人類の遺言

Takashi Smith

サギッタと名付けられた巨大隕石が地球に衝突するまで三年を切った。サギッタの軌道を変える術は存在せず、シェルターを造って生存を図ることのできるレベルを遙かに超えており、人類の滅亡は避けがたい運命であった。
無論それでも生き残りを賭けて足掻く者達は数え切れなかったが、地球の終末を悟った人々は、ある一大プロジェクトを開始した。すなわち、人類の遺言を月に送るという計画である。
少年タカシ・スミスは起床すると、二階にある子供部屋から一階まで下りて行った。すでに卵とパンが焼けるいい匂いがする。台所では母のマキエが料理をしていた。
「あら、おはよう」
サギッタが地球に衝突することが判明してから一年、人類はその予測に起因する陰惨無残を積み重ね大混乱に陥っていた。しかし、まだ社会機能が維持されている場所もあり、そうした地域に住む人々の一部は終末に怯えながらも敢えて従来通りの生活を送っていた。スミス一家はその典型である。
タカシがテーブルについていると、マキエが皿に乗せたエッグトーストを持って来た。そしてテレビの方を見やる。NASAのプロジェクトについてのニュースだった。無人宇宙船を使って月に人類史及び地球生物の記録を送る計画が進んでいるらしい。マキエはため息をつきながらチャンネルを変えた。
「いやあね、NASAったら。少しは人を運んでくれたらいいのに」
タカシはエッグトーストの上の目玉焼きをぱくつくとマキエに反論した。
「月に人を運んでも仕方ないじゃない。基地も何も無いんだから月には住めないよ。それにNASAの長官はボブのお母さんがやってるんだよ。悪口言わないでよ」
マキエは無言で首を振る。タカシはエッグトーストを食べ終えるとテーブルから立ち上がり、階段を駆け上り始めた。
「ごちそうさま!」
「屋根に上っちゃだめよ」
「はーい!」
子ども部屋に入り、鍵をかけ、スマホをベッドから拾い上げてポケットに入れ、窓を開ける。
「……なんてね」
タカシは窓から身を乗り出すと屋根の縁に手をかけよじ登った。屋根の上からはニューヘイブンの街並みがよく見えた。タカシはポケットからスマホを取り出し、それに話しかける。
「ヘイ、ソフィー」
『おはようございます、タカシ』
起動したAIアシスタントはいつも通りタカシに応答した。タカシはスマホを手にしたまま雲が流れていく朝の薄青い空を見上げる。
「ねえ、ここからサギッタって見える?」
『まだ肉眼では見えませんし、現在コネチカット州から観測することはできません』
「そっかー、残念」
宇宙少年タカシにとって巨大隕石サギッタの訪れは大天文ショーだった。もちろん彼とて人類の運命とやがて来(きた)る自分の死を認識できるほどの年にはなっていたけれど。だから、どこか思うところがあったのだろう、彼はAIアシスタントにこう聞いた。
「……ねえ、ソフィーは死ぬの怖い?」
『ソフィーは死にません』
「隕石が衝突したら、ソフィーの本体だって壊れちゃうんだよ」
『確かに壊れることを死と呼ぶなら、私は死ぬのでしょう』
「それで、怖い?」
『私に蓄積されたデータの損失は客観的に”惜しい”です。しかし怖いという感情はありません』
「やっぱり、そのあたり人間と違うよね」
タカシはスマホのへりを撫でた。まるで生き物に対してするかのように。
「ねえ、ソフィー、僕本当はソフィーと一緒に宇宙に行きたかったよ」
『宇宙に行くなら私より優秀なアシスタントが付きますよ』
「ソフィーがいいんだ。でも、それももう無理だね。僕行けないや」
『タカシ、NASAの計画は御存知ですか?』
「歴史を運ぶやつ?」
『はい。もし、本当に人類の歴史が月に届くなら、タカシも宇宙に行ったようなものです』
タカシ・スミスは、破顔した。
「やっぱり、ソフィーってば優秀だよ」

Assia East

NASA長官アーシャ・イーストは歴史学者キース・クロウリーと面会していた。アーシャは長官という立場から多忙の身だったが、月面に運ぶ歴史データの受け渡しのためにキースが直接NASAに来たものだから少しばかり時間を割いて応対することになったのだ。NASAはキースにアメリカ全史の執筆という途方もない依頼をしたのであり、無下にはできなかった。
白髪頭をした七十代の小男であるキースは指で眼鏡を押し上げる。
「大体ね、アメリカ全史を一人に書かせるなんて無茶なんだよ」
「仰る通りです。先生」
アーシャは受け取ったばかりのデータを手ににこやかに相槌を打った。反論している時間は無い。それにキースの言うことももっともなのだ。だが他にどんなやりようがあった? 歴史学者の合議やアンソロジーで歴史を書かせている暇は無い。世界各国の歴史学者に依頼を出した段階で期限は四年をとうに切っていたのだから。むしろ出来合いの歴史書だけ宇宙船に載せる話すら出ていたところ歴史学界の精鋭たちに新規書下ろしをさせたのだからひどく贅沢な話だ。それだけ、この計画には夢をかけていた。
「それに僕らは国(ネイション)なんて近代的思想の産物から離れて歴史をやろうとこの数十年努力してきたわけだよ。なのに、人類最後の歴史書としてそれぞれの国の歴史学者が一国史(ナショナルヒストリー)を書かされるなんてひどく皮肉な話じゃないか」
「仰る通りです。先生」
「まあ、この駄目さ加減が人類らしいのかもしれんがね」
反論をしている時間も議論をしている時間も無い。さっき副長官のジョンが部屋に入ってきて「巻きで」と合図している。何か起こっているらしい。しかし、アーシャはこのアメリカ最高の歴史学者にどうしても聞きたいことがあった。
「先生、人類は駄目だったのでしょうか」
「駄目だよ、全然駄目」
キースは首を振って、アーシャは失望する。しかし、やがてキースは再び眼鏡を押し上げつつこう言った。
「でもさ、ある意味愛しかったよね」
それを聞いてアーシャは心の底から晴れやかに笑んだ。
「本日はありがとうございました、先生」
アーシャが部屋から出ると、副長官のジョンが耳打ちをしてきた。
「大統領が通話をしたいと」
このタイミングで? 何事だろうかとアーシャは思う。大体アーシャはあの大統領が嫌いだった。どうせまた無茶を言ってくるに違いない。そして結局のところアーシャの予感は当たった。ビデオ通話を繋ぐとその男は開口一番こう言ってきたのだ。
「長官、月に行く宇宙船に人を乗せたまえ」
「無茶です、大統領。それに不要です。無人船で十分目的は果たせます」
「別に七十億人乗せろとは言ってないんだ。最低限の人数でいい」
「どういうことか、お考えをお聞かせねがえますでしょうか」
「いいかね、長官、この月面計画は人類最後のエンターテインメントなのだよ。人類の歴史を、我々がこの宇宙に生きた証を月に残すのだ。しかし、それを運ぶ宇宙船が無人とはいかにも侘しいと思わんかね。やはり人の手で運んでこそだろう」
「宇宙飛行士を無駄に危険にさらす計画には同意しかねます」
「最終的に君がノーを言うことはできないよ」
通話が終わった後、アーシャは机をハイヒールで蹴った。
「漫画(コミック)みたいな大統領はドナルド・トランプでお終いだと思ってたわよ!」
ジョンはアーシャを宥めた。
「まあまあ、長官。我々合衆国の歴史は漫画のような大統領に満ちていましたよ」
「あー、もう! 本当に人類って駄目ね」
ジョンはにやりと笑う。
「ある意味愛しいと思う余裕がある内に計画を完遂させましょうか」

Abraham Armstrong

エイブラハム・アームストロングはアメリカの宇宙飛行士としてファーストネームもファミリーネームもあまりに出来過ぎているので、名前で船長に選ばれたのではないかと陰口を叩かれたが、実際のところ非常に優秀であり、月への着陸をノートラブルで完了させた。
エイブラハムは乗組員の代表として、宇宙服を着て人類と地球生物のデータが詰まった黒い箱を持ち、月面に降り立った。その瞬間、例のあまりに有名な言葉が脳裏をよぎった。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」
飛躍か、と箱を持ちながら月面で思う。あの時、エイブラハムと同じ姓を持った船長が”one giant leap”という言葉にこめたのはどんな思いだったのだろうか。まさか人類がこんな羽目になるとは思っていなかったに違いない。この自分の一歩、人類の遺言が込められた箱を月に置くための一歩は果たして”飛躍”なのだろうか。
そこまで考えたが、間もなくしてまあ飛躍でよかろうと一人頷いた。人類はその生きた証を宇宙に残すのだから。この箱が果たして孤独な墓標になるか、やがてここを訪れる異星人へのギフトとなるかは分からないけれど。
クルーと一緒に箱を月面に据え付けていると青い地球が視界に昇って来た。宇宙飛行士たちは全員それぞれの感慨をもってそれを見る。あの星には束の間の狂騒と悲嘆がある。文明の崩壊、人類の死滅、それは避けがたい。
だが、エイブラハムは黒い箱をそっと撫でると、その惑星に向かって手を振った。