点と線分の夏

フロントガラスに水滴が伝ってゆっくりと流れていくのを、エンジンが停止する前の最後のワイパーが拭っていった。僕はそれを見てしばらく呆然とした後、運転席から車の外に出た。旧式の手持ち傘を展開する。二十一世紀も半ばになって、こんな旧時代の遺物を使っているのは珍しい。学生時代から三十年使っている傘なのだ。
こういうところでも取り残されているのかな。
ふとそう思って、厭気が差しそうになったから、慌ててかぶりを振った。暗い顔をしていてはいけない。これから見舞いに行くのだから。
仰げば、重たい曇天を背にして、ほぼ直方体の形をした巨大な白い建物が立っている。これがこの県で一番大きな病院だ。玄関前の広場に植えられた梅が真っ赤に咲きほこっている。そろそろ春が来る季節だが、まだ寒く厚い上着を必要とする日が続いていた。
僕はこの病院のどこかで療養しているらしい須藤(すどう)夏(なつ)希(き)という学部生時代の研究室仲間に呼び出された。五十代のいい歳をした親父が「入院してて退屈しているの。来てくれない?」の僅か二文で。しかも信じがたいことにそれが掛け値なしの三十年ぶりの連絡だったのだ。
病院に入ると、入口の所に消毒所があった。ディスペンサーの前に手を差し出して、きちんと消毒してから受付に向かう。受付には二十代くらいの若い男性が座っていた。
「須藤夏希さんと面会したいのですが」
僕がそう言うと彼はタッチパネルをタップし、要領よく情報を引き出した。
「四階東の一番端、四〇一号室です。必ずそこにあるマスクをして行ってください」
僕は頭を下げると側にあった箱からマスクを取り出し、紐を耳にかけた。エレベーターで上に上がると、四階の入口は二重扉になっていて、インターホンで中にいる病院の人に声を掛けて開けてもらうかたちになっていた。その二重扉を通って、これまでの所とは違う極度に清潔な空間に入ったところで、僕は嫌な予感がしはじめていた。
クリーム色の床を歩いて、廊下の端まで行く。四〇一号室のスライド式ドアの横には「須藤夏希」のネームプレートがあった。僕はドアをノックする。
『どうぞ、入って』と幾分機械じみた中年女性の声が中からした。僕はその声に違和感を持ちながら、ドアをスライドさせて中に入る。
『ごめんなさいね、出られなくて』
病室に入った正面、ベッドの横にあるデバイスから、また女性の声がした。合成音声だ。さらに三歩中に入って僕は息を呑んだ。そこには年老いて痩せ衰え身体中にチューブを繋がれた女性が横たわっていた。
「聞いていない、こんな悪いだなんて聞いていない」
僕はほとんど悲鳴のようにそう言った。「入院してて退屈しているの。来てくれない?」だなんてあんな軽い不遜なメッセージを送って来る相手がこんなことになっているだなんて本当に思いもしなかった。
『まあ、悪いのはたしかね。もう私自身は声が出ないの。だから機械にまかせて喋るけど、結構この音声、実際の私の声と似ているのよ。夫が頑張って調整したから』
病床にある彼女はチューブに繋がれた顔の目だけで悪戯っぽく笑った。過ぎ去った年月と取り返しのつかない状況を感じさせるその姿の中、その目だけは僕が三十年前に見た彼女の面影そのままで、心臓を締め上げられたような心地になった。
「いつから?」
『入院したのは半年前。入った時にはもう出られないって分かっていたの。……馬鹿ね、私。こんなことならもっと大暴れしておけばよかった』
「散々したじゃないか」
思わずそう返した言葉に僕と夏希ちゃんは本当に久方振りに顔を見合わせて笑った。もちろん彼女は声を立てなかったけれど。軽く彼女の薄くなった肩が上下していた。それから夏希ちゃんはほっと息をついたようにして、いまだ長い睫毛に縁どられた目を伏せた。それは何か重たい話をする時に彼女がよくしていた仕草だった。
『静(しず)木(き)君、今日あなたを呼んだのはね、まずは会いたかったから』
残酷なことを言う。それに僕は彼女に問い掛けたいことが山のようにある。けれど差し出された彼女の細い腕を僕は黙って握った。
『それからお願いがあるの』
「――聞こう」
『私の遺品整理をしてほしいのよね。書斎に本がぎっちりなの。わかるでしょ? 私の夫は要領の良い男だけど、さすがにあれは無理だと思うの。だから同業者のあなたに頼みたくて』
僕は返答を逡巡した。そんな彼女が死ぬことを前提とした頼みなど聞きたくはない。けれど、何を弱気になっているんだ、とかそういう言葉が必要な時期を過ぎているのも明らかだった。
「分かった」
『ありがとう。書斎の中だけでいいから。あそこにあるものは好きに持って行っていいし、売ってもいいし、覗いてもいい』
「ああ」
『ふう、これで心残りが一つ減った。ねえ、静木君一つ質問』
「ん?」
『私のこと好きだった?』
あまりのことに僕は笑ってしまった。この質問に三十年前の、リアルタイムの僕ならばなんと答えただろうか。ああ、きっと絶句して何一つ言葉を出せなかっただろう。今の僕もこうするのがやっとだ。僕は両手で柔らかく彼女の手を包み込む。
「言わないよ」
それからしばらく他愛もない話をした。彼女が卒業してから歩んできた華々しいキャリアの話。そして、同業者である僕のあまり冴えないそれの話。お互いが歩んできた三十年。けれど、その話にはある人物とある時期のことが決定的に欠けていた。
僕はそれに気が付いていたし、それどころか、今日ここに呼ばれたからにはその話をするものだとばかり思っていた。三十年来の問いが良かれ悪しかれ今日解消されるのだと。けれども、結局そのことにはお互い一言も触れられないまま、夏希ちゃんは疲れて眠りに落ちた。
「……君に会えてよかった」
小さくそう呟いて、僕は彼女の眠りを妨げないよう病室を後にする。きっとこれが最後だった。足を止めそうになるのを、引き返しそうになるのを、強いて歩き続ける。一度戻ってしまえば、再びあそこから離れられるか自信が無かった。

須藤夏希の葬儀からしばらくして、僕は病院での約束を果たすために彼女が旦那さんと暮らしていた家に行った。その一軒家は古くもなく新しくもなく、手入れの行き届いた品のいい感じで、僕が向かうと玄関の所に背の高い僕と同年配の男性が立っていた。彼は僕に向かって頭を下げる。
「こんにちは、今日はどうもすみません。伊藤周作(しゅうさく)と申します」
「こちらこそお邪魔します。静木宏作(こうさく)です」
家の中に通されると、葬儀や何やらで忙しかっただろうに荒れたところが一つもなく、程よく人間の生活感を残す感じできれいに片付いていた。夏希ちゃんが伊藤さんのことを要領の良い男と評したのも頷けた。
「すみませんね、須藤がわがままを申しまして。書斎はこちらです。お茶とコーヒー、どちらをお持ちしましょうか」
いえ、お構いなくと言いかけて、こういうところで遠慮するのもかえって悪いかと思い直したからコーヒーを頼み、伊藤さんに声を掛けて僕は夏希ちゃんの書斎に入った。入った途端、ああやっぱりとは思いつつ僕は圧倒された。
僕と夏希ちゃんは同業者。つまり大学教授。職業柄その書斎と言ったら見る者を怯ませるような本の殿堂になりがちなのだ。この書斎も窓を除いた三面ぎっちり本。床にも本が積み上がり、雪崩を起こしている。夏希ちゃんの専門は広く言ってしまえばヨーロッパ近世における神学だったから、必然的に各国横文字の本が立ち並ぶ。
「僕は君の語学力に付いて行ける自信は無いんだけどなあ」
まあ、整理なので完璧に読めなくても構わないわけだけど。しかし、今更だがなんで夏希ちゃんは僕なんかに遺品整理を任せたのだろう。なにも三十年前に連絡が途絶えた相手に頼らなくったって、単に本の整理なら同僚でもお弟子さんでも適任者はいくらでもいる。
とはいえそんなことを考えていても仕方が無いので、僕はこの膨大な本をどう処理するか頭を悩ませた。どこかの図書館に「須藤文庫」としてごっそり入れてもらえたら話は簡単なのだが。
そう考えていると伊藤さんが湯気を立てたコーヒーを持って来てくれた。洗練された動きですっと部屋に入ってきて、夏希ちゃんが使っていたであろう机に受け皿に載せられたカップを置いた。ミルクと砂糖もついている。伊藤さんは柔らかい雰囲気を漂わせながら苦笑気味に僕へ声を掛けた。
「どうですか、何とかなりそうですか」
「いやあ……」
こちらも苦笑せざるをえない。とりあえず今のところ考えていることを言ってみる。
「どこかの図書館に寄贈できないかなと思っているところです。今どきはどこの図書館もスペースの問題もあって厳しいけれど、須藤さんはこの業界でスターでしたから、彼女くらいネームバリューがあれば或いはと。まずは須藤さんがお勤めだった大学の図書館に連絡してみて、駄目なら古本屋さんを呼んで見積もりをしてもらいましょう」
「なるほど、では連絡してみます」
「あ、ありがとうございます」
頼まれたのだからそのくらい僕がしようかと思っていたのだが、伊藤さんが動き出したのであっという間に僕の仕事が無くなってしまった。伊藤さんは電話をかけに部屋の外へ出て行き、僕はまた書斎で一人になった。僕は仰向いてため息をつくと本棚の枠に手をかけた。正直このくらいであれば誰でも思い付く。本当に僕がここに呼ばれた意味は何なのだろうか。
――あそこにあるものは好きに持って行っていいし、売ってもいいし、覗いてもいい――
じゃあ、ネコババする本でも見繕うかと思ったところで、僕はふと目の前の本が気になった。別にそれが欲しくなったのではない。その本は分厚いハードカバーで二十冊くらいのシリーズものなのだが、三冊ばかり前に突き出しているのだ。僕は基本的にイレギュラーなものが嫌いなのでその三冊を奥に押した。ところが、奥に行かない。何かが後ろにあってつっかえているかのように。
僕はその三冊の本を一旦本棚から抜き出して後ろを覗いてみた。すると奥に黒い紙箱がある。僕は手を伸ばしてそれを取り出し蓋を開けてみた。そこにあったのは――手紙の束だった。
ざっと見ると全て夏希ちゃん宛のもの。差出人も全て同一で滝井誠一と書かれている。僕は慌てて箱の蓋を閉めて、誰もいないはずの書斎を見回した。右手で箱を押さえ、一つ息を吐き出す。確信した。僕はこのために呼ばれたのだと。
――あそこにあるものは好きに持って行っていいし、売ってもいいし、覗いてもいい――
箱の中にあるのは、僕の親友だった男、滝井誠一と須藤夏希の恋文だった。

僕はその箱を自分のかばんの中にしまった。だから書斎から出て、伊藤さんからリビングでもう一杯コーヒーを飲むお誘いがかかると、なにかコソ泥をして呼び止められたような気分になった。
「須藤とは学生時代の知り合いだったんですね」
伊藤さんは上品にコーヒーを口に運びながらそう聞いてきた。僕の素性を知りたいというのは当然のことだろう。自分の妻がいきなりどこの馬の骨とも知れない男に遺品整理をまかせたのだから。僕はどこか罪悪感を感じながらそれを表に出さないように答える。
「はい、大学の学部生時代二年間、そして彼女が修士に上がって東京の大学に行ってから連絡を取っていた半年間は知り合いでした。けれどあることがあってから連絡もとらないようになってしまって、本当にこの前入院している須藤さんからメッセージを貰ったのが三十年ぶりの連絡だったんです」
「あること?」
僕は言葉に詰まった。
「言い出しておきながら、語るに忍びありません。それより、すみませんでした。僕が来るといって驚かれたでしょう」
「まあ、最初は驚きましたけどね。けど彼女は言ったらきかないから。彼女が死ぬちょっと前に病室で話をしていた時、『伊藤、静木君が今度家に来るよ』と言われまして。もうどこから聞いてよいのやらと」
僕は笑ってしまった。破天荒。勝手気まま。夏希ちゃんは最期まで彼女らしかったのだ。そういえば。
「お互い名字で呼ばれていたんですね」
伊藤さんは穏やかに頷く。
「はい。須藤の方は私に恋愛とかそういう感情を持ちませんでしたし、なんというか夫婦というよりも終始一緒に生きていく戦友みたいな関係でしたね」
瞬時に夏希ちゃんと滝井のことが思い出された。ああ、伊藤さんとは滝井のような関係ではなかったのだ、そうではない相手を選んだのだと。軽く聞いたつもりが思ったより踏み込んでしまった気がする。けれど伊藤さんの答は感覚としてはよく分かった。
「僕の所も似たようなものです」
「家庭をお持ちに?」
「持っているというか、お邪魔してるが近いかもしれませんね。シングルファザーとその子どもの所に変なおじさんが一緒になって住んでいるという。でも戦友というよりは救命ボートに三人乗り合わせたというのが近い気もします」
伊藤さんは微笑した。
「子供がいると賑やかでしょう。賑やかなのはいいことです」
僕は伊藤さんの家を出ると車に乗り込んだ。行き先を自宅に設定すると車はゆっくりと目的地へ向けて滑り出した。僕はリクライニングを少しだけ倒して息を吐く。少し疲れた。もちろん伊藤さんは気持ちのいい人だったけれど、遺品整理で一気に何というか動揺した。自動運転になっても一応形だけの前方注視義務は残っているので前を向く。ただ、その最中も思い浮かべていたのは、今僕のかばんに入っている黒い紙箱だった。全く夏希ちゃんはとんでもないものを残していった。あんな子供みたいに本棚の裏に隠して。
――捨てられなかったのだろう。
あの紙箱の中身を伊藤さんに見せるのも、図書館の人に見せるのも違うと思った。だからかばんの中につっこんだ。夏希ちゃんと滝井と僕と、仮にもあの輝かしく呪われた日々を三人で過ごしたのだから、執行人は僕だろう。
「僕がちゃんと捨てる」

家に帰るとシチューのいい匂いがした。「おかえりなさい!」と浩太君が走って来るので抱き上げる。浩太君はまだ四歳だが、軟弱な僕の腕には重い。僕は衰えていく一方だし、浩太君はこれからどんどん育っていくわけだし、いずれこんなこともできなくなるのかなと思う。
台所から浩太君の父親、山田一輝(かずてる)さんが顔を出した。彼はいつも通り柔和に笑う。
「おかえりなさい。疲れたでしょう」
「いや、疲れの方はそうでもないんですが……」
一輝さんは笑顔のまま首を傾けた。何かあるということに気付いたらしい。これは晩ごはんの後に話を聞かれるだろう。
僕達は三年前からシェアハウスを始めている。当時一輝さんは三十一歳、浩太君は一歳だった。三年前奥さんと離婚して、仕事と子育てを両立せざるを得なくなり苦境に立たされた一輝さんは、市役所のウェブサイトにある家庭案内板に自分達のプロフィールを書き込んだ。丁度その頃、僕も一生独りなのは寂しいかなということで家庭を持ちたいと思っていたから、家庭案内板をチェックしていて彼等を見つけた。そこから後はお見合いの要領でお互いのことを知ってシェアハウスを開始した。
僕は大学教授なので出勤時間はやや融通が利く。だから一輝さんの子育てを多少サポートできる。そして彼等との生活は僕にとっても楽しい。浩太君がもう少し育ったらどうなるか分からないが、今の所ウィンウィンな関係と言える。昔はなかなかこういうことは無かったのかもしれないが、最近では僕達のような家庭はそう珍しくない。
リビングで食卓につき三人でシチューを食べる。今日は土曜日で一輝さんの仕事が休みなのと、僕が用事があったのとで、一輝さんが晩ごはんを作ってくれたのだ。ゴロゴロのじゃがいもと人参が入っていて食べごたえがある。けれど優しい味だ。浩太君はそれを大人顔負けの速さでぱくぱく食べる。しかもよく喋るのだから恐れ入る。くるっと丸い目を僕に向けると手始めにこう聞いてきた。
「おじちゃん、どこに行ってきたの」
「昔のお友達のお家だよ」
昔のお友達。その言葉に僕は胸が痛んだ。
「遊んだ?」
「はは、遊びはしなかったなあ」
浩太君は不思議そうな顔をした。
「じゃあ、何したの」
「掃除かな」
「ちょーつまんないじゃん!」
僕は笑ってしまう。そりゃ、四歳児からしたらそうだろう。僕だって掃除は嫌いだ。でも。
「今日の掃除はつまらなくなかったんだ」
一輝さんと目が合った。
浩太君が寝た後、案の定その話になった。僕と一輝さんは食卓について緑茶をすする。一輝さんは穏やかに口火を切った。
「今日、面白かったんですか」
「そう、ですね」
「でもお知り合いの遺品整理だったんでしょう? ……さてはまた本を見つけてきたんですか?」
僕はぎくっとなった。正直言って夏希ちゃんほどではないけど、僕の蔵書のボリュームもなかなかすごい。僕用のスペースから完全にはみ出してパブリックスペースを侵食している。一輝さんは別に怒らないが、時々冗談めかしたお小言を頂戴する。そして確かに今回僕は夏希ちゃんの本を何冊かネコババしてきているのだ。
「図星なんですね」
「ちっ違……わなくはないですけど、違うんですよ。そっちじゃないんです」
夏希ちゃんが残した黒い箱、そしてその中の恋文。それこそが今日一番僕を揺さぶったものだった。考える。捨てよう、捨てよう、やはり捨てよう。しかし……。ひょっとして、もしかしたら。
どうも僕の顔が険しくなったらしい。一輝さんは背もたれに身体を預けて僕から少し距離をとった。
「あまり聞かない方がいいですか?」
僕は悩む。人に話すような話だろうか。でもさっきから急速に生まれた迷いは一人で抱えるには苦しかった。一輝さんは僕より二十も若いのに懐の深い人だから、きっと僕の話を聞いてくれるに違いない。
「コーヒーを、午後から二杯も飲んでしまって眠れそうもないんです。だから、聞いてくれますか」
一輝さんはにこっとした。それなら僕もコーヒーを飲もうと言って台所に行く。そしてコップにコーヒーを入れて戻って来た。
「はい。聞きましょう」
「……死んだ知り合いの部屋を掃除していてです。知り合い宛の恋文が大量に出てきたとして、一輝さんならどうします?」
一輝さんはあっと息を呑んだ。話が読めたようだ。
「恋文とは古風ですね。そのお相手の方に返すというのはどうでしょう」
「死んでます。とっくに」
彼はそれからひとしきり悩むと、僕に答えた。
「じゃあ捨てますね。中身はなるべく見ずに捨てます。思いがこもっているものでしょうから心が痛みますけど、僕なら捨てます」
「そうですよね……。僕もそのつもりでいたんですが」
「一体どうしたんです」
僕は深く息をついた。指を組み合わせてそれを額にあてる。
「でもその中にもしかしたら僕の救いがあるんじゃないかって思ってしまったんですよ」
「恋文の中にですか?」
「ええ」
僕は指をほどいた。心臓が大きく脈打っているのが分かる。こんな話してもいない内からこうなるのかと、僕は切ないような情けないような気になった。
「長い話になります。三十年前、つまり二〇二〇年代、僕の学生時代のことです」
僕の懺悔が始まる。

三十年前のことだ。大学がもうすぐ夏休みに入ろうかという時、すなわち学期末のレポートで学生達が苦しむとき、どうにかこうにか全てのレポートを出し終わった僕は悠々と西洋史研究室を訪れた。するとそこにはやはりレポートにかかりきりになっている同級生二人の姿があった。
一人は須藤夏希。はっきりとした目元にすっきりとした鼻梁と眉。根っからのクールビューティーで、学部生でありながら片手では余るほどの言語を読みこなす。しかも史料解釈も絶品というほとんど天才に近いような学生だった。そんな彼女がまだレポートに手こずっているのは単純に目標が高すぎるからで、ノートパソコンのキーボードを凄まじい勢いで打つ彼女の傍らにはラテン語やギリシャ語の原文史料が積み上がっていた。はっきり言ってたかだか学期末レポートを書くのに読むような分量ではない。
僕は彼女に強く憧れていた。そしてそれだけで済めばよかったのに、恋もしていた。しかし、それはただそれだけの話だ。なぜなら、既に彼女には付き合っている相手がいたから。その付き合っている相手というのが、僕の親友で彼女の後ろの机で同じくレポートを書いているらしい滝井誠一。彼はいかにも文学部生らしい、そして至極頭の切れそうな顔立ちをしていて、夏希ちゃんほどではないにしろ実際大変優秀だった。だがその滝井がその時は顔を青くしていた。
僕は滝井の様子を見かねて近付く。
「レポート書いてるのか」
滝井はノートパソコンを前にして固まっている。彼は画面を凝視したまま低い声で僕に答えた。
「静木、書けない」
見ればワードの画面はほとんど真っ白で、学籍番号と名前だけ書いてある。僕は振り返って時計を確認した。十一時二十分。提出期限は十二時の筈だから、これは厳しい。
「モノはあるのか」
レポートの材料になる史料は読んでいるのかと聞いている。
「ある、ある、全然ある。頭の中に入っているんだ。書けるはずなんだ。なのに言葉が出てこない」
僕は痛ましい気持ちになった。昔の滝井はこうじゃなかった。レポートの一本や二本あっという間に書いていた。しかし滝井は一年前にうつ病で休学した。今年の春に復学したが、まだ本調子ではないらしく、本人曰く頭がうまく回らないそうで、とりわけ書くことに関して障害が出ていた。僕は滝井のパソコンを手元に引き寄せた。
「あらましを言え。僕が書く」
「…………駄目だ、言えない」
僕は滝井と一緒に途方に暮れた。研究室には一応冷房があるのに滝井の顔には汗が滲んでいた。滝井は右手で左腕を強く引っ掻いている。すでに赤い筋が何本もできていた。僕は滝井の右手を止めた。
「たかがレポート一本だ」
「違う」
滝井はそう言った。僕も本当はそう言う滝井の気持ちが分かっていた。
結局夏希ちゃんはレポートを間に合わせ、滝井は出せなかった。
「気にすることないのよ、後期があるんだから」
レポートを出した後で買って来たのだろう、紙パックの野菜ジュースを飲みながら夏希ちゃんはそう言った。夏希ちゃんらしい言葉だ。僕も同感だが、そう言われても滝井は気にするだろうと思った。滝井は遠くを見て何も言わない。夏希ちゃんは飲み終わった野菜ジュースのパックを捨てると僕に振り返った。
「静木君はもうお昼ご飯食べた?」
「いや、まだ」
「じゃあ、三人でラーメン食べに行こうよ。四条で気になっているお店があるの」
四条。遠くはないかと僕は思った。でも言わない。浅ましくも僕は彼女の行く所、どこまでも付いて行きたいと思っていたので。だから、
「四条? 遠くないか」
というのは滝井の言葉。夏希ちゃんは悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、滝井は行かない?」
「行くよ」
こんな何でもない会話でさえも僕の心臓を引っ掻く。僕には持ち合わせようもない余裕が滝井にはある。彼女の何でもない反応でさえ、それは彼専用のものなのだ。「滝井」、「須藤」。彼等は僕の前では互いを名字で呼び合うけれど、僕は滝井が一度だけうっかり彼女の名前を呼ぶのを聞いたことがある。「夏希」と。僕には手が届かない呼び方だ。僕は頭の中で彼女のことをどう呼んでいようが、ずっと「須藤さん」で通している。そしてそれが変わることも無い。
とにもかくにも、大学を後にして四条のラーメン屋に行くことになった。若くて金が無い、そして夏休みに入り時間をもてあました僕らはバスも使わず歩いていくことにした。三人で鴨川の川原を歩く。僕、夏希ちゃん、滝井の並びで。
「東京の院の入試はいつ」
そう僕が聞くと夏希ちゃんは宙を見た。彼女は西洋史にいながら段々とやっている研究が神学に近付いてきたので、僕達のいる京都から離れ、その道の第一人者がいる東京の大学院に進むことにしたのだ。
「八月の末かなあ。まあ受かるだろうけど、早く終わってほしいよね」
いつも通り不遜。けれどその不遜さは決して根拠のないことではない。彼女にはそれだけの実力がある。僕は彼女に感嘆せざるを得なかった。自分も自分の大学で院試を控えているが彼女みたいな台詞は言えそうにもない。
「あ、あそこで渡ろっか」
夏希ちゃんは鴨川の飛び石を指差した。橋は使わずあそこを飛んでラーメン屋のある対岸に行こうということらしい。僕は夏希ちゃんを挟んで滝井と目を合わせるとお互い微苦笑した。
飛び石を渡る。一番前の滝井はひょいひょいと彼女を置き去りにして対岸まで渡ってしまう。僕と夏希ちゃんは着実に、というかもたもたと石から石へ移っていった。途中、川の中央まで来たところで僕の先を跳んでいた夏希ちゃんが振り返った。彼女の長い黒い髪が夏の風になびく。強烈な日差しを流れる川面が反射させ、その光が彼女の透き通るような白い肌をチラチラと照らしていた。僕はつい昨日のことのようにその情景を覚えている。彼女は一旦睫毛の長い目を伏せると、真剣な眼差しで僕を見てきた。
「静木君、ちょっと早いかもしれないけどお願い聞いてもらっていいかな」
「何」
「私がいない間、滝井のこと頼んだ」
それが重たい頼みであることは僕も気付いていた。彼女は滝井の病のこともふまえてこれを言ってきている。復学したとはいえ、滝井が安定するにはまだ時間がかかるだろう。それこそ彼女が東京に行くまでに落ち着くとは限らない。
「分かった」
僕はそう答えた。誓っていうがこれは決して安請け合いではなかった。好きな女の子に頼みごとをされたから頷いたというようなものではなく、一緒の研究室で時を過ごした同志として僕は彼女にそう返事をした。
彼女は笑顔を見せると僕に手を合わせた。僕はそれを思い出すだに胸が痛い。
この何でもない夏の日に三人でラーメン屋に行ったことが、二度と繰り返されることの無い痛々しいまでに輝かしいものであることを僕は当時から既に予感していた。けれど彼女としたあの約束が僕を一生苛むものになろうとは思っていなかった。

年を越えて三月二十六日、僕が他に誰もいない研究室で史料を読んでいると滝井が外から入って来た。僕は史料から一旦目を離す。
「須藤さん行った?」
「ん、駅まで送って来た」
滝井は上着をハンガーに掛けると僕の目の前の席に座った。
「今どき文通だって、どう思う」
「何が?」
「憧れだから文通してみたいんだってさ、はがきとか使って」
僕は彼に笑顔を向けた。別に作り笑いではなかった。もういっそ微笑ましいと思ったのだ。
「なんだ惚気かよ。勝手にやってろよリア充」
滝井もバツの悪そうな笑顔を見せた。滝井はそれから一息つくと急に真面目な顔をした。
「静木、俺就職する」
僕はそれには驚いた。滝井は大学院に進むものとばかり思っていたから。滝井だって病気をする前は言っていたのだ。俺は研究以外には向いていないと。一瞬東京に行きたくなったのかと思った。けれども、滝井がそういうやつではないことは僕もよく知っていた。
「どうしてだ」
「どうしてって、こんな有様でどうやって研究なんかできるんだ」
激しい自嘲を含んだ言葉。滝井の秀麗な顔立ちが一瞬歪んでいた。結局滝井はその時に至るまで書く力を取り戻せていなかったのだ。確かに書けない状態で研究をするというのはかなり難しい。卒業論文さえ危ぶまれる。しかし、僕はどうしても滝井を止めたくなった。彼が本来持っている能力は知っていたし、そして彼が研究以外に向いていないというのも確かにそうだと僕は思っていたから。
「勿体ない。もう一年よくなるのを待つとか考えないか。こんな段階で決めなければならないことか」
滝井は首を振った。
「復学して一年、結局よくならなかった。もう一年待ってよくなるのか。よくなることなんてあるのか。それを待っていたら俺は一体いくつだ」
ただでさえ休学して一年留年したことを滝井が気に病んでいるのを僕は知っていた。激しい焦慮と自己肯定感の低さがその時期の滝井を構成していた。そしてそれが故の無いことではないと僕は分かりすぎる程に分かっていたから、かえって滝井にどういう言葉をかけていいのか分からないでいた。その話も僕はそれ以上何も言うことはできず、滝井は就職活動を始めた。
しかし向いていないものは向いていない。滝井の就職活動は早速暗礁に乗り上げた。とにかく受ける企業受ける企業落ちまくっていたらしい。それは滝井の自己肯定感の低さに拍車をかけた。就活というのは「普通」の人間でもきついのであって、滝井のようなうつの症状を持つ人間にとってはなおさらだろう。
「何もかもがつまらない」
滝井はそう繰り返し呟くことになる。今だったならば、その後を知っている今の僕だったならば、滝井の腕を掴んででも話を聞くだろう。けれど僕はそうしなかった。僕はそういう滝井にどう対応していいのか分からなかった。それに僕は僕で学会で初めて行う発表の準備をしていて忙しく、若干うつ気味でもあり、その何もかもがつまらないという言葉に同感こそすれ、親身になって話を聞こうとは思わなかった。それどころか、いらついてさえいた。一度こういう会話をしたことがある。
「何もかもがって須藤さんのこともか」
「そうだ」
「休め、滝井」
僕はそれを吐き捨てるように言ったのだった。
やがて六月になったが、滝井の就職はまだ決まらないようだった。それに卒業論文の方も何一つ進捗が無いようだった。そんなある日、滝井がやけにさっぱりした顔をして研究室に入って来た。滝井は僕の姿を認めると、「いたか、よかった」と言いカバンから本を二冊取り出した。それは僕が彼に貸していたものだった。
「もう読んだのか」
「ああ」
当時の僕も滝井の様子に違和感を覚えた。だから聞いたのだ。就職でも決まったのかと。それに対して滝井は首を振り、でも大丈夫なのだと答えた。僕はそのまま滝井を帰した。
滝井が自殺したという噂が研究室に駆け巡ったのはそれから三日後のことだ。ドクターの先輩からそれを聞かされた僕はその場に立ちつくした。そして研究室の前に停めていた自転車に飛び乗って、滝井の下宿まで行った。行ったところで何をしたかったのか分からない。ただ、その下宿の管理人さんが「滝井さんはもう出はりましたよ」と気まずそうに言った時に、僕はやっと滝井の死を確認した。
その時代の学生にありがちなことに、僕は滝井とメッセージアプリで繋がってはいても、実家の連絡先や何やらは全く知らなかった。だから滝井と僕はお別れをすることはなく、滝井は僕の前から忽然と姿を消した。いや、もっと頑張れば滝井の葬式に出ることもかなったのかもしれない。けれどそれをするには僕はあまりに「汚れて」いたのだ。
夏希ちゃんに連絡しようかとも思った。しかしそれもできなかった。僕は追い詰められていく滝井を救わなかった。それどころか彼にいらついていた。「滝井を頼む」とそう言われたにも関わらず。
僕が殺したようなものではないか。そう思った。
僕はそれから二度と自分から夏希ちゃんに連絡をしなかった。彼女も三十年間一度も僕に連絡してくることは無かった。長い間、あのすっきりとした滝井が研究室にやって来る夢を見続けた。

「僕は滝井と夏希ちゃんが僕をどう思っていたのか知らない。思うんですよ、僕をなじる言葉や恨む言葉の一片でもあの恋文に書いてあったならば、それはこの三十年間宙ぶらりんにされた状態よりもはるかにましなのではないかと」
僕がそう言うと一輝さんはコーヒーを口にし、コップをテーブルに置いた。
「そうしたいなら、そうすればいいと思います。でも多分宏作さんは罪悪感を感じるでしょうし、何も見つからないかもしれない。それでも構わないのでしょうか」
「はい」
「なら、僕が止めるものではないでしょう。ただ、一つだけ言っておかなければならないことがある気がします。宏作さんは悪くないですよ」
僕は一輝さんの顔を見た。
「……仕方が無かったと?」
「そうではありませんが。人間にはその時その時の限界があるということです。人の罪悪感はいともたやすくその限界を超えるけれども、それはほどほどにしなければなりません」
僕は苦笑した。
「一輝さんは僕よりよっぽど人間ができてる。僕はどうしてもそうは思えません」
僕は一輝さんにお礼を言うと、黒い箱を持って自室に入った。中を開けて引っ繰り返す。手紙がざあっと机の上に堆積した。三月末から、滝井が死ぬ六月まで、よくもここまで書いたものだ。滝井はなんだかんだ言って随分まめに文通をしたのだ。
――あそこにあるものは好きに持って行ってもいいし、売ってもいいし、覗いてもいい――
僕は彼女の言葉を免罪符に恋文に手を掛け――そこで止まった。何をしようとしているのだ僕は。手紙を箱に詰め直す。そして、箱を持って再びリビングに戻った。
「一輝さん、この家ライターか何かありましたっけ」
一輝さんは眉を上げる。
「僕持ってますよ。ちょっと待ってくださいね」
一輝さんは彼と浩太君の部屋に行き、青い百円ライターを持って出てきた。僕に手渡してくれる。
「……どこで?」
「さあ、道路では迷惑でしょうから、川にでも出て」
箱を小脇に抱え、玄関に行こうとするところ、後ろから声を掛けられた。
「宏作さん」
「はい」
「帰って来て下さいね」
僕は振り返り微笑む。
「はい」

川原は冷えた。箱を開き、かじかむ手でライターを擦る。何度か試してやっと点いた火が、手紙に燃え移った。空気が乾いていてよく燃える。もう止まりはしない。
夏希ちゃんは、僕がラブレターを見たところで怒りはしないはずだった。滝井だって多分そうだろう。でも、なんだからしくないように思われたから。救いを求めて恋文を暴くなど、今の僕はともかく、須藤夏希と滝井誠一の二人と一緒にいた静木宏作はきっとしないだろうと思ったから、もうこれでいいのだ。
三角関係ではなかった。どこまでも点と線分だった。それにほっとしているのだ。僕が踏み越んでいい場所ではなく、だから、答え合わせはいらない。何も分かりはしないまま、彼女と彼は死んで、僕は生きている。僕らの関係性というのはそういうものだ。
君達をただ寂しく懐かしめたら、どれほど楽だっただろうか。
僕は一等大事だった君達を思い出すたび、出口のない罪悪感を感じ続ける。
でも、背負うよ、そのくらいは。
僕は二人ともとても好きだったから。
僕が踏み込まなかった二人の思い出が、灰になって空に散る。僕はこれから家に帰り、一輝さんと浩太君の二人とまた生きていくだろう。僕はもう昔の僕ではなく、今の僕には今の暮らしがある。
さよなら二人とも。これはお別れの儀式。
滝井が立っていて、君が僕に振り向く。
「静木君はもうお昼ご飯食べた?」
あの夏の僕が二人と一緒に街に繰り出す。
それを瞼の裏に映しながら、僕は一人星空を見上げた。