俺は、君の小説が好きだよ

俺は柚(ゆず)江(え)が住むアパートに駆け込むと一目散に三階へ駆け上がった。後ろで管理人のおばさんに呼び止められるが気にしている余裕は無い。三〇三号室。ドアノブを捻る。開かない。激しくドアを叩く。
「柚江! 柚江‼」
中から応答は無い。辺りを見回す。廊下に面した窓。そして――俺は玄関の脇に置いてあった金属製の傘立てを持ち上げ振りかぶるとその窓に叩きつけた。ガラスが音を立てて破砕するのと、追いかけて来た管理人が悲鳴を上げるのは同時だった。俺は割れたガラスの向こう側を覗き込み、中で倒れている柚江を見つける。
「柚江‼」

「あの、市原(いちはら)さん、助けてもらっておいてこう言うのも何ですが、それははっきりと蛮行だと思います」
「自殺を図ったやつが生意気言うんじゃない」
そう言うと、目の前の椅子に座っている柚江夏樹は身を縮めた。
過日、俺が柚江の言う〝蛮行〟に手を染めたのは、こいつが非常に思わせぶりな、というよりもほぼ遺言じみたものをメッセージとして送って来たからであり、実際駆けつけた俺によって発見された柚江は手持ちの抗精神病薬と睡眠導入剤のありったけを飲んで昏睡状態にあった。直ちに救急搬送、胃洗浄、強制入院の運びになったことは言うまでもない。
ということで、今俺達は閉鎖病棟の面談室で話をしている。病棟内は白を基調にして所々柔らかなオレンジ色を配された暖かな空間風だが、こちらが閉鎖病棟に関する何がしかの先入観を持って臨んでいるせいか、どこか身を固くさせる所があった。そこに入院している当の柚江はと言うと、Tシャツにサイズの合っていないだぼついたズボンを履いて可哀想なほどに”普通”の一線からずれていた。
あまり柚江を見ているのも痛々しいので、俺は脇の椅子に置いてあるカバンから一冊の単行本を取り出すと柚江に手渡した。
「はい、お見舞い。神谷昴先生の新刊」
「え? いいんですか」
「勘違いするなよ。俺のだ。貸すだけだから出てきたら返せよな」
柚江は大切そうにそれを両手で持つと一旦テーブルに置いた。しかし、出てきたら、か。柚江が退院できるのはいつなのだろうか。正直こういう風に入院したやつがいつまでここにいるものか見当がつかない。柚江も同じことを思ったらしい。「僕が出られるのはいつなんでしょうか」と呟いた。
「俺に聞かれてもね」
「『いろり』はどうなります? このままだと僕の原稿落ちますよね」
『いろり』というのは俺と柚江が所属する文芸サークルが出している同人誌のことで、一ヶ月後の学祭に向けて編集することになっている。が、はっきり言ってそんなことは些末事だ。
「そんなこと考えずに今は休めよ」
納得していない風の柚江が反駁しようとしたのか口を開いたところで、ドアの外にいた看護師さんに目配せされた。十五分の面会時間はそこで終了だった。
病院の外に出ると十月だというのにまだ幾分暑かった。念のため持って来た上着が全く必要ないほどに。病院前のイチョウ並木の下を通り過ぎて道路まで向かう途中考えたのは、あの閉鎖病棟の中で緩すぎるズボンを履いた柚江のことだった。
あの律儀なやつが面会中一度も助けたことに関して「ありがとうございました」とは言わなかった。それを、無礼だとは思わない。言えなかったのだろう。果たして俺は正しいことをしたのだろうか。本当に柚江を助けてよかったのだろうか。
馬鹿な。助けてよかったに決まっている。あの日柚江から送られてきたメッセージが頭によぎる。『お世話になりました』馬鹿じゃないのか。そんなもの、飛んで行くに決まっている。まあ、ともあれ、なるべく早くまた見舞いに行こうと、そして学祭の同人誌には柚江の分までいいものを書こうと、そう思った。
だから驚いたのだ。次の見舞いの時に柚江がノートを差し出してきたことに。
「これは?」
「『いろり』用の原稿です。病棟の中だとパソコンが使えないのでノートに書いたんですけど……」
その、頼みを聞いてくださらないでしょうか、と言ってきた柚江に俺は戸惑いながらも頷くことになった。
俺は病院から家に帰ると窓のカーテンを閉めて電気を点けた。レノボのノートパソコンを起動させて、左側に柚江のノートを置く。柚江の頼みというのは、ノートに書いた小説を代わりに入力してサークルの方に提出してくれないかということだった。パラパラと眺めるとそこまで分量は無かったので作業としてはお安い御用である。ノートに目を滑らせながら指を動かし打鍵する。
タイトルは「潮風」。冒頭から息を呑む。流石に上手い。そう、柚江は上手いのだ。俺は正直後輩の中では柚江が飛び抜けて上手いと思っている。小説は三千字程度の短編であり、入力自体はすぐに終わった。人様のものなので、入力したものとノートを見比べて漢字の変換一つまで合っているかどうか確認した。そうしている内無意識に分析してしまう。
全編を通して窓が効果的に使われている。過去に精神的債務を抱える主人公にとって、部屋から見える海は過去を想起させるものでありそれを避けている。窓は今の彼と過去の彼を隔てる象徴として最初閉じられているが、彼が知人からの手紙を読むうちにその窓が”なぜか”開いて磯の香りが部屋に入ってくる。その香りをきっかけに海にまつわる過去を痛烈に思い出したところで幕。ああ、上手い。
だが、惜しむらくは――。
現在と過去の彼が当初断絶している分、主人公への没入がしにくい。だが、その断絶は閉じられた窓をモチーフとして使うならば致し方ないところ。この短編が構造的に持つ欠陥であり、この話を書くならそれは避けようがない。翻って言えばそれさえ解消するならば、この短編はほぼ完璧であり「化物」と言って差し支えないレベル。しかし、そこまでには至っていない。まだ大丈夫。
俺はほっと息をついた。

学祭の日のその時間、俺はサークルのブースで売り子をしていた。そこに柚江が顔を出してきた。タイトなズボンを履いてシャツの上にチェスターコートを羽織った柚江は遠目にも元気そうで、俺はその姿に安堵した。サークルのメンバーが柚江を取り囲み話しかけている。その中、柚江は俺に目線を合わせて微笑しながら軽く頭を下げてきた。俺も笑い返す。
売り子の当番が終わった後、俺は柚江に声を掛けた。
「何か食べに行こう」
「え? いいんですか、僕手伝わなくて」
「病み上がりはそんなこと考えなくていい」
ブースのある総合研究四号館から出て少し歩くと北部グラウンドに着く。グラウンドでは中央のキャンプファイヤーを囲んで学生の出店が立ち並んでいた。その中を練り歩く。適当にそこらへんのものを買って食べればいいだろう。柚江が歩きながら、一つの出店に目を留めた。
「今年もワニ肉とカンガルー肉を売ってますね」
「買ってやろうか」
柚江は苦笑しながら首を振った。
「いいです。うまいものならとっくにメジャーになっているはずなんです。そうでないということはそういうことです」
結局大学芋と鳥串を数本買って、グラウンドの端のフェンスに背を預けて食べた。そこからでもキャンプファイヤーの火の粉が上がるのがよく見えた。夕闇は夜に変わりつつある。
「市原さん、もう引退ですね」
「形の上ではね。別にこれからもサークルには顔出すよ」
俺は四回生で、もう就職は決まっているし卒論も書かなければならないが、サークル活動をやめるつもりも、小説を書くことをやめるつもりもさらさら無かった。誰にも言ったことは無いが、小説家になることは子どもの頃からの夢だった。柚江の場合、まだ二回生だからこういう話はずっと先だろう。いずれサークルの長でもやることになるだろうか。
「それより、君の方の話だよ。いつ退院したんだ」
「えと、昨日です。ギリギリでした。もう大分よくなっていたのに、しばらく入れられたままで」
それはそうだろう。思い切り自殺を図って強制入院させられたのだから。
「入院中にまた一本小説を書きました。今度公募に出そうと思っています」
「へえ、すごいな。どんな話?」
「追い詰められて自殺を図った青年が閉鎖病棟に入院して退院するまでの話です」
病人の私小説。今どきそんなものは受けない。けれど口にはしなかった。代わりに、「なんでさ、死のうと思ったの」と、そう聞いた。
「だって、僕何もできないですから」
「馬鹿だなあ」
その年であれだけ書けたらもういいだろう、とは思う。だが、それを言うのは安易に過ぎるだろうから、これも口にしなかった。ただ、「馬鹿だよ」ともう一回言った。十一月の夜風は冷たいはずだったが、遠くに炎を見ているからかそこまで寒いとは感じなかった。

柚江がとある純文学の賞を獲ったという知らせが俺に届いたのは次の秋のことだった。柚江本人からの報告で、それによればかなり大手の文学賞であり、デビューは確実だった。俺はそのメッセージを見た途端、何か分かっていた気がする一方で激しく嫉妬した。しかし、そういう知らせを受け取った先輩としてやることは決まっているのであって、俺はお祝いの言葉を述べた上で柚江を呑みに誘った。
柚江と共に訪れたのはちょっと良い居酒屋だった。いい日本酒があるんだと言いながらそのスライド式の扉に手をかけたところで、遅まきながら俺はあることに気付いた。
「ひょっとして柚江、酒を呑んではいけないのでは」
普通抗精神病薬を飲んでいる人間は飲み合わせの関係からアルコールを摂取してはならない。しまったな、と額に手をあてる俺に対して柚江は爽やかに首を振る。
「いいですよ、ちょっとくらい。折角ですから」
それならと、柚江と店に入った俺は日本酒を一合とお猪口を二つ頼んだ。柚江には形だけ一二杯飲ませて、あとは俺がほとんど飲む腹積もりだ。食べるものは取り敢えず八寸を出してもらう。
「おめでとう」
と、お猪口同士で小さく乾杯した後、「お仕事、どうですか」なんて柚江が聞いてくるものだから吹いてしまった。
「おいおい、今日は俺なんかより君の話だろう」
そう言うと柚江ははにかむ。
「メッセージ貰ってから確認したけどさ、まだ受賞の告知だけで作品は出てないんだろ。なんかポップなタイトルだったけど、あれ、去年の学祭の時に言ってたやつ? 病気の」
「あ、ではなく、普通の青春ドラマです。病気の方は他のところに出したんですけど、一次すら通りませんでした」
「へえ」
八寸の一つとして出てきた子芋の煮転がしをつつきながら「嬉しい?」なんて聞くと、それはもうと笑顔が返ってきた。
「でも、ドキドキします。これからプロとしてやっていけるのかなって」
胸が痛んだ。俺だってそんなセリフを言ってみたかった。いや、言ってみたい。しかし、そんな感情はおくびにも出さず、柚江なら大丈夫だよと言う。柚江の方は二杯目のお猪口を干して少しく顔を上気させながら、「そうですか? なんでです?」と言う。弱い。薬との飲み合わせ以前にこんなに酒に弱いとは思わなかった。あまりこいつに呑ませてはならない。俺は自分のお猪口に酒を注ぐ。
「俺は君の小説が好きだから。きっと俺以外にも好きになってくれる人が沢山いる」
柚江の小説が良いからとは言わなかった。俺に説得力を持って言える言葉が「好き」に留まるからか、それとも単に嫉妬か。好きという言葉だってそれなりの心理的ハードルを越えた上で言った。それは柚江を安心させるためというよりは、”敗者”の余裕を見せるという感じで、俺は現状君より認められていないが、君の作品を認めるだけの度量はあるのだと、そういう柚江と自分へのアピールじみたものだった。
柚江はふふ、と笑って、「だったら、なおのこと市原さんにあっちの小説を見てもらいたかったな」と呟いて、そして真顔になった。
「……市原さん、一つ聞いてもらってもいいですか。僕がこれから言うことは秘密にしていて、もらいたいんですけど」
「何だ」
「僕、本当はあっちを認めてもらいたかったです。あっちの病気を書いた方を評価されたかったです」
「…………」
「普通の青春ドラマなんて誰でも書けるじゃないですか。でもあっちは僕にしか書けないから。思っちゃうんですよ。これ、あっちならもっと嬉しかったのかなって」
ゾクリとした。それは君(受賞者)が言ってはならんだろう。俺は柚江のお猪口が空いているのを見て、無意識に酒を注ぎ足した。柚江はそれをあおってカクンと頭を下げる。
「分かってますよ、こんなこと口が裂けても言っちゃいけないんです。僕には胸を張って喜ぶ義務があります。でも本当は……これを誰かに聞いてほしかった」
「俺なら話してもいいって?」
「市原さんなら、市原さんだけは」
「そう、信頼されてるね、俺」
俺はまた柚江に酒を注いだ。
酔い潰れた柚江をタクシーで家まで送り届けてから、俺は帰宅した。部屋に入ると肌寒く、そういえば換気をしたまま出てきてしまったのだと気付いた。窓まで歩いて行く。途中、繰り返し酒を注がれるお猪口が脳裏をかすめた。窓を音が立つほどの勢いで閉める。そして上着を着たまま壁を背にして座り込んだ。
今日の自分の振る舞いに罪悪感を抱きながら、一方で柚江が賞を獲った文学賞に応募していなくてよかったと思った。そうでなければ致命傷だった。柚江を憎んでしまっていたかもしれない。

そんな感慨を持ったのも束の間のことで、俺はじきに柚江をはっきりと憎悪するようになる。晩秋のただ中、本屋で文芸誌を眺めていた俺はその内の一冊に目を留めた。柚江の対談が載っているらしかった。相手は神谷昴。
きっと――柚江に話が回って来たのだろう。雑誌上であなたと他の作家の対談企画を立てているが、誰と対談したいか、と。柚江は真っ先に神谷昴の名前を挙げたに違いない。俺だってそうする。俺だってそうするとも。だって、俺は神谷昴の新刊本を発売当日に買って読んでしまうほど好きで、そして入院している柚江にそれを差し入れようと思うほどには柚江が彼のことを好きなのを知っていた。
雑誌棚から踵を返した。どれ一つ手に取らなかった。胸の辺りが気持ち悪かった。本屋を出ると空は紫紺に変わっていてやたら気温が低かった。上着を掻き合わせて家路を急ぐ。嫉妬を超えて明白に憎悪していた。
助けなければよかったか、と思った。
一体何をともう一人の自分が言うが、それを圧倒して、あの日助けなければよかったという声が脳内にリピートする。いや、むしろ心情としては、あの時殺しておけばよかったに近いものがある。柚江は、ほぼ何も悪くないというのに。
必死で考える。柚江をこれ以上憎まなくても済む方法。柚江の横に並ぶ方法。賞を獲ってデビューする方法。いい小説を書く方法。そして閃く。これしかないというものを。
これを書けばいいのだ。この嫉妬を、惨めさを、持てる者に対する持たざる者の物語を書けばいいのだ。これは、こればかりは柚江には書けない。俺にしか書けないものなのだから。よし、と小さく気合を入れて家のドアを開けると、すぐに使い古したレノボのノートパソコンを開けてプロットを書き始めた。仕事に行きながら二週間かけて公募に出せるようにアイデアを練った。途中部屋のエアコンが壊れていることに気付いたが気にかけやしなかった。
プロットが完成して本文を三分の一ばかり書いたところだっただろうか。電子書籍サイトで柚江の新刊が出たという広告が目に入った。自分の小説を書き上げてから読もうと思ったのだが、タイトルから何か厭な予感がしたのでその場で購入してざっと見てみた。
持てる者に対する持たざる者の物語だった。
俺が今書いているものより数段上の、明らかに優れた小説。小説に優劣など無いと言う奴はこの有様を見てみるがいい。俺のものより遙かに深く激しく絶望し嫉妬している惨めな男の小説だった。頭が真っ白になる。お前が、それを書くのか。お前はそれまで俺から奪うのか。
柚江の電子書籍を開いているウィンドウの向こう側には、俺の書きかけの小説がある。俺は急に寒気を覚えて、机の隅に置いてあったエアコンのリモコンを取りボタンを押した。暖房は壊れていた。

それから俺は柚江の小説を一切読まなくなった。それどころか柚江にまつわる全ての情報から目を背けるようになった。注目の新進作家である柚江は雑誌に顔を出し、新聞に新刊の広告を出し、時折テレビで紹介されていて、俺はそういう媒体自体から遠ざかった。
そんなある日柚江からメッセージが届いた。『群像』の最新号に懐かしい小説が載っているから見てほしいと言うのだ。気乗りしなかった。だが無視するわけにもいかない。柚江は何一つ悪くないのだから。そして今も後輩として俺を慕ってくれているのだから。
俺は仕方なく近所の本屋に行くと最新の『群像』を引っ掴んで買って帰った。表紙を見もしなかった。外は雪がちらつき始めていた。部屋に入って床に座り『群像』を一瞥する。柚江夏樹とある著者名の下に「潮風」とタイトルが打ってあった。そのタイトルには既視感がある。
その小説のところまで雑誌の頁をめくる。海辺の家に暮らす男の話だった。そこで思い出した。これは学祭の同人誌で柚江が出した短編小説で、俺が入力したものだと。かなり改稿されていたが間違いなかった。初めから最後まで全部に目を通した。
あの時、俺は主人公に没入しづらいのがこの小説の欠点だと思った。そしてそれは構造的に如何ともしがたいと。けれど、今、それが奇跡的に解消されている。非の打ち所の無い完璧な短編。涙が落ちて、紙面に水の珠をつくった。
うつくしい。
涙が止まってから、俺は窓を開けベランダに出て柚江に電話をかけた。腕をかけている金属の柵が痛むほど冷たい。やがて柚江は電話に出た。
「読んだ」
スマホの向こうから柚江が嬉しそうに「どうでした?」と聞いてくる。
外の雪は強まって、涙はまだ乾かない。しかし、俺に言えることは決まっている。
「俺は、君の小説が好きだよ」