斯波さんはまるでそこに私がいないかのように窓の外の雨を見ていました。所謂天気雨というもので、日の光が斯波さんの痩せた顔に陰をつくっていました。私は今に至るまで斯波さんの年を知りません。四十になるかならないか、そのくらいでしょうか。彫の深い顔に苦労が滲んでいました。
斯波さんの前に運ばれてきたコーヒーは湯気を立てながら冷めていくばかりです。私はそれを見ながら自分のコーヒーに口をつけました。今の私の胃はそれを受け付けないに違いありませんでした。でもそうでもしなければいたたまれなかったのです。どぎまぎしていました。何か不快に思わせているのではないかと。いつだってそうです。ツイッターでやりとりをしていても、小説投稿サイトでコメントを送りあっても、私はこの人に何か不快な思いをさせないか、見捨てられやしないかはらはらしているのです。そして今日、私には大きな負い目がありました。
カチャとカップが受け皿に当たった音で、斯波さんはこちらに向きました。幾分茶色がちな目と私の目が合いました。斯波さんが私の不安を読み取るにはそれで十分だったでしょう。人の感情に敏感な方ですから。
「……いや、まだ驚いていますから。まさか館林さんが女性だなんて思ってもみなかった。それでちょっとぼーっとしています」
悪いですね、と穏やかに、けれど笑いもせずにそう言って、斯波さんはまた外の景色を見ました。私は何も言えませんでした。
私と斯波さんはウェブ作家です。もう半年ばかりの付き合いでしょうか。斯波さんが私の作品にコメントをつけてくれたのが出会いでした。私はそのコメントを見たその日の晩に斯波さんの作品を読みに行きました。完敗でした。敵いっこありませんでした。素晴らしかったのです。私はそんな人が私の作品を読んでくれたことに心臓を高鳴らせながら、斯波さんに恋をするようになりました。
ほんの一日のこと。しかしそれはそんなにおかしなことでしょうか。「知己」という言葉があります。私にとって斯波さんはまさしく知己でした。そして私は斯波さんの作品に惚れ込んだのです。恋に落ちない方が不思議ではありませんか。
会いたいと思うようになりました。会ってどうこうというわけではないけれど、そして私の恋を成就させるあては万分の一もありませんが、会いたくなりました。愚かな私は男女の付き合いの順当な手順を踏むほかに、私の感情を処理する方法を知りませんでした。
ただ、一つ障碍がありました。それは私が女性であることを秘匿していたことです。私のペンネームは館林瞬。大体その名前を見た人の十中八九が男性だと思うでしょう。そして私はネットでは「僕」を一人称として使っていました。私が女性であることを知った斯波さんがどう思うか私には分かりませんでした。結局「会いたい」という感情がその懸念に勝ってしまったのですが。
「……何故男のふりをしていたのか、これは聞いてもいいんでしょうか」
ほんの少しだけ顔を私の方に向けて、けれどやはり雨に目をやっているような感じで斯波さんはそう言いました。穏やかな声でした。聞いておきながら、そこまで関心は無さそうでした。この人はネットでもそういう所があります。優しいけれども、人から二歩も三歩も多く距離を取って見えるのです。付き合いのある人は多いけれど、どこか「一人」を漂わせる人でした。
「女性であるということで作品に付与される印象が嫌だったのです。何か余計なものが付く気がしました。ペンネームを決めるまでに考えたのはそんなことです。そして、初めて僕と書いたのはほんの弾みで、そこからはやめられませんでした。引っ込みがつかなくなったのもありますが、私は館林瞬という男の人格が好きになったのです。それは現実の私よりも心地よかったので」
そんな私の長い長い答を聞いて、斯波さんはクスリと笑いました。なぜでしょう。あまりにもそれが用意された回答だったからでしょうか。
「僕も館林さんのことは好きですよ」
ときめきはしませんでした。その「は」が除外の意味を持ち、そして何が除外されたのかは明白でしたので。目を伏せ微かに笑んで「そうですか」と言うのがやっとでした。この優しい人は私の試みの息の根を止めにかかっていました。決定的なことを言って私を傷つけることなく柔らかく拒絶しようとしていました。斯波さんは私が分かることを分かっているのです。手も足も出ない、そう思いました。
斯波さんは悠々とコーヒーを飲み干すと、「そろそろ出ましょうか」と言いました。あまりにもそれは急でした。まともにお話もしていませんでした。でも、それしかないという気もしました。出口に向かうと、有無を言わさず斯波さんが代金を払いました。
情けなく苦しくやるせなく、黒い傘を持つその手に触れたいと思いました。おかしいのです。斯波さんとは作品とネットだけの付き合いです。なのになんで身体に触れたくなるのでしょうか。お門違いではありませんか。それをぶつけてはあまりに悪いではありませんか。気付かれないように口を引き結びました。
別れ際、「作品楽しみにしています」と言われました。胸に刺さりました。嬉しさよりもそれが勝ちました。二人、反対方向に歩き始めました。私は遠ざかって行く斯波さんの背中を何度も振り返って見ました。
これで別れるのが正解でした。そしてそれまで通り、ツイッターや小説投稿サイトで交流が続けば望める範囲でそれ以上の幸福は無いでしょう。ああ、ただそれを、私の中の「作家」が許さないのです。
私は後ろを振り返って、そのまま走り始めました。ハイヒールでしたが、私の望みをかなえるのに十分なほどには走れました。馬鹿でした。破綻でした。破滅でした。でも、私はそれをこそ抱えて生きているのです。そういう作家であることはご存知でしょう。今日、あなたが来た時点でこうなるより仕方がなかった。
申し訳ない。あなたの背中と私との間には無数の銀糸が降り注いでいます。太陽の光を受けてそれは美しく輝きました。
けれど私はその一切を拒みます。