第1話 異世界転移させた
僕が朝登校して下駄箱を開けると上履きが無いとか上履きに画びょうが入っているとか、そんなことは無いわけだけれど、そのあたりもまた「考えてるよね」という感じで、いっそあからさまなことをしてくれたらどんなに話が簡単かとかそういう何百回も考えたことをまた考えるのだった。
教室に僕が入ると朝から賑やかだった教室の中が一瞬シンとして、一、二秒くらいしてまた騒がしくなった。これはいつものことなのだけど一向に慣れない。クラスの奴らがいる何らかの空間に入るか、彼等彼女等の前を通り過ぎる時いつも、こういうみぞおちから上を締め付けられるような感覚にさせられる。
僕が自分の席に座ると、隣の席でだべっていた二人がそこから離れた。まるで、何か大きなばい菌の塊が隣にやって来たかのように。そう言えば、僕の名前は倉木功と言うのだけどこの半年以上名前で呼び掛けられた記憶がない。「ねえ」とか「おい」とかそんな感じ。名前すら気色悪いのだろう。
僕は今中学の二年生で、こういうことになったのは今年の五月頃からだ。それで今十一月だから半年以上これが続いていることになる。きっかけといって、何かが思い浮かぶわけではない。ただ、クラスが出来上がった初っ端に誰ともさして仲良くなれなかっただけなのだ。
僕が受けているのは多分いじめなんだと思うけど、靴を隠されたりとか、金銭をせびられたりとか、机に油性ペンで何か書かれたりとか、暴行を受けたりとかそういうあからさまで先生や大人に相談しやすいタイプのいじめは受けていなくて、今席に着くまでにあったああいうのとか、無視とか、陰で何か言ってるとか、そういうとてもお手軽で、クラス全員で参加しやすい、そして先生や大人に相談しても「気にし過ぎじゃないか」と言われかねない曖昧な何かが延々と続いているだけなのだ。そういう訳で僕は誰にも相談できず、ひたすらこの状況を耐えている。
昼休みの時間、給食を食べ終わると僕はいつもなるべく速やかに教室から出て行く。そして校舎の四階にある図書館に行って、図書館に行くだけだとクラスの連中と会う可能性があるので、生徒は誰も行かない書庫まで入って、誰も読まないような古い本を隅の窓辺で読んでいた。
その日もそうしていた。
文字を目で追いながら、僕は気持ち悪くて仕方がなかった。別にその日だけのことではない。いつものことだ。ふと考える。この、僕が背にしている窓は、人一人出られるだけの大きさがあるよな、と。
世の中のいじめで自殺する人達は、ニュースで見るともっと激しいいじめを受けていて、だから僕みたいな曖昧ないじめで自殺を考えるなんてひょっとしたら意気地が無いのかもしれないけど、でももしそう言ってくる奴がいるなら僕の答えは「じゃあ、お前がこうなってみろよ」で、要は僕はとっくに限界なのだった。
四階から飛び降り。多分死ねる。というか屋上を除いて一番高い所がここなので、飛び降りるならここが最適だった。遺書を書くべきではと思ったが、それももうどうでもいいと思った。窓を開けて窓枠に足をかける。
その時頭の中に声が響いた。聞いたことも無い女の人の声だ。
『やめなさい。命を粗末にすることはありません』
僕はその声に戸惑い、かつ激しく余計なお世話だと思った。
『あなたの苦しさは分かります。私はあなたを助けに来たのです』
僕は足を窓枠から外した。
『そう、あなたは死ななくてもよいのです。私は異世界の女神。あなたをここから救い出してあげます。私はあなたを異世界に転移させる。異世界での暮らしは苦しいものですが、ここからは逃げられます』
ラノベはそれなりに読むので異世界転移と言われてすぐにイメージはできるが、まさか自分がそんなものを持ちかけられるとは思わなかった。気が狂ってしまったのだろうか。しかし、自暴自棄になっていた僕にはそれもどうでもよかった。ただただ女神とやらの言葉に違和感があった。
『さあ、こちらにいらっしゃい』
「お前さ」
僕は激しい憎しみをこめてその声に答えた。
「来る所間違ってるだろ。僕を助けに来たんだったら、何で僕をそんな苦しい世界へ転移させようとしてるんだ。違うだろ、僕をいじめている奴ら全員を転移させろよ。それが僕への救いだろ」
『…………』
「どうした」
『いえ、全くあなたの言う通りだなと思いまして。分かりました。そうしましょう』
それきり女神の言葉は聞こえなかった。そして昼休みが終わる頃僕が図書館から戻ると、教室が空になっていた。
第2話 僕は何をしたのか
僕は空っぽの教室を見て、しまった次の時間は体育かと思った。けれど時間割を確認したら次の時間は英語だった。じゃあ、全員で何か僕を抜きにして企んでいるんだろうと思った。だけど、始業時間になってもクラスの連中は帰って来なかった。やがて英語の先生でありまたこのクラスの担任でもある芹沢がやって来て教室を見回し、僕に尋ねた。
「倉木、みんなは」
「分かりません」
心の底からそう答えた。つまるところ、僕は女神に対する要求とこの状況を結びつけていなかったのだ。だって異世界転移なんてありえないんだから。
「参ったな、どうしたんだろう」
芹沢は廊下にフラフラ出て行って辺りを見回し、放送をかけに行った。僕は急いで教室に戻るようクラスの連中に呼び掛ける芹沢の放送を聞きながら、この状態がずっと続けばいいのにと思った。
結局その日クラスの連中は誰一人帰って来ず、僕のクラスでは全ての授業が無くなり、僕は帰宅した。家に帰る途中足元がフワフワした。今日は幸福だった。あり得ない程幸福だった。あいつらがいないというだけでどれだけ気が楽か。本当にこれがずっと続けばいいのに。一瞬女神との会話を思い出したが、あまり深く考えなかった。
次の日学校は本格的にパニックになっていた。クラスの連中は学校からいなくなっただけでなく、家にもどこにもいないというのだ。当然のことながら保護者が学校に殺到していたし、警察も来ていた。そこでやっと僕はこれは大変なことになっているんじゃないかと思った。僕が教室の前にいると芹沢が僕を見つけて手招きした。
「倉木、こっちへ」
そちらへ行くと小さな面談室まで連れていかれた。芹沢ともう一人知らないおじさんが僕の目の前にいる。
「こちらは警察の岡田さんだ」
警察という言葉に僕がびくっとすると、岡田さんは慌てて手を振った。
「警察と言ってもなにも倉木君をどうこうしようとかそういうのじゃないから、安心して。ただ今日は話が聞きたいんだ。みんながどこに行ったのかとか、何でもいい。何か知っていることは無いかな」
「何も……」
二人の大人は僕の言葉を待っている。でも僕が言う事なんて無い。
「本当に何も。昨日の昼休憩は一人で図書室に行っていて、それで休憩が終わる頃に教室に帰ってきたら誰もいなかったんです」
芹沢は僕の顔を覗き込んだ。
「事前に何か聞いたりとかしていないか」
僕は笑いそうになった。事前に何かって。先生、僕はクラスの連中に碌に会話もしてもらえなかったんですよ?
「何も聞いていないです」
芹沢と岡田さんは顔を見合わせ、芹沢がドアを開けた。
「分かった。倉木、今日はとりあえず三組に混ぜてもらえ。先生にはもう連絡してあるから」
その日の午後には学校全体で授業を取りやめて全校集会が開かれた。そこで僕のクラスの生徒が一人を除いて全員いなくなったことが共有され、何か知っていることがあれば申し出るようにということと、普段通り過ごすようにという無茶な要求がされた。
「昨日、お昼休みに真美としゃべってたの。そしたら急に真美がいなくなっちゃって。いなくなったというか、消えちゃったというか。私怖くなって……」
三組の机に座っているとそういう会話が聞こえてきた。それで、ああなるほど、そういうことになるわけかと思った。この頃になると僕は段々この件と女神との会話を結び付け始めた。異世界転移なんてあり得ないが、今の状態だってあり得ないのだ。そう考えるようになって僕の心に湧き上がって来たのはもうあんな目にあわなくて済むという強烈な安堵と決して無いとは言えないざまあみろという気持ちと、そして微かな、ごく微かなチリチリとした感覚。
それから数日たったが三組での学校生活は悪くなかった。まだ遠巻きに見られている感じはあるが、それは当たり前だし悪意を感じなかったから、今までに比べればはるかにマシだった。だから僕は五月以降初めて快適に学校に通えるようになった。隣の教室にぽっかりと空いた空洞は僕にとって救い以外の何ものでもなかった。
だけど、一ヵ月経って僕はテレビで見てしまった。このクラスほぼ全員行方不明の件は明るみに出るやいなやテレビでも新聞でも報道されたけど、丁度一ヵ月の時にも特番が組まれたのだ。そこでクラスメイトの母親がカメラの前で涙ながらにこう言っていた。
『もう帰って来ないんじゃないかって思ってるんです。死んでしまったんじゃないかって』
それを見た時、僕の心の中にあったチリチリとしたものが急に強くなった。その僕の心を焦がしていたものの正体は、罪悪感だった。僕はその晩自分の部屋で布団をかぶって一つの言葉を一心不乱に唱え続けた。
「殺したんじゃない、殺したんじゃない、殺したんじゃない……」
確かに異世界転移しているのならば、彼等は異世界で生きているはずで死んではいない。あくまで転移しただけの話である。けれど、こちらの世界の人間からしてみれば?息子、娘や知り合いが異世界に転移するのは死んでしまったのとどれだけ違うのだろうか。僕の頭はグチャグチャになった。
そもそもあいつらが悪いんだという思いと、だからといってやり過ぎだという思いと、こうなるなんて分かっていなかったという思いと、それは言い訳にならないという思いと、僕は助かりたかっただけだという思いと、そして……僕は人殺しだという思いが僕の中で一杯になった。
憔悴しきって登校した僕は芹沢に呼び止められた。
「ちょっと来てくれるか」
前に行った小さな面談室に入ると、そこには前にも話した警察の岡田さんがいた。岡田さんは僕にすまなそうな顔をする。
「ごめんな、また来てもらって。もう一度話を聞きたいんだ。倉木君、本当は前回何か話し残したことがあったんじゃないかな。もう時間も大分経っているし、話せるなら話してみてくれないかな」
顔を上げると岡田さんはじっと僕の顔を見ている。それでこの人のことは騙せないのだと分かってしまった。僕は口を開く。
「異世界転移……」
「え?」
第3話 その後の生活
「異世界転移したんです。みんな」
「イセカイテンイ? ごめん、おじさん分からないんだけど、それはどういう」
「みんな別の世界に行ってしまったんです。僕が望んだから……」
「おい、倉木! ふざけたことを」
僕を叱ろうとする芹沢を岡田さんは手で制止した。落ち着いた声で岡田さんは僕を促す。
「ゆっくり、なるべく初めの方から話してみてくれる?」
「はい……」
僕は五月からクラスでいじめられていたことと、書庫での女神との会話について話した。僕が話し終えても大人二人は黙っていた。しかし、しばらくして岡田さんはぽつりと「可哀想に」と言った。僕は一体何に対して可哀想なのだろうかと思った。いじめられていたことか、そこまで思いつめたことか、それともこんな気が狂ったようなことを言っていることか。
「分かった。ここからは先生と話をするから教室に戻ってくれるかな」
「あの! 僕は捕まりますか。死刑ですか」
僕の言葉に岡田さんは目を丸くし、穏やかに首を振った。
「君を裁く法律はこの国に無いよ。ゆっくり休みなさい」
面談室から出ると、芹沢が追いかけてきた。
「おい倉木、いじめなんて何で先生に相談してくれなかったんだ。何で今になって」
芹沢の言葉を聞いて、罪悪感に満ちていた僕の心の中に怒りがこみあげてきた。
「だって先生、どうせ言っても助けてくれなかったでしょう」
僕は芹沢を置いて三組へ戻った。
僕の「供述」が学校や警察の中でどう扱われたのかは知らない。けれど岡田さんの言った通り僕が捕まることは無かった。代わりに僕にはカウンセラーさんがつけられた。週に一回その栗本さんというおばさんと放課後に三十分喋って帰る。
「何か大きな不幸があった時に人はその理由を探しがちなのよ。とくに自分の側に」
栗本さんは品良く穏やかに僕に語りかけた。
「じゃあ、今回のことも単に僕の理由探しの妄想だって言うんですか?」
「それは分からない。けれど、覚えていてほしいの。人はそうしがちだってことを」
栗本さんの話す内容は僕にとって非常に都合が良かった。その方向で自分を落ち着かせられたらとても楽だっただろう。けれど僕はどうしてもあの女神との会話が妄想よりも実在感を持ったものに思えて仕方がなく、というかそれ以前に栗本さん説では僕がクラスメイトの失踪を知る以前に女神と会話していたことへの説明がつかないので、その安易な解釈で納得することはできなかった。
だけど、四月になり三年生になって生徒もシャッフルされると、何か「一区切りついてしまった」ような感じがした。もう僕は臨時にではなく正規で自分のクラスにいるし、新しい学年では特にいじめられることもなかった。それに高校受験もあるからそれに向けて頑張らなければならなかった。だから時折夢で元クラスメイト達のことを見て飛び起きるようなことはあったけれど、非情なことに僕は前を向いて生きはじめていた。
それから高校に入り、大学に入り、就職した。そして、それから二年経った頃、とあるニュースが伝わって来た。曰く、
行方不明になっていた生徒達が帰って来た。
帰って来るなんてことがあり得るのかと考えて、そういえば僕は今回の異世界転移のルールなんて全く知らないことに気が付いた。十年。あれから十年経ってクラスメイト達は帰って来たのだ。ニュースによれば彼、彼女達は口を揃えて別の世界に行っていたと言っているらしい。それを聞いて僕は僕の罪が露わになっていくのを感じた。本当に僕があいつらを異世界に転移させていたのだ。
この話、どう落とし前をつけるかとそんなことを家で考えていた時、一本の電話がかかって来た。知らない番号からだ。訝しがりながら通話ボタンを押すと、僕と同年代の男の声が聞こえた。
『倉木さんですか、俺安田って言うんですけど覚えてますかね。中学二年の時に同じクラスだったんですけど』
最終話 この話はそういうことなんだよ
電話の相手が中二の時のクラスメイトだと分かった時、僕は不思議と気が静まって来るのを感じた。
「覚えてるよ。そっちはよく覚えていたね」
『忘れるわけねえだろッ!!』
僕は突然の怒号に思わずスマホを耳から離した。
『お前が俺達のことこんな風にしたんだってな』
「こんな風って?」
『とぼけんなよ。お前が俺達を別の世界に送り込んだんだろ』
「それ誰に聞いたの」
『芹沢だよ、芹沢』
僕は露骨に舌打ちした。これはいずれ僕が向き合わなければならない問題だが、それにしても芹沢の行為は許し難かった。
『おい、何とか言えよ』
何とか?何を言えばいいのだろうか。ごめんなさいだろうか。けれど事ここに至って僕はその言葉を言う事に非常に抵抗感を覚えた。
『お前、あっちで俺達がどれだけ大変だったと思ってるんだよ。ほとんど奴隷同然だったんだ。で、十年経って急にこっちに連れ戻されて、中学も卒業してねえのに二十四ってどうすればいいんだよ!』
なるほど、それは確かに大変だと頷いて、なんで僕はこんなに落ち着いているんだろうと思った。僕の罪が露わになって、どうも彼等と彼女等はひどい目にあったらしくて、今その当の相手から怒鳴られているのにどうして僕の心はこんなに静かなんだろうと思った。どうして。
『おい、なんとか言えよ! こっちはマジではらわた煮えくりかえってるんだよ!』
分かった。僕は心底激怒しているのだ。
「おい、言わせておけば何勝手言ってんだ」
『何?』
「お前、僕のこと覚えてるって言ったよな。じゃあ、僕をクラス全員でいじめていたことも覚えてるな」
沈黙。その後、
『お前をいじめたことなんて無い』
僕はブチ切れた。
「ああ、そうかよ! じゃあ僕もお前達に何もしてない。二度とかけてくんな!」
そのまま通話も切った。僕はスマホをテーブルの上に放るとシャワーを浴びに行った。何もかも洗い流したかった。けれど、怒りと憎しみはどうにもならなくて、僕は何度も浴室の壁を殴りつけた。シャワーを終えて出てくると、またスマホが鳴っていた。同じ番号からだ。出るのはよそうかと思ったが、とことんまでやらなければ終われないという気もした。
『確かに倉木さんが不快に思うようなこともあったかもしれない』
僕は叫び出しそうになった。なんだその言い方。
『でも、これはひどすぎるだろ。俺達の人生どうしてくれるんだよ、え?』
「……ひどすぎる?」
自分の声が低くなるのを感じた。
「言っとくけど、お前達は本来人一人殺してるんだ。お前達が別の世界に行ったあの日、本当なら僕は死んでるんだよ。お前達のいじめのせいで」
『…………』
「これはお前達が始めた話だ。人生どうしてくれるかだって? それはまず僕に言わせろ。僕は絶対に絶対にお前達がやったことを忘れない」
『待てよ、悪《わる》か』
僕はテーブルに手をついた。上に乗っていたコップやら何やらが揺れた。
「ああ! じゃあ、僕も悪かったと言おう。で、お前は許すのか、許さないだろ。お前が悪かったと言って、僕も悪かったと言って、それでも僕とお前は許さないんだ。この話はそういうことなんだよ。分かったか。分かったら、どうせ僕抜きのクラスラインでもあったんだろ。そこに今の話共有しとけ。お前達の内の誰一人これ以上くだらないことで僕に電話をかけてくるな。いいな!」
僕は電話を切り、それから後は着信拒否にした。僕はテーブルから離れて部屋の窓際に行って座った。空が見える。僕はもう平静にそれを眺めていた。僕は自分が言ったことを正しいとは思わない。けれど間違っているとも思わなかった。この話にきれいな丸く収まる終わりなんてものは無く、僕達は互いに憎み続け恨み続けるのだ。
窓ガラスに触って息を吐いた。それでも僕は生きていく。