行こうとするのを、メイレンは制止した。
「あなたは私と一緒です。どうせ何を言っているのか分からないでしょ」
外はやはり雪が降っている。零度を遙かに下回る外気の中アリンとアルタガナは馬に乗った。アルタガナは馬を駆け足にさせながらぞんざいに周囲を案内する。包が取り巻く白い湖を指差した。
「あれがアマルギ湖」
「凍っているな」
「十月からずっとこうよ。これからも寒くなるのに。春まで溶けないんじゃないかしら。ここ何年かすごく寒いから春になっても溶けないかも」
アリンは凍った湖面を見つめた。何か頭の奥で動くものがあるのだが。アリンは視線を切って、赤い服を着た少女に尋ねた。
「寒さで困窮してはいないか。スンジャタでは収穫が落ちている」
アルタガナは利発そうな瞳をアリンに向けた。
「こっちも草があまり生えなくて羊が痩せているの。冗談だろうけどスンジャタに攻め込もうかってお父さんが言ってる」
アリンから白い息が漏れた。アルタガナはアリンの様子をよそに馬首をめぐらす。
「それにしても山(アリン)って普通の名前ね。皇族ってもっと豪華な名前をしているのかと思った」
「父の方針だ。従弟は徳(エルデム)という。こちらは凝っているだろう」
アリンは僅かに微笑む。
「アルタガナは黄色い花の名、きれいな名前だ」
何の気もないそのアリンの言葉に族長の娘は真っ赤になった。
アリンがアルタガナと別れて帰ってくるとメイレンが一つの包の前で待っていた。
「ここを貸してくれるそうですよ。どうでした」
アリンは馬から降りると、馬を杭に繋いだ。
「ここも窮乏しているようだな」
「あれ、そっちですか。まあいい。ナバタイさんはもう寝ていますよ。ご老人は大切にしなければなりません。どうですか? お疲れなら休みますか」
「いや、もう少し起きていようかと思う」
「なら散歩に行きましょう」
アリンとメイレンはナバタイを包の中で寝かしたまま、夕暮れの中を歩き出した。やがて彼等は凍った湖の際まで行き、メイレンは構わずそのまま歩を進めた。アリンもそれに追随し二人は湖の中央で立ち止まった。西の方では遥か彼方に薄っすら見える東天山の向こう側に日が沈もうとしている。メイレンは深呼吸した。
「ここなら人が来ないでしょう。敗北者でないことを証明しろと言われてしまいましたね。どうするつもりですか? というより、あなたはあなたの目的を果たすために何をするつもりなんです」
「どうしてお前に言わなければならない」
「言ったでしょう。私はあなたを助けると。あなた一人で全てできると思うなら言わなければいい」
アリンはしばし黙した。彼は十分自らを恃みにしている。そしてそれは根拠のないことではない。しかし今の状態では手詰まりなことも確かだった。前にメイレンが言ったようにアリンはスンジャタに来てからというもの彼の覇道に向けて何一つ為すことが無かったのだから。
「……皇帝を殺す」
メイレンは悪魔的に笑った。
「どうやって?」
「どうにかしてギン・ヘチェンに戻り、隙をついて殺す」
「そんなことできるのかな。警備に隙なんてありませんよ。仮にも皇帝ですからね」
メイレンは腕組みをすると意味も無くぶらぶらと歩き、アリンの周りを一周した。
「もう少し確実な方法があります」
「何だと」
「ギン・ヘチェンごと落とすんですよ。そうして皇帝を殺して玉座も奪(と)る」
アリンは巡るメイレンを目で追った。些かの憎悪をこめて。
「それは大勢死ぬ。俺は皇帝さえ殺せれば手段は問わないのだ。逆に言えば、そんな方法を取る理由も無い」
「大丈夫。気にならなくなります」
メイレンはピタリと歩を止めるとアリンの顔を覗き込んだ。西日が落ちて急速にメイレンの顔は見えなくなってゆく。
「この何年も続く長い冬であなたの覇道は肯定される。いいえ、肯定するものは私がいくらでも作ってあげる」
「お前の目的は何だ」
「それは秘密。さあ、知恵を絞ってください。私はお話作りは得意だけれど、軍事的才能はからっきしなんです」
アリンは黒くなった人影から視線を離すと、凍った湖の上でぐるりと辺りを見回した。知恵を絞る? 冬、アマルギ、スンジャタ、軍事的才能……。散乱していた欠片が繋がっていく。そしてそれはぴたりと噛み合った。アリンはメイレンに振り返る。
「お前そういうことか!」
影は首を傾けてみせた。
「何のことやら」
アマルギ部の族長ハダは馬に乗り、荒野の小高い丘から羊の群れを見守っていた。雲は厚く空を覆っている。そこに少年がやって来た。昨日いきなりやって来たハンの末裔とかいう敗北者である。本来ならば自分の部族から分かれ出た子孫であるが、ハダはこの少年に何の興味も湧かなかった。だから「俺に用か」というのも仕方なしに言った。それに対し、少年は頷いて馬を寄せるとハダと同じく羊の方を見やる。
「この冬は厳しいか」
何を言い出すのかと思えばそんなことを聞いてくる。この少年には全く関係の無いことだろうに。
「……厳しいな。羊がまるで太らない。今は何とか皆を食わせてやれているが、このままでは飢え死にする者が出て来る」
「どうする」
岩男ハダは馬に乗っている彼の上半身を伸ばした。
「何だってする。属下の者を食わせてやるのは長たる者の第一の務めだ。それができなければ話にならん」
少年は黙ってそれを聞きながら羊を見ていたが、やがてハダに向かってこう言った。
「スンジャタが食糧を出すと言ったらどうする」
「何だと」
少年は彼の計画を話した。聞けばこの東北辺境の点と点が線で繋がっていく。ハダはそれを髭をひねりながら聞いた。少年が話し終えたところでハダの太い指が三つ編みの髭から離れる。
「悪くない」
「では俺はスンジャタの方にも同じ話をして来よう。あちらが承諾したらこちらにも伝える。ところで昨日武勇を至上とすると言ったが強いのだろうな」
「舐めるなよ小僧。アマルギ部は東北辺境一の戦闘部族だ」
ならばよし、と少年がその場から離れようとしたところでハダは尋ねた。
「お前名は」
「アリン」
アリンが戻ってくると、メイレンとナバタイが包(バオ)の前で帰り支度をしていた。メイレンはにこやかに馬上のアリンに語りかける。
「密談は終わりましたか」
「密談でも何でもない。王(ベイレ)というのは使い走りもしてくれるものか」
「ふふ、構いませんよ。どうせ総督府ができた時から王は名ばかりの存在です」
「ではお前はスンジャタ・アマルギ間の伝令だな」
ナバタイが馬を引いて来てアリンを見上げた。
「アリン様、また何かなさろうとしておられるのですか」
「ああ。目を瞑っていてくれるか、ナバタイ」
ナバタイはふうと溜息をついた。
「慣れております」
話は動き出す。スンジャタに戻ったアリンが真っ先に行ったのはスンジャタ総督ナシンの私邸だった。質素な邸宅の中でナシンはアリンに高粱(コーリャン)酒を出す。ナシンは酒を飲みながらアリンの計画を聞いて驚愕した。
「賊を討つためにアマルギ部を援軍として呼ぶだと?」
「ああ」
黒髭のナシンは二人で囲む卓に身を乗り出す。
「待て待て、聞きたいことも問題も山ほどある話だそれは。第一アマルギ部もただでこちらに加勢してくれるわけではあるまい」
「当然。スンジャタには本来賊に奪われる筈だった食糧をアマルギ部に渡してもらう」
「それでは、賊に取られるかアマルギ部に取られるかという違いだけではないか」
アリンは酒に口をつけると上目遣いにナシンを見た。
「全く違う。略奪されるのとこちらから渡すのでは被害が大違いだ。それにアマルギ部も窮乏が続けばスンジャタに攻めてきかねない。これは一挙両得の策だ」
「しかし第一だ。船はどうする。アマルギ部は遊牧集団だろう。結局島にいる賊を討つのに船が無いという問題は残ったままじゃないか」
アリンは下手に飲めば大人でも倒れる強い酒を事もなげに飲み干して、ナシンに向かって笑った。
「船はいらない」
一六三六年酷寒の十二月。スンジャタ周辺を荒らしまわっていた賊は島の砦に引き篭って享楽にふけっていた。奪い取ったものを貯め込んで何になろうか。スンジャタ自体根本的に貧しいのであって、それ故か、それに反してか、彼等は刹那的だった。その日宴会場で賊達が酒をあおっていると、砦の上の見張り台から一人が駆け下りてきた。
「お頭! こっちに軍隊がやって来る!」
「なんだと?」
頭目はその一人に付いて見張り台の上に上った。軍隊などやって来る訳がない。この島には船が無ければ辿り着くことは出来ず、スンジャタは満足な船を持っていないのだから。しかし見晴るかせば、確かに千に届こうかという軍勢がこちらにやって来る。しかも馬で。頭目は海を見下ろして舌打ちした。東北の十二月の海はここ数年の異常な冷気を受けて厚く氷が張っていた。頭目は宴会場に戻り大音声(だいおんじょう)を張り上げる。
「野郎ども、戦だ‼」
向こうが千で、こちらも千。それならば砦があるこちらの方が有利。しかし、と頭目は首を捻る。さっきの軍勢、スンジャタ兵に混じって不思議な格好をした奴らがいた。
一方砦に向かう軍勢の方では、先頭中央を三騎が進んでいた。ナシン、ハダ、そしてアリン。アリンは弓を取り矢をつがえ、そして放った。
後に結氷の戦い(ゲチェヘ・ダイン)と呼ばれることになる戦いの、これが幕開けであった。
賊側が取った方策は砦の周囲の氷を割って「堀」を作ることだった。しかし厚く張った氷は容易に割れない。しかも割ったところで酷寒の空気に曝され、すぐにまた凍ってしまう。賊の一人が顔を拭う。まだスンジャタの軍勢は遠いが、このままでは「堀」ができる前にこちらに辿り着くだろう。
「おい、もっと早――」
言い終えぬ内にその賊は横向きに倒れ込んだ。周りの賊が見に行くとその賊の頭には一本の矢が突き刺さっていた。賊達は思わず矢が飛んできた方向を振り返る。軍勢はこちらにやって来るが、まだ矢が届く距離ではない。その筈なのに、幾ばくも無くして絶え間なく矢が飛んでくるようになった。よく見ればその矢は、あちらの軍勢の中でも鎧を着ない者達が撃っているものだった。この戦、ただのスンジャタ兵を相手にした戦いではない。それに気が付いた賊は堀を作ることを諦め、砦の中に閉じこもった。
賊が砦に入ったのを見て、アマルギ部の戦士たちは一斉に弓を下げた。その様をアリンは感心しながら見る。東北辺境一の戦闘部族というのはでまかせでなかった。中でも抜群の腕前を誇っていたのは、氷の景色に赤い服の鮮やかな少女アルタガナである。アリンは陣中に彼女の姿を認めた時些か驚いたものだが、今思えばその驚きは全くもって見当違いだった。
アリンはスンジャタ総督ナシンの方を振り返る。
「砦攻めだ。スンジャタの装備がいる」
ナシンは頷くと配下の兵士達に指示して台車付きの梯子、雲(うん)梯(てい)を砦の下に配備させた。梯子を伸ばし砦の壁にかける。しかし、その間にも賊は砦の上から弓を射かけてくる。スンジャタ兵達は苦戦し、鎧を着て動きが鈍いこともあり、中々砦に上ることができない。
その様子を見て軽装のアリンは駆けだした。スンジャタ兵の間を縫い梯子に行き着くとそれをするすると上っていく。そのアリンの隣の梯子をアリンに負けず劣らずの速さで上る者があった。アルタガナ。彼女もまたスンジャタ兵の様子を見かねて自ら先陣をきって上ることにしたのだ。
アリンはそれを見て痛快に思い、そして次の瞬間彼女の肩口に賊の矢が刺さるのを見た。アルタガナは衝撃で身体の均衡を崩し梯子から落ちそうになる。その手をアリンは掴んだ。
「……ッ! 梯子を握れ!」
アルタガナは痛みの中ようやく梯子を握る。上を向くとアルタガナに向けて矢が飛んでくる。それをアリンは左腕で庇い、すぐさま梯子を上りきった。砦の壁を乗り越え石畳に着地した少年を見て賊はどよめく。アリンは曲刀を抜くと弓兵から先に首を掻き切っていった。アリンの周りを血飛沫が舞う。押し寄せる賊を少年は修羅の如く切り倒していった。
アリンが弓兵を倒したおかげでスンジャタ兵とアマルギ部の戦士達も雲梯を上り砦に入ってくる。とりわけアマルギ部の活躍は目覚ましかった。彼等は皆日頃の狩猟生活と部族間の掠奪で鍛え抜かれており、さして修練を積んでいない賊など物の数ではなかった。かくして砦に入ってから半刻で賊は壊滅した。
砦を制圧して正門を開くと内外のスンジャタ・アマルギ混合軍から歓声が上がる。スンジャタはスンジャタ、アマルギはアマルギで固まるが、中にはその垣根を越えて手を取り合う者達もいる。ナシンとハダの両者は無言で互いを認め合った。
アリンは返り血を拭いながら砦を出て、雲梯の下で座り込んでいるアルタガナに近付いて行った。彼女は矢で射られた肩口を押さえてアリンに笑う。
「へま踏んじゃった」
アリンは彼女の横に膝をついた。
「誰にでもあることだ」
「あんたの左手大丈夫?」
アリンの左腕にはアルタガナを庇った時に一本矢が刺さっていた。今そこには穴が開き血が流れだしている。
「手甲をつけている。傷は浅い。それよりそちらの傷はどうだ」
少女は肩口から手を取り払う。赤い服には黒々と彼女の血がしみを作っていた。
「平気よ、このくらい」
「養生することだ。お前ほどの腕を失うのは惜しい」
アリンはそう言うとアルタガナを置いてナシンとハダの元に歩いて行った。二人の長(おさ)は腕組みをしてアリンを待つ。
「業腹だが一番の功労はお前のものだ」
ハダがアリンにそう言うとナシンも深く頷いた。アリンはにやりとする。
「敗者でないという証明になったか」
「ただの敗者でないことは認めよう」
アマルギ部の族長はスンジャタ総督と少年の両方を睨む。
「約束通り報酬はくれるのだろうな」
スンジャタ総督は首肯した。
「無論だ」
こうして、アマルギ部はスンジャタから大量の食糧を彼等の冬営地へ持ち帰ることになった。スンジャタから列をなし、穀物の袋を曳いて帰るその晩、アルタガナは父ハダの隣に歩み寄った。
「お父さん」
「なんだ」
「私アリンと結婚する」
岩男はじっと娘を見た。そして三つ編みの髭を捻る。
「悪くない」
年が明けて一六三七年一月、スンジャタでは珍しくもない雪の日、メイレンがアリンの屋敷を訪ねてきた。アリンは門の所まで出てきてこの掴みどころのない男に応対する。メイレンは完璧な笑顔をアリンに向けた。
「あなたに縁談が来ていますよ」
アリンは呆れた。確かに本来の自分の年齢を考えれば縁談の一つや二つ出てきていてもおかしくはない。しかし、自分の身分と身の上はそれを許さないのである。
「罪人の皇族が勝手に結婚できる訳がないだろう」
「先方は内縁の妻で構わないと言っていますが」
そもそもとして、自分にこんな話を持ちかけてくるのは普通ではない。しかも内縁の妻でよしとするとはますます不可思議である。一体相手が何を考えているのかアリンには分からなかった。
「先方というのは?」
「アルタガナ」
「……」
そこで門の陰から鮮やかな赤い服の少女アルタガナが飛び出てきた。アマルギ部族長の娘アルタガナはアリンの前まで来ると彼の手を握る。彼女のお下げ髪が揺れた。
「アリン、お願い結婚して。私あなたが好きなの」
「……」
「いや、私の方を見られましても」
アリンはメイレンの代わりにアルタガナの肩口を見た。
「……肩の傷はどうだ」
「もう何でもない」
そこでアリンは目を伏せると、握られた手を握り返した。
「いいだろう」
アルタガナは満面の笑みを浮かべた。
「本当? ありがとう、アリン!」
少女は少年に抱きつく。少年はさすがに顔をしかめながら彼女の背中に手をあてる。そして、これはお前の差し金かとメイレンに目で問うと、紫衣の青年はにこやかに首を振った。
アリンとアルタガナの婚礼はアマルギ部で盛大に行われることになった。内密の婚姻ではあるが、アマルギ部がいるのは辺境も辺境であり、そんな場所で婚礼を挙げる分には誰に憚る必要も無かった。
春四月、穏やかな日差しの下、アリンは婚礼をするアマルギ湖に向かうために馬の準備をしていた。ナバタイは非常な感慨をもってその様子を見守る。あれほど幼かったアリンがついに結婚する、それをナバタイは我が事のように喜んだ。アリンは馬の準備を終えると「そうだ」と呟いた。横にいるナバタイに振り向く。
「頼まなければならないことがあるのだった」
ナバタイはきょとんとする。アリンが自分に頼むことと言って思い当たることが無い。強いて言えば留守番くらいだろうか。そう思っているとアリンは優しい目をした。
「ナバタイ、俺の父として婚礼に出てくれないだろうか。俺の方には父も母もいないから」
ナバタイはそれを聞いて、強く胸をつかれたような気がした。思わず声が震える。
「そんな、そんなことが許されてよいものでしょうか」
「何故? 俺がそうしたいと言っている」
白髭の老人はそれを聞いて涙を零しそうになった。感無量とはこのこと。
「このナバタイ、喜んでその務めお受けいたしましょう」
結局ナバタイは婚礼で滂沱の涙を流した。その様子をアマルギ部の者達は笑いながら見たが、嘲るものはいなかった。花嫁アルタガナは三つ編みの髪をまとめ上げ白皙の顔は艶やかに美しく、花婿アリンを時折愛しげに見つめる。婚礼は幸福に進んだ。
アマルギ部の風習では婚礼の夜、花嫁と花婿は部族から離れた場所に包(バオ)を張り一夜を過ごす。アリンは包を張り終えるとアルタガナを中に招き入れた。そこで抱きすくめられたりするものと思っていたアルタガナは、アリンが一人で絨毯の上に座ったので呆気にとられた。アリンはアルタガナの心情に気付かない。
「どうした、座らないのか」
「……じゃあ隣に座ってもいい?」
「どこでも構わない」
アルタガナはわざと肌が触れる程の距離でアリンの隣に座った。それにはさすがのアリンも片眉を上げる。今夜健やかな草原の身体をしているアルタガナは、香油で磨き上げられ花嫁飾りを身に着け、月のように美しい。
「俺は先月十六になったが、そちらはいくつだ」
「十四」
漂ってくるアルタガナの香油の香りをかぎながら、アリンはほうと思った。スンジャタに来てから五年余り経ったが年下には中々出会わなかった。
「何故俺と結婚しようと思った」
「強くて、優しいから」
あまりにも子供らしい答。しかし彼女は子供なのだった。
「ね、アリンはなんで私と結婚しようと思ったの?」
アルタガナは真面目な顔をしてアリンを見上げる。この話、彼女は自分で持ちかけておきながら不安だったので。アリンは漆黒の目で彼女の顔を真直ぐ見る。
「強いから」
「アリンはお嫁さんをそういう風に選ぶの?」
「いや」
「じゃあ、どういう風に選ぶの?」
そこでアリンは少し遠い目をし、それにアルタガナも気が付いた。アルタガナはアリンから離れ立ち上がる。
「……他に好きな人がいるのね」
アリンはしばらく考え、「ああ」と言った。アルタガナは出口に向けて後退りする。
「じゃあ私は一体何なの」
「こっちに来い」
「嫌よ、嫌! こんな結婚言い出すんじゃなかった」
アルタガナはぽろぽろと涙をこぼした。どうしようもないのは、こうまで言われてもアリンのことを憎めないことだった。それだけアリンはアルタガナにとってあまりにも鮮烈だった。そのアリンが立ち上がってアルタガナに近付いてくる。
「あちらはギン・ヘチェンにいて、もう結婚もしている。元より共にいるべくもない相手だ」
「私は代わりなのね」
アリンは笑うと指でアルタガナの顎を持ち上げた。
「代わりでよしとするほど結婚をしたくはないな。この話、お前でなければ受けなかった」
「どうして私」
「言った。強いからだ」
アリンはアルタガナに口づけした。
皇女ユエランは寝室の中でギン・ヘチェン守備董(とう)松(しょう)の傷に触れていた。董松は叩き上げの武官なだけあって満身創痍を絵に描いたような身体をしている。ユエランは決してこの男を愛してはいない。けれどもこの傷だらけの身体には心の動くものがあった。言葉なくただ傷をなぞるのが彼女の習いだった。
「目の傷はやめてくださいよ。痒いですからね」
ユエランの細い指が董松の胸を斜めに走る大きな傷を撫でる。その動きが単調なので董松は彼女が心ここに在らずであることに気が付いた。
「何を考えていらっしゃるので」
彼女は透き通る大きな瞳で夫を一瞥する。
「言わなければならないの、それは」
「さあ? でも言ってくださったらお力になれるかもしれませんよ」
ユエランは董松の傷から指を離した。桃色の唇から溜息をつく。
「ずっと考えていること。私の従弟のアリンは分かるでしょう。私はどうにかしてアリンの罪を解きたいの」
董松ももちろんアリンは分かる。ムドゥリの息子、自分が縄をかけた相手なのだから。しかし、なかなかこの公主(ひめ)の言うことは難しい。なにせアリンは大逆の罪人である。その辺りがユエランが長い間考え続けて答が出ない理由なのだろう。
「さてさて、どうしたものか。……普通にやっていたのではこのままです。免罪があり得るとすれば恩赦ですね。では恩赦がいつありそうかと言えば直近では予定が無い。ちょっと思い付くのは、三年後陛下が五十歳になられるお祝いです。恩赦が下るにはちと弱いですが、努力次第かもしれませんよ」
ユエランはぴたりと固まる。彼女の頭の中で何か動き出したらしい。その様子を董松はにやりとしながら見た。
次の日ユエランはエルデムを訪ねた。エルデムはすでに結婚して、宮中から内城にある邸宅に移っている。エルデムの部屋で黒い巻き毛をした二人の姉弟は久方ぶりに対面した。エルデムは嬉しそうに手ずから茶を入れる。
「姉上、それで御用事というのは」
ユエランはその茶を受け取るとエルデムを真直ぐ見据えた。
「エルデム、アリンをギン・ヘチェンに呼び戻しましょう」
その春には帝国北方のアザン・バリとの間にも和議が成立した。幾度帝国の長城を攻めようとも抜けず、自らも大冷害で飢えていくという状況に、若き酋長ジバツェリンがさすがに音を上げたのである。この和議は帝国側にとっても無論吉報で、北方に軍と糧食を集中させなくてもよくなった。帝国とアザン・バリとの間には長城を挟んだ貿易が成立することになる。即位以来波乱に満ち溢れていたアルハガルガの治世における一時の晴れ間と言ってよかった。
一方東北辺境ではアルハガルガの甥にあたるアリンがスンジャタ、アマルギにおいて確実に地歩を築きつつあった。スンジャタでは総督ナシンの友人にして結氷の戦い(ゲチェヘ・ダイン)の英雄として。アマルギでは英雄そして族長の娘アルタガナの夫として。
それを紫衣の青年メイレンは半ばは満足しながら見ていた。途中までは自分の思い通り、いやそれ以上。しかし、懸念はアリンがそれ以上のことをしそうにないということだった。メイレンの望みとしては、アリンにそのままスンジャタとアマルギを掌握し、この東北辺境の地から大叛乱の火蓋を切ってほしい。しかしアリンにその素振りがない。メイレンは理解に苦しんだ。アリンの野望をかなえるためにはアルハガルガを武力討伐する他選択肢が無かろうに、それをしない。以前隙をついて皇帝を殺すと言っていたが、隙など無いし、第一どうやってギン・ヘチェンまで戻るというのか。
そうこうしている内に二年が経ち、アリンの元に一通の召喚状が届く。それはメイレンにとっても、またアリンにとってもまさしく青天の霹靂だった。召喚状には次のようにあった。すなわち、一年後の春四月に皇帝陛下五十歳寿辰(じゅしん)の祝宴が開かれる。その出席をアリンに許すと。それが帝国暦一六三九年五月のことだった。
「どうしても私は行ってはいけないの」
十二月の払暁アリンが馬具を整えているとアルタガナが厩までやって来た。白く漂う息ごしにアリンは目で否と言う。
「お前と俺の結婚は内密のものだ。お前が一緒に来るわけにはいかない」
項垂れるアルタガナの肩をアリンは叩いた。
「お前のことはナバタイに頼んである。二人で待っていろ。必ず帰ってくる」
「本当に本当?」
「ああ、必ず」
アリンは二人の侍衛を連れてスンジャタから出発した。八年前彼が歩んだ旅路を逆に辿る旅が始まる。
アリン達は海と東天山に挟まれた関所、天下第一関山海関を通って帝国本土へ入った。そこから北河下流域の要衝河(か)城(じょう)で補給し、一路西へ向かう。帝都ギン・ヘチェンに着いたのは帝国暦一六四〇年三月のことである。ギン・ヘチェンの城壁をくぐったその日、アリンは十九歳になった。
アリンと侍衛は内城に設けられた国賓用の宿舎に入った。辺りは甚だ賑わっている。皇帝アルハガルガの祝宴前ということで帝国内外から賓客が集まっているというのもあるが、そもそもギン・ヘチェンは人が多い。東北辺境の街スンジャタとは大違いである。アリンが伴ってきた侍衛二人は久々の帝都に喜びを隠しきれない様子で、アリンはアリンで感慨が無いではなかった。幼い頃を過ごし、族滅の後に離れた帝都に再び舞い戻ってきたのだから。
アリンは宿舎に荷物を置くと辺りを歩き回った。建物も市場もアリンの記憶からは少しずつ姿を変え、しかし昔の名残を漂わせてそこにある。アリンはふと思いついて内城中心の十字路を東に向かった。そして四半刻(しはんとき)ばかり歩いた所でピタリと足を止める。目の前にあるのは廃墟。かつてはそれなりに立派であったであろう邸宅が四方破れ、草木が伸び切っていた。それはアリンが帝都で暮らした父ムドゥリの邸宅である。アリンはその最早昔日の面影も無い邸宅の前でしばし立ち尽くしていた。
するといきなりアリンの横で白刃が閃いた。アリンは身を屈めて辛うじてそれをよける。よけたその体勢のままアリンは速やかに腰の曲刀を抜いた。アリンは誰何(すいか)する。
「何者だ」
「お前は俺を知るまい。だが俺はお前を知っている」
朗々たる声。アリンに切りかかって来た相手は髪を三つ編みにまとめ顔に入れ墨をした青年だった。帝国の風俗ではない。アリンは頭をめぐらせた。今回の祝宴には帝国内だけでなく外からも参席者がやってくる。そして近隣にいる集団でこの青年のような風体をした部族といえば。
「アザン・バリの人間か」
「いかにも、俺はアザン・バリが酋長ジバツェリン。お前は皇(こう)甥(せい)アリンと見た。違うか」
「相違ない」
青年ジバツェリンは深く腰を落とし、再び彼の曲刀を構えた。
「父の仇とらせてもらう」
そう、アリンは族滅前、十歳の時のアザン・バリ遠征でジバツェリンの父ジバの首を取っている。ジバツェリンはその日から彼の父の仇を探し続けていた。スンジャタに流されたと聞いていたが、この祝宴前にようやく会えた。それに対しアリンは半身を前にし、曲刀を下げて構える。
「やれるものならやってみるがいい」
お互い息をつめた睨み合い。両者の気迫は互角。その時ムドゥリ邸の樹についている葉が一枚落ちた。二人の青年は足を踏み出す。
「やめないか‼」
その刹那やや高い青年の声が二人を制止した。それは必殺の気迫を持った二人を不思議と押し止めた。二人が横を見るとそこに立っていたのは黒髪に巻き毛の青年だった。
「陛下の祝宴を血で汚すつもりか、わきまえろ」
青年の言葉にジバツェリンは苛立たしげに鼻を鳴らすと曲刀を仕舞いその場から去って行った。アリンは制止してきた青年の姿に半ば呆然と立ち尽くす。青年はため息を一つつくと、アリンに向かって微笑んだ。
「もう、何やってるの、アリン」
「エルデム……」
エルデムはアリンの肩をこつんと小突いた。
「やっと会えたね、元気だった?」
「ああ、そちらは」
エルデムはにっこりした。
「私もまあいい方だよ。立ち話もなんだから私の家に行こう。この近くなんだ」
確かにエルデムの邸宅は、そこからそう歩かない場所にあった。エルデムは十字街の市場へ行こうとして、たまたまアリンとジバツェリンの決闘に遭遇したのだという。エルデムはアリンを応接間に通した。アリンはこの部屋に見覚えがある。というよりも彼が幼い時にユエランとエルデムを訪ねた家そのままだった。
「陛下の家を私が受け継いだんだ。懐かしいでしょ」
陛下という言葉にアリンは身体をぴくりとさせる。エルデムの父、皇帝アルハガルガはアリンの讐(しゅう)敵(てき)に他ならない。この家のことも懐かしいが、むしろ敵の胃の腑に入ったような感覚にさせられた。そのアリンの様子にエルデムも気付かないではない。
「アリン、今回の祝宴にアリンを呼ぶために動いたのはまず姉上、そして私だよ」
「やはりそうか」
「でもね、陛下も案外すんなりお許しになった。だから……」
だから陛下はもうアリンのことを憎んではいないのだと、そうエルデムは言いかけてやめた。問題は皇帝がアリンを憎んでいるかというだけでなく、アリンが心中どう思っているかなのだから。そしてエルデムは敢えてそのことを問おうとは思わなかった。すでに部屋の中に人はいない。小間使いも含めて退がらせてある。秘密の話もできるはずなのにそれができなかった。それだけ九年の歳月は長かった。
エルデムは自らアリンに茶を入れる。その時エルデムの右手が震えて茶器が床に落ち、高い音を立てて砕け散った。床に茶の水面が広がっていく。エルデムの右手はなおも震えている。
「エルデム、それは……」
エルデムは左手で右手を押さえつつ目を伏せる。
「宿痾(しゅくあ)だよ。陛下と同じね」
病。アルハガルガが歩くこともままならないということは宮中で密やかに伝えられていることではあったが、太子まで同じ病にかかっているという噂はさすがにスンジャタに届かなかった。アリンは震え続けるエルデムの右手をさらに自らの手でおさえた。
「どんな病だ」
「こういう風に身体が震えて、次第に動かなくなっていく。陛下も若い頃からこうだったけど、私は更に早かった。アザン・バリへの遠征の後から時々手が震えるようになった」
「命に障るか」
「さてどうだろう。いずれはそうなるかもしれないけど、陛下もあの年までご存命だから」
右手の震えがようやく止まったので、エルデムは手を下げると小間使いを呼んで新しい茶器を持って来させた。今度はアリンが茶を入れる。エルデムはそれを申し訳なさそうに、しかし微笑みながら見ていた。
「そう言えば私にも子供ができたんだよ。後で顔を見てやってくれない?」
「喜んで」
「きっとこの祝宴で恩赦が降るから、そうしたらアリンにもいいお嫁さんを紹介するよ」
アリンは手を止めてちらりとエルデムを見た。エルデムはおやという顔をする。
「どうしたの」
「実は結婚している」
エルデムは驚いた。基本的に皇族の結婚は皇帝の許しが無ければすることができない。つまり、アリンはその禁を破っていることになる。
「誰にも言っちゃ駄目だよ、それ」
「分かっている。お前だから言った」
エルデムは頷くと、茶を一口飲み、アリンの耳に口を寄せた。
「で、どんな娘(こ)?」
それからは他愛のない話が続いた。太子と罪人という身分も身の上も関係の無い、十八歳と十九歳の男同士がするような話を延々とした。それは彼等が最も不足しているものの一つであったから。そして約束通り一歳になったばかりのエルデムの息子を見て、あまりにもエルデムにそっくりなので二人で笑い合った。
夕刻、アリンが宿舎に戻ると、宿舎の主が青い顔をしてアリンに話しかけてきた。
「お客様です」
庭で待っているというのでアリンは庭へと歩く。客といって心当たりがない。この身の上でなければ挨拶に来る官吏もいたであろうが、何分罪人には誰にも関わりたがらない。一体誰かと思って庭へ入ると、杏の樹の下に一人の麗人が立っていた。風は杏の花を零し、麗人の長い巻き毛の髪を揺らす。その光景は一幅の絵画のようだった。
「方々に無理を言ってここに来たのです」
風に乗って彼女の声が聞こえてくる。
「ずっとあなたに会いたかったから」
アリンは彼女の前に立った。もうアリンの背は彼女のそれよりも高い。九年前とは違う。彼女の頬を一筋の涙が伝う。
彼女、ユエランはそのままアリンを見上げて微笑んだ。
「立派になられましたね、アリン」
アリンはユエランをしばらく見つめると深々と頭を下げた。
「今回のギン・ヘチェンへの召喚、あなたとエルデムが動いてくださったと聞きました。お礼申し上げます」
ユエランは花が零れるように笑う。
「ではエルデムにももう会ったのですね。よかった。エルデムも随分とあなたに会いたがっていましたから」
ユエランがそう言って沈黙が降りる。どうしても会いたかったはずなのに、いざ会ってしまうと何を話したらよいのか分からない。彼と彼女の間にもやはり九年の隔たりがあった。二人の間を音もなく杏の花びらが落ちてゆく。アリンが沈黙を破った。
「御結婚なさったと」
「ええ」
「お幸せですか」
アリンの言葉にユエランは一瞬息が止まった。アリンの顔を見る。アリンは感情を出さず、ただ漆黒の瞳でユエランを見ていた。
なんと答えればいい。董松との結婚が幸せであるかと言われればそれは否である。しかし――。
「幸せです」
ユエランは心持ち顔を伏せそう言う。アリンはユエランの答の真偽を確かめるかのように、彼女の顔に視線を向けていたが、やがてそれをやめた。
「ならばよいのです」
ユエランははっと顔を上げたが、すぐにまた伏せた。代わりの言葉を探す。アリンに言わねばならぬこと。それは確かにあるのだ。
「私が胡仁に託した手紙は受け取りましたか」
「はい」
「あそこに書くことができないことがあると書きました。今ならそれを言うことができます」
ユエランは足首まで布が覆う瀟洒(しょうしゃ)な服のまま庭の土に膝をついた。アリンは思わず彼女の手を取る。
「何を」
「アリン、あなたのお父様やお兄様達をお救いできなかったこと申し訳ありませんでした。あなたも九年流罪の憂き目にあわせてしまった」
アリンはユエランの細い手を引っ張り彼女を引き上げる。彼女の膝にはやはり土の汚れが付いていた。アリンは嘆息する。
「あなたが謝ることではない。それに私の命が助かっているのはあなたのおかげだと聞きました」
「いえ、いえ、私達が悪いのです。この罪は私も背負うもの。けれどアリン、その上でどうかお願いを聞いてもらえないでしょうか」
「お願い?」
「はい」
ユエランはその大きな透き通る瞳をアリンに向ける。
「私達のことを憎んでも構いません、許さなくても構いません。けれど、あなたにはどうかお父様とエルデムを支えて欲しいのです」
「どうして私にそのようなことを」
ユエランは目を伏せる。
「長い間辺境にいたあなたがご存知かは分かりませんが、お父様の治世は決して盤石ではありません。アザン・バリの問題は片付いたとしても、長い間続く異常な寒さが民たちを飢えさせています。そしてお父様が大瞭に偏る政策を取るせいで、いえ、その政策は必ずしも悪くはないのですが、デルギニャルマの中で不平を抱える者達が出てきています」
このことは宮中の人間が敢えて語らぬことであった。
「今は一人でも多くの人が帝国のために力を合わせるべきなのです。アリン、あなたには力もある、知恵もある、恩赦さえ降れば権威もあります。そんなあなたがお父様やエルデムを助けてくださればどれほど心強いでしょうか。どうか帝国の民達のために力をお貸しいただけないでしょうか」
じき日が暮れる。風が二人の足元にある花びらを吹き散らしていった。アリンはユエランの手を離す。
「……それはあまりにも先走り過ぎた話ですね。私の処遇がどうなるのかはまだ分からない」
「そう、ですね」
ユエランは俯いた。
「もう暗くなってきた。送ります」
外城までユエランを送って帰って来ると、アリンは宿舎の部屋で横たわった。腕で目を覆う。ユエランとエルデム。俺がやろうとしていることは決して二人を幸福にはしない。アルタガナ。俺がアルハガルガをこの祝宴で殺したとして無事にスンジャタに帰り着けるとは思わない。必ず帰ると約束したのだが。頭で考えれば全てがアリンに否と言う。しかし、アリンはその声を聞こうとは思わなかった。
これは魂にまで刻み付けられた憎しみだ。
祝宴は開かれる。宮中の大庭園に卓を並べ、上座には陛が設けられその奥に皇帝アルハガルガが座る椅子がある。皇帝の近く、東の卓にはエルデム、西の卓には董松とユエラン、その下座にはアザン・バリの酋長ジバツェリンを始めとした帝国外部の酋長や王侯達が並ぶ。そこから先は従来はデルギニャルマの貴顕達が連なる筈であったが、アルハガルガは敢えてデルギニャルマと大瞭の人間を混合させて座らせるよう命じていた。アリンの席は一番下座だった。
夕暮れの中あちこちで蠟燭が灯り、辺りは幻想的な雰囲気に包まれる。やがて美辞麗句に彩られた祝辞が読み上げられると、五十歳の寿辰を迎えた皇帝アルハガルガは椅子に座ったまま杯を持ち上げ飲み干した。参席者も一斉に各々の杯の中身を飲み干した。そして談笑が始まる。上座の方では一組ずつアルハガルガの前に進んでお祝いの言葉を述べ始めていた。
アリンは一人で卓に座っていた。いくら祝宴に呼ばれたとはいえ大逆の罪人になど誰も関わりたがらなかったのだ。しかしただ一人だけアリンの側近くに寄って来た者がいた。それは齢三十くらいの若い官僚だった。彼は杯を持って来てアリンの前で掲げた。
「アリン様お初にお目にかかります。トゥワと申します」
アリンも杯を掲げる。トゥワは声を潜めた。
「官吏になりたての頃、ムドゥリ様に良くして頂きました。此度のアリン様のお帰り、大変嬉しく存じます」
「よくあの粛清の時に生き残っていたものだ」
「は、まことに。しかし存外生き残りはいるものでございます。それだけムドゥリ様に目をかけていただいた者達は多いのです。こちらに正式にお戻りになられましたら、私共御恩返しをさせていただきます。それでは僭越ながら、乾杯」
二人は杯を干した。トゥワは長居せずに彼の席に戻ってゆく。視線を上座に移せばアルハガルガにお祝いを述べる者達も一段落ついたらしい。アリンは杯を置いた右手を開き、また握りしめると席を立った。
アリンはアルハガルガまで通じる道を進む。上座に行くにつれてざわめきが大きくなった。皆この青年の正体を知っているので。エルデムとユエランは心配そうに、しかし期待も込めながらアリンを見守る。アリンは陛を上り、アルハガルガの前に着くと跪いた。
「罪人である私めの帰還をお許しいただけましたことを感謝いたします。皇帝陛下の寿辰まことにめでたく、重ねて万寿をお祈りいたします」
心にもない言葉を吐いてからアリンは顔を上げた。殺すのに弓も刃もいらない。ただこの腕さえあれば首をへし折ってやれる。自分とアルハガルガ、この距離ならば。そこでアリンとアルハガルガの目が合った。アルハガルガの口元が上向きに歪む。
「まあ、待て」
皇帝はそう言うと、側付きの者に何やら囁いた。側付きの者は下座へと駆けてゆく。やがて彼が皇帝とアリンの前まで連れてきたのはアザン・バリの酋長ジバツェリンだった。皇帝アルハガルガはジバツェリンの方を向いた。
「ジバツェリン殿、お父上の仇はこやつでありましょう」
ジバツェリンは頷く。
「こやつの身柄、そちらに引き渡します。好きになさると良い。これは我が帝国とアザン・バリとの友好の証です」
この会話は一番近くのエルデム、ユエラン、董松の所まで聞こえた。
「陛下!」
「お父様!」
エルデムとユエランが立ち上がる。ユエランの方は董松が手を引いて制止した。エルデムは陛を駆け上がる。
「陛下! お考え直しください! アリンは得難い人材です」
アルハガルガはエルデムの言葉を聞いても表情一つ変えない。
「元よりこやつはそのために呼んだのよ。ジバツェリン殿、縄はご入用か」
顔に入れ墨をした青年はにやりと笑った。
「ええ。お気遣い感謝します、アルハガルガ殿」
ジバツェリンが合図をすると下座から二人のアザン・バリの戦士がやって来てアリンを後ろ手に縛りあげた。身体の自由を奪われたアリンはなおもアルハガルガを睨み上げる。アルハガルガはその視線を正面から受け止め満足気に杯を干した。
宴会から帰るとユエランは部屋の壁を拳で打ち泣いた。その手を董松はおさえる。
「おやめなさい。手が傷つく」
ユエランは赤く泣き腫らした目で董松を見上げた。
「私がやったことは何だったの。アリンをギン・ヘチェンに呼んで、むざむざアザン・バリの手に渡してしまった」
「誰にも分からなかったことですよ」
正直なところ董松はアルハガルガのやり口に舌を巻いていた。子供たちの願いを聞きながら、気に食わない皇族の処分とアザン・バリとの友好の証明を一気にやってしまったのだから。決して好きにはなれないが、なかなかどうして凡君ではない。
一方のエルデムは自邸で悄然としていた。やはり思うことはユエランと同じ、自分は一体何をしたのだろうかということだった。どうにかしてアリンを奪還する方法を考えてはみたが、何も思い付かない。太子という身分でありながらなんと無力。エルデムはこの時初めて、自分が皇帝だったらということを考えた。
アリンは手を縛(いまし)められてアザン・バリへ連行される。どうせ殺すならば父の墓前で殺そうとジバツェリンが考えたからである。アリンの縛られた手はジバツェリンの馬の鞍に繋がっており、アリンはその馬の歩みに合わせて歩くしかなかった。時折ジバツェリンが戯れに馬を走らせるとアリンは無残に引きずられた。ジバツェリンが飽きてアリンの馬を調達したのは、既に衣服を留めず無数の傷跡がアリンに刻み込まれてからのことだった。
アリンは考える。アルハガルガを殺せなかった。そして自分はこうしてアザン・バリに売られた以上、ギン・ヘチェンに舞い戻って再びアルハガルガに接近する機会は無い。そのことが、これから自分が殺されるということよりもなお一層アリンの胸をざわつかせた。しかし、しかし、どうして諦められようか。自分を巡る全ての人間が、或いは世界全体が自分に否と言ったとしても、それでも自分は立つのだから。
メイレンは言った。より確実な方法はギン・ヘチェンごと落としてアルハガルガを殺すことだと。かつて自分はそれを躊躇った。しかし最早それしか術(すべ)がないのならば、やるべきことは一つである。
人知れず心を決めた彼の上を燦然たる星々が覆う。
ジバツェリン一行がアザン・バリの夏営地に着いたのは六月のことだった。ジバツェリンは着くや否やアリンを馬上から引きずり下ろし、小高い丘の上に連れて行く。そこには一つの石柱が立っていた。ジバツェリンの父ジバの墓に違いない。ジバツェリンはアリンをその前に跪かせると、曲刀を抜き振りかぶった。
「待て、ジバツェリン」
アリンのあまりにも落ち着いた声にジバツェリンは動きを止めた。ただの命乞いの声ではない。
「なんだ」
「お前はジバの息子か」
ジバツェリンは訝しんだ。
「何を言っている。当然だ」
「では、アザン・バリの酋長か」
「お前さては錯乱したか」
「今のお前にとってより重要なのはどちらだ」
アリンは跪いたままジバツェリンを見上げた。
「もし、父よりもアザン・バリが重要だと言うならば俺と取引をしよう。アザン・バリ酋長ジバツェリン」
ジバツェリンは曲刀を下ろすと刃をアリンの首にあてた。
「手短に喋れ。少しでも余計なことを言えば斬る」
「ここから生き残れば俺は帝国で叛乱を起こす。スンジャタからギン・ヘチェンにまで及ぶ大叛乱だ。俺が玉座を奪い取り皇帝になった暁には長城以北の土地はお前達に安堵してやる。以後帝国は二度と手を出さない」
「笑止。今でも帝国とは友好を保っている。何よりそんな現実味の無い話聞く気にもならんわ」
「友好というのは口だけだ。帝国に余裕ができればいつ攻めてくるか分からんぞ。何しろここは我々の故地だからな。上乗せしよう。叛乱に乗じて帝国に攻め入り、アザン・バリが俺より先にギン・ヘチェンを落とせば、ギン・ヘチェンから長城までの一帯はお前達のものだ」
それにはジバツェリンも眉を動かした。その話は旨味がある。現実味は無いが、もし成功するならばアザン・バリをこれまでになく豊かにしてやることができる。
「どうだ、俺をここで殺してその可能性を閉ざすか、それともそれを保つか、今ここで選べ」
少し考えて、ジバツェリンはアリンの首に刃を押し当てた。血が二筋流れ出る。
「その口の利き方気に食わん。だがいいだろう。やってみるがいい。その代わり右腕は置いて行け。父はお前に右腕を切り落とされて首を刎ねられたのだから」
アリンはくく、と笑う。
「左にしてくれ。右はまだ使う」
「……よかろう」
刃が一閃した。
アリンは馬に乗りアザン・バリの夏営地を離れた。そのまま遥か先スンジャタへ向けてひたすら東する。南には行けない。アザン・バリに売られた身で長城の関所を通るわけにはいかないからだ。
アリンは馬上で身体の均衡を崩しそうになった。熱がある。そして何より片腕分の重みが左半身から無くなっていた。まだそれには慣れない。これからずっと東に行くということは東北地方へ行く前に峻厳な東天山を越えなければならないということだ。片腕が無い状態で一人でそれをすることになる。あまりに無謀。しかしアリンは朦朧としながら口に笑みを浮かべた。
「デルギニャルマも越えたのだ。俺にできない訳がない」
彼は帰り着かねばならない。何としてでも。
一年が過ぎた。帝国暦一六四一年八月深更、太子エルデムは自邸を抜け出して内城の十字路を横切り一軒の家に入った。それはエルデムが買い取った小さな家である。中に入ると一つ蠟燭の明かりが点いている。既に先客があった。長い官服を着て椅子に座った金髪碧眼の男、宣教師ルスタチオ・アルドロヴァンディである。
ルスタチオはエルデムが右足を引き摺っているのを見咎めた。
「殿下、おみ足が」
「到頭足まで来たね。随分前から震えていたけど」
エルデムと皇帝アルハガルガの宿痾(しゅくあ)である。身体の一部が震え、次第に動かなくなる。エルデムは左腕で自分の椅子を引き寄せた。既に利き腕である右腕は動かなくなっていた。エルデムは椅子に座ると一息ついた。
「でも陛下よりはまだいい。陛下はお立ちになれないから。ねえルスタチオ、こうなってみると私は陛下の切なさが分かるような気がする」
「……とおっしゃいますと」
「陛下も昔からこうやって震えや麻痺に悩まされてこられたのだけど、それは必然としてデルギニャルマの美徳からは外れるということなんだ。デルギニャルマは尚武を旨とするけれども、こんな有様で戦うことなんてできないからね。私も陛下もデルギニャルマとしては欠陥なんだ」
「そんな殿下」
エルデムは微笑んで首を振る。
「どう足掻いてもそういうことだよ、ルスタチオ。だから陛下はデルギニャルマの文化がお嫌いなのかもしれないね。ところで知ってる? つい昨日デルギニャルマの不平分子が捕まえられたよ」
「存じ上げております」
「そう。みんな不安で不満なんだ」
太子は上向いて天井を見上げた。
「さあ、聞かせてよ、ルスタチオ。私達の救いを」
ルスタチオは頷くと、彼等の教典を開いた。
「はい。それでは第八章三節から……」
アルタガナは、ある日虫の知らせがしてスンジャタの邸宅を飛び出した。門から出て辺りを見回す。すると向こうの方から襤褸(ぼろ)を纏った黒い髪の男がやって来るのが見えた。その男は左腕が無い。まさか、いやそんな、しかしと思う。アルタガナは駆けだした。そしてその男に抱きつく。男は右手でアルタガナの頭を撫でた。
「遅くなったな」
アルタガナは目に涙をためてアリンを見上げた。
「なんで、こんな」
アリンは歯を見せて笑った。
「話せば長い。それより少し休ませてくれ」
アルタガナがアリンを寝室まで連れて行くと、アリンはアルタガナの手を取ったまま泥のように眠った。
アリンが起きたのは二日後のことだった。きちんとした服を身に纏い庭先に出ると、紫衣の青年がギン・ヘチェンへ出発した時と同じ姿で立っていた。メイレンは片腕の無いアリンを見ても顔を曇らせることなく、かえって面白そうにする。そしてアリンの目を見て、にっこりとした。
「いい目をするようになりましたね。覚悟が決まったようだ」
アリンは答えず、メイレンの方へ進み、そのまま横に立つ。
「そろそろ聞かせろ。お前の目的は何だ」
メイレンは目を細めた。
「私は歴史や人の歩みが好きなんです。だから私は究極が見たい」
「究極?」
「そう、歴史の究極が。この目で歴史の大変動を目の当たりにしたいのです。あなたがこの帝国を覆す大叛乱を起こし玉座を獲る力があるのならば、実際にそれが起こる様を見てみたい」
アリンは右手を握り締めた。
「いいだろう。見せてやる」
メイレンとの話が終わって部屋に戻ろうとすると柱の影にナバタイがいた。その白髭の老人はアリンの虚ろな左袖を手に取るとさめざめと泣いた。
「聞いていたか、ナバタイ」
「はい。聞いておりました」
「どうする。お前は付いてくるか」
そうアリンが言うとナバタイは一瞬言葉に詰まって、しかし、
「アリン様の行かれる所、このナバタイどこまでもお供します」
と言った。
アルタガナも同様だった。次の日の昼アリンとアルタガナは遠乗りに出かけた。スンジャタからしばらく馬で走ると少し開けた野原に出る。そこには黄色い花が一面に咲いていた。名前を彼女と同じアルタガナと言う。アルタガナは風に吹かれる髪を押さえながらアリンに向かって笑った。
「こんな所いつの間に見つけたの?」
アリンはさあという顔をする。二人で野原の上で横になった。アリンが右側、アルタガナが左側。必然的にアルタガナが目にするのはアリンの左袖である。アルタガナはその左袖を取ると額に押し付けた。アリンは彼女の長い髪を右手で梳く。
「お前はどうする、付いて来るか」
「アリンはどうして欲しいの」
「来て欲しい」
アルタガナは左袖を額から外すとにっこりした。そしてアリンの左肩を撫でる。
「この代わりくらいのことは私できると思うんだけど、どう思う?」
アリンは笑ってしまった。
「頼もしい左腕だ」
笑いを収めると呟く。
「さて、ここからが難しい」
スンジャタとアマルギを掌握し、叛乱へ導かねばならない。そのことについて後日メイレンに尋ねるとメイレンは天を指差した。
「そう時間はかかりませんよ。言ったでしょう。この長い冬であなたの覇道は肯定されると」
皇帝アルハガルガは五匹の龍に象られた玉座に座り額を手で押さえていた。全てが自分を阻む。まずギン・ヘチェン内ではデルギニャルマの一部が策動している。根本を捕えようとしてもデルギニャルマ同士で庇い合ってそれを妨げる。ギン・ヘチェン鼎定以来数千人に膨れ上がっているデルギニャルマ全体がアルハガルガには敵に思えた。
そして何よりこの治世以来続く異常な寒さ。既に各地で食糧が尽き小反乱が頻発している。それを鎮圧させる軍隊に十分な糧食と俸給を与えるので精一杯。ギン・ヘチェンや河城といった物資が集中する大都市はまだましだが地方は厳しいどころの話ではないだろう。確実に飢えているに違いない。だからといって何もできないのだが。以前は税の減免をしていた。しかし「冬」が長く続き過ぎている。減免で済むような境界をとっくに越えていた。
アルハガルガもこの時代の何者も知りはしない。アルハガルガの治世は丁度小氷期の始まりにあたる。寒冷な気候はこの世界の全球的な現象で、それはこれ以後数世紀に渡って続くのである。帝国の外では数多ある王朝が次々に倒れつつあった。
しかし、一人の人間アルハガルガは思った。簒奪した帝位、それを天は嘉(よみ)しなかったのではないかと。天の大いなる手が自らを阻んでいる気がする。
そう考えている内に、一人の男が朝政殿に入って来た。隻眼のギン・ヘチェン守備董松である。董松は跪いた。
「叛乱を画策しておりましたデルギニャルマの一人を捕えましてございます」
「一人か」
「は」
「まあよい。吐かせるだけ吐かせた後に斬首しろ」
「は」
董松は下がった。朝政殿を出たところでその武将は思った。あの皇帝は決して暗愚ではない。しかし一人の皇帝を評価する時に、気候や災害その他諸々を差し引いて考えてはくれないのが民衆なのだと。
董松はギン・ヘチェンを取り巻く城壁に上り、その上から城(まち)を見渡す。
「さて、どうなりますかね……」
同年、帝国暦一六四一年の年末、スンジャタで戦いが始まろうとしていた。
その戦いを始めようとしたのはアリンではない。アマルギ部である。事の始まりはスンジャタがアマルギ部からの支援要請を断ったことであった。アマルギ部とスンジャタは共に結氷の戦い(ゲチェヘ・ダイン)を戦ったことから友好を保っていた。であるから、アマルギ部もスンジャタに略奪に行くことはなく、窮乏しても支援要請をするに留めていたのだが、それをスンジャタは断った。だがこの話、スンジャタに非があるわけでもない。スンジャタもほとんど食糧が底をつき、スンジャタ内の不満を抑えるので手一杯だったのである。
スンジャタ総督ナシンは甲冑を着こんで山上から山裾の明かりを見下ろしていた。あの明かりのある所に東北辺境一の戦闘部族アマルギ部がいる。スンジャタの全軍勢を傾けたとして勝てるかどうか。ナシンは全滅を覚悟した。
「ナシン!」
そこに一人の青年が馬で駆けてきた。黒髪に片腕の青年アリンである。
「アリンか、ここはじき危なくなるぞ」
「ナシン、俺がアマルギ部と交渉してくる」
「何⁉」
アリンはにやりとした。
「なにせ婿だからな」
それからアリンが山裾の方へ行くと、アマルギ部族長ハダが出迎えた。
「アリン、加勢か」
アリンは頭(かぶり)を振る。
「違う。そちらに加勢を頼みに来た」
「何だと」
ハダは耳を疑う。アリンはハダに向かい右手を差し出す。
「ハダ、どうせスンジャタを掠奪しても得るものは無い。それより俺やスンジャタと叛乱を起こし帝国本土へ行こう」
ハダは大笑いした。
「アリンよ、俺は仮にも部族の命を預かっているのだぞ」
アリンは笑わない。ただ漆黒の瞳でハダを見据える。
「ならばこの話乗る価値がある筈。友好を保って来たスンジャタを攻め一握りの種籾を得るのと、本土へ行き部族を食わせてやるのと、同じく犠牲を払うならどちらを選ぶ」
ハダは三つ編みの髭を捻っていたが、やがてアリンの右手を取った。アリンはハダとアマルギ部と共にスンジャタの山を駆け上る。ナシンはアリンが交渉に失敗したものと見て弓を構えさせていたが、それをアリンは一喝した。
「ナシン! 撃つな。話がある」
アリンはナシンの前に立つ。
「ナシン、俺と共に帝国で叛乱を起こそう」
「なんだと、お前何を言って。俺はスンジャタ総督だぞ」
「スンジャタ総督ならばこそだ。お前はこのまま民を飢えさせるつもりか。こうしていても誰もスンジャタを救いはしない。帝国の助けはこの東北辺境の地には届かない。それはずっと昔からそうだろう。お前は帝国に忠誠を誓うのを本分とするのか、それともスンジャタの民を救うのを本分とするのか、どちらだ、答えろナシン‼」
ナシンは呆気に取られていた。しかし、この男もアリンの手を取る。
ナシンの手を握った時にアリンは気配を感じて即座に振り返った。そちらの暗がりにいたのは紫衣の青年メイレン。彼はアリンに向かって口を動かす。
よくできました。
メイレンは暗がりから出て来るとアリンに向かってにっこりとした。
「あとは任せてください。私があなたを肯定する」
政治的祝祭が始まる。数百年前の伝説を忠実になぞって。冬晴れの空の下、スンジャタで数百年振りにハンが即位した。スンジャタ総督府の前、アマルギ、スンジャタの民衆が環視する中それは執り行われた。メイレン、ナバタイ、ナシン、ハダ、アルタガナの五人が漆黒の青年アリンを取り囲み、古(いにしえ)の王(ベイレ)たるメイレンがアリンに弓と刃を手渡す。メイレンは高らかに宣言した。
「ここに我らが東のハン(デルギ・ハン)が即位する。集え東北の民、集えデルギニャルマ、集え暗愚なる皇帝アルハガルガを打倒する者共!」
数百年も空いていたハンの位というのは虚飾かもしれない。しかし、スンジャタ、アマルギ十五万の民を纏め上げるには政治的な仕組みが必要だった。それには燦然と光り輝く虚飾こそが必要だったのである。この儀式でナシンやハダの持っていた全権はアリンに移譲された。代わりにメイレン、ナバタイ、ナシン、ハダ、アルタガナの五人は王としてアリンを補佐することになる。アリンは弓と刃を手にして民衆を見回す。
「お前達はこの辺境の地で見捨てられてきた。だが俺はお前達を決して見捨てはしない。誰が見捨てようと、天が見捨てようと俺はお前達を見捨てない。付いて来い我が同胞(はらから)‼」
巻き起こる喝采と熱狂。何もかも宿命だったのですよとメイレンは心の中で言う。
あなたが五つの塔に囲まれる山(アリン)の名を持って生まれてきたことも、あなたのその類稀なる才能も、そしてこの長い冬も、全てあなたに伝説を繰り返させるため、あなたに覇道を歩ませるため。天の大いなる手があなたを誘(いざな)い、弓と刃があなたを導く。
アリンの吐く白い息が天へ昇ってゆく。東のハン(デルギ・ハン)。自らに与えられた称号。しかし、思わず苦笑する。東の(デルギ)とは、まるで西のハン(ワルギ・ハン)がいるようではないか。
構わない。誰が俺を阻もうとも俺はギン・ヘチェンを落としアルハガルガを殺す。
アリンは弓と刃を掲げる。
それがこの記録の始まりから十一年経った帝国暦一六四二年正月一日のこと。デルギ・ハンことアリンによる大叛乱の始まりであった。
東北地方から帝国本土への出口、天下第一関山海関は七日で破られた。もとは堅固な要塞だったのだが、そもそも帝国内にある関所なので「敵」の侵攻をまるで想定していなかったのである。そこにスンジャタ兵とアマルギ部、そして食い詰めたスンジャタの民衆から成る大量の民兵が押し寄せた。彼等は全てデルギ・ハンを戴き、ハンの命に従う。もっとも訓練されてもいなければ軍中で誰かに従うという経験も無い民兵を統率するのは骨が折れることではあったが。
降伏してきた山海関の指揮官は十一年前にアリンが通った時から変わっておらず、この東北の地ではあり得ない程ぶくぶくと太った男だった。その男は山海関を落とされてアリンの目前に引き出された時に、かつて自分がアリンに対して働いた無礼を思い出した。「どうせあんなガキすぐにおっ死(ち)ぬのさ」とそう思っていたのに、自分は捕えられ今その「ガキ」に見下ろされている。指揮官は小刻みに震え出した。
「斬れ」
アリンがそう命じると、指揮官の脂肪に満ちた首が飛んだ。実際の所アリンは自分がかつて遇った無礼のことなど欠片も覚えていなかった。ただ、長年東北に流れ込む物資の上前を撥ねていたであろうこの男を生かしておくのは益が無いと思っただけだ。
かくして山海関は落ちた。しかしこの関所はアリンの軍勢に攻められてすぐ伝令を飛ばしていた。行き先は帝国の北部を流れる北河下流域の要衝、河(か)城(じょう)。河城の提督如冀(じょき)と副官ギョワンは東北叛乱の報を受けて血相を変えた。これは近頃頻発している小反乱どころの話ではない。帝国を揺るがしかねない大叛乱であると。
「行ってくれるか、ギョワン」
「承知」
赤銅色の髭をした副官は、河城の軍勢をまとめ上げるとすぐに山海関へと向かった。ギョワン等が到着したのは山海関が抜かれた後のこと。既にアリン軍は山海関を越えた大平原に布陣して河城軍を待ち構えていた。両軍布陣してしばし睨み合いが続く。
その最中、折しも吹いてきた強風に砂塵が巻き上げられ両軍の間を砂煙が覆った。太陽が砂で遮られ平原は暗くなる。それに河城軍はたじろいだ。その瞬間砂塵を突き破って東北辺境最強の戦闘部族アマルギ部が突出してきた。アマルギ部は二手に分かれると河城軍に矢を射かける。その間からスンジャタの官兵・民兵が突進してきた。砂塵の中大混戦になる。誰が敵で誰が味方なのかこの視界では分からない。ただアマルギ部が卓越した目と技術で次々に河城軍を屠っていくだけである。巻きあがる砂が赤く染まっているように見えるのは錯覚ではない。
これは退(ひ)くべきか、とギョワンが考えていたところで、彼に斬りかかる者がいた。白髭の老武者である。ギョワンは彼と打ち合いになった。随分年はいっているだろうに冴えた剣筋をしている。
「名を聞こう」
「侍衛ナバタイ」
ナバタイは裂帛の気合のもと大上段に構えて刀をギョワンに振り下ろした。ギョワンは辛うじてそれを受け止める。
その時横からナバタイに斬りかかる者があった。河城軍の兵士である。ナバタイはそれを間一髪でよけると、砂塵の向こうに退いて行った。ギョワンは一息つく。
「これはやっとられん。退くぞ」
かくして河城軍の撤退戦が始まった。撤退戦の常として損害は出たが、河城軍は概ねよく守り、河城内に立て籠った。三重の城壁を盾にした彼等の籠城が始まる。
一方のアリン軍は周辺地域からの民衆を吸収して見る間にその勢力を膨張させていった。いずれの地方でも暮らしは逼迫し、いつ飢え死にするかという状態で、アリンの叛乱軍に参加する方がまだ食っていける見込みがあると民衆は考えたのである。河城の手前に駐屯した段階で総勢三十万。
それにアリンは頭を悩ませた。兵力が増えるのもいい。支持者が増えるのもいい。それは叛乱の成功に不可欠である。しかし問題は補給だった。この碌に資源も持たない状態でどうやって三十万も食わせればいいのか。一体この貧窮した帝国でどうやってそんな食糧を確保するのか。民衆は食い詰めた末いい目を見れるかもしれないからアリンに付いて来ているのであって、決して忠誠心は高くない。食糧の配給が滞れば離反と自壊を招く。何よりアリンは彼等を見捨てないと言った。
北河の濁流を見て考えるアリンにメイレンが近付いてくる。
「何を考えているんです。河城を落としましょうよ。あそこは商業的にも帝国東部の中心です。この帝国の中でもまだ物資があります」
「城攻めか? それは下策中の下策だ。ギン・ヘチェン以外でそれをやる気はない」
城攻めということは城塞に立て籠っているという相手の圧倒的な優位のもと戦わなければならない。だから古の戦法書でも他に方法が無い時にしか取ってはならない下の下の策とされている。しかも、この河城については水攻めや兵糧攻めによる持久戦が使えない。河城側よりも先にこちらの物資が切れることがあまりに明白だからである。つまりは短期決戦しか方法が無いのだが。
「あんな城(まち)を攻めればどれだけ死ぬことになるか分からん」
河城は三重の城壁を持つ大要塞都市。ただ城の防御だけを取って見れば或いはギン・ヘチェンよりも落とすのが難しいかもしれない。
「いいじゃありませんか。何がいけないんです。いいですか、これからギン・ヘチェンに行くとします。そのために西へ進むとしても、あの河城が残っている限り後ろから衝(つ)かれるんですよ。そして今こちらには補給が無い状態で三十万人います。人間は余っているんです」
アリンはメイレンの胸倉を掴んだ。メイレンは動じない。
「あなたは復讐のため我慢がならなかった。彼等はひもじさに我慢がならなかった。ならばあなたの取るべき道はただ一つ、そうではありませんか」
「――ッ」
アリンは苦悩の末決断することになる。
アリンの三十万の軍勢は河城から遠ざかり西へと向かい始めた。それを見て河城提督如冀と副官ギョワンは城壁の上で話し合う。
「ギョワン、どう思う?」
「どう思うも何も、河城攻めを諦めて西へ向かっとるんだろう。それ以外に何がある」
「私が危惧しているのはその行き先だ。どうも噂によると奴らは皇帝陛下の打倒を標榜しているらしい。ならば奴らの行き先は一つ、帝都ギン・ヘチェンだ。このまま放っておけばギン・ヘチェンがやられる」
如冀は考える。今は三十万だが、ギン・ヘチェンへ行くまでの道のりでさらに数が膨れ上がるに違いない。そうなればいかなギン・ヘチェンといえども防御が危うい。
「我々は東方鎮守の役目を果たさねばならない」
ギョワンはにやりとした。
「ならばまた俺の出番だな。しかし後背を衝けるとはいえあの数を相手するのは骨だ。全軍を借りて行くぞ」
「仕方がない」
ギン・ヘチェンを人質に取られているようなものだ。ここで必ず奴らを仕留めなければならない。
「では行くか」
赤髭の武将ギョワンは槍を握ると勇んで城壁から降りて行った。
ギョワンの軍勢は進発する。アリン軍に追い付くため、ギョワンを中心とした騎兵が先んじて駆けた。後背からの奇襲。その後に歩兵がやって来る。しかし、もうすぐアリン軍の後尾に追い付くというところでギョワンは背筋が凍った。なぜなら彼が後尾だと思っていたものは決して後尾などではなかったから。そこにいたのはスンジャタ・アマルギの精鋭部隊だった。それが一斉に向きをこちらに変える。雨のような矢が飛んできた。こうなってしまえば、後背を衝くというこちらの優位は失われる。状況的には騎兵だけ突出した状態でアリン軍と正面衝突するということになっていた。
「全て罠だったのだな――!」
戦況は端(はな)から覆っていた。アリン軍の方からアマルギ兵が突撃してくる。その中の頭らしき男がギョワンの首を取るべくこちらに向かって駆けてきた。ギョワンは槍を振るった。槍がしなり弧を描く。それをあちらの男は曲刀で防いだ。しかし遠心力の強さにあちらは体勢を崩す。すかさず、ギョワンは槍を引き、それを男の腹めがけて突き刺した。男は身をねじり槍は脇腹に刺さる。驚いたのは男がそれに動じなかったことだった。男は曲刀で槍を斬り落とすと、そのままギョワンの方に向かってきた。ギョワンは腰に佩いていた剣を抜くも相手の曲刀を弾く余裕が無かった。この猛々しい武将はその男と刺し違えることを選択する。そしてギョワンと男の互いの胸に互いの刃が深々と刺さった。
アリン軍と河城軍の戦いは双方に甚大な被害を出しながら、数で上回るアリン軍が勝った。アリン軍は河城に逃れていく歩兵を追撃しつつ、河城攻略に移る。ギョワンは全軍を連れて行くとは言ったものの、さすがに河城には些かの防備兵が残っていた。しかし、それにしても圧倒的に数が足りないことには相違ない。東方鎮守の大要塞都市河城は一日で落ちた。
雲梯で中に入った兵士が城門を開け、アリン軍が城内に雪崩れ込む。
これより以前、アリンは全軍に向けて次のような布告を出し、厳守を誓約させていた。即ち、
住民を殺傷する者あらば斬る。
住民より強奪する者あらば斬る。
住民を犯す者あらば斬る。
しかし、これまでの鬱屈と戦勝の狂騒によってアリン軍の兵士達に歯止めはかからなかった。これより河城においてアリンの布告は全て破られることになる。
河城生まれ河城育ちの男李(り)譲(じょう)は坂道に建つ家で小さな商店を営んで慎ましく暮らしていた。彼には春鈴(しゅんれい)という妻と紅児(こうじ)という一歳の娘がいる。李譲はその日店を閉め路上に出て、不安げに西の方を見ていた。別に西を見たからといって城壁以外の何かが見えるわけでもない。しかし、西で河城の軍隊と叛乱軍が戦っているというではないか。軍隊が出払った河城は心なしかシンとしていた。
「あなた、中に入って来たら」
家の中から春鈴の声がする。
「いや、うん……」
そう曖昧な返事をした時に遠くから声がした。
「ギョワン様の軍が帰ってきたぞー‼」
ああ、なんだ。取り越し苦労だったと李譲はほっと胸を撫で下ろし家の中に入った。妻の春鈴は料理をしていて、紅児は床に座って遊んでいる。しかし、紅児は李譲の顔を見るや否や泣き始めた。李譲は慌てて紅児を抱き上げる。
「どうしたんだい」
「あなたが不安そうにしているからよ」
と台所から妻。李譲は娘を抱き寄せ頬ずりする。
「ああ、そうか。ごめんな、ごめんな。怖いことは何も無いんだよ。ここの兵隊さん達が勝ったんだよ」
泣き止まない娘をあやしながら、李譲はやっぱり店を開けようかと考えていた。
事が李譲が考えていたのとは違うと彼のいる所まで伝わってきたのは、一時間ばかり経ってからのことだった。つまり、河城軍は敗走して来たのだと。叛乱軍は河城までやって来て今この城(まち)を攻めているのだと。
「あなた……」
「……だけど、ここの城は壁が三重になっているから……」
李譲と妻子は家の扉を閉め、奥にある寝室で三人身を寄せ合って座っていた。だが夜が更けてから、辺りに火の手が上がるようになった。四方から叫び声が聞こえる。李譲と妻は顔を見合わせると娘を抱えて家から飛び出した。家は坂道に建っている。坂の下から次々に人が走って来る。そちらに目を移せば遠くの方に鎧を着こんだ人間が何人も見えた。李譲にもそれが河城の兵士ではないということが分かった。
「紅児を渡せ。俺が抱えて走る」
「いいえ、私が」
言い争っている暇は無い。結局妻に抱えさせて、李譲達は東へ向かうことにした。この城はもう駄目だと思った。叛乱軍が西から来たのなら東に逃げて東門から外に出るべきだ。あちこちから火の粉が飛んでくる。その中を李譲達は走った。
しかし、ある程度走ったところで、住民達がまた引き返して走って来ていた。東に行く人間と西に行く人間で路上はもみくちゃになる。東から来た人間は「駄目だ」と口々に叫んでいた。
「駄目⁉ 何が駄目なんだ」
東側、坂の上に目を向けるとそちらからも次々に火の手が上がっている。李譲はゾクリとした。あちらからも叛乱軍が来ているのだ。どうすればいいのか、西も駄目、東も駄目。ならばもうどこかに匿(かく)れるしか。そう思って妻に声を掛けようとしたところで、李譲は傍らに妻の姿が無いことに気が付いた。辺りにあるのはただ人の波ばかり。春鈴……?
「春鈴ー‼ 紅児ー‼」
李譲は大声で呼ばわるが返事がない。ただただ人の波が続く。目を凝らしても妻子の姿は見えない。李譲は声も涸れんがばかりに叫び続ける。しかし、同じように叫ぶ声が方々から上がって李譲の声はほとんどかき消されそうになった。どうすれば。そう考えている内に坂の上、すぐ側で悲鳴が上がった。遂にそこまで敵軍がやって来たのである。もうその兵隊の姿は李譲にありありと見えた。
「春鈴ー‼ 紅児ー‼」
辺りを見回す。いない。いない。喉が渇く。李譲は側にいた男からの返り血を浴びると、その場から一散に駆け出した。南して路地に入る。李譲はそこの物陰に隠れて満身震えた。戻らなければと思った。戻って探さなければと。しかし、もうあんな状況で探すこともできないのは確かで。李譲はただただ震えた。
そうしている内に女が目の前を通り過ぎた。衣服が乱れている。それを後ろから走って来た兵士が羽交い締めにする。悲鳴が上がった。兵士は女を組み伏せると衣服を剥ぎ取り犯し始めた。李譲は息を呑む。ただ女の咽び泣くような声が続く。李譲は平生正義感の強い男である。しかし、その男がこの光景を見て何もできなかった。李譲は目を瞑り、目の前の女のことではなく妻のことを考えた。絶対に探し出さねばならない。
その行為が終わった後、女の首は裂かれた。兵隊が去った後物陰から出た李譲は、駆け出す前に女に手を合わせた。
はぐれたであろう所に戻る。すなわち東西に向かう人でもみくちゃになった場所へ。しかし、そこに戻った李譲は言葉を失った。そこには生きた人間はおらず、死体の山が積み重なっていたからである。李譲はふらふらと歩いた。見つかって欲しくないと思いながら。その時、坂の下の方から騎馬がやって来た。今のこの状況で馬に乗っている人間と言えば敵に違いない。李譲は死体の山に隠れた。冷たく、血でぬめった。息を殺す。馬の蹄の音が近付いてくる。近付いて、近付いて、そして李譲の前で止まった。
腕を掴まれ死体の山から引きずり出される。李譲は悲鳴を上げた。
「許してください、許してください、許してください」
馬の主は無感動に李譲を見下ろす。
「お前、金は持っているのか」
「え、は、はい!」
李譲が財布を出すと、その兵隊はそれを引ったくり、李譲をぶん殴って坂の上の方へ去って行った。李譲はその場にへたり込む。そこにまた一騎通りがかった。
「お前金目のものは」
李譲は言葉が出ない。しばしの沈黙の後、騎兵は鼻を鳴らすと李譲の首を刎ねた。
明け方、アリンは河城の城内を歩いていた。石畳が血でぬめる。歩いていて死体が目につかないことは無かった。
住民を殺傷する者あらば斬る。
住民より強奪する者あらば斬る。
住民を犯す者あらば斬る。
あまりにも易々とアリンの戒めは破られた。
「……これは俺の咎だ」
アリンは河城中央にある提督府に行った。そこには一人の男が捕らえられている。河城提督如冀。アリンは縄で縛られたその男の前に立った。
「会ったことがあるな」
如冀は顔を上げた。
「ええ。あなたが幼い時にお会いしました。あなたがスンジャタへ流れていく最中のことです。よく覚えていますよ」
「そうか」
「……一つ、お尋ねしたい。あなたの理想は何ですか」
「暗愚の皇帝アルハガルガを打倒し、この帝国全体に恵みをもたらすことだ」
「ははははははは!」
怜悧な提督はアリンを嗤(わら)う。
「あなたにはこの光景が見えているのですか。何が恵みです。片腹痛いですな」
「俺はお前に俺の傘下に入らないかと提案に来たのだが、どうもそれは叶わないらしい」
「分かり切ったことです。お聞きなさいますな」
如冀は項垂れる。彼の乱れた髪が顔を隠した。
「私はこれまでずっと皇帝陛下の命に忠実に仕事をしてきました。言われた事を分を越えず成し遂げる。それがわたしの本分なのだと。しかし、ただ一つだけ悔やむことがある。それは初めてあなたに会った時あなたを殺しておかなかったことです」
「ああ、悔やめ」
アリンは剣で如冀の首を落とした。
そして傍らにいるナシンに向かって言う。それは地獄の底から響いてくるような低い声だった。
「この惨状に関わった者全てを斬れ」
「しかし、アリン、数が多過ぎる」
「構わない。俺は既に斬ると布告した。ここでやった奴らはギン・ヘチェンでも同じ事をする。必ず斬らなければならない。住民から奪った財物を懐にしている者は全て斬れ。城内に入ってからの手柄話をしている人間は全て斬れ。例外は許さない」
また血が流れる。アリン軍に殺された住民と、斬首されたアリン軍の兵士の数は相半ばした。東方の要たる大都市をむせかえるほどの血と死臭が覆った。
アリンは歩く。河城の外へ。河城の外では河城軍との戦いで死んだ兵士達の死体が並べられており、一つの死体の側でアルタガナが泣いていた。ギョワンと相討ちになったハダの死体である。アリンは後ろからアルタガナを抱きすくめる。
「お父さんが、お父さんが」
「アルタガナ、俺は進むぞ。何があろうと俺は進む」
アリンはアルタガナを更に強く、抱き締めた。
河城攻略の戦後処理が終わった後、デルギ・ハンたるアリンと王(ベイレ)たるナバタイ、メイレン、ナシン、アルタガナの四人は帷幕(いばく)の中で会議を開いていた。ナシンはアリンに向かって身を乗り出した。
「アリン、ギン・ヘチェンに行くのはやめて南に行こう」
「これ、ハンとお呼びせんか。我らがハンをお名前で呼んでいては下の将士に示しがつかんわい」
「ナバタイ、構わない。どうしてそう言う、ナシン」
「ギン・ヘチェンに行くより、このまま南に行く方が食糧がある」
今アリン達がいる北河下流域から南に行った南江下流域は帝国屈指の穀倉地帯だった。
「駄目だ。このままギン・ヘチェンに行く」
「何故だ」
「あの皇帝は殺さなければならない」
「それはお前の都合だろう。俺はとにかくスンジャタの民を食わせてやらねばならんのだ」
そこでメイレンが割って入った。
「ハンの御意思は絶対ですよ」
ナシンは頭(かぶり)を振った。
「もう沢山だ。何がハンだ、何が王だ。もうそんなごっこはやめさせてもらう。アリン、俺はスンジャタの人間を率いて南に向かう。お前がこのまま西へ向かうと言うならここでおさらばだ」
「残念だ、ナシン」
アルタガナはそれでいいのかとアリンに視線を送った。アリンは頷いた。
二月、雪の降る日、アリン軍は二分された。ナシンが率いるスンジャタの民五万とアリンが率いる十万とに。お互いがそれぞれの方向に進もうとする時、アリンはナシンとの別れを惜しんだ。
「ナシン、初めて会った時のことを覚えているか」
黒髭のスンジャタ総督は目を伏せた。もう彼の髭には白いものが混じり始めている。
「応ともよ。結局お前には弓で勝てなかったな」
「ああ、結局俺がお前の部下になることもなかった」
そこでアリンはナシンから視線を切って西へ向いた。
「行け、友よ。さらば」
二つの軍勢は動き出した。
スンジャタの勢力が抜けたアリンの軍勢はしかし、西へ進むごとにその規模を膨らませて行った。そして――ギン・ヘチェンへ。
八月、寝台の上で横たわる太子エルデムは左手を動かし、手近に置かれている档(とう)案(あん)を読んだ。そこには東北地方から始まった叛乱の様子がありありと書かれている。そしてその首謀者の名も。
「アリン……」
二月、初めてアリン叛乱の報が伝わって来た時には、生きていたのかという思いと何故という思いがないまぜになった。そして皇帝打倒を掲げていると知った時にはアリンはやはり許せなかったのだと思った。そして今、どうしようもなく寂しい。叛乱を起こされている当の帝国の太子にはあるまじき感情であろうが寂しい。こうなってはどちらかが滅ぶまで止まりはしない。
また左手を動かし別の档案を読む。エルデムの右半身は最早動かない。彼の病は父のそれよりも進行が速かった。廃太子の噂も囁かれている。別にそれはどちらでも構わないのだが。その档案にはデルギニャルマの策動が書かれていた。アリンの叛乱が起こってから動きが活発になっているらしい。董松らが逮捕処刑しているがその結果も思わしくないとのこと。そこで到頭大鉈を振るうことになり、昨日は二百人捕えたようだ。
彼等の間で回っている文書がある時こちらの手に入ったが、そこには皇帝アルハガルガが偽皇帝であると書かれていた。即位の時の噂が繰り返されている。すなわち、アルハガルガが父であった大行(さきの)皇帝を毒殺し帝位を簒奪したということが。そして彼等はムドゥリの息子アリンをこそ帝国の正当な後継者とみなしていた。
更に別の档案。講和していたアザン・バリが再び長城を攻めてきている。叛乱の鎮圧に兵を回さなければならないが、北方を放置するわけにもいかない。結局ギン・ヘチェンを守るべき軍を一部割いて北方防衛にあたらせている。帝国内が叛乱に震撼している中、北方の状況も予断を許さない。
また一通、これは秘密の書簡。宣教師ルスタチオ・アルドロヴァンディから。神について書かれている。この世の全ては神がお決めになったのだと。そして最後には神がみなを救ってくださるのだと。
「アリンの叛乱も、この長い冬も、私達がこうなっていることも全て決められていたというの、ルスタチオ」
最も重要なのは、いかなる時にあっても信じ、そして祈ることです。
エルデムは書簡を置くと麻痺した右手の指の間に左手の指を差し込み、神に祈りを捧げた。
デルギニャルマの官僚トゥワは、内城の屋敷でデルギニャルマの貴顕達と密会を重ねていた。トゥワは高位の文官であり、デルギニャルマの保守層の中でもそれなりの位置を占めている。彼等が話し合っているのは、デルギ・ハンことアリンによるギン・ヘチェン攻略に合わせて、城内で叛乱を起こす計画であった。
無論この計画が露見すれば、ここにいる者全てが斬首になる。しかし、それでも計画は進んでいた。それだけ、帝国の大瞭化を急速に進めるアルハガルガへの反発が強く、ハンとしてデルギニャルマの特質を体現するアリンへの期待が大きかったのだ。
トゥワは二年半前、皇帝の祝宴の場で挨拶をしたアリンの姿を思い出す。漆黒の髪と瞳、逞しく育った青年の姿を。彼はまさしく、在りし日にトゥワを引き上げてくれた皇子ムドゥリの生き写しだった。
トゥワは知らず拳を握る。本来であれば、ムドゥリ様こそが皇帝になる筈だったのだ。その位をアルハガルガが謀略によって奪い取り、あまつさえ、ムドゥリ様を死に追い込んだ。自分達がやろうとしていることは、皇帝の位をあるべき方にお返しする大義である。
密談は続く。
董松は自邸で鎧を着こむと、ユエランの部屋を訪れた。日中彼が彼女の部屋を訪れることはほとんど無いので、ユエランは読んでいた本を閉じると彼の方を向いた。董松は部屋の柱にやや身体を預けて腕組みをする。
「アリンの叛乱軍がギン・ヘチェンに迫ってきていることはあなたも知っているでしょう。あの進み具合を見ると、あと五日くらいでしょうか。これから私はずっと現場に張り付きます。しばらくは帰ってきません」
「そう」
ユエランの素っ気ない返事に董松は苦笑する。そしてまた口を開いた。
「一つ聞いてもよろしいですか」
「何」
「あなたは私を夫として愛していらっしゃいましたか」
ユエランは固まる。この男は今一体何を聞いているのだろう。こんなことはこの男との長い結婚生活の間、一度たりとも聞かれたことがなかった。だって、きっとこの男はその答を知っているから。
「ふ、聞いておきながら答を求めているんじゃないんですよ。私の話をしたい。私はあなたを妻としては愛していなかった」
「……そう」
「ええ」
男は片目を閉じた。そして再びそれを開け、優しく笑う。
「でも、あなたのことは愛おしかった。結婚をする前から、あなたという人が愛おしかった。だからユエラン、あなたに歴史を選ばせてあげる」
男は言った。
「あなたは私に陛下とアリン、どちらについて欲しいですか」
ユエランはその大きな目を見開いた。董松を見つめる。心臓が高鳴る。ユエランは知っていた。この男は本気でこれを聞いているのだと。
ギン・ヘチェンの守備軍から圧倒的な人望を集める董松。三十万の守備軍の動向はこの男の意向次第で全て決まる。だから董松が父につくかアリンにつくかで事の趨勢は大きく変わる。まさしく歴史の選択。ユエランは自分の指が震えているのを自覚した。
けれど、彼女の答は決まっていた。それはもう、皇女の位にこの身が置かれてから。
「あなたの役目を果たして。ギン・ヘチェン守備董松」
彼はそう答えたユエランをしばし見つめると頷いた。
「分かりました」
九月、風は蕭々として冷たく、鈍色の雲が空を覆う。
百万に膨れ上がったアリンの軍勢はギン・ヘチェンの半里手前で陣を敷いていた。
ギン・ヘチェン側も元より臨戦態勢である。城壁の上には刀、槍、弓、そして鉄砲を持った兵士達が並ぶ。その中心にいる隻眼の男董松はアリン軍を見下ろす。黒い叛乱軍は海のように連なっていた。その先頭中央に黄色い龍の旗が掲げられている。あそこにアリンがいるのだろう。そういえばムドゥリ様も軍の先頭を好んだ。彼の人によく似たアリン。その軍が今ギン・ヘチェンに向けて前進を始めた。董松は兵士達に鉄砲を構えさせる。龍の旗が突き進んでくる。
私が組むべき相手はあなただったのかもしれませんがね。
「まあ、そんなものはあり得なかった」
董松は剣を抜くと、それを頭上に掲げた。そして振り下ろす。
「放て」
ギン・ヘチェンの城壁の間から鉄砲が一斉に火を噴いた。その音と弾丸にアリン軍は恐慌状態になる。黄色い龍の旗を持った兵士も胸に弾を受け死んだ。アリンとその両脇にいるアルタガナ、ナバタイは暴れる馬を落ち着かせる。アリンはギン・ヘチェンを見やった。
「あれが鉄砲……」
アリンも鉄砲について聞いたことはあった。大きな音と共にすさまじい速さで弾丸を放つ兵器であると。しかし、帝国内の圧倒的な地方差によって実物を見たことが無かった。ナバタイはアリンに馬を寄せた。
「ハンどうします!」
「構わず進むぞ。城壁の陰まで入ってしまえば撃ってはこれまい。第二射が来る前に駆けろ!」
ほとんど策略も何も無い突撃。ギン・ヘチェンから放たれる鉄砲と矢によってアリン軍の兵士はばたばたと倒れていく。しかし、城を短期間で強攻するとはこういうことである。百万対三十万。城を攻める時には概ね敵の三倍の数を集めろと言われている。ギン・ヘチェンとアリンで形勢は五分と言ってよかった。
アリン達は駆ける。アルタガナは弓に矢をつがえた。彼女は地上から城壁にいる兵士を次々に屠っていく。そして彼女は天性の目で見つけた目標に向けて矢を放つ。
「閣下!」
戦況を注視していた董松はその矢が身に届く一瞬前に気が付いた。しかしよけきれず矢は右肩に刺さる。
「‼」
明らかに自分を狙って放ってきた矢。董松は信じられない思いでいた。並の腕ではない。
「今撃ってきた者を撃ち漏らすな。放て」
ギン・ヘチェンの鉄砲が再び火を噴いた。そして、それは過たず、
「アルタガナ‼」
アリンは叫ぶ。アルタガナは銃弾を受け落馬した。アリンの馬は前へ向かって駆け、地面に横たわる彼女はどんどんと遠ざかる。しかし最高指揮官であるアリンは引き返すことが出来なかった。苦悶の声を上げながらアリンは駆ける。
アリン軍は屋根付きの雲梯を用意していた。城攻め用の梯子だが、それに弓よけの屋根がついている。アリン軍はそれを遂にギン・ヘチェンの城壁にかけた。兵士達が梯子を上っていく。もうそうなってしまえば銃が威力を発揮する距離ではない。どうするかとギン・ヘチェンの兵士が振り返ったところで、董松は抑揚の無い声で命じた。
「油を流せ」
雲梯についている屋根は矢を防ぎはするものの、油の一滴も通さないというものでは素よりない。梯子を上っていた兵士は上から流れてきた煮えたぎった油を満身に浴び、悶えながら地面へと落下していった。
攻防は続く。一時間経って雲梯はかけられているものの、一人の兵士もギン・ヘチェンの城壁に上ることはできていなかった。そこに董松のもとへ伝令が飛び込んできた。
「閣下、城内で叛乱がおこりました!」
董松は前々からそう来るだろうと思っていた。この機会をデルギニャルマの反体制派が逃すはずがない。アリンが攻め入るのに合わせて必ず動きを見せるに決まっている。だから董松は既に鎮圧用に部下を割いていた。
「それで規模は」
「三千です」
「何だと」
それには驚愕せざるを得ない。デルギニャルマの成年男子がほぼ叛(そむ)いたことになる。董松の背に冷たい汗が伝う。叛乱が起こるとは思っていたが、まさかそんな規模になるとは考えていなかった。先に派遣していた部下たちでは明らかに足りない。董松は一万を更に派遣することに決めた。ただでさえアリン軍と対峙しているのだから兵を割きたくないが、早く鎮圧せねば宮中にいる皇帝の身が危ない。しかし、なんとまあ、三千とは。
しくじりましたな、陛下。
アルハガルガはそれだけ憎まれていたのである。彼が行ったことの善悪はともかくとしてそれだけは確かだった。董松は城(まち)を見下ろした。だが己の役目を果たせと言われた。それを違えるつもりはない。
城内では火の手が上がっていた。城内のデルギニャルマが目指すのは主に二地点。宮城(きゅうじょう)と、そして防備の薄くなっている西門だった。一般民衆の中にも立ち上がる者がいた。彼等はデルギニャルマの問題とは関係無く、この長い冬と飢えの不満を爆発させた。それゆえ、叛乱者達の数は董松に報告された三千を大幅に超え一万八千にも及んだ。
宮中は俄かに慌ただしく防備を固め、デルギニャルマの叛乱者達と戦闘に入った。その混乱を抜け、宮城から走り出る者がいる。ルスタチオ・アルドロヴァンディ。彼が目指すのはただ一か所。
西門が遂に開け放たれた。想定を遙かに超えた数の叛乱者達に守備兵が敗れたのだ。西門から外にいるアリン軍に連絡がされ、アリン軍は西門へと殺到した。
太子エルデムの邸宅も襲撃を受けていた。エルデムの私兵達が叛乱者達と戦う。しかし、いかに言っても多勢に無勢。そこに金髪碧眼の宣教師が飛び込んできた。彼は私兵達に言う。
「陛下の御命令が下った。殿下をお連れして城外へ逃れよ!」
私兵達は顔を見合わすや否や逃走の準備を始めた。ここから逃げ出したいというのは彼等の総意だった。エルデムは子供と共に訳も分からないまま担ぎ上げられ馬車に乗せられる。その馬車にはルスタチオも乗り込んだ。
「どういうことなの、これは」
「陛下の御命令です。太子は城外へ逃れよと」
エルデムはルスタチオの青い瞳を見た。
「……嘘だね、ルスタチオ」
馬車は猛烈な勢いで走り始めた。太子がどれだけ引き返すよう叫んだとしても馬車は止まらない。その馬車は開放されたという噂の西門まで行き、そこから城外に出た。無論途中でアリン軍とぶつかった。しかし、河城の虐殺とその後の処刑を経たアリン軍は明らかな「非戦闘民」に危害を加えようとはしなかった。馬車は走る。御者は外から中にいるルスタチオに声を掛けた。
「しかし、どこに行けばいいので」
「南城だ」
ルスタチオははっきりとそう言った。南城には兄弟子のベルトランド・シモーニがいる。まずはそこに身を寄せよう。その後はとにかく逃げる。この方をお救いするためならば、私の国までお連れしてもいい。喚くエルデムを宥めながらルスタチオはそう考えた。
西門から城内に入ったアリン軍は城内と城壁に展開されていた防衛軍と正面から衝突した。最早こうなってしまえば、籠城側の優位はほぼ失われている。そして数としては圧倒的にアリン側が多かった。やがてアリン軍はギン・ヘチェンの軍隊を次々に飲み込み、董松の元まで辿り着く。
隻眼の男、帝国一の武将、ギン・ヘチェン守備董松は剣を構えてそれを待ち構えた。敵軍の先頭になって走って来るのは漆黒の髪と瞳を持った片腕の青年。董松はその土壇場で痛快に思う。やはりあなたは先陣を切ってやって来る。
董松はアリンに向けて剣を振り下ろした。それはアリンの左袖を切り裂く。アリンが躱し損ねたのではない。左腕が無いことを見込んで最小限の動作で剣を避けただけのことである。アリンは踏み込んだ左足に力を入れ身を翻して董松に斬りかかる。董松は素早く剣を引くとそれを受け止めた。しかし、それは弱かった。アルタガナに放たれた矢によって負傷した右肩のせいである。アリンの剣が董松の首に食い込み血が噴き出す。だが董松はそこからなお剣を払いアリンから距離を取った。
董松の血が彼の肩をドクドクと濡らす。こいつはまずいと董松は思った。この出血量、生きるか死ぬかと言われれば死ぬだろう。ならばせめて目の前の相手を討ち取るまで。傷を負っての戦いは慣れている。董松は剣を前に倒すとアリンに向かって踏み込む。その勢いは神速を極めた。アリンもまた董松に向かって踏み込む。しかし、アリンの方が速い。なぜならアリンの方が片腕の分身体が軽いから。アリンの剣が先に董松の胸を深々と貫いた。董松はせり上がってきた血を吐き出す。血にまみれた口元に笑みが浮かんだ。
「お父上には私が先に会いに行く」
ギン・ヘチェン守備を司る男は城壁の上に倒れ伏した。
アリンは剣を振って血を払うと脇腹を押さえて荒い息をつく。董松の刃はアリンの脇腹を裂いていた。かつて父や兄、自分を縄にかけた男。憎い相手には違いない。しかし、戦で初めて自分に傷を与えた相手にアリンは敬意を覚えた。
城壁の上は概ね制圧が済んだ。城壁の上に座って一息つくアリンの元に、アマルギ部の青年がやって来る。彼はアリンの前で膝をついた。
「ハン、奥方様が」
アリンは身体をビクリとさせた。
「生きているか」
「いえ、お亡くなりに……」
アリンは長く長く息を吐きだした。
「御遺言があります」
「言え」
アマルギ部の青年はアリンに向かって頭を下げた。
「全てを手に入れるようにと」
アリンは立ち上がった。城壁の上から城(まち)を見はるかす。そして目は一点に止まる。宮城。アリンは歩き始め、次第に走り出した。全てを手に入れる。
アリンが宮城に辿り着くとそこではまだ近衛兵とデルギニャルマの叛乱者達との間で戦闘が行われていた。加勢して道を開く。戦闘がほぼ終わったのが一刻の後。ついに残すのは朝政殿のみになった。叛乱軍が朝政殿の扉を開けるとそこには一人の近衛兵もいなかった。いたのはただ一人、玉座に座る男皇帝アルハガルガのみである。
「ここから先は俺一人で行く。それを貸せ」
アリンは側にいた男から大斧を取ると、それを右手で持ち石畳の上に引きずって朝政殿の中に入った。朝政殿の中は陽が入らず、ただ燭台の明かりが照らすばかりである。皇帝アルハガルガは斧を持ったアリンを見下ろす。
「小僧、まずは褒めてやる。よくここまで辿り着いたものだ」
アリンの斧は朝政殿の床を削りながら皇帝に向かって進む。アリンは漆黒の瞳でアルハガルガを凝視した。
「言い残すことがあれば聞こう」
アルハガルガは玉座の肘掛けに肘を置き頬杖をついた。
「特に無いが、問答したいことはある。小僧、貴様はここまで何のためにやって来たのだ」
「貴様を殺すためだ、アルハガルガ」
「朕を殺した後はどうなるのだ」
アリンは答えない。ただ前に進む。
「この玉座、貴様が座るのであろう。問おうではないか。貴様は帝王の器か」
アリンは陛(きざはし)を上ると渾身の力を込めて斧を振るった。
「然り」
斧は五匹の龍が彫られた玉座を深く毀(こぼ)ち、皇帝アルハガルガの首を飛ばした。玉座はアリンの讐敵の血で塗(まみ)れる。アリンは斧を捨てると、首の無くなったその男の身体を玉座から引きずりおろした。
その時声がした。
「アリン」
アリンは思わずそちらの方を見る。玉座の側、柱の影から一人の女が出てきた。黒く長い巻き毛の髪に、透き通る大きな黒い目。
「ユエラン、何故ここに」
「私はこの戦いの間、お父様と共にいることを選びました」
アリンはユエランのもとに駆け寄ろうとしてその動きを止めた。ユエランは抜き身の曲刀を持っていた。それはかつてユエランがアリンに送ったもの。そして祝宴で捕えられたアリンがギン・ヘチェンに残さざるを得なかったものである。ユエランはそれを自分の首にあてた。
「やめろ」
「私は全て間違えた」
「やめろ、ユエラン‼」
アリンは駆け出し、手を伸ばすが間に合わない。朝政殿に新たな血飛沫が舞った。
ギン・ヘチェン陥落、その十日後、アリンは帝位に即(つ)いた。朝政殿の前に広がる大広場に文武百官が整列し、アリンに向かって大歓呼する。
「皇帝陛下万歳、万歳、万々歳‼」
アリンは玉座についた。その玉座はアリンの意向で傷もそのまま、アルハガルガの血もそのままにされていた。血で塗(まみ)れた玉座に座る隻腕の帝王。それは見る者に凄絶な印象を与えた。
アリンの前に王(ベイレ)メイレンが進む。彼は完璧な笑みのもと祝辞を述べた。
「我らが主(エジェン)、我らが皇帝(ホワンディ)、我らが聖なるハン(エンドゥリンゲ・ハン)の即位をお慶び申し上げます」
アリンは頷いた。アリンとデルギニャルマ達によって、アルハガルガは帝位を簒奪した偽皇帝であるとされた。帝国の正当な継承者「皇孫」アリンが帝位を継ぐということは帝国にとどまらず、近隣の集団にも布告された。
それは叛乱に乗じて長城線を攻めたものの、やはり抜くことができなかったアザン・バリに対してもなされた。アザン・バリが帝国を攻めていたからこそ、ギン・ヘチェンの守りは薄くならざるを得なかった。アザン・バリは結果的にアリンを助けたようなものである。知らせを聞いたアザン・バリの酋長ジバツェリンは厳しい面持ちでしばし南を眺めていたという。
即位の祝賀は続いた。しかし、それは突如として破られる。大広場の向こうから一人の武官が朝政殿まで真直ぐ走って来た。それを参列者全員何事かと注視する。その武官は玉座の前まで辿り着くとひれ伏した。
「陛下急報です」
「述べよ」
「南城で前太子エルデムが皇帝に即位しました‼」
玉座の上の青年は小さく、息を呑んだ。
「陛下どうなさいます?」
メイレンが振り返りそう問うてきた。南城で皇帝に即位したということは、明らかにエルデムの勢力がこちらに反旗を翻し、自立したということである。正統性の担保はしたものの、実際の所前皇帝を討ち玉座を奪い取ったアリンと、前皇帝の太子であるエルデムでは天下にどちらが正統とみなされるか危うい。
何故だエルデム。そんなことさえしなければお前だけは救ってやれるのに。
だがしかし、アリンの瞳は揺るがない。帝王として彼が進むべき道は決まっている。
「逆賊は討つ」
時を巻き戻さなければならない。エルデムが南城へと落ち延びた時まで。エルデムを乗せた馬車はギン・ヘチェンから発って六日で南城に着いた。南城は帝国の南を流れる大河南江(なんこう)中流域に位置する都市で、西、南、東の三方向を南江に接している。エルデムの馬車は城門で止められる。宣教師ルスタチオ・アルドロヴァンディが外に出て門衛に事情を説明すると、門衛は城(まち)の中心部まで駆けて行った。門衛に連れられてやって来たのは南城が誇る将軍白志である。白志は馬車の中を覗き込んだ。
「殿下」
右半身の麻痺したエルデムは横たわったまま白志を見る。
「白志か。久し振りだね」
エルデムがアザン・バリに遠征に行った時、白志は副官として従った。敗北の責を負わされ死罪にされそうになっていたところ、エルデムの嘆願により一命をとりとめ、再び南城で将軍の任についていた。
「殿下、事情はお聞きました。ひとまず総督府の方までいらしてください」
総督府に着いてエルデムが馬車を降りようとする時、白志は眉を顰めた。エルデムが一人で立ち上がることもできなかったので。
「もしやお怪我でも」
「いや、ただの病気だよ。悪いが白志、私を抱えてはくれないか」
「かしこまりました」
巨漢の白志はエルデムを抱きかかえ総督府の階段を上ってゆく。そしてそのまま総督府の執務室までエルデムを連れて行った。そこにいたのは赤(せき)義(ぎ)という細身の南城総督である。赤義は白志に抱えられたエルデムに向かって跪いた。
「殿下、どうかしばらくはお休みください。後のことは我らで図りますゆえ」
「ありがとう」
実のところ六日間馬車に揺られどおしで碌に休息を取っていない。エルデムは別室で休んだ。再び白志がエルデムの部屋にやって来たのは一日経った後のことである。
「殿下、お連れせねばならぬ所があります」
白志はエルデムを抱える。
「どこに行くの」
白志は答えず総督府から出た。すると総督府の前の大広場は南城の兵士や官吏で埋め尽くされていた。そして階段の上に一つの大きな椅子が設(しつら)えられている。エルデムはそこにもたれかかるようにして座らされた。大広場の官吏達の中から赤義が進み出てくる。赤義はエルデムの前に叩頭(こうとう)した。
「殿下、どうか帝位にお即(つ)きください」
「何を」
エルデムは当惑した。帝都が陥落して太子が一人落ち延び、行った先で皇帝に擁立される。決してあり得ない展開ではない。しかし。
「待ってくれ」
「殿下、衆望があるのでございます。この帝国の正当な継承者はあなた様。あなた様を皇帝として仰ぎたい者達がこのように集っております。どうかゆめゆめ我らの思いないがしろにはしてくださいますな。重ねて申し上げます。どうか帝位にお即きください」
「私は」
そこでエルデムはかつての父との対話を思い出した。父の言葉が蘇る。
――帝位とは何かを為すべくして即くものではない。即くべくして即くものなのだ。
エルデムは息を呑んで目の前の景色を見た。視界を人が埋め尽くし、それが皆自分を見ている。太子である自分を。そして皇帝たるべき自分を。
「分かった」
エルデムがそう答えると赤義が先導となって大歓呼が起こった。
「皇帝陛下万歳、万歳、万々歳‼」
こうして天下に二人の皇帝が並び立つことになる。
エルデムは椅子に座ったままルスタチオを呼び寄せた。そして群衆を見たまま彼に語りかける。
「私はあなたに謝らないといけないことがあるんだ、ルスタチオ」
「陛下?」
「もちろん私はあなた方の信仰を否定する気は無いのだけど、私としては神様というものを信じられなかった」
「陛下、何を仰って」
エルデムはルスタチオに向かって微笑んだ。
「アリンの叛乱が起こって、ギン・ヘチェンが落ちて、私が皇帝になって、私はこうして起こった色んな事が神様によって決められたことだとはどうしても思えなくなった。偶然も沢山あるけれど、でもあとは人の選択によってこの世界はどうしようもなく回っていくんだ。違うかな」
ルスタチオは狼狽した。彼の十一年が崩れ去る。異国の宣教師は最後に一つだけ縋るように彼の愛弟子に尋ねた。
「では陛下は何をお信じになるというのです……!」
エルデムは再び群衆の方を見た。遠くには城壁、そして空が見える。
「何を信じるのだろうね……」
エルデムは瞳を閉じる。そしてクスリと笑った。また古い記憶が蘇ってきた。太子となった後、ルスタチオに神の国を作る手伝いをすると言われた自分はこう答えたのだ。「私がつくるのは神の国ではなくて人の国だよ」。人の国を作るのならば、やはり信じるのは人の他あるまい。
ルスタチオとの対話が終わった後、エルデムはその場に白志と赤義、そしてルスタチオの兄弟子ベルトランド・シモーニを呼び寄せた。エルデムは三人を見回す。
「遅かれ早かれここにアリンの軍が来るだろう。私が皇帝になって皆の命を預かったからには決して負けるわけにはいかない」
そこでエルデムはベルトランドに視線を止めた。かつて自分は彼にこう言われた。
――しかし太子ということはいずれ皇帝になられるのでしょう。その時殿下はもっと人を殺すものを望み必要とするようになります。必ずそうなります。
半身不随の皇帝と茶髪の宣教師の目が合った。
「私は手段を選ぶつもりは無いよ、ベルトランド」
その宣教師は悪魔的に笑った。
「はい、ご用意しております、陛下」
皇帝アリンが率いる軍は、南城の北面に駐屯した。他の三方は南江に遮られているからである。攻撃の前夜、アリンのもとにナバタイが訪れた。
「陛下、やはり御身のためにも出陣はおやめになった方がよろしいのではありませんか。我らがきっとあの城を落として参りますゆえ」
アリンはナバタイの肩に手を置いた。
「これは俺の性分なのだ、ナバタイ。何よりこの一戦、俺が最前線に出て士気を上げる必要がある」
白髭の侍衛は少し悲しげにしたが、やがて笑みを浮かべた。
「誠にお父上によく似ていらっしゃいますな」
メイレンもアリンのもとにやって来た。
「私はいつものように後方で陛下の凱旋をお待ちしております」
「ああ。……メイレン」
「はい」
「お前は満足しているか」
メイレンはアリンに歴史の究極を見たいと言っていた。それが満たされているかと聞いている。メイレンは微笑んだ。
「まだですよ、陛下。まだこの戦もあるではありませんか」
「そうか」
アリンは思った。この戦が終わろうがこの男が満足することはあるまい。この戦が終わったら斬る。さもなければ後の帝国で何をしでかすか分からない。彼等の頭上を覆うのは満天の星。そして一際赤く輝くのは戦乱と禍の星、螢惑(けいこく)。
夜は明ける。一六四二年九月の払暁(ふつぎょう)、前進するアリン軍の甲冑が煌めいた。それを南城の将士は固唾を飲んで見る。そしてアリン軍が南城から十分な距離に近付いた時、城壁の上の将軍白志は剣を振り上げた。
「待って」
白志が振り返ると白志の後方に用意された椅子にエルデムがもたれかかっていた。
「それは私がやらなければならない」
エルデムは城壁の外を見つめると左腕を振り上げた。その視線の先にいる幾百万の人々と、そしてアリンの姿を幻視する。手を振り下ろした。
「放て」
その号令とともに、南城が誇る八つの最新兵器がアリン軍に向けて火を噴いた。すなわち「大砲」が。放たれた砲弾は直進するアリン軍に直撃し、一片の容赦も無く炸裂した。
アリンの右後方でそれは爆裂する。アリンは爆風を被った。馬が転倒し身体が地面に投げ出される。アリンはその衝撃に頭をぐらつかせながら起き上がる。
「何が起こった」
見回せば軍のあちこちで黒煙があがり、叫び声がする。異臭が鼻をついた。阿鼻叫喚の焦熱地獄。右側を見ると、アリンの右を走っていたナバタイが首がへし折られた状態で横たわっていた。
「くそ!」
アリンは立ち上がる。するとチカリと南城の城壁で八つの光が瞬いた。空気を裂いて何かが急速に飛んでくる。そしてそれは再び爆裂した。それが吹き飛ばした土が空高く舞い上がり、ザアアと音を立ててアリンに降り注ぐ。その中でアリンは理解した。向こうは巨大な弾を撃ってきているのだと。
圧倒的な死の砲弾が彼等を襲う。アリンは軍隊を速やかに前進させた。南城に近付くことによって、大砲の射程範囲を抜けるためである。しかし、城壁の陰まで入り雲梯をかけたアリン軍を更なる炎熱が襲う。それは城壁の上から落とされた火薬壺だった。その爆発は雲梯を破壊し、兵士達の生命を急速に奪っていく。そして一つの壺が皇帝アリンの上で炸裂した。
アリン軍は総崩れになった。そこを更に城門から出た白志の騎馬隊が追撃する。アリン軍と追撃隊は南城の北方で再び戦闘になった。戦いは南城側優位のまま進み、南城から遥か北まで伸びる屍の道が作られた。
しかし、その追撃戦が行われていた時、南城の開け放たれた城門の前でふらりと立ち上がる男がいた。軍隊が北に移った後の南城城門前は静まり返っている。男は残された片方の腕、右腕で腰の赤い三本線が入った革の鞘に入る曲刀を抜いた。帝国一の仕事が為されたその刃は赤く輝く朝日を反射した。その男に門衛が気付いた一瞬後には門衛の首は搔き切られていた。
グヌアリン(行けアリン)。
門を抜ける。男は全身に火傷を負い瀕死だった。しかし、彼は道中を阻む者を全て斬り捨て駆けた。腹を裂き、胸を突き、首を飛ばし、城壁の上につながる階段を駆け上る。石畳を血みどろの足が蹴る。男自身の血と返り血が身体から飛び散り床を赤黒く濡らしていった。
グヌアリン(行けアリン)。
その姿はまさしく鬼神。一陣の凶風(まがつかぜ)。宿命と彼が定めた覇道の全てを背負い男は走る。
ベリジェイェンシムベヤルミ(弓と刃がそなたを導く)。
そして男は辿り着いた。彼が目指した相手の前に。目前の椅子にはもう一人の皇帝がもたれかかっている。二人の帝王の目が合った。男は歩む。しかし、二歩、三歩歩いた所で膝をついた。そこが彼の生命の限界だった。男の手から曲刀が離れ石畳の床にカラリと音を立て落ちる。
エルデムはそれを見ると身をよじって椅子から落ち、左手と左足でその男のもとまで身体を運んでいった。そして男の右手を左手で掴んだ。
「アリン」
アリンは答えなかった。彼の命は尽きていた。
この書物が終始姿を追ってきた男がその一生を終えた。しかし、その後のことも書かねばなるまい。
アリンの死後、南城で即位した皇帝エルデムは北方の帝都ギン・ヘチェンに移り、その玉座についた。彼は周囲の諫言を振り切って、敢えてアリンを自分の前代の皇帝として位置付けた。ギン・ヘチェンにはトゥワを始めとしたデルギニャルマの保守層が残っていたが、彼等がエルデムに対して叛乱を起こすことは無かった。それをエルデムの人徳によるものとするのは簡単だが、裏ではエルデムとトゥワ達によって帝国の未来が激しく論じられ、それによってどうにか落としどころを見つけたという経緯があった。
河城からアリンと別れた元スンジャタ総督ナシンの軍は南江下流域に跋扈(ばっこ)していたが、エルデムによって放たれた討伐隊により、一年と経たず討ち取られた。
最後に残った王(ベイレ)メイレンの行方は杳(よう)として知れない。
エルデムは進行する病に耐えながら、長い冬の続く大叛乱後の帝国をよく統治した。彼の二十年続いた治世は中興として称えられることになる。
これが彼等の覇道と王道の果てであった。
帝都ギン・ヘチェンの宮中にある一室で男は一息ついた。目の前には男が手掛けた渾身の仕事である一つの紙巻がある。男はそれに手を置くと、最後にその紙巻の名を記した。
デルギ・ハンの大叛乱
皇孫アリンの復讐
帝国暦一八四二年九月十六日擱筆。