Kill Me Again and Again

今日も風呂に入れなかった。

熱帯夜のなか、部屋のエアコンはかび臭い風を送り、ガタガタといかにも瀕死という音を立てていた。俺はその音を無視して、エアコンの真下で寝転がっている。風が、ぬるかった。

毎日十時に仕事から帰って来ると、タンクトップと短パンに着替えて、布団に横になってしまう。そうして寝転がってスマホを眺めているうち、身体はどんどん重さを増して、身動きが取れなくなる。

スマホを見る以外の全てが億劫になって、やがて、スマホを見るのにすら耐えられなくなって、眠りにつく。寝るのは一時過ぎだから、時間は十分にあるはずなのに、風呂にすら入れない。そうやって、俺は「できるはずなのにやれない」を繰り返して生きている。

雑然とした部屋は、到底人を呼べる状態でなくなって久しい。もう何年も自宅に呼ぶような相手はいない。でも、毎日眠りに帰って、休日もただ寝転んでいるだけのこの部屋が、どうしてこうも汚れているのだろうとは思う。

「散らかっている」を通り越して、俺の生活空間を決定的に荒んだ印象にしているのは、枕元に散らばった薬の束だ。ラモトリギン200㎎、炭酸リチウム200㎎、クエチアピン150㎎。これは要するに気分安定剤と抗精神病薬だ。

俺は二十七のときに、双極性障害という精神疾患の診断が下り、うつ状態もひどかったので、会社を辞めなければならなくなった。療養して二年後に復職したが、以前のようには働けず、ずっと非正規で働いている。

本当は、毎日仕事をするのがきつい。仕事以外の何もできず、かといって、仕事でなんら認められるでもなく、かろうじて人のかたちを保つことだけを最低限心がける日々。しばらく休んで療養に専念したかったが、金がないから無理だった。担当医にも、俺くらいの症状だったら仕事は続けた方がいいと言われた。そうして毎日が過ぎていく。

何か起こらないかと思ってる。でも、きっと何も起こらないってどこかでわかってる。

夏で、俺は三十六になっていて、この先もずっとこのまま生きていくんだろう。

そう思って目を閉じた。

目を開けると、俺は真っ白な空間にいた。ひと昔前の映画で迷い込むような、果てのない、ひたすら真っ白な空間だった。俺を含めた男たちが五人横並びになっていて、俺はその真ん中に立っていた。

少し離れたところに、小さな子どもが立っている。青い服を着た金髪の子どもで、姿かたちがあり得ないほど美しかった。あまりにもあり得ない、リアリティを欠いた美しさだから見とれる余地なんてないし、不気味だった。

子どもは俺たちを見て、完璧な表情でにっこりと笑う。

「やあやあ、時部(ときべ)敦彦(あつひこ)さんたち、よくお集まりいただきました」

「時部敦彦」とは、俺の名前である。この子どもはなぜ俺の名前を知っているのだろうか、と俺は訝しむ。それと同時に、呼びかけの仕方がどうにも変だと感じた。時部敦彦さんたち。なぜ俺の名前を代表させるのか。

そう思って周りの男たちを見たところで、背筋を寒気が走った。横並びになっている男たちは年代がバラバラで、左から高校生らしい男、二十代らしい男、俺、四十代らしい男、すっかり老け込んでいくつかわからない男が並んでいる。そして、そのどれもが、俺に似すぎていた。他人の空似どころの話ではない。まるで過去と未来からそれぞれの時代の俺をかき集めてきたような、そんな印象を持った。

「おや! 時部敦彦三十六歳さん、状況把握が早い!」

子どもは俺に向かって小さく拍手をしていた。他の男たちも、周りを見回して、そう時間もかからずに、何か気付いたように目を見開いた。

「みなさん気付かれたようですね。そうです。みなさんは時部敦彦さんのそれぞれ年齢が違う方々です」

子どもはそんな全くありえないことを当たり前のように言って、左から順番に俺たちを指差す。

「時部敦彦十六歳さん」

「時部敦彦二十六歳さん」

「時部敦彦三十六歳さん」

「時部敦彦四十六歳さん」

「時部敦彦五十六歳さん」

俺はもう一度〝俺〟たちの姿を見て、思考を巡らせる。なんだ、この奇妙な状況は。間違いないのは、一から十まで現実にあり得ないことが起こっているということだ。そして俺はこの状況に対して、「これは夢だ」という解釈しかできそうにない。それが、どれだけ鮮明で奇妙な夢であったとしても。

「夢ではないですよ、僕は時部敦彦さんたちにやってもらいたいことがあって、ここにお呼びしたんです」

子どもは俺の思考を読んだかのようにそんなことを言った。俺たちにやってもらいたいこと? 俺も、他の俺も子どもの次の言葉を息をつめて待ってしまう。その「やってもらいたいこと」とやらが何なのか、まずは気になってしまっていた。子どもはそんな俺たちの姿を満足げに眺めて頷く。

「僕が時部敦彦さんたちにやってもらいたいのは、デスゲームです」

「デスゲーム……?」

左端の十六歳が不安げに囁いた。

「そう、ある条件では〝死〟に至るバトルロワイアルです」

そこで子どもはパチリと指を鳴らした。

突如、俺たちの前に五挺の拳銃が現れる。拳銃は、まるで手に取れとでも言うかのように、ふわふわと宙に浮いていた。

「こちらからみなさんに貸与するアイテムの説明をしますね。それはレーザー銃です。拳銃のように見えますが、実弾は入っておらず、引き金を引くと赤いレーザーだけが直線的に照射されます」

レーザー銃。

右隣の四十六歳が銃を掴んだ。そして色んな角度から銃をつぶさに観察している。それを見て他の俺もバラバラと銃を手に取った。俺は、できることならこんな怪しいものには手を出したくなかったのだが、一人だけ出遅れるのがいやで、仕方なく銃を掴む。

「いいですねえ、みなさん反応がよろしい。もう一つこちらから貸与物があります」

子どもが再度パチリと指を鳴らすと、同じようなかたちで、今度は手の平に収まるくらいの薄くて丸い板のようなものが現れた。電源が切れているようで暗いが、片側に画面のようなものがついている。

「それはマップ端末です。電源がつくと、デスゲームでみなさんを送るフィールドとみなさん各自の位置が表示されます。操作方法はほぼスマホと同じでタッチパネル方式ですし、そこまで操作に困ることはないはずです。検索とかはできませんけどね。デスゲームにあたって、こちらからの貸与物はその二つです」

俺たちはそのマップ端末とやらも手に取った。円盤状であること以外はつるつるとした手触りも重さもスマホによく似ていた。これと銃を使ってどういうデスゲームをすると言うのだろうか。

「では、みなさん気になっているでしょうから、ここからルールの説明をします。デスゲームは、さきほど申し上げたようにバトルロワイアルです。フィールドに移動したら、ゲーム開始。マップ端末を使ってお互いを見つけ、その銃で相手を撃ってください」

右隣の四十六歳を除いて、俺たちは全員ざわついた。銃を渡されてデスゲームをする以上、ある程度予想がついたルールではあるのだが、いよいよ物騒な話になってきた。

「う、撃たれたらどうなるんだ」と五十六歳。

「撃たれると、ゲームから退場し、ゲームに関する記憶が消えた状態で、もとの世界に戻ります」

「それだけ?」と二十六歳。二十六歳が訝るのもわかる。確かに今の説明を聞いただけだと、〝デス〟ゲームにしては負けたペナルティがほとんどなさそうだった。

「ええ、それだけです。しかし、ルール説明を最後まで聞けば、このデスゲームがある条件で〝死〟に至るものであると理解できるはずです」

子どもは説明を続けた。

「お互いを銃で撃って、ゲームから退場させていき、最後に残った時部敦彦さんがチャンピオンです。チャンピオンには賞金として、日本円で十億円を差し上げます」

それには俺たちもざわついた。特に右側の年配組がそうだった。十億円なんか俺の人生ではもうどうやったって手に入らない金で、人生を変えるには十分な額だった。たとえば、俺に十億円があれば、しばらく仕事を休んで療養に専念できるだろう。

「ルールはこれだけです」

「わからねえなあ」

右隣の四十六歳が低く呟いた。

「どうしてそれだけのルールで、ある条件で〝死ぬ〟ことになるんだ?」

「あれあれ? わかりませんか?」

子どもはさも意外そうに人差し指を口元にあてた。そして、その指を左端の十六歳に向ける。

「たとえば、時部敦彦十六歳さんがチャンピオンになったとしましょうか。時部敦彦十六歳さんは賞金の十億円を手に入れてもとの世界に戻ります。そうすると、時部敦彦十六歳さんのその後の人生は確実に変わりますよね」

俺ははっとした。薄っすらとどういうことかわかった気がする。

「時部敦彦さんのその後の人生が変わると、その人生の時部敦彦二十六歳さん、三十六歳さん、四十六歳さん、五十六歳さんは、今ここにいる時部敦彦さんたちとは別人になるはずです。それってここにいる時部敦彦さんたちにとっては〝死〟と同じではありませんか?」

俺は子どもが言っていることを噛み砕いて自分なりに理解しようとする。つまり、このデスゲームでは、俺より若い俺がチャンピオンになった場合、俺の人生が変わってしまうことにより、今ここにいる俺は〝死ぬ〟。恐らく、人生が変わった後にも三十六歳の時部敦彦は存在するだろうが、この俺の自我はもう残っていないだろう。

だから、俺の場合、〝死にたくなければ〟、十六歳と二十六歳の俺だけはチャンピオンにしてはいけない。

俺は、そこからもう一歩先を考えてみる。では、四十六歳の俺と五十六歳の俺のどちらかがチャンピオンになった場合はどうか。その場合、俺は〝死なない〟。ただ、十億円の入手が十年や二十年遅れるだけである。それは〝死ぬ〟ことに比べれば遥かにマシだ。だが。

俺の額に脂汗が浮く。俺は人生を変える金を手に入れるのが十年単位で遅れることに耐えられるだろうか。十億があれば今の生活を変えられる。その入手が遅れることが嫌か嫌じゃないかと聞かれたら、はっきりと嫌に決まっている。

「みなさん理解できましたか? では」

「あの!」

十六歳が小さく叫んだ。十六歳は子どもの方ではなく、俺たちの方を向いている。唇の端が震えていた。

「みんな、これおかしいってわかるよな! デスゲームとか言って自分同士で殺し合いをするなんて絶対におかしいよ! みんな大人なんだからこれ止めて――」

十六歳の言葉が終わる前に、右隣の腕が動いた。カチリ。その音に十六歳も他の俺も凍りつく。四十六歳は十六歳に向けて銃の引き金を引いていた。

カチ、カチカチ。

四十六歳は金髪の子どもを横目にして顎をしゃくる。

「おい、これレーザー出ねえじゃねえか」

子どもはにこにこしていた。

「まだゲームが始まってないからですよ? フィールドに移動したらちゃんと出ますから、もう少し待っていてくださいね?」

十六歳は青ざめてその場にへたり込んだ。他の俺も、言葉一つ出せなかった。俺は四十六歳と決して目を合わせないようにしながら、我慢できずに右隣の様子を伺ってしまう。

ヤバイ。こいつはヤバイ。

この四十六歳は一体なんだ。十六歳の言葉がよほど腹が立ったのだろうが、それにしてもその相手に一切のためらいなく引き金を引くなんて、到底まともとは思えない。俺は今からこんなヤツと戦うのかと身震いしたところで、もっと恐ろしい事実に気が付く。

俺が負けて、年上の俺がチャンピオンになったとしたら、変わるのはそいつから後の人生だけだ。年上の俺から見た過去は変わらない。それはつまり、俺がこの四十六歳になる未来が確定してしまうということである。

俺は首を振る。駄目だ、そんなのは絶対受け入れられない。俺は間違ってもこんな四十六歳にはなりたくない。

年下の俺が勝てば俺は〝死ぬ〟し、年上の俺が勝てば俺は確実に狂った四十六歳になる。つまり。

このデスゲーム、俺がチャンピオンになるしかない。

「それでは、待ちきれない時部敦彦さんもいらっしゃるようですし、ざくっとフィールドの説明をして、ゲームを始めてしまいましょうか」

俺は生唾を飲み込む。実質俺が勝つしか選択肢がないデスゲームだと思うと、緊張して震えがきそうだった。俺は太腿に手を置いて、膝が震えないようにする。そこで子どもはぽんと手を叩いた。

「そうだ、そうだ、忘れるところでした。僕はフィールド説明をする前に一つおまけ要素を入れることにしているんです」

予想外の言葉に俺は太腿から手を離す。一瞬子どもと目が合って、そのにこやかな美しい顔の奥で嘲笑われたような気がした。俺の動揺も気負いも、こいつは全部知っている。子どもは俺から視線を外して、五人全員を見た。

「これからみなさんを、もといた場所に五分間だけ送り返します。その五分間の間にデスゲームで必要そうなものをかき集めて、自分の身体に触れた状態にしておいてください。僕は時間が来たらその持ち物ごとみなさんをここに呼び戻しますからね。五分間でどれだけ自分に有利なものを集められるか、最初の勝負といきましょう。はい、よーいドン」

唐突な展開に俺は思わず「待て」と言いかける。だが、瞬きをすると、真っ白な空間は影もかたちもなく、俺はいつもの部屋でいつもの布団に寝ていた。熱帯夜のなか、エアコンが相変わらず死にかけの音を立てながらぬるい風を吐き出している。

――四分五十秒。

俺は布団の上で仰向けになったまま身動きもしない。天井を見つめながら、夢だと思った。一生のうちで見たことがないほど奇妙な夢だった。そう、どう考えても夢だ。あんな、年齢の違う俺が集められてデスゲームをさせられるなんて、あり得るわけがない。だから、俺が取るべき合理的な選択というのは、変な夢のことは忘れて、このまま寝てしまうことだ。明日だって、会社がある。ただでさえ疲れてるんだ。俺はそう思ってゆるゆると瞼を閉じる。

そして、布団から跳ね起きた。心臓が、脳に逆らって「違う」と言っていた。勝手に脈拍を上げていた。お前の全力を挙げてデスゲームの準備をしろと叫んでいる。俺は動揺しながら部屋をぐるりと見回す。

あと四分。

こんなのおかしい。どうかしている。狂っている。だが、俺の目はすでに必要なものを探してせわしく動いている。身体はとっくに臨戦態勢だ。

「クソったれ」

俺はとりあえず布団に落ちているスマホを拾い、通勤カバンに入っている財布を掴んだ。デスゲームでそんなものを使うのかは知らなかったが、頭が回らない状態で考えられる持ち物はひとまずそれだった。俺はスマホと財布をポケットに入れようとして気付く。

着ているものがマズい。俺はタンクトップに短パンしか履いていなかった。動き回るには問題ないかもしれないが、いくらなんでも薄着が過ぎるから、着替えた方がよさそうだった。俺は帰って来た時に脱ぎ散らかしていた半袖シャツとスラックスを着る。

そして着替えていると時間感覚がわからなくなった。あと何分残っているのかわからない。俺は再び部屋を見回す。

安アパートの1Kの部屋だ。布団を敷いている居室があって、向こうに台所と風呂とトイレがある。その向こうに玄関。居室には、大したものがない。物干し竿と、脱ぎ散らかされた服と、役所から届いたなんらかの書類が雪崩を起こしている。むしろ台所の方が物がありそうだ。俺は敷居をまたいで台所に向かう。

デスゲームなら武器だろうか。この部屋で武器らしいものといえば、包丁とか……? だが、遠くからレーザーで撃つだけで相手を退場させられる銃を持っているのに、そんな近接にしか使えない武器はいるだろうか。少し考えて却下する。

では、盾? レーザーを防げるような。しかし、そんな都合のよいものが部屋にあるわけがないし、申し訳程度に壁に立てかけてある潰した段ボールのことは無視した。あんなものでは全身をカバーできないし、持って走るにも不便だ。身体に触れていればいいのなら、持ち上げられなくてもOKか? 冷蔵庫、洗濯機……ありえない。

ほかに何か、何かあるだろうか。俺は再び居室に戻る。

銃を撃ちあうデスゲーム。走る、撃つ、隠れる。それから一体何をする……? 正確にはわからないが、もう時間の猶予はなさそうだった。

俺は最後に居室を見回して、そして見つける。

枕元に散らばるラモトリギン200㎎、炭酸リチウム200㎎、クエチアピン150㎎。その薬の束を。

いらないと思った。だが、俺の中の何かが「いる」と言った。理由を告げないまま「それだけは持っていけ」と叫んだ。俺は逡巡して、苛立ちながらその枕元の薬をありったけ引っ掴んだ。

次に瞬きをすると、もう俺は真っ白な空間に戻っていた。相変わらず他の俺がいて、金髪の子どもが少し離れたところに立っていた。夢ではなかったんだ、と思った。そして、手元にはいつの間にか銃とマップ端末が戻っていた。俺は薬の束と一緒に銃を握り締めて呆然とする。子どもは面白そうに俺たちの姿を見ていた。

「おやおや、同じ時部敦彦さんなのに、年齢が違うとやっぱり個性が出るんですね」

個性? 俺は他の俺を観察する。他の俺が何を持って来たのか。

まず、全員着替えていた。それはそうだ。デスゲームなるものに参加するのに、寝間着姿では心もとないだろう。Tシャツに短パンであったり、俺と同じように半袖シャツにスラックスだったり、服装はまちまちだが、少なくとも普段着には着替えている。

そして、全員両尻ポケットが膨らんでいた。恐らくスマホと財布だ。やはり、俺と同じでひとまず持って来てしまったのだろう。当たり前だが、思考回路が俺とよく似ている。

そして「個性」の部分。

左の二人、十六歳と二十六歳は靴を履いていた。俺はそれを見てゾッとした。そうだ、俺は靴を履いていない。ずっと部屋にいたから裸足のままだ。

だが、これからフィールドとやらに移動すれば、そこは屋外かもしれないし、屋内であっても足場が安全とは限らない。足元を気にせず、素早く移動するなら靴は必須だった。俺は歯噛みする。デスゲームで走ることまでは想定していたのに。

右隣の四十六歳は、目立った持ち物がない。両尻ポケットが膨らんでいるだけで、あとは手に持った銃をまた角度を変えながら観察している。とりたてて、持ち物で有利になりそうにはないが、俺は寒気を覚える。四十六歳が十六歳に銃を向けていた光景が目に焼き付いていた。俺は、このデスゲームの参加者でこいつが一番ヤバイと思っている。

右端の五十六歳はカバンを持っていた。ごく普通のワンショルダーで、袋部分を腹側に回している。何か入っているのかもしれないが、中身はわからない。

俺は想像を巡らせる。五十六歳なら何を持って来たいと思うだろうか。たとえば、水とか……? そうだ、恐らく動き回る上に、何時間戦うのかわからないのだから、最低限水分補給できるものは必要だったんじゃないか。

周りを観察すればするほど、「本当は必要だったもの」が見つかる。そして、それは全部俺の家にもあるものだった。

一方、俺の手にあるのは薬の束のみ。俺の中の何かに命じられるまま掴んだが、結局ひどく役に立たないものを持って来てしまったんじゃないかと思った。

「はい、それではフィールドの説明をしますね」

子どもがパチリと指を鳴らすと、俺たちが持っていたマップ端末の画面が明るくなる。そして何やら地図のようなものが表示された。おおむね道が規則正しく直角に交わった街だ。街の東側にはそれなりに大きな川が流れている。俺は記憶を刺激された。俺はこういう街の地図を、中学か高校のときの授業で見たような気がする。

「今回のフィールドは、どの時部敦彦さんにも公平なように、時部敦彦さんが五十六歳まで一度も行ったことがない場所を選びました。時部敦彦さんは意外とメジャーどころに行っていないんですね」

メジャーどころ? 俺はもう一度地図を見る。この規則正しくわかりやすすぎる街のつくりは城下町のそれではない。都だ。そして日本でメジャーな都といえば。

「そう、これは京都市の地図です。そして、京都市では広すぎますから、フィールドは京都市中京区(なかぎょうく)に限定しましょう。みなさんはこれから京都市中京区に転送されたら、中京区からは一歩も出られません。中京区の境界を越えたら問答無用で退場していただきます」

表示されていた地図のやや北寄りのエリアが赤く表示された。でこぼこした東西に横長の長方形のようなかたちをしている。これが中京区というやつなのだろう。

「京都市中京区の面積は約七・四一平方キロメートル。市バスや地下鉄などの公共交通機関も使えますし、徒歩で移動してもなんとかなる広さでしょう? そして、みなさんが京都市中京区に転送されれば、それぞれの位置がマップ上に表示されますから、お互いを見つけるのにそこまで苦労はしないはずです」

俺たちは互いに視線を走らせる。京都市中京区で俺たち同士のデスゲームが始まる。マップ端末でお互いの位置が丸わかりである以上、容易には隠れられないし、逃げ切れない。そして中京区から出たらゲームオーバー。一体どういう戦いになるのだろうか。

「あの、質問いいかな」

と二十六歳が手を挙げる。それに対して子どもは悪戯っぽく笑った。

「だめです。僕はゲーム開始前に質問は受け付けないことにしているんです。プレイヤーが事前に説明を受けるのはこれだけ。あとはプレイしながら確かめてください。それでは、ゲームスタート」

子どもが指を鳴らした。それが容赦なく、あっけない始まりの合図だった。

気付くと俺は炎天下のなか、土の上に立っていた。裸足の足裏からやや湿った土の感触が伝わってくる。そして、川のせせらぎが聞こえた。目の前にそれなりに大きな川が流れている。

向こうの空には入道雲が膨らみ、どこかで蝉も鳴いていた。紛うことなき日本の夏だ。辺りはどうかしているんじゃないかと思うほど蒸し暑く、ただ立っているだけなのに、半袖シャツの下から汗が噴き出した。

川の向こう側には、やや建物の背が低い気はするものの普通の街並みが広がっており、後ろを振り返ると土手の上に何やら趣のある店らしきものが軒を連ねている。あの子どもの言葉を信じるならば、きっとこれが京都市中京区なのだろう。俺がいるのは川原だ。俺の周りに人はいないが、遠くにランニングをしているとおぼしき人影もあるので、人通りが全くないわけではない。

俺はじっとりとした汗の感触に耐えながら、左手に握ったマップ端末を確認する。「36」という番号が、京都市中京区の東の端を流れる川の西岸に表示されていた。俺は中京区のほとんど一番東にいるようだ。

他の番号は、中京区の西、南、北、中央に散らばっていた。一番俺の近くにいるのは中京区の中央に位置する五十六歳。互いの距離は恐らく二キロくらいだった。だが、俺は東の端にいるから、もし五十六歳が接近してくるなら、これ以上東に移動することはできず、動ける場所には不自由しそうだ。

ならばここで戦うかと思い、再度周りを見渡すと南北に流れる川沿いに川原が延々と伸びていて、身を隠せるような遮蔽物もほとんどなく、あまりに視界が開けていた。ここだと、単純な銃の撃ち合いになってしまって勝つか負けるか運任せになるから、もっと有利な場所に移動した方がいいだろう。

ではどこに向かうか。

俺は端末に表示されるマップを観察する。マップには道と俺たちの位置が簡素な平面として表示されているだけで、地形やどんな建物があるかなどはよくわからなかった。俺のような京都の土地勘がない人間には情報量が不足している。

スマホで地図アプリを立ち上げた方が、まだ情報があるかと思い、俺は右手を尻ポケットに伸ばそうとする。そこで、右手が拳銃で埋まっていることに気付いた。拳銃――。

俺は咄嗟にその場に座り込むと、尻の下に拳銃を隠した。心臓がバクバクいっていた。マズい。この状況はマズすぎる。挙動不審になって周りを見回してしまう。周囲に人影なし。幸運だった。だが、この幸運はいつまで続くかわからない。遠くにはランニングしている人間もいるし、川原のへりに座って歓談している人間もいる。俺は間違いなく窮地に陥っていた。

俺は、現代の京都市中京区で拳銃に見えるものを外から見えるかたちで持ってしまっている。

この銃を持っているのが人に見つかったら、間違いなく騒ぎになるだろう。そうなれば通報されて警察がやって来るかもしれないし、デスゲームどころではなくなってしまう。だが、どうしろと言うのか。銃は当然尻ポケットには入らないし、半袖シャツを着ている俺には他に大きなポケットもない。

では、服の下に隠すか? だが、それでは風体が怪しすぎる。それこそもし、道中に警察がいたらどうする? 服の下に何かを隠した裸足の男を警察が見逃すか?

しかし、銃を持っていなければ、他の俺を攻撃する手段がない――。

銃を尻に敷いてしばらく思考が堂々巡りした後、閃いた。

銃を持ち運ばなければいい。

とりあえず、この場に銃を埋めて、街のどこかでカバンと靴を買う。そしてここに戻って来て、銃を掘り起こす。

銃を隠している間は丸腰だから敵に出会ったらおしまいだが、今はそうするしかない。というより、それしか思いつかない。再び周りを見ると、向こうから歩行者が近付いて来ている。埋めてしまうなら今しかなかった。

尻の下の土は湿っていて柔らかそうだったので、その場に穴を掘って銃を埋めた。背後の店や川の飛び石との位置関係などをよく見て、埋めた場所を記憶に刻み込む。

それからスマホを取り出して、地図アプリを立ち上げ、「かばん屋」で検索する。間もなくして数軒のカバン店が地図上に赤く表示されたが、俺はその検索結果に息が詰まらせた。

ここから一番近いカバン店は、やや西に行った繁華街にある。つまり、カバンを買いに行くと、俺は丸腰で一番近くの五十六歳に接近することになる。なんとかならないかと思ったが、焦る頭では他にいい方法が思いつきそうになかった。

一瞬、近場のコンビニなどに行って適当にものを買って袋を貰えばいいのではと思ったが、諦めた。コンビニやスーパーの袋は薄すぎる。中に銃が入っているのが外からわかってしまうかもしれない。やはり俺はカバンを買うしかない。

そこでサッと血の気が引いた。あの真っ白な空間に立っていた五十六歳。五十六歳はカバンを持っていた。つまり、五十六歳は銃を隠しながら、街を自由に移動できるということである。五十六歳がそれに気付いてカバンを持って来たのかはわからないが、ともかくあの五十六歳の最大のアドバンテージは水なんかではなくカバンそのものだ。

再びマップ端末でそれぞれの位置を確認すると、五十六歳は少しずつではあるが確実に俺の方に近付いて来ていた。

俺は数秒悩んだ末、スマホが入っている尻ポケットにマップ端末を入れ、裸足で川原を走り出した。たしかに五十六歳は近付いて来ているが、まだ互いに二キロの距離がある。

人間の歩く速さは平均して時速三キロ前後。そして、これから俺が店に行くためにやや西に向かい五十六歳に近付くかたちになってしまうから――くそっ算数の計算か?――猶予はおおむね三十分とみた。

三十分の間に靴とカバンを買う。そして速やかに川原に戻り、銃を掘り起こす。俺の勝ち筋はそれだけだ。

俺はそこで速度を緩めて立ち止まった。……いや、そんなギリギリの橋を渡らなくても、さっきの場所で五十六歳を迎え撃ってから、移動すればいいのでは? 丸腰になるより、川原で五分五分の戦いをする方がマシなのでは。そう思った。

だが、俺は川原の様子を見て頭を振る。だめだ。まばらにではあるが、人通りがある。結局川原でも銃を持っていたら、いつか人に見られてしまうのだ。そして、五十六歳と違って銃を持って移動できない俺に勝ち目はない。だから、やはり俺は最速でカバンを買いに行かなければならない。

俺は迷いが断ち切れない自分に舌打ちをして再び走り出す。時間がない。一度方針を決めたなら、それを最速で実行するべきだった。

俺は川原からコンクリートの階段を上がり、歩道に出た。すぐそこに川をまたぐ橋がかかっていて、歩道の上は比較的人通りがある。橋の反対側には店やレストランが立ち並んでいて、その向こうに交差している大通りが繁華街のはずだった。俺は繁華街の方向に向けて走る。

すれ違う人のうち結構な人数が、俺の足元をちらちら見る。それはそうだろう。京都の街を裸足で走っている成人男性は怪しすぎる。早くカバンを買ってしまいたいところだが、人目を考えれば靴を先に買うべきだろう。太陽光を吸い込んだコンクリートが熱い。時折足裏に小石が食い込んでいるのを感じながら、俺は心臓をバクバクさせている。

その時はじめて気付いた。俺はまだ靴屋の場所を調べていない。店の場所も調べないままここまで走って来てしまった。繁華街なのだから靴屋の一つくらいあるはずだが。

焦る気持ちを押さえながら、俺はスマホの地図アプリで靴屋の場所を検索する。ざっと調べただけでも靴屋らしきものは何件か表示されたが、思いのほか遠かった。額の汗を拭ってアプリ画面から目を上げたところで、すぐ先に警官が立っているのが見えた。警察にだけは会いたくないと思っていたところだったので、反射的に逃げようとしてしまう。

「おい、君」

呼び止められて、身体が固まる。どっちにしろ、こちらは裸足だ。走って逃げられるとは思わない。警官が真っ直ぐ歩いて目の前にやってきた。そうして俺の格好を上から下まで見る。特に足元を重点的に。

「君、ここで何やってるの。なんで裸足なの」

「え……と、」

色々な言い訳が頭を駆け巡る。「靴をなくした」とか「盗まれた」とか。そうやって思い浮かぶ言い訳のほとんどを無理筋だと高速で却下しながら、俺はベストと思われる行動をした。警官に追加で操作をしていないそのままのスマホを見せる。

「靴屋。靴屋を探しているんです」

事実だ。俺はさっきまで靴屋を検索していた。今俺の手元には、実際に地図アプリで靴屋を検索している画面がある。なんで裸足かの説明はしていないが、状況的にはつじつまが合う。街中で裸足の人間としてはこれ以上なく自然なことをしている。

これで新しい靴を探しているだけの裸足の男として追及を振りきれないか、そんな儚い望みをかけた。警官は画面を見て、得心したように眉を開いた。しかし、やはりそんなことでは納得しなかったようで、また怪訝な顔になる。

「靴、どうしたの」

やはりその話になる。俺は挙動不審になりそうなのを意思の力で押さえつけながら、一番マシそうな言い訳を作る。

「あー、そこの川で遊んでいたら、びしょ濡れになってしまいまして、気持ち悪いから脱いできてしまったんですけど……やっぱ、いけなかったですかね?」

咄嗟についた嘘はいかにもたどたどしい。不自然だ。だが、あくまで言いにくい非常識な振る舞いについて白状しているからだという風に受け取ってくれないだろうか。俺が嘘を言っているとは気付かないでほしい。警官は顔をしかめる。

「いけなかったというか、常識がないよ、それは。なんか身分証見せて」

「あ、はい!」

俺は尻ポケットの財布から運転免許証を取り出して警官に渡す。免許証を見せるだけでは、何も起こらないはずだ。ここは素直に従うしかない。

「時部敦彦さん、と……普段は神奈川県に住んでるの? なに、旅行?」

「ええ、そうです。すみません、ちょっと浮かれて羽目を外してしまって」

警官は俺の格好を再び上から下まで見る。裸足であること以外、怪しい格好は何もしていないはずだ。これ以上不審な点は見つからないだろう。

「ズボンは濡れてないんだね」

俺はぎょっとした。

「まくってたので」

「ズボンをまくって、靴を履いて川に入った?」

「ほら、川の中って何があるかわからなくて怖いじゃないですか。足裏にガラス片とか刺さったらイヤでしょう? 靴、履いときたいなと思って」

「ふうん、後がどうなるか考えなかったわけだ」

沈黙が下りそうになる。ヤバイ。この後、「ちょっと署まで来てくれる?」なんて言われたら詰む。別に警察署まで行って取り調べをされても何も出てこないが、たっぷり時間がかかった後に、出口のところで銃を持った五十六歳に待ち伏せをされたらおしまいだ。俺はなんとか沈黙を破る。この際なんでもいいから話題をつくる。

「あの、お巡りさん、靴屋知りませんか。このあたりで一番近い靴屋」

「それは、その地図に表示されている通りだよ。女性用ならともかく、男性用でしょう? 三本西に行った通りにいくつか並んでるのしかぱっと思いつかないな」

三本西。アプリで見ても確かにその通りだ。だが、俺にはなんだかそれが致命的に遠い気がした。警官がいる前でマップ端末を出すわけにはいかないが、西に行けば行くほど五十六歳に接近するのは間違いない。

頭を回転させる。靴屋の場所を聞いたこと自体は、沈黙を破るための方便だったが、そちらも何とかしないといけないようだ。頭を切り替えて考える。靴屋、靴屋……靴屋……?

――どうしても靴屋に行かないといけないだろうか。

靴を買うのに、必ずしも靴屋に行く必要はないのでは……?

たとえば服を売っている店なら、一緒に靴も売っていることが多い。

「服屋さんならどうでしょう。一緒に靴も売ってますよね」

「ああ、それならいくつか。大きいところだと二本西に行ったところにミーナというショッピングモールがある。そこにユニクロが入ってるから、靴が買えるだろう。靴下も買えるし」

しめた。ユニクロ。ユニクロなら、カバンも買える。全部一ヵ所で済むから、時間も節約できる。真っ直ぐユニクロに行くなら、五十六歳と遭遇する前に必要なものを買って川原まで戻れそうだ。

「ありがとうございます。それじゃ」

「待ちなさい、そこに派出所があるから、ちょっと来て」

俺は絶望で真っ暗な気持ちになる。結局駄目かと思った。

「裸足で入ったら、お店の人も迷惑じゃないか。派出所でクロックスくらい貸してあげる」

俺は目を丸くした。それは、普通なら思ってもみないありがたい話だった。街中でこんな人情味の溢れる対応をされるとは思っていなかった。普段の俺であれば心の底から感謝しただろう。

だが、俺はこれからほとんどタイムアタックのような買い物をしなければならないのである。ここから警官とゆっくり歩いて派出所に向かい、派出所からユニクロに向かうとなると、そのタイムロスに気が遠くなりそうだった。

しかし、ここでこのありがたい話を断ればいよいよ怪しまれてしまうのは確実で、俺は結局警官に付いて、派出所に向かう。派出所は南に五分ほど歩いたところにあった。五分。普段なら気に留めないような時間だ。だが、俺のトータルの持ち時間は三十分しかないのだ。六分の一がこうして派出所に行くだけで削られることに、胃が痛む。

派出所に着いて、クロックスを貸してもらうと、俺は頭を下げてそそくさと外の道に出た。角を曲がったところで真っ先にマップ端末を確認する。やはりというべきか、五十六歳はこちらに大分近付いて来てしまっていた。互いの距離はあと一キロくらいだろうか。

この間の進捗、クロックスのみ。

俺は猛烈にここから逃げ出したくなった。だが逃げても結局は五十六歳に勝てない。やるべきことは、できるだけ早くユニクロで靴とカバンを買うことだ。

俺は走って大通りまで出て京都の繁華街を北に移動し、教えてもらったミーナというショッピングモールに辿り着いた。ミーナはやや背の高い建物でカジュアルな雰囲気だった。大通りに面していることもあってか、かなり買い物客が多い。一階はガラス張りになっていて、ユニクロのロゴと男女のマネキンが見える。ここで間違いないことを確認して、俺は急いで中に入る。

ミーナの中は冷房がきいていて涼しかった。炎天下の外とは別世界だった。ただ、俺が焦っているからなのか、寒いとすら感じた。なんだか嫌な予感のする温度だった。俺は無意識で身を縮めながら中を進む。

フロア中央付近まで進んで、エスカレーター横のマップを見ると、地下一階から三階までユニクロが入っているようだった。メンズは地下一階と一階。階が分かれているのは厄介だ。

俺はユニクロの広さに焦りながら店内を見て回る。靴とカバンを売っている場所を見つけるだけの、普段なら気にも留めないような時間が、ヒリヒリと胃を焼くような焦燥感に変わる。しかも、靴やカバンはそれ単体で広いコーナーとして確保されていないから、全く知らない土地のユニクロで見つけるのは手間取る。

結局靴は壁際のマネキンの足元にあった黒い紐靴を選んだ。本当はもっと走りやすそうな靴がよかったが、そんな吟味をしている時間はなさそうだった。カバンは服のかかっている棚の横側にかけられていたリュックサックを買った。こちらももっと選びたかったが、とにかく焦っていて軽いパニック状態になっていたし、銃が入ればなんでもよいと思ってしまった。

それからレジ待ちの行列で更に地獄のような気分になりながら待ち続け、やっとたどり着いたセルフレジに靴とカバンを置いて、ろくに金額も確認せずになけなしの万札を突っ込んだ。表示されるボタンを押しまくって速やかに会計を済まし、買い物袋を手にユニクロから出る。

買い物客で混み合うミーナの出入り口から僅かに外れてマップ端末を確認すると、五十六歳はすぐそこの角のところまで来ていた。俺は買い物袋片手に慌てて走り出す。周りの買い物客が何事かと見てくるが、仕方がない。

川原に出るためには大通りを渡らなければならない。横断歩道では信号待ちがある。もう車道側の信号が赤になっているからそこまで待たないはずだが、まだ青にならない。

俺はその間に五十六歳がいる方向を見る。すると、歩行者をかきわけながら、老け込んでワンショルダーを腹側に回した俺がこちらに走ってきていた。信号が青になる。俺はもう振り返らないことにして人の行き交う繁華街をクロックスで全力疾走する。

派出所にクロックスを返すのは後にするべきだった。とにかく、今は五十六歳から逃げて、埋めた銃を確保しなおすのが最優先だった。川原に降りるには、大通りからさらに東に道をそれないといけない。俺は角を曲がって小道に入った。

小道を中ほどまで走ったときだった。

「おい止まれ!」

俺の後ろから俺によく似た声がした。

その絶対に聞きたくなかった声に観念しながら後ろを振り返ると、俺が走ってきた小道の向こうに五十六歳が立っていた。五十六歳は大通りでそうしていたのと同じように、ワンショルダーを腹側に回している。だが、決定的に違うこともあった。

ワンショルダ―のファスナーが開いている。

そして、五十六歳はそこに手を突っ込み、黒光りする銃をこちらに向けていた。

背を向けて走ったところで逃げられるような状況ではなさそうだった。思わずそろそろと両手を上げようとすると、「おい、余計なことをするな」と五十六歳が声を潜めて言った。

「普通にそのまま立ってろ」

確かに、小道に入って人通りは途切れているとはいえ、道の真中に男が二人いて片方がホールドアップさせられているのは怪しすぎる。銃身をワンショルダーで隠しているあたり、この京都で銃を大っぴらに出すとマズイということは、五十六歳もわかっているようだ。ワンショルダーに手を突っ込まなければならない分、五十六歳の銃の構え方にはかなり無理があった。かろうじて俺に銃口を向けているかたちだ。

俺はその銃口を見ながら疑問に思う。

なぜ撃たない?

撃つなら、俺を呼び止めるまでもなく、後ろから撃ってしまえばいい。俺たちは直線的な小道にいて遮蔽物もない。レーザー銃なんだから、音を気にする必要もないし、撃ったらそれでおしまいのはずだ。

「よし、そのまま動くなよ、動くなよ……」

「……なんのつもりだ」

五十六歳はびくりと身体を震わせて、俺に視線を合わせた。小じわの寄った目元がピクピクと震えている。

「お、お前に、共闘を申し出る」

「なんだって?」

共闘ということは、俺と組んで一緒にデスゲームを戦いたいということだろう。しかし、それで五十六歳になんのメリットがあるのだろうか。共闘して、他の俺を全員倒したとして、俺と五十六歳の二人が残ったら最終的には二人の戦いになるはずだ。チャンピオンになれるのが一人である以上、結局共闘なんて最後まで続かないのだ。

だが、最終的に二人になるまでを効率的に進められるなら、勝率自体は上がりそうだから、最終的に一騎打ちになったとしても、トータルで見ればメリットがあるという判断だろうか? そういうことなら、わからないではない。

だが、続けて五十六歳が放った一言は俺の理解を超えていた。

「俺と一緒に戦って、十六歳を勝たせよう」

「は⁉」

今度はわからない。全くわからない。俺は頭の中でルールをおさらいする。俺たちは、銃で撃たれてもデスゲームから退場するだけだが、最終的に自分より若い自分がチャンピオンになった場合に関しては〝死ぬ〟も同然である。

だから〝死〟を避けるなら、俺の場合は十六歳と二十六歳は絶対倒さなければならないし、五十六歳は全年齢の自分を倒さなければならないはずだ。

言うまでもなく、十六歳が勝てば、俺も五十六歳も〝死ぬ〟。

「待て、自分の言っていることがわかっているのか。十六歳が勝つということは――」

「いいんだ、彼をチャンピオンにして十億円を手に入れさせて、人生をやり直してもらおう」

「いや、だから十六歳が人生を変えたら、俺たちは消えるじゃないか」

「それのなにがいけない?」

俺は硬直した。まさか。

「俺たちは、こんな人生を歩むべきじゃなかったんだ。まだお前はわからないかもしれないが、この年になるともうお先真っ暗だってわかるんだ。どうしようもない。死んだ方がいい。死にたいとずっと思ってる」

それは「人生やり直し」を目的にした遠回しの自殺宣言だった。

俺は恐ろしい心地がした。五十六歳の俺はこう言うのか。五十六歳の俺は、こう言わなければならないような暮らしをしているのか。

俺は熱帯夜の部屋と死にかけのエアコンの音を思い出す。寝る前に「この先もずっとこのまま生きていくんだろう」と思っていたことも。そうやってあのまま生きた先がこれなのか? 「お前の自殺願望に俺を巻き込むな」と勇ましく言ってやりたかったが、声が出なかった。

「俺はデスゲームのルールを聞いて人生を振り返ってみた。それぞれの俺が十億円を手に入れた未来を想像してみた。でも、年取って手に入れても駄目なんだ。〝俺〟がもっとマシに生きるなら十六歳のタイミングで十億手に入れるしかない。二十六で十億手に入っても駄目だ。お前でも駄目だ。四十六でも、俺でも駄目なんだよ。十六からやり直そう。それで時部敦彦という人間がもっといい人生を歩むなら、俺たちみたいなクズは礎になっても――」

「ふざ、けるな!」

やっと声が出た。少し、肩で息をしてしまう。

「なに諦めてんだ。自分の言ってることわかってんのか。俺はそんな風には」

「ならないって? なるんだよ。お前は二十年後にこうなるんだ。いい加減現実見ろよ!」

現実――。精神疾患持ちで非正規で、この先状況が好転する見込みもなくて、そのまま年を取ってこの五十六歳みたいに自殺願望抱えて生きる羽目になる。それが俺の現実? そんな馬鹿な。だが、俺の一部が「リアリティがあるな」と囁く。そしてこいつが二十年後の俺として召喚されている事実は確固としてある。放っておけば俺は二十年後確実にこうなるのだ。脳が悲鳴を上げて思考停止しそうになる。

だが、完全に思考がストップする前に違うと思い直した。俺が今向き合うべき現実はそっちじゃない。今の俺の現実は、京都の街中で五十六歳に一方的に銃を突きつけられているこの状況だ。

手元に武器なし。京都の直線的な小道にいて、銃口はしっかりとこちらに向いている。五十六歳の要求を呑めばひとまずこの状況からは逃れられるが、俺はあんな要求を呑むわけにはいかない。よって、この交渉は決裂。このまま立っていても、ダメ。逃げても角を曲がる前に撃たれる。では進む――。

それだ。相手はワンショルダーに手を突っ込んで、無理矢理こちらに銃口を向けている状態。だから。

俺は地面を蹴って、横に跳んだ。五十六歳が引き金を引くが、後方に赤く軌跡を描いてレーザーは外れる。やはりだ。そもそも無理な体勢だから、咄嗟の調整がきかない。つまり、横移動を挟みながら接近戦に持ち込めば、勝機はある。

俺はジグザグに走って五十六歳に組み付く。五十六歳は倒れて、手が緩む。俺はすかさず五十六歳の銃を奪い取る。そして、倒れている五十六歳に上から銃を向けた。その姿勢で荒く息をつく。

五十六歳と三十六歳であれば、三十六歳の方が身体能力は上。勝負は決まった。俺は五十六歳にしっかりと照準を合わせる。

「俺はお前みたいにはならない」

五十六歳は全てを諦めた顔で俺を見ている。ただでさえ老けていたのがさらに老いを感じさせる顔になって、六十や七十にすら見える。こうしてこの男は困難に遭うたびに諦めているのだろう。惰弱の極みだ。いくら年を取ったからって、こんな情けない男にならなくてもいいだろうに。俺は引き金にかけた指に力を込める。

「俺はお前みたいには――」

――でも、こいつを撃ったら。

指が、止まった。

俺は銃を握り締めると、走る時に道に落としてしまっていたユニクロの袋を拾って、五十六歳とは逆方向に走りだした。銃はユニクロの袋に突っ込む。皮肉だ。あんなにカバンを探したのに、ユニクロの袋は厚手で、外から中身が見えなかった。

三百メートルほど走って息が切れる。俺は立ち止まって、マップ端末を確認する。五十六歳はあの場から動いていない。それはそうだ。こちらが一方的に武器を持っているのだから、俺を追いかけて来られるはずがない。きっと座り込んだまま途方に暮れているんだろう。

俺はコンクリートの階段を降りて、川原まで降りた。マップ端末で他の俺が近付いて来ていないのを確認すると、息を整え川面を見る。西に傾きはじめた太陽の光を反射して、所々きらめきながら、素知らぬ顔でずっと水が流れていた。

俺は、五十六歳を〝殺せなかった〟。

五十六歳だけは、年齢が一番上だから、退場と同時に〝死〟が確定する。俺はその引き金を引けなかった。あんなやつが相手なのに。どうせいつかは倒さなければならないのに、決定的なことができなかった。こんな、甘いことでデスゲームを戦えるのだろうか。

俺は周りに人がいないのを確認して袋から五十六歳の銃を取り出すと、川の向こう側めがけて力一杯投げた。

京都市中京区の境界線は、この川の真中を走っている。だから、川の真中より向こう側に銃を投げれば、中京区から出られない五十六歳はもう銃を使えないはずだった。

放物線を描いて飛んで行った黒い銃は、中空で嘘みたいに消えた。多分境界線を越えたのだろう。俺たちも、中京区の境界線を越えればああなってしまうに違いない。

俺はその場から去ると、再びコンクリの階段を上がって南へ向かい、派出所にクロックスを返しに行った。先に埋めていた銃を回収してしまいたかったが、さすがに銃を持った状態で派出所に行く度胸はない。近くには無力化された五十六歳しかいないから、問題ないはずだった。

派出所に入って「ちゃんと靴を買えたのか」みたいなことを言われた俺は、「まあ、ええ」なんてきまり悪げに返事をして、その場で靴を履き替えた。裸足で紐靴を履く俺を見て、例の警官は片眉を上げたが、勘弁してほしい。あの状況で靴下まで買うような余裕はなかったのだ。

お礼を言って派出所から出た俺は、また川原に戻って銃を掘り起こしに行った。幸いにして、銃はもとの場所にちゃんと埋まっていた。湿り気のある土を払って、ユニクロの袋から取り出したリュックサックに銃を入れる。そうしてファスナーを閉めるときに、リュックサックは銃を取り出して撃つのにあまり向いていないのかもと後悔した。頭の中でどうイメージしても咄嗟に銃を撃てそうになかった。

その頃になると、西の空は赤らんでいた。日が暮れようとしている。ひょっとして、今日中にはデスゲームが終わらないのだろうか。ひょっとしてではなく、間違いなくそうだ。マップ端末を見ると、まだ五人全員生き残っている。どうもこのデスゲームは数日続きそうだった。

今日どこで寝ればよいのか考えた。色々選択肢はある。野宿。却下。外で寝ていたら身体が休まらないし、なにより寝ている間が無防備すぎる。ネットカフェ。ナシではないがアリでもない。以前一人旅をしていた頃に一度ネットカフェに泊ったことがあるが、俺はあまりあそこでは眠れなかった。それにセキュリティもそこまで強くない。では、やはりホテルか――。

財布を見る。残金は三万円だった。安いホテルを選べば何泊かできるくらいの金だ。俺はその場で検索をはじめた。

京都市中京区の安いホテルは、意外なことに繁華街の近くの小道を一本入ったところにあった。ホテル代だけで考えれば、九泊ほどできる計算になる。もっとも、食費なども必要だから実際には七泊程度だろうか。

俺は川原まで降りてきた道を戻り、小道を通り抜けた。五十六歳がいる小道からは一本外れた道を通った。どうしても五十六歳のところに戻ってとどめを刺す気にはなれなかった。放っておいても、どうせもう何もできないのだから、と自分に言い訳をした。

繁華街の大通りをデパートなどが並ぶ中心部とは反対に進み、小道を一本入れば目当てのホテルがあった。フロントは一階にあって、玄関がガラス張りになっているから、ホテルの手前からでも受付の様子がよく見えた。

一応空室があることはネットで確認していたが、フロントで聞いて実際に空室を確認できたときはほっとした。宿泊料を払おうとして、財布を開いてから気付いた。クレジットカードで払えば、残金を気にしなくてもよいのではなかろうか。まだ現金には余裕があるが、残せるなら残しておくにこしたことはない。

「あの、クレジット使えますか?」

「はい、もちろんでございます」

俺はカードリーダーにクレジットカードを差し込んで、暗証番号を入力する。しばらく承認を待っていると、受付の女性の顔が曇った。

「お客様、申し訳ありませんが、こちらのクレジットカードではただいまお支払いができないようです。お手数ですが詳しくはカード会社にお問い合わせいただけますでしょうか」

「あ、ああ、そうなんですね」

俺は不審に思った。今月はまだ利用限度額にゆとりがあるはずだった。使えなくなるような理由が思い当たらない。しかし、ここでそれを考えていても仕方がない。

「では、現金で」

「はい、現金でございますね。え……と、現金は、と」

俺はまた変に思う。なぜこの女性は現金支払いに少し戸惑っているのだろうか。現代のホテルで現金に戸惑う理由があるか……? 俺はそこで、ある可能性に気付いてスマホを見た。慌ててネットで検索をする。「今 年月日」。間もなく出てきた検索結果に俺は目を丸くした。

表示されていた検索結果は、俺が暮らしていた年の数年後を示していた。

つまり俺は今、未来の京都にいる。

クレジットカードをもう一回見る。有効期限が「今」の年より前に切れていた。どうりでさっき使えなかったわけだ。

では、スマホは? 数年後もキャリアを乗り換えていないから同じスマホが使えるのだろうか? 俺はスマホの持ち主が未来にタイムスリップした場合のキャリアとの契約関係を考えて頭を痛くする。

「あの、お客様?」

「ああ、すみません」

とりあえず、俺は現金で宿泊代を支払った。

エレベーターに乗り、七階の自室の前に着くと、カードキーで扉を開けて中に入った。部屋はベッドと申し訳程度に机と冷蔵庫があるシンプルな部屋だ。俺はベッドに座り一息つく。今日は疲れた。もうこのまま寝てしまいたい気分だ。シャワーだって浴びたい。しかし、俺の頭は気になることを考え続けていた。俺たちがいる「今」の年が数年後にずれている意味についてだ。

いや、意味はないのかもしれない。あの子どもはフィールドの時代を適当に選んだのかも。しかし、意味もなく数年ずらすだろうか。この年がデスゲームに持っている意味。

この年の京都で何かが起こるのか……? だとすれば、それが何か知っている四十六歳と五十六歳は有利? いや、そんなゲームバランスが崩れることをデスゲームの主催者がしたがるとは考えにくい。

そう、ゲームバランスだ。子どもは京都を選ぶ時に言っていた。「どの時部敦彦さんにも公平なように」と。だとすれば、この年も、「公平なように」選ばれているのではないだろうか。

何が公平なのだろう。今が俺のいた時代に近いのは、まあわかる。参加者の真中あたりの年を取った方が、より公平だからだ。例えば、いきなり四十年後や四十年前に飛ばされるよりも、自分の時代との差が二十年程度の方が動きやすいだろう。

では、なぜ数年ずれている? さすがに俺がいた年にしてしまうと、俺が有利すぎるからか? ならば、なぜ「前」にではなく「後」にずらした? わざわざこの年を選んだ理由は?

視線を浮かせると、ベッドの向かいのつくえに置いた財布が目に入る。ハッとする。いくつか理由はあるかもしれないが、きっと大きな理由は「金」だ。

日本国の新紙幣への切り替えは2024年である。

つまり、俺がいた時代から数年後を経た今なら、旧紙幣と新紙幣が両方とも流通している。恐らく、十六歳も五十六歳も手元の紙幣を怪しまれずに使える唯一の時代。

そして、受付の女性の反応を見るに、今より後になってしまうと、現金が使いにくくなってしまうのだろう。各年齢の俺を集めてこのかたちでデスゲームにするなら、この時代しかありえなかった。

俺は息を吐く。俺の中では腑に落ちた。この情報をどう使えばいいのかはわからないが。そこでまた財布を見て、今度は心臓が跳ねる。そうだ、金だ。

この時代ならきっと、俺の口座から金を引き出せる。俺のことだから口座にはそこまで大きな金額は入っていないだろうが、それを引き出せば、当座の資金繰りは解消される。早く確保に向かわなければならない。俺は急いで自室から出て、近くのコンビニに走った。

結果として、駄目だった。ATMにカードを差し込んで暗証番号を打つところまではできたが、引き出せなかった。スマホからネットバンキングで確認すると、残高がゼロになっており、五分前に誰かに引き落とされた後だった。

俺はその場で自分の太腿を叩き、大きくため息をつく。無駄な考察をしていたばかりに出遅れた。あれは、俺の仕事用の口座だった。だから多分、二十六歳から五十六歳の俺が使える。一体あのうちの誰が――?

ともかく、俺以外の誰かと、金銭面で大きな差がついてしまった瞬間だった。

俺はATMの前で五分ほど打ちのめされた後、コンビニの店内を見回した。色とりどりの商品が並んでいる見慣れた光景なのに、棚に付けられた値札が俺を拒んでいるような気がした。財布の残金は変わらないのに、いきなり貧乏になったような気がするのはなぜだろうか。

しかし、朝から何も食べていないのだから、ここで何も買わないわけにはいかないと思い、サンドイッチと肉まんだけ買った。そこそこ栄養とカロリーがありそうな安いものを選んだらその組み合わせになったのだが、買ってから思いっきり炭水化物でかぶったなと思った。

それからどんよりしながらホテルまでの道を歩いて、途中で思い直して自分の頬を強めに叩いた。うだうだと落ち込んでいる場合ではないのだ。これはデスゲームだ。状況が変わったなら、早めに切り替えて対応していくまでである。

ホテルに帰り、「よし」と一声出すと、冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを飲みながら、サンドイッチと肉まんを頬張る。買った直後は思うところがあったが、色々あった一日の終わりに食べると滲みるものがある。久し振りに物を食っておいしいと感じたかもしれなかった。

皮肉だ。デスゲームをしているのに、そんな悠長な感想を持つなんて。やはり危険な状況をくぐり抜けて、ひとまずの安全が確保されているというのが大きいのだろう。ホテルにいると安心する。なにしろ、部屋の中だ。ここにはレーザーが届かないし、外の人間に扉を勝手に開けられるなんてこともない。

ものを食べていると暑くなってきたので、エアコンをつける。当たり前のことだが、ホテルのエアコンは死にかけの音なんか立てず、風音とわずかな動作音だけで部屋を涼しくした。

俺は微風を感じながら肉まんを食べ終わって、包み紙を丸めながら考える。金さえあれば、ずっとホテルにいればいいのではないだろうか? ホテルに籠って、他の俺が潰し合いをするのを見ておけばよいのでは。そして残った一人と戦うなら、単純計算で勝率は五割である。

もっとも、俺にはそんな戦略を取れるほど、手持ちの金はない。そう思えば、口座の金を逃したことが一層悔やまれた。だが、それを考えていても仕方がないので、切り替える。今の自分にできることをするのが最善だ。

食べ終えると、今日の薬を飲んでいないことを思い出した。自分の部屋から持ってきた気分安定剤と抗精神病薬。ラモトリギン200㎎と炭酸リチウム200㎎とクエチアピン150㎎。俺はそれぞれの錠剤を取り出して、手の中で転がした。

白い空間にいたときは、役に立たないものを持ってきてしまったと思っていた。だが、こうして寝泊りをする長期戦になるのなら、持ってきて正解だったと思う。

一日飲まなかったからといって、必ずしも致命的な事態になる薬ではない。だが、しばらく飲んでいないと調子を崩すのは確かだ。俺の病気である双極性障害は、昔は躁うつ病と言われていて、躁状態とうつ状態がある病気である。双極性障害の患者は、毎日薬を飲まなければならない。

薬を飲まずに調子を崩したとして、躁状態ならハイテンションであることを活用してデスゲームもできるかもしれないが、うつ状態になると、俺の場合身体がだるくてほとんど寝たきりになるため、そこでゲームオーバーだろう。だから、それを防ぐこの薬は、俺の場合非常に重要なアイテムだ。

ちなみに薬の追加入手は難しいだろう。心療内科の場合、すでによその病院にかかっている患者を、紹介状なしで見てくれる病院は少ないし、それがなくても初診の予約を取るのは時間がかかる。二週間先まで予約が取れないと言われることもザラだ。ふらっと病院に行って薬をもらうことは難しい。

俺は白い錠剤を見つめる。

だから、実は金があろうがなかろうが、この薬が残っている日数、つまり七日がおおよそのタイムリミットだったりする。

そして、双極性障害は再発を防ぐためにほぼ一生薬を飲む病気である。つまり、少なくとも四十六歳と五十六歳は俺と同じ条件だ。二人は薬を飲まなければいずれ体調を崩す。

そして、俺が双極性障害でうつ状態がひどくなったのは二十七のときだから、十六歳と二十六歳は問題なく動ける。

ということは、金銭面を除けば、十六歳と二十六歳に実質タイムリミットはないが、三十六歳以降の俺の場合は、薬を飲んでいないと、強制的にゲームオーバーなうつ状態になる可能性がある。

では、他の俺は薬を持っているのか。五十六歳に関してはわからない。カバンの中に入っていたかもしれない。だが、五十六歳はもう銃を持っていないから、あまり今後の動きを考えなくてもいい。

問題は四十六歳だ。あの白い空間で、四十六歳は俺の隣にいた。だから、持ち物がよく見えたのだが、四十六歳はスマホと財布以外持って来ていなかったように見えた。薬を持って来ていないのであれば、四十六歳に対しては長期戦を挑んだ方が有利になる。

もっとも、四十六歳がいつうつ状態に突入するかはわからないし、躁状態になる可能性もあるのだが。あまりに不確定要素が多すぎて、四十六歳の体調不良を見込んで動くのは危険かもしれない。

俺は息を吐くと立ち上がった。色々と考えはしたが、こうして一人で考えていてもわからないことが多すぎる。とにかく、しばらくはひたすらホテルに籠って様子見をしていたらいい。ここは安全なんだから。

俺はシャワーを浴びに行った。ほとんど二日ぶりになるシャワーはとても気持ちよかった。風呂場の設備も値段を考えれば悪くない。問題なく滞在できるだろう。

ついでに浴槽にお湯をためて、ゆっくり浸かることにした。そんなことはいつぶりだろう。いつも、仕事から帰ってきたら、風呂に入る元気なんかなくて、翌朝大急ぎでシャワーを浴びて家を出る生活をしていた。乾ききって薄っすらと埃をかぶった浴槽を思い出した。俺の暮らしというやつを。湯をためながら頭を振る。

湯船につかっていると、疲れが溶けていって、幸福感に顔まで緩んでしまった。たったこれっぽっちのことが俺には幸せだった。長風呂があまり身体によくないことは知っていたが、俺はずっと風呂に浸かっていた。

湯の水面を見ながら、ぼんやり五十六歳のことを考える。五十六歳は結婚しているだろうか。仕事はうまくいっているだろうか。あの老け込んだ五十六歳の様子を考えると、どちらも駄目そうだった。「死んだ方がいい。死にたいとずっと思ってる」五十六歳はそう言っていた。

俺は湯に沈んでいた自分の手を出す。俺は死にたいとは思わない。一度やって無理だったからだ。まだ病気の診断が降ったばかりの頃に、薬を飲むのをやめて、自殺を図るところまで行ったことがある。

なぜ薬を飲むのをやめたかと言えば、「何もない」ことに耐えられなかったからだ。薬で躁とうつを抑えて、それで人生を続けても、俺には何もなかった。ぼんやり生命を維持しているだけだった。

これなら躁もうつもある状態の方がマシなんじゃないかと思った。俺には薬を飲んでまで守りたい人生なんかなかったのだ。それから、薬を飲むのをやめて一週間で重度のうつ状態になった。

毎晩、深夜まで目が冴えていて、人生について考え続けた。そして、ある日、理性的に考えてこれ以上人生を続ける理由はないという結論を出した。

あの夜、俺はロープで輪をつくって、部屋の玄関のドアノブにくくりつけた。あとは、ロープの輪に首を通して適切な姿勢を取れば、意識を失くし死に至ったはずだ。

でも、俺はその晩、ドアノブから垂れ下がったロープをいつまでも眺めていた。玄関で立ち尽くして、身体が動かなかった。

俺は死を前にして襲ってきた強烈な孤独に怯んでいた。「死ぬときは一人だ」と言う人間は多いが、その意味を本当にわかっている人間はどれだけいるだろうか。死を前にして、人はあまりにも一人だ。普段「一人だ」と感じる時とは比にならない恐怖が内臓の奥まで滲み込んでくる。完全に決めていたはずの覚悟が消し飛ぶほどに。

五十六歳だって、俺の続きを生きているのだから、あの感覚は知っているはずだ。それでも死にたいと思っているのだろうか。俺は暗澹とした気分になる。

俺はあんな思いをするのはしばらく御免だ。だから、このデスゲーム、必ず生き残るし、十億を手に入れてこの先の人生を変えてやる。そう、両手を強く握り締めた。

さすがにのぼせて風呂から出ると、俺はベッドに腰掛けて、一応マップ端末を確認してみた。他の俺は地図上に散らばって、動きがなかった。さすがにこんな時間になってまでデスゲームを続ける俺はいないようだ。スマホの地図アプリと照らし合わせると、二十六歳から五十六歳の俺に関しては、俺と同じく中京区内のホテルに滞在しているようだった。

「……?」

だが、十六歳は違った。十六歳だけは、中京区の西側にある公園にいた。なんでそんなところにいるのかと考えて、遅れて気が付く。未成年は親の同意書がなければホテルに泊まることができない。このデスゲームで十六歳は宿泊先を確保できないのだ。

なんだか、敵ながら十六歳がかわいそうになってきた。俺たちの中で、十六歳だけは、自分より年下のプレイヤーがいないため〝死ぬ〟ことはない。だから、失うものがない恵まれた立場だと思っていたが、こういうところで不利になるとは思っていなかった。

しかし、俺には関係ないことだ。むしろ、十六歳が野宿をして疲弊してくれるなら、倒しやすくなっていいかもしれない。体力のある十代を万全のコンディションで敵に回したくはないから、これは俺にとって吉報だ。

そんなことを考えながら俺はベッドに入り、枕元のスイッチを押して、明かりを消した。今日は疲れたので、さっさと寝てしまいたかった。それに薬を飲んでいるから、副作用で大分眠い。

部屋は一番安いシングルルームを取ったのだが、それでもベッドは俺が普段寝ている布団よりよほど広かった。俺は存分に寝返りをうつ。しばらく寝転がっていると、睡魔が忍び寄ってきた。俺は心地よく微睡む。

そして、あともう少しで本格的に寝てしまうというところで、目が開いた。もう一度眠りに入ろうとする自分もいたが不可能だった。夢心地の間に恐ろしい可能性に気付いたからだ。十六歳に関連して、俺は今すぐ調べものをしなければならない。

俺は部屋の電気もつけずに、手元のスマホで検索を始める。検索を進めるにつれ、俺の不安が次第にリアルになっていく。

確実にそうだ、とは言えなかった。そうならない可能性もあった。だが、そうなる可能性は無視しきれなかった。

俺は一つの可能性を考えている。

俺の考えが正しければ――

このまま十六歳を放っておくと、俺は文字通り手も足も出ずに詰む可能性がある。

俺はベッドから跳ね起きて身支度を整えると、部屋から飛び出した。

ホテルを出た時には、時刻は午後十一時を回っていた。危惧している通りなら、もう猶予はない。いつそうなってもおかしくない状況だ。十六歳は中京区の西側にある西ノ京児童公園という場所にいて、中京区の東側にある俺のホテルから四キロほど離れている。歩くと一時間程度かかってしまうが、それでは遅すぎる。

俺はスマホで調べて、地下鉄を使うことにした。幸い、この時間でも地下鉄はまだ走っていた。最寄りの京都市役所前駅から地下鉄東西線に乗って、西大路(にしおおじ)御池(おいけ)駅へ行き、そこから徒歩で西ノ京児童公園へ向かうのが恐らく最速だった。

俺はホテルから京都市役所駅まで小走りで移動しながら思考を整理する。

俺が危惧しているのは、十六歳が補導される可能性だ。

調べてみたところ、京都市では午後十一時から午前四時までの間に未成年が外出をしていると警察に補導される可能性があるらしい。補導といっても、普通は大したことがあるわけではない。名前や住所の聴取や保護者への引き渡しがあるくらいだ。

だが、十六歳は京都に住んでいるわけではないから、受け答えによっては遠方からの家出とみなされて話がこじれる可能性がある。補導では事情聴取のために警察署まで行く場合もあり、実はこれは任意なのだが、十六歳の俺にそんな知識はないから求められれば警察署まで付いて行くだろう。加えて、これはいつバレるかわからないが、十六歳は銃も持っている。もしそれが警察に見つかったら一発アウトだ。

では、なぜそれが俺の「詰み」につながるのか。

話がこじれたすえ補導された十六歳が中京警察署に連れて行かれた場合、俺にとっては非常にヤバイ状況になる。

警察はまず十六歳の実家に連絡を取ろうとするだろう。だが、連絡がつくわけがない。今は十六歳がいた時代から二十数年後だし、俺の両親は早くに他界している。実家に電話したところで出る人間はいない。

そして、諸々調べた末、この時代に時部敦彦十六歳は存在するわけがないということが明らかになる。警察は謎の少年時部敦彦を簡単には解放しないだろう。その頃にはまず間違いなく銃も見つかっており、長期の取り調べが確定する。

するとどうなるか。簡単な話だ。俺のタイムリミットを越える。しかも、署内にいる十六歳を倒しに行く方法は皆無である。俺は中京警察署に留置されている十六歳に一切手出しができないままうつ状態に突入し、行動不能になる。そしてその頃には手元の金も底をついており万事休すだ。

その結末を防ぐためには、補導される前に、なんとか十六歳を保護しなければならない。

デスゲームでは敵同士の相手を、補導されないように保護しなければならないなんて変な話だった。もっとも、もし十六歳が一人で公園にいるのであれば、保護するまでもなく、遠くから銃で撃って退場させてしまえばいいのだが。

十六歳がピンポイントで補導にあう可能性はそう高くないとはいえ、実際補導されてしまったときのリスクが高いので、焦るには焦る。俺はなんとか冷静を保とうとしながら京都市役所駅の階段を降りた。無機質な駅構内を歩き、改札をくぐる。

ホームは閑散としていた。既に十一時を過ぎているのだから当たり前だろう。ホームの向こう側、トンネルに抜けていく風が、生温く通り過ぎていった。

電車を待つ間、ふと、全く知らない土地で、泊る場所もないままデスゲームをしなければならない十六歳の俺は一体どんな気分でいるだろうかと思った。十六歳の頃のリアルな感情を思い出すのは、もう難しい。なにせもう二十年も前のことだし、今の俺とティーンの俺は別人といってもいい。

中学や高校の頃の記憶はあまり思い出したくない。とりあえず、あまりうまくやっていけなかったのは覚えている。クラスメイトの前で何か喋ると、一瞬シンとなって、その後なぜか笑われることが多かった。俺にはその理由がわからずに、一人でいることが多くなった。

別に中高の人間関係なんかクソみたいなものだし、気にする必要なんか一切ないのだが、当事者としてそうは思えないのが十代の悲しいところだ。

誰もいない屋上から見た青空の記憶がよみがえってくる。忘れようとしていたのに、さすがにきれいさっぱりとは消えてくれないらしい。休憩時間に教室にいることが耐えられなくて見上げた空。雲が流れて、刻一刻と一日が終わりに向かっていることだけが救いだった。そういう高校生だった。

今の十六歳の心中を察するには俺は年を取り過ぎたが、とりあえず十六歳の俺はデスゲームには向いていなさそうだ。白い空間でも、デスゲームを止めようとしていたくらいだし、積極的に戦うつもりもないかもしれない。

俺は白い空間でのことを思い返す。我ながら「かわいそうになあ」と、そして「馬鹿だなあ」と思った。十六歳はなんで自分が撃たれそうになったのか、イマイチわかっていないに違いない。多分、自分は正しいことを言ったと思ってる。そして、実際ある面では正しいのだが……。

いずれにせよ、十六歳のことはさっさと撃ってしまった方がよさそうだと思った。放っておくと色んな意味で危ないし、十六歳は唯一〝死ぬ〟ことがない立場だ。五十六歳のときみたいに罪悪感を感じる必要もない。五十六歳の要求を思い出したが、考えは変わらなかった。あんな友達一人作れないような高校生に十億円を渡してどうなる?

やがて、西向きの電車がやってきた。俺はドアを抜けて空いている椅子に腰かける。電車の中はホームと違ってほどよく涼しい。だから座った途端、強烈な睡魔に襲われ、眠り込んでしまいそうになった。

これには仕方がないところがある。そもそもホテルではもうすぐ寝るところだったのだし、薬の副作用も切れていない。薬のうちの一つ、クエチアピン150㎎は抗精神病薬でもありながら副作用を利用して双極性障害の患者の不眠改善にも使われるような薬だ。それをしっかり飲んでしまった後ではとにかくとてつもなく眠かった。本当は、薬を飲んだ後にやたらと動き回ってはいけない。

だが、たとえばここで眠って、西大路御池を通り過ぎると、電車は太秦天神川(うずまさてんじんがわ)という駅に着いてしまう。太秦天神川駅は京都市中京区の範囲からは外れているから、そうなると自動的に俺はゲームオーバーだった。俺はこんなギリギリの眠気に耐えなければならない羽目になるとは思っていなかったので、十六歳に少し腹を立ててしまう。あいつが未成年でなければなどと、十六歳に言っても仕方がないことを思う。

結局、座っていると睡魔に負けてしまいそうになるので、椅子から立って吊り革に捕まりつつ、自分の腕をつねるなどして、京都市役所前駅から四駅分の移動に耐えた。

そうして西大路御池駅の改札から出て、しばらく北に歩き、ふらふらの頭で西ノ京児童公園に着いたときには、十一時半になっていた。

公園の外から様子を伺うと、ベンチに座っている十六歳は周辺の住民らしい中年の女性に話しかけられているようだった。ここでは会話の内容がわからないから、様子を探るため、もう少し近付いてみる。公園に入り、滑り台の陰に立つ。

「やから、あんたどこの子? こんな時間に公園になんかおったら、危ないやんか」

「ええっと」

「ちょっと待っとき。お巡りさん呼んだるわ。お巡りさんに家(うち)まで送ってもらい」

女性はスマホを取り出してなにやら操作している。どうも今すぐなんとかしないとマズそうだった。俺は滑り台の陰から飛び出して、俺の名前を呼んだ。

「敦彦!」

十六歳と中年女性が俺に振り向く。俺は二人の間に割って入ると、十六歳の腕を引いて無理矢理ベンチから立ち上がらせた。戸惑っている十六歳を無視して、俺は中年女性にペコペコ頭を下げる。

「すいません、うちの子です。もう連れて帰りますんで。お手数おかけしました」

中年女性は脱力したみたいに、「ああ、そう」と言う。しかし、怪しみはしないはずだ。俺と十六歳はあまりに似すぎている。ぱっと見て親子にしか見えないだろう。俺は十六歳の腕を引いたまま公園から出て行く。

道路に出ると、ぬるく風が吹いていた。深夜だからといって、涼しくなるようなことはなく、相変わらず熱帯夜が街を包んでいた。むせかえるような湿度が不快感を増幅させ、汗がシャツをじっとりと濡らしていく。靴底がアスファルトに擦れる音ですら水気を含んでいるような気がした。

俺に腕を引かれている十六歳は、まだ戸惑っているようで、妙なことをしそうな雰囲気ではなかったから、俺はそのまま十六歳と歩いて、中年女性がいる公園から十分離れることにした。なんにせよ、人がいないところに行くべきだった。

俺たちが歩いている京都市中京区の西側は比較的落ち着いた住宅街だった。俺のホテルがある近辺のような繁華街の賑やかさはなく、この時間だからなのか人通りはほとんどない。ここなら銃を取り出しても見咎められるリスクは低いはずだ。

俺は十六歳を観察する。Tシャツに半ズボンの姿をした十六歳は、左腕を不自然に脇腹につけている。まるで服の下に何かを隠しているかのように。何かなんて決まってる。銃だ。十六歳はこの時間になるまで結局カバンを手に入れることができなかったのだ。

若いからそこまで頭が回らなかったのか、それともカバンを買うような金さえ財布にはなかったのか。いずれにせよ、いっそ哀れになってくる。十六歳の俺にはこのデスゲームで最低限必要なものを買う力すらなかった。

駅で考えたことを反芻する。十六歳はさっさと撃ってしまうにこしたことはない。別に実弾で撃つわけじゃない。ちょっと引き金を引いてレーザーを当てるだけ。簡単なことだ。

「あの、ありがとう」

俺に手を引かれたまま十六歳がそう言った。

「助けてくれて」

俺はその無邪気な言葉に思いっきり顔をしかめた。

「礼を言われる筋合いはない。別にお前のためにここに来たんじゃない」

「そうなの?」

俺が何を考えてこの深夜のクソ眠いなか電車に乗ってこんな遠方まで来たか説明してやってもいいが、その必要はなさそうだった。十六歳はここで退場させるのだから、俺の意図なんか知らなくてもいい。

俺は十六歳から手を離すと、リュックサックのファスナーを開ける。この状態からであれば、十六歳が服の下に隠している銃を取り出して撃つよりも、俺がリュックから銃を出して撃つ方が速い。この勝負はすでに勝っている。

周りに人なし。あとはもう銃を取り出して十六歳を撃つだけ。俺は眠気を抑えながら、ひそかに呼吸を整えていた。

しかし、そこで一応手に持っていたマップ端末の異様な画面が目に入った。俺は慌てて画面を覗き込む。

中京区の西側に俺と十六歳がいる。他の俺からは十分に距離のある位置だ。予想外の乱入はありそうにない。それはいい。二十六歳と五十六歳は以前と同じようにそれぞれのホテルにいる。それもいい。問題は四十六歳だった。

四十六歳は《《五十六歳のすぐ隣にいた》》。

つまり四十六歳は五十六歳のホテルの中に入り込んでいる。俺はこめかみに手を当てて考える。わからない、なんだこの状況は。

いや、ホテルに入り込むだけならできるか? だが、なんのために? 相手のホテルに入ったところで、部屋のドアは開けられないのだから、結局相手は倒せないはずだ。むしろ敵陣に入っているようなものとも言える。四十六歳は何を考えている。

訳がわからないまま画面を見ていると、画面上の「56」という番号が消えた。何度も確認するが、もう画面のどこにも「56」は存在しない。

導き出される答えは一つ。

五十六歳は脱落した。

あの、俺に共闘を呼び掛けてきた自殺願望のある男が〝死んだ〟。

俺は再度混乱する。一体どうやって? いくつか仮説を考える。

一、五十六歳は四十六歳に共闘を持ち掛けたが、交渉が決裂し、殺された。

ありえない。なぜなら五十六歳にはもう銃がないからだ。他の人間に共闘を持ち掛けられるような状態だったとは思えない。

二、銃をなくした五十六歳はゲームからの離脱を願い、四十六歳に手伝ってもらった。

これもありえない。ゲームから離脱したければそんな手間をかけなくても、京都市中京区から出てしまえばいい。だから、恐らくこれは五十六歳の意思ではない。

では残る可能性。

三、五十六歳は安全なはずのホテルの自室にいたにも関わらず、なんらかの方法で四十六歳に殺された。

俺はゾッとした。そんなことがありえるのか。どうやって外からは開かない部屋にいる人間を殺せる? 四十六歳がやって来たからといって、五十六歳がわざわざ扉を開ける理由はない。だから、四十六歳は五十六歳に一切攻撃ができないはずだ。だが、状況的には三の可能性が一番高い。五十六歳はホテルの自室に籠っていたのに四十六歳に殺された。

俺はまだ混乱を続ける。そもそもなぜ四十六歳は五十六歳を狙ったのか。四十六歳にとって、五十六歳は最も優先順位の低い相手のはずだ。五十六歳がチャンピオンになったとしても、四十六歳は十億円を手に入れるのが十年遅れるだけなのだから。

リスクをまともに考えるなら、五十六歳よりも先に年下の自分を倒しに行った方がいい。わからない。四十六歳が何を考えて何をしているのか。あいつは狂っているのだろうか? やはりこのデスゲームで四十六歳が一番危険だと再認識する。

眠気でぼやけた頭をそんな考え事に持って行かれていた俺が目の端で捉えたときには、十六歳は自分の銃を取り出そうとしていた。

俺は咄嗟にリュックサックから銃を抜き、十六歳に突き付けた。照準をしっかりと合わせながら、息が荒くなる。危なかった。あれ以上マップ端末を見ていたら、きっと俺は撃たれてしまっていた。さっきはお礼なんか言ってきやがったくせに、油断も隙もあったものじゃない。そう思う俺を、十六歳は悲しげな眼で見てきた。

「違うよ。おっさんを撃とうとしたんじゃない。銃がずっと同じところに当たってて痛いから、場所を変えようと思っただけだ」

実際、十六歳は俺に銃口を向けることなく、銃を右手に持っている。俺は戸惑う。本当に肌に当たっている銃が痛かっただけなのかもしれない。だが、十六歳から銃口を外すわけにはいかない。もう二人が銃を手に持ってしまっている以上、俺は十六歳に銃を向け続けなければならない。

そうだ、このままもう撃ってしまえ。何をためらうことがある? 十六歳を撃ってしまえば、俺はこうしてびくびくする必要もなくなる。俺は引き金にかけた指に力を込める。

「さっき、何があったの」

「なんのことだ」

「ずっとマップ端末を見てた。何かあったんでしょう」

答える義理はなかった。だが、答えてもいいかと思ってしまった。なんだかんだ理屈はつけても、このまま引き金を引くことにどこかためらいがあるのかもしれなかった。夏の夜の熱気に、額から汗が流れ落ちた。

「四十六歳が五十六歳を退場させたんだ」

「そう……じゃあ、あの人〝死んじゃった〟んだね。一番年上だったから」

そう、四十六歳が五十六歳を〝殺した〟。だが、そこでふと考えてしまう。

五十六歳の銃を捨てたのは俺だ。俺が銃を奪って捨てたから、五十六歳は四十六歳に抵抗できなかったのではないか。だとするならば、俺だって五十六歳の〝死〟の原因には違いない。俺はあのとき引き金を引くことができなかったが、俺はもうあの時点で五十六歳を半分〝殺して〟しまっていたのだ。

これでは、自分自身が手を下すことを避けて自己満足していただけではないか? 少し考えれば、五十六歳の末路は予想できたはずだ。俺は自分がやったことから目を背けて、決定的なことをしていないつもりになっていただけだ。

……だが、そもそもそんなに真面目に考える必要があるのだろうか。これはデスゲームだ。他のプレイヤーを消して、最後に俺が残らなければならない。五十六歳の脱落についてこれ以上考える必要があるか? 単純に一人減ったことを喜べ。俺は別に間違ったことはしていないはずだ。

「やっぱりおかしいよ。俺同士でこんな殺し合いをするなんて。なんで大人の俺はこんなことやっちゃってるんだよ」

考えを読まれたわけではないだろう。十六歳は十六歳で考えていたことの続きを言っただけだ。だが、俺はなんだか責められたような気がした。ああ、たしかに、これは《《撃ってしまいたくなる》》。俺自身に、あの白い空間にいた四十六歳の欠片があるのを感じる。初めて、俺とあの四十六歳は地続きの存在だと感じた。俺は十六歳に向かって首を振る。

「お前は何もわかっていない。お前は何も知らない」

そう、十六歳が言っているのはただのおきれいな理想論だ。十六歳は、ゲームから退場しても全ての場合で死なない恵まれた立場だ。単に十億円の獲得が遅れるだけ。だから、俺たちの恐怖がわかっていない。

そして、十六歳は俺たちの人生に何があったか知らない。一生ものの病気をすることも、正規の職を失うことも知らない。自分の人生で十億円がどのくらいの価値を持つかわかっちゃいない。だから、そんなふざけたことを言える。

人間の生の恐怖と欲望が全くわかっていない若者のきれいごとに過ぎない。

「俺は〝死にたくない〟。十億円なんか、これを逃したら俺たちの人生で一生手に入らない。俺はあんな四十六歳や五十六歳になりたくない」

「おっさんは、おっさんのままでいいのに」

十六歳は銃を突きつけられてもなお、俺を真っ直ぐ見ている。

「だって、おっさんは敵なのに俺を助けに来てくれたいい人じゃないか」

違う。こいつは何もわかってない。勘違いして勝手に俺のことを評価している。俺は単に俺が詰みそうだったから、仕方なくこいつを助けに来ただけだ。善意ではまったくない。こいつはこういうところまで馬鹿だ。馬鹿などうしようもない十六歳の俺だ。早く撃ってしまうにこしたことはない。なのに。

――なんで俺の手は震えているんだ。

銃身の先の十六歳と目が合う。なぜ、こいつは銃を突きつけられているのに、こんなに静かに俺のことを見ていられるのだろう。いくらリスクのない身とはいえ、そんなに思い切れるものだろうか。

俺にこんな頃があっただろうか? 俺は十六歳の自分ならきっと銃を前に頭を抱えて震えてしまうと思っていた。意気地のない、友達のいない、空ばかり見ていた高校生。でも、いま目の前にいる俺はそうじゃない。俺が忘れているだけで、本当の昔の俺はこうだったのだろうか。

俺は動揺を抑え、照準を合わせ直そうとする。十六歳は目を伏せると、銃を持っていた腕を上げた。それはある意味予想外の動きで、俺は引き金を引かなかった。なぜなら、銃口は俺には向かず、十六歳自身の側頭部に接していたからだ。

十六歳はそのまま落ち着いた声で話す。

「馬鹿みたいだ。デスゲームとか言って、いい大人が自分同士で銃を向けるなんて。俺はこんなものには参加しないよ。多分、俺はもっと早くにこうするべきだったんだ」

「お前、何やってるんだ」

「本当は、大人の俺にこのデスゲームを止めてほしかった。こんな馬鹿なことしないってみんなで言ってほしかった。そうならなくて、悲しい。残念だよ、俺がこんな大人になるなんて」

その声に漂う失望に、俺はドキリとした。

だが、そう言ってから十六歳は俺を見て少しだけ笑った。

「でもどうせ続けるんだったら、俺、おっさんにはちょっと頑張ってほしいかも」

俺は思わず銃を下げて十六歳に手を伸ばす。しかし、俺の手が届くより先に十六歳は引き金を引いた。十六歳の姿が忽然と消え、銃とマップ端末だけが地面に音を立てて落ちた。深夜の静寂に、俺は一人になった。

消えた。十六歳がこのデスゲームから退場した。

俺は十六歳の銃とマップ端末を拾い上げ、自分の銃と一緒にリュックサックにしまうと、脱力して道路に座り込んだ。熱帯夜のアスファルトは嫌な温度だった。

しばらくぼうっとしてしまう。なんだったのだろうか、一体。

十六歳は大したことのないやつだと思っていた。実際、カバンすら買えない無力な子どもだった。だけど、一体、今あいつは何をした? こんな馬鹿なデスゲームには参加しないと、自分で退場してみせたのだ。

俺は十六歳のことばを思い返す。たしかに、十六歳の言う通り、いい大人が自分たち同士で銃の撃ち合いをするなんて馬鹿々々しいことこの上ないだろう。十六歳が幻滅するのも無理はない。あの十六歳の言葉に漂っていた失望が、俺をわずかに動揺させる。

だが、やはり十六歳が言ったことは、所詮十六歳の考え方に過ぎない。十六歳は自分の人生での十億円の価値なんか知らないし、俺たちの必死さはわからない。恵まれた立場からの理想論になんの意味がある?

そうだ、思い出した。十六歳の頃の俺は空ばかり見ていたくせに、勉強も運動もさしてできなくて、目立った取り柄もないくせに、自分は「普通」に仕事をして結婚をして、なんならこの人生で何か大きなことだって成し遂げられるかもしれないと無根拠に信じていた。現実的なことはなんにもわかっていない馬鹿だった。

現実が、自分の思うようにはいかないと、俺の人生には「何か大きなこと」なんかなくて、それどころか「普通」なんてものにも手が届かないのだと、本当の意味で打ちのめされるのは、もう少し後のことだ。

そう。だから、あんなきれいごとが言える。だから、あんなことができる。

あいつは、わかってないだけだ。知らないだけだ。馬鹿なだけだ。きっとそうだ。

俺は力を入れ直して立ち上がった。

これで、デスゲームの参加者は、俺と二十六歳と四十六歳のみ。一気に三人まで減った。

俺が帰る時間には、もう地下鉄も走っていなくて、俺はホテルまで一時間歩いて帰ることになった。歩いている間、十六歳の最後の言葉が耳に残っていた。十代の自分に「頑張ってほしいかも」と直接言われるなんて妙な気分だと思った。

なんだか出来の悪いタイムカプセルみたいだ。あの小学校の校庭とかに埋めておいて二十年後くらいに掘り返すやつ。ああいうものに入れた自分の言葉は読み返すに堪えない。人生は子どもが想像するよりもっとどうしようもなく凡庸で劣悪だからだ。馬鹿だなと俺はまた思った。

自分の手を見る。結局銃を構えていながら、五十六歳も十六歳も撃つことができなかった手を。甘いことこの上ない。この次撃つことを逡巡したら、逆に撃たれておかしくない。

俺に銃を向けられた十六歳は最後まで何もわかっていなかった。それで「頑張ってほしいかも」なんて言われてもしょうがない。だが、たしかに、俺はこのデスゲームを「頑張る」しかないのだ。次は、次からは撃つ。そう心に決める。

足の疲れを感じながらホテルの自室に帰ると、ドアにかける札があることに気付いた。翌日の掃除が必要かどうかを意思表示する札だ。俺はゆっくり眠りたい気分だったから、掃除不要の札をドアの外にかけてベッドに横たわった。疲れ果てていたからだろう。一度も目覚めることなく、泥のように眠った。

途中、夢を見た。十六歳の頃の夢だった。学校で進路希望の紙が配られて、第三希望まで書く欄があった。俺は提出日の夕方まで、その三つの空白を埋めることができなかった。でも、焦りはまったく感じなかった。夕空を淡く流れていく雲を見ながら、少し楽しい気分ですらあった。書こうと思えば、なんだって書けるのだと思った。俺がその紙に書き込まないうちは、可能性の輪は無限に広がっている。

結局、何を書いて出したのか、もう覚えていない。

翌朝、俺はドアをノックする音で目を覚ました。

「お客様、お客様、中にいらっしゃいますか」

俺は寝ぼけた頭をかきながら、ベッドから身を起こす。若いスタッフの声だった。

「お客様? お客様!」

「はーい、います」

俺はイライラした。一体なんなんだろう。朝っぱらからこんな呼びかけをされなければならない理由はない。なにしろ、掃除はいらないとちゃんとドアの外の札で意思表示をしている。それならその部屋には朝の声掛けをせずに放っておくのが普通のはずだ。

俺は寝間着姿のままイライラしながらドアを開けようとして、凍りついた。ひどく嫌な予感がした。昨晩のことを思い出したからだ。昨晩、《《五十六歳はホテルの自室で殺された》》。俺はドアから離れ、枕元のマップ端末を確認する。

すると、「36」のほとんど隣に「46」が表示されていた。

四十六歳がこのドアの向こうにいる。

「お客様、大変申し訳ないのですが、お部屋の中を確認させていただきたいのです。すぐに終わりますので、こちらのドアを開けさせていただいてもよろしいでしょうか?」

スタッフの声には焦りがにじんでいる。なんだか様子がおかしい。これはどういう状況だ。なぜ扉の外に四十六歳がいる状況でスタッフはこのドアを開けようとしている? わからない。わからないが、間違いないのは。

このドアを開けたら、俺は撃たれる。

「ちょっと待ってください。いま開けないでください」

「お客様、それがどうしても中を確認しなければならず……ほんの少し拝見させていただければ結構ですので、開けてもよろしいでしょうか」

なんだ? 何が起こっている? ホテルのスタッフは四十六歳が横にいる状態で頑《かたく》なにこの部屋のドアを開けようとしている。俺が断っても引き下がろうとしない。《《ホテルの宿泊客ではない人間がいる横で》》、《《中の客が断っているにも関わらず》》、《《なぜか客室のドアを開けようとするスタッフ》》。不自然だ。不自然すぎる。

なぜこのスタッフはドアを開けようとしているのか。状況から考えれば、当然、隣にいる四十六歳にこの部屋を開けるよう言われたからに違いない。だが、なぜこのホテルの宿泊客でもない一般人の言うことをスタッフが聞いているのか理解できない。そもそも、セキュリティがそこまで強くない安ホテルとはいえ、どうして四十六歳がここまで侵入することを許している?

一瞬、拳銃に見えるものを持っている四十六歳にスタッフが脅されているのかと思ったが、それはありえそうになかった。複数のスタッフが働いているホテルで、いくら拳銃らしきものがあるからといって、四十六歳一人でスタッフに言うことを聞かせられるとは思えない。もしそんなことをしていたら、とっくに通報されているだろう。

「……お客様! 申し訳ありません、開けます!」

「待て、開けないでくれ!」

鍵穴がガチャガチャ音を立てている。勝手に外から鍵が開けられている。スタッフは俺が断ろうがなんだろうが、ここを開けるつもりだ。むしろ、俺が断れば断るほど、さらに開ける方に動いている気がする。スタッフはなぜかどんどん焦っている。四十六歳に一体何を言われたらこうなるのだろうか。

「なんでそんなに開けようとするんです! 確認ってなんですか!」

「……すぐ終わりますので。失礼いたします!」

どうも詳しい理由すら言えないらしい。ほとんど説明のないままドアは開けられようとしている。もう鍵はかかっていないから、ドアを閉じようとする俺と開けようとするスタッフの力比べ状態になっている。俺は寝間着姿のままドアを力押しして、この訳のわからない状況に混乱しながら、どうにか打開策を考える。

このドアが開けば、恐らくその瞬間に四十六歳に撃たれることは間違いない。では、俺も銃を持って応戦するか? それは不可能だ。なぜなら、ドアを開けるスタッフが真正面から俺の姿を見ているに違いないからだ。スタッフの背後から撃てる四十六歳とはわけが違う。銃を出してしまうわけにはいかない。

しかし、そんなこと言っている場合か。イチかバチか銃を構えてしまった方がいいんじゃないか。俺はドアを力押ししながら考え続ける。

そしてひらめいた。

別にドアは開いてもいい。その場に四十六歳さえいなければ、このドアが開いても何の問題もない。

「あの、スタッフさん! 隣に誰がいるんですか! その人ここに泊っている人ではないですよね!」

「え……なんで私の隣に人がいるって知っているんですか」

「いいから! その人誰ですか!」

「この方は、お客様のお兄様だと伺っています」

それだ。俺の兄だと偽った上で、四十六歳が一体何を言ったらこういう状況になるのかはわからないが、とにかく糸口が見えた。

「違います、俺に兄なんていません! その人ストーカーです! その人がいなくなったらいつでもドアを開けますから、とにかくその人を遠くに追い払ってください!」

俺がそう叫ぶと、途端にドアを開けようとする力がなくなった。ややあって、ドアの向こうで走る音と怒号が聞こえた。その音は廊下の向こうへ遠ざかって行った。俺はまだ緊張を解かずに、ドアを押さえながらマップ端末を確認する。画面を見れば、どうやら四十六歳はこの場から遠ざかっているようだ。ほっと胸を撫で下ろす。ひとまず危機は脱したらしい。

ベッドに座って一息ついていると、今度は控えめにドアがノックされた。俺はマップ端末で周囲に誰もいないことを確認し、ドアを開ける。すると、スタッフが気まずそうな顔でそこに立っていた。

「お客様、先程は大変申し訳ありませんでした! 後ほど支配人からも謝罪をさせていただきます。申し訳ありません」

ドアを開けようとしていた若いスタッフと声が同じなので、さっきと同じスタッフなのだろう。たしかに先ほどまでの騒動は謝られるようなことではあったわけだが、支配人も来るとなると恐縮してしまうので、どうにかそれは断る。その代わり事情を聴くことにした。

「一体、あのストーカーに何を言われたんですか?」

「それは……」

スタッフはひとしきり言いづらそうにしてから、答えを口にした。

「お客様がお部屋の中で自殺をなさろうとしている、とあのお兄様を名乗る方が仰いまして」

俺はそれで得心がいった。それで、こちらが断れば断るほどドアを開けようとしてきたのだ。自殺しようとしているらしい人間が様子を見られるのをやたらと拒んでくるのは、ホテル側からすれば怪しすぎたに違いない。

俺はあまりホテルの事情には詳しくないが、聞くところによるとホテル内の自殺はホテル事業者にとって非常に気になるリスクらしい。自殺それ自体が絶対に食い止めるべきことだというのはもちろんのこと、もし仮に自殺者が出てしまえば、その部屋はさまざまな処置が必要になる。今回のスタッフの過敏な対応も無理からぬことではあったのだ。

「申し訳ございません。あのストーカーの方も取り逃してしまいまして……」

「それは仕方のないことです。あまりお気になさらないでください」

むしろ、身柄を押さえて警察に引き渡されたりしたら、俺が困り果てることになる。十六歳が中京警察署に連れて行かれると困るのと同じ理由で、四十六歳が連れて行かれても困るのだ。

「とにかく、こういうのは嘘をつく人間が一番悪いんですから」

そう言って俺は心の中でため息をついた。そう、俺だって嘘をついている。他に思いつかなかったとはいえ、「ストーカー」だなんて言ったから、身柄を確保しようとしてくれたのだ。嘘をつく二人の俺がホテルに迷惑をかけまくっている。デスゲームだろうが許されていいわけがない。俺は平謝りするスタッフに心の中で謝り続けながら会話を終えた。

自室で一人になると、もう昼前になっていた。朝から騒動に巻き込まれただけなのに、こんな時間になってしまったのだ。俺はベッドに仰向けに倒れ込む。エアコンは騒動とは無関係に正常に動いていて、「やっぱり他人のエアコンだな」という気がした。ホテルのエアコンなのだから、当たり前なのだが。

俺は涼やかな微風を感じながら少しずつ気持ちを落ち着け、考えを整理していく。五十六歳もあの手口で殺されたのだろうか。なぜ五十六歳は俺のように切り抜けられなかったのだろう。俺だって焦りはしたものの、冷静に考えればどうしても対処できないような手口ではなかったはずだ。

すでに五十六歳が死んでしまった以上、真相はわからない。だが、ひょっとして、と思う。あの死にたがりの五十六歳は、追い詰められたその段階で、抵抗する気概もなく諦めてしまったのではないか。俺にはそんな気がした。

いやなものだ。年を取るというのは。

そして、なにより四十六歳。一体これから先の十年に何があったら、俺があんな狂った男になるというのだろう。何があれば、嘘をついて無関係の人々を巻き込むこともいとわない男になってしまうのか。

しかも、さっきの手口が成功した場合、ホテルスタッフの目の前で宿泊客が忽然と姿を消すのであり、四十六歳はその状況からどうにかトンズラするつもりだったのか? それはあまりになりふり構っていない計画だ。そうまでして四十六歳を突き動かすものはなんなのか。色々と想像を巡らせていると気分が悪くなってきた。

だが、気分が悪かろうが昼の十二時を回れば腹は減ってしまうもので、外に行くために、俺は昨日着た半袖シャツを着て、スラックスを履いた。シャツとスラックスは心なしか湿っていた。当たり前だ。夏なのに一昨日はこれを着て仕事をして、昨日もこれで走り回って、今日またこれを着ているのだから。どう考えても着替えを買う必要があった。

俺は肌に張り付いて来る布地の感覚に耐えながら、リュックサックを背負い、部屋の外に出た。

とりあえず、俺は腹を満たすために繁華街の手前にあるやよい軒に行った。理由は比較的バランスよく食事ができるのと、先払い形式のため、いざとなればすぐ外に出られるからだ。手元の残金を考えれば節約をするべきだが、食費を削り過ぎると碌なことにならないというのは、この歳になるとよくわかっている。

やよい軒では、ぱっと見て栄養バランスが良さそうなしょうが焼定食を選んだ。食券を持ってなるべく出口に近い席に座る。奥側の厨房から店員が出て来てにこやかに食券を持って行く。定食が運ばれてくるのにそう時間はかからなかった。俺は定食に箸をつける。

食べている間は無防備だからそわそわするし、ずっとマップ端末で位置情報は確認しているし、朝にあったことのストレスも続いていて、要するに味に集中できるような状態ではなかったが、それでもさすがのうまさだった。箸が進む。

食べられるときに食べておくという意味では、できればご飯をおかわりしたかったが、さすがに朝にあんな騒動があったところ、腹いっぱいに食べるような神経を持ち合わせていなかった。定食を完食したのだから、このくらいでよしとするべきだ。

やよい軒から出ると、少し歩いて昨日行ったコンビニに入った。目当てはスマホの充電器だった。昨日からスマホを酷使して、充電が残り20%になっていたからだ。充電器くらい部屋から引っこ抜いてくればよかったのだが、あの時はそこまで頭が回らなかった。そもそも、こんな長期戦になるだなんて思っていない。

店内の一番端の棚を見ると、ちゃんと俺のスマホにも対応していそうな充電器があった。だが、高かった。少なくとも今の俺には高く感じた。具体的にはしょうが焼定食二食分くらいの値段だった。しかし、コンビニで買うとなると相場はこのくらいかなという気もしたので、心の中で呻きながらレジに持って行った。

コンビニから出て、念のためとマップ端末を確認したところで、そういえばと思った。そういえば、このマップ端末は充電していないが大丈夫なのだろうか。ほぼ画面をつけっぱなしにしているが、見たところバッテリー表示もないし、充電できそうな差し込み口もない。

途中でいきなり使えなくなったら困るのだが、どうも俺にはどうしようもなさそうだった。とりあえず、この貸与物に関しては何らかのマジカルなパワーが働いて無限に使えると見込んで動くしかない。俺は周りに他の俺がいないのを確認して、マップ端末を尻ポケットにしまう。

それからユニクロが入っているショッピングモールの「ミーナ」に向かった。コンビニとミーナは歩いて五分もかからないくらいの距離だ。俺は昨日入ったユニクロに再び入る。

今日は心なしか家族連れが多かった。スマホを改めて確認してみると土曜日だった。世間は休日なのだ。店内を走ってはしゃぎまわる子どもを父親が捕まえて抱き上げる。そうして父親は母親と相談しながら、エスカレーターを上がっていく。俺はその光景を見ながら一階に立ちつくしている。家族が視界から消えたところで我に返った。

俺はここに買い物に来たのだった。とにかく、夏に三日続けて着た半袖シャツとスラックスの替えを買わなければならなかったし、下着と靴下だって買いたかった。俺は買い物カゴ片手にユニクロの中を見て回る。

そういえば、服の類を買うのは久し振りだった。もう何年も手持ちの服を着まわしていたし、新しく服を買わなければならないイベントもなかった。休日にわざわざ出かけて新しく服を買うことが億劫だったし、臆病にもなっていた。とはいえ現在進行形で汗まみれの服の不快に耐えている状況では、買い物をするしかない。

俺は店内で見つけたそれぞれのアイテムを買い物カゴに呻きながら入れていく。なぜ呻いているかといえば、コンビニの時と同じで、手元の残金について考えているからだ。

普通に見えて、ある程度機能性が高い服を手頃な値段で買えるので、ここにユニクロがあってくれて本当に助かっているのだが、超絶安売りをしている店ではないわけで、シャツやズボンを買うごとに、今泊っているホテル一泊分の現金が飛んでいくのであった。

そして、買い物はそれだけでは終わらない。俺はユニクロのあちこちに吊られているカバンを見て回る。

昨日十六歳と対面していたときにも思ったのだが、リュックサックというのは銃を隠しながら撃つカバンとしては割と最悪である。ファスナーを全部開けてしまうと、蓋の部分のかたちが崩れて中に入っている銃が露出してしまうし、かといって、ファスナーを部分的に開けた状態では、手を突っ込んで撃つこともできない。だから、一旦リュックサックから銃を取り出して撃つ羽目になるのだが、それだったら他のカバンでもできる。

俺は五十六歳みたいに、銃をある程度中にしまった状態で撃てるようなカバンを手に入れるべきだった。ところが、今年のユニクロはワンショルダーを展開していないようで、似たようなものは買えそうになかった。俺は、ワンショルダーでも五十六歳は結構無理矢理銃を構えていたことを思い出し諦めをつける。

人目を引いてしまうので、女性もののバッグは度外視するとして、男性用かユニセックスのカバンをしらみつぶしに見て回った。そうして見つけたのがウエストポーチだ。

やや大振りで十分ものが入れられる大きさ。袋部分を正面に回していたらダメだが、腰の横に回していたら銃の頭だけ出して正面に向かって撃つことができる。ウエストポーチをつけている男性はあまり見かけないが、怪しまれるほどじゃない。これだ。

俺は値札を確認する。二九九九円。ひとしきり呻く。カバンとしては決して悪い金額じゃない。悪い金額じゃないのだが、最初からこっちを買っていればよかったのにという、考えてももはや仕方のないことを考えてしまう。ため息をつきながら買い物かごをセルフレジに持って行って清算した。

ユニクロから出ようとしたところで、ミーナはまだ上まで続いていることに気付いた。三階までユニクロが入っているのは前に確認した通りだが、その上にも九階までフロアがある。上の方にはロフトなどが入っているようだ。何かほかに役立ちそうなものがないか、エスカレーターから上がり、一通り見て回る。

各フロアをぐるりと回りながら上のフロアに移っていく。健康用品や雑貨、文房具などがおしゃれに並んでいる。そして一人だったり二人だったりする若い買い物客が商品を選んでいる。そういえば、俺も二十代くらいの頃はまだロフトにも行っていたなと思い出す。ロフトで交際相手が好きそうなものをプレゼントに買った覚えがある。

交際相手。大学時代から付き合っていたので、それなりに長い付き合いだったのだが、最後までプレゼントに何を買えばいいのかわからなかった。なにか、好きなものは沢山ありそうな気がする相手だったのに、何が好きかよくわからなかった。

ネックレスだとかイヤリングだとか、そういう男性から女性に贈るプレゼントの定番を贈ったことがない。好みに合わないのが怖いからだ。だから、入浴剤とかハンドクリームとかそういう消えものでお茶を濁していた。そういうところで、ネックレスやイヤリングや、もっと言えば指輪を贈るような人間であれば、何か違っていたのだろうか。

もう考えても仕方のないことだ。彼女と別れてから随分と年月が経ってしまった。

ロフトにもすっかり行かなくなった。病気をしてからも、そして交際相手と別れてからもしばらくは行っていたと思う。しかし、何も買わずに帰るのが何度か続いて、それきり行かなくなった。魅力を感じなくなったのではない。ただ、全て「ショーケースの向こう」だという気がしたのだ。

棚にそのまま置かれて、手に取れる商品なのに、小さな雑貨くらい金銭的には俺にだって買えるのに、俺には手の届かないものになってしまった気がした。若い頃の生活は、ガラスの向こう側に移って、もう俺の手には入らない。

俺はロフトで何も買わないまま、途中のフロアでトイレに行き、近くにあったフロア端の階段から一階まで降りて、ミーナを後にした。

ミーナから出て、マップ端末を確認すると、二十六歳がそこそこの距離まで近付いて来ていた。四十六歳は遠くにいるし、位置関係からして明らかに俺を目指して来ているのだろうが、ゆっくり歩いている速さではあるし、俺がここから逃げれば、二十六歳に遭遇するよりもホテルに帰りつく方が早い。俺はどうするのか迷いながらマップ端末を見つめた。

もちろん、このままホテルに帰ってしまうのが一番安全である。今朝のようなことがあったから、ホテルも百パーセント安全な場所ではないが、同じ手を二度食らうとは思わないし、やはり密室になるのはありがたい。

だが、後手後手に回り続けていいのかという気もしていた。俺にはタイムリミットがある。その上、さきほど買い物をしたために、もう手元にはホテルにあと三日泊る金しか残されていない。食費を考えれば、あと二日かもしれなかった。

ホテルに泊まる金がなくなったからといって、即座にゲームオーバーというわけではないが、眠る時に身の安全を確保できなくなるのは、いかにも苦しい。実質眠れないと思った方がいいだろう。俺はホテルを拠点にできるうちに、このデスゲームに勝つべきである。

マップ端末を見ると、二十六歳は繁華街の正面からまっすぐこちらに向かってくる。どうも戦いを挑みに来るような動きではない。繁華街は人目がありすぎるから、いくらカバンの中に隠しているとはいえ、銃を撃つのは困難だろう。

会ってみるか、と思った。

二十六歳に会えば、なんらか進展はあるだろうし、戦いに来るのでなければ、何をしに来るのか興味があった。俺は買い物袋を片手に、一応リュックサックを腹側に回して、二十六歳を待った。

しばらくして、ミーナの前に現れた二十六歳は、俺を見つけると爽やかに笑って、両手を軽く上げてみせた。ホールドアップの真似事だ。やはり、戦いに来たわけではないようだ。恐らく肩に掛けてある革のカバンには銃が入っているのだろうが、そちらに手をやる素振りすらない。二十六歳は手を下ろして、俺の前までやって来る。

「ちょっと一緒に飯でも食わない?」

「なんのつもりだ」

「やだなあ、大の大人がわざわざ一緒に飯を食うんだから、仲良くしたいに決まってるじゃないか」

二十六歳は薄汚れた俺の格好とは違って、清潔な洗いたてのシャツとスラックスを着ていた。俺は肌に吸い付いて来る汗まみれのシャツの感触を再び不快に思う。二十六歳は聞くだけ聞いておいて、俺の返答を確かめすらせず、手元のスマホで何やら検索をしている。スマホを見ながら、軽く「俺のおごりでいいよ」と言ってきた。

「金ならあるし」

二十六歳が案内してきた店は近くの小洒落《こじゃれ》たイタリア料理店だった。どうも二十六歳曰く食べログで高評価だったらしい。なんだか店の選び方が二十六歳だなという感じはしたが、俺は黙って付いて来た。

店の内装は天然の木を惜しげもなく使いながら黒を基調としたシックさがあり、落ち着いた大人の店といった感じである。いくらランチとはいえ、それなりの値段がするだろう。俺だったら普段絶対に来ない。「金ならある」というのは本当のようだった。

テーブル席に座った俺は、単刀直入にその辺りを問いただす。

「お前が口座の金を引き落としたのか」

「ああ、それね。悪いなあとは思ったよ。でも、俺の金でもあるわけじゃん?」

俺は思わず思いっきりため息をついてしまった。こいつだったか。確かに二十六歳の言う通り、あれは俺たちの仕事用口座なのだから、二十六歳の口座でもあるのだが、いざ口座残高をゼロにした相手が目の前に座っていると憎たらしくて仕方がなかった。

俺だって同じ状況だったら全額引き落とすに決まっているが、逆の立場だと「思いやりの精神はないのか」とか支離滅裂なことを言ってやりたくなる。

しかも、ことは俺の感情論だけでは終わらない。金を引き落としたプレイヤーとして、二十六歳は最悪である。俺と四十六歳はタイムリミットがある身だ。毎日飲んでいる薬が切れてしまえば、いつゲームオーバー不可避のうつ状態に転んでもおかしくない。だが、二十六歳は違う。少なくとも目立ったうつ症状が出ていない二十六歳には実質タイムリミットが存在しない。十分な現金があるならなおさらだ。

つまり、二十六歳に本気で時間稼ぎに走られると、俺と四十六歳は勝ち目がない。

だが、と一方で考える。二十六歳は恐らく俺たちにタイムリミットがあることを知らない。まだ不調を体験していない二十六歳は、自分が次の年には病を患っているなんて予想していない。だから、病気のことはなんとしても隠さねば――。

「さあ、好きなもの注文してよ。なに頼んだっていいからさ」

二十六歳はメニュー表を広げてみせる。なんだか長々とした料理名が並んでいた。しかもメニュー表が洗練され過ぎているので、写真なんていうわかりやすいものは載っていない。俺は死んだ目をしながら、メニュー表を後ろまでたぐった。どうせメニューが読めようが読めなかろうが関係ないのだ。

「アイスコーヒーで」

「なんだ、食べないの?」

「実はさっき食べてしまった」

そう、二十六歳に思うところがあるからというわけではないし、この店がそこまで気に食わないわけでもない。現にさっきやよい軒で定食を食べているのである。この上、なんとかピッツァだのなんとかパスタだのを食べる気にはならない。

「ふうん、タイミングが悪かったんだな。まあ、俺は普通に食わせてもらうよ」

二十六歳は店員を呼び止めると、アイスコーヒーとランチのコースを頼んだ。コース? ランチでコースだって? 俺は耳を疑う。長らくコースなんてものは食べていない。金があるからといって、調子に乗りやがって。地味に腹が立つ。

わかっている。こいつは意図して調子に乗っているのだ。それが「人生の勝者」の態度だと思っている。人生うまくいっているやつは、このくらいするものだと、そう思っているから、多少身の丈に合わなくても自分の行動をそれに沿わせようとする。「まずはかたちからって言うだろ?」そんな自分でもさして信じていない言葉を周りを見ながら言う。それは極めつけの「贋物」の態度なのだが、本人はそれに気付こうとしない。

どうしてこうなったのだろう。少なくとも十六歳のときはこうではなかった。額に指をあてて記憶を探る。多分、高校生活が散々だった割に大学生活が思いのほかうまくいってしまったのだ。志望校に落ちて入った滑り止めの大学。でも、そこは高校までとは環境が違っていて、なんか地味なサークルに入れば俺だって飲み会に出られたし、友達もできたし、交際相手もできた。

だから、俺はそれが「正しい」んだって思った。無理はしていた。本来の自分より社交的に振舞っていたし、らしくないことだって沢山した。でも、高校のときよりは「楽しい」と思っていた。高校時代だってもっとこうしていれば、一人じゃなかったんだって後悔した。やっと「普通」になれた気がした。

俺は「うまい振る舞い」を見つけては模倣するようになった。「普通」の人になりたいのはもちろん、なんなら「すごい」人にだってなりたかった。社会人になってからは、先輩社員の振る舞いをずっと見ていた。「意識が高い」さりとて大企業にもなれない、そしてもうベンチャーでもない会社の先輩社員の振る舞いを。いつかはこうなるんだって追いかけていた。

俺は振る舞いのキメラになっていく。もう、「本当の自分」なんてあるのかわからないし、そうしてなぞっている振る舞いは、本当の自分になってくれるには脆過ぎた。だって、自分は本当には「普通」なんてものが身体感覚として「わからない」からだ。でも、それに気付きはしないし、気付こうともしない。二十六歳というのはそういう時期だ。

目の前に座っている二十六歳は俺の内心にはさっぱり気付かない様子で、にこやかに指を組み合わせた。そして、瞳を斜め上に動かしたりして、あからさまに考え事をしてみせていた。ほら、こうしてまた〝振舞っている〟。

「さて、どこから話そうかな。まあ、俺と俺の仲なんだから、ここは結論から話そう。俺と共闘しないか?」

共闘。一瞬五十六歳みたいなことを言うんだなと思った。だが、発想が似ているのは当たり前といえば当たり前かもしれない。どっちも俺なんだから。

そして、今の状況で俺と二十六歳が共闘するというのは、正直悪い話ではない。残っている四十六歳が一人で相手をするには危険すぎるからだ。あのモラルを欠いた暴走マシーンを倒すには協力プレーの一つも必要だろう。

だが、共闘をするなら、明らかにしなければならないことがあった。

「共闘して四十六歳を倒すとして、その後はどうする。俺とお前の一騎打ちになるだろう。そのときは完全にイーブンに戦うつもりか?」

そのあたりをこの男はどう考えているのか、答えを出す前に知っておく必要があった。二十六歳は笑顔のまま手をひらひらさせた。

「まさかまさか、二人になったら、俺は退場させてもらうよ。チャンピオンの座はあんたにあげる」

「なんだと」

それはあまりに俺に都合のよすぎる話だ。二十六歳がこの交渉を持ち出すメリットがなんなのかさっぱりわからない。

「一体何を考えているんだ。お前は十億円欲しくないのか」

「欲しいけど、別に十年くらい待っていいなと思ってるんだ。二十年はちょっと嫌だけどね」

俺は息を呑んだ。そうだ。二十六歳の俺は。

《《自分の人生が順調だと思っているんだ》》。

だから、十年くらい全然待てるつもりでいる。

実際、二十六歳の夏まで、表面的には順調な人生といってもよかったのだ。中小企業ではあったが、無事に就職して仕事に励んだ。仕事で認められたくて、がむしゃらに働いた。調子も良かったし、最高に気持ちよく働いていた。今思えばそれは双極性障害の躁状態だったのかもしれないが、二十六歳の俺はそんなことには気付かないし、うつになって診断が下るのはその次の年だ。

大学時代に交際を始めた彼女とも、まだ関係が続いていた。少なくとも表面的には公私ともに順調。二十六歳はそれが、その状態が続くと思っている。

俺は十六歳に対しても何もわかっていないと感じたが、二十六歳は別の角度で何もわかっていない。

「それに預金口座を見て思ったんだ。あれだけしか貯金がないなんて、あんた金に困ってるんだろ。俺が困ってるなら、助けるのが建設的な考え方じゃないかな?」

俺は息が止まるかと思った。《《あれだけしか》》。俺のいた時代から数年後の口座とはいえ、俺が血の滲むような思いで貯めた金だってある貯金をこいつは今《《あれだけしか》》と言った。

ああ、こいつはそう思うだろう。正直、二十六のときの方が貯金はあった。正規で働いていたからだ。その後、療養のために離職して、復職してからも非正規で働いているから貯金はかなり減ってしまった。

なけなしの給料は毎月税金と家賃と水光熱費と食費で削られて行ってほとんど残りやしない。流行りの投資なんかできるものか。俺はひたすら愚直に少しずつ金を貯めていたのだ。何かあったときのために。その金額は二十六歳から見て少ないと思ったって不自然ではないほどのものだ。だが。

二十六歳のくせに、何もわかってないくせに、こいつは俺の足元を見てきやがった。

「一体十年で何があったんだ。あ、ひょっとして家でも買った?」

「その話は、もうやめろ」

俺はテーブルの下で拳を握り締める。二十六歳は手を開いて「わかったよ」というジェスチャーをする。どうもその仕草から、こいつは事の重大さが全くわかっていない。だから、次にこう聞いてきた。

「それで、どうする? 共闘」

俺の手の平に爪が食い込む。二十六歳が提案してきた共闘は、俺に全くデメリットがないものだ。デスゲームを有利に進めるなら、この提案に乗らない理由はない。合理的にはこいつと共闘するべきだ。

……だが、だが。

《《俺はこいつが嫌いすぎる》》!

「……悪いが、この話はナシだ」

「ええっ? なんで。そっちにとっては悪いことなんてない話じゃないか」

まさしく二十六歳の言う通りなのだが、俺はこいつと共闘してしまうと、こいつを後ろから撃ちたい欲求を抑えられそうにないのだ。さすがに共闘しておいてそんなことをするほど外道にはなれない。

二十六歳はしばらく俺を見つめたのち、諦めたようにため息をついた。

「まあ、いいさ。そちらの意思を尊重するよ」

そこに俺のアイスコーヒーと、二十六歳のサラダとパンが運ばれてきた。二十六歳は軽くフォークを扱うと、ドレッシングがかかったレタスを串刺しにする。

「でも、この食事くらいには付き合ってほしいな。切り替えて未来の俺に気になることでも聞いちゃおうか。翔子《しょうこ》とはどうしてる? 結婚して何年目? もしかして子どもも生まれてたりする?」

俺はアイスコーヒーに伸ばしかけた手を止めた。翔子。今となっては記憶をカリカリと引っ搔くような名前になってしまっている。学生時代から付き合って二十七のときに別れた交際相手が翔子だった。二十六歳は不自然に手を止めた俺を見て作り笑いをした。

「まさか別れてないよね」

「……いや、別れたよ」

翔子が合鍵を靴箱の上に置いて、あの部屋の玄関から出て行ったあの日のことを、俺はよく覚えている。朝日が眩しい、七月のことだった。その日は夜からずっと別れ話をしていた。何時間にも及ぶ別れ話で幾度目かに訪れた沈黙に耐えていると、カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋がぼんやりと明るくなった。翔子はカーテンの方を見て、こう言った。

「あなたのこと、もっとすごい人だと思ってた」

それでおしまいだった。

「ええ⁉ なんで別れたの? だって俺たち結婚の話だってして……」

その通り。結婚の話だってしていた。よくよく考えてみれば学生時代に「将来結婚しようね」と甘ったるく言っていた程度の話なのだが、俺も、そして二十六歳の俺もそれをよく覚えている。

そしてなんで別れたのか。翔子のことば通りなら、俺がちっとも「すごい人」ではなかったからだ。それは具体的にはどういうことだったのだろうか。俺は、振られた当初は、俺が病気をしてしまったから見捨てられたのだと思った。

だが、それは甘えた嘘っぱちの考えで、実際翔子は俺が病気になってからもしばらく一緒にいてくれた。俺が自殺未遂をして、その後ほとんど寝たきりになっても一緒にいてくれた。振られたのはある程度俺が立ち直って、喪失に耐えられるようになってからだ。待っていてくれた。

彼女が別れを切り出した理由は、きっともっと根深かった。病気以前に、二十七歳以前に遡るような理由。二十六歳は気付いていないが、多分二十六歳の時点で、俺と翔子の関係は終わりに向かっていた。

翔子はもう、俺が、彼女が思っていたような「すごい人」ではないことに気付いてしまっていたと思う。彼女が求めていたのは何なのかわからないが、確かなのは、俺はそれに届かなかったということだ。

派手な喧嘩をしたわけでもなく、彼女に悪いところがあったわけでもなく、ただ終わった。まるで俺の人生のいろんな事象のように。

「なんでだよ」

「さあ、色々マズイところでもあったんじゃないか、こっちに」

二十六歳は唖然としている。メインディッシュとなる白身魚のグリルが運ばれてきたが、手を付けようとしない。

「え、じゃあ、仕事は? 仕事は続いているよね?」

「続いてはいるが非正規だ」

「なんで⁉」

そりゃ二十六歳はショックだろう。自分がそうなるなんて夢にも思っていないに違いない。なんせ、認められたくてバリバリ最高に調子よく働いている最中だ。数少ない同期と実績を比べて、一喜一憂していた。

二十七歳で双極性障害のうつ状態に苦しむようになり、会社の規定で許された三ヵ月の休職期間を使い果たした俺は、上司に辞表を出した。到底フルタイムで働けるような体調に戻っていなかったからだ。上司は俺から辞表を受け取って「残念だね、頑張ってたのにね」と歯切れよく言った。

それから俺は一年三カ月のあいだ傷病手当で食いつなぎ、それでも復帰できなかったのでさらに九カ月貯金を切り崩して生活し、さすがに貯金が尽きそうになったので時短で働ける非正規の仕事を探した。本当はもっと療養していたかったが、仕方がなかった。そして非正規のまま今に至るまで働いている。

二十六歳が聞く「なんで」に対して丁寧に答えるならこういう話なのだが、二十六歳には病気をしたことを言うわけにはいかない。

「まあ、いろいろあるんだよ、人生」

「おい……馬鹿言うなよ」

二十六歳は、メインディッシュの皿の上で頭を抱える。

「なにやってんだ……なにやってんだ俺……」

結局、二十六歳はコース料理にほとんど手を付けず残した。俺は二十六歳の頭頂部を見ながら仏頂面をしてアイスコーヒーを飲んだ。こっちだって、話したくてこんな話をしたんじゃない。色々聞かれた挙句、勝手に落ち込まれていい迷惑だった。

レストランから出ると、二十六歳は投げやりに手を振って去って行った。余程ショックだったのだろうし、お互いの印象は回復しそうになかった。次会うなら敵同士だろう。俺も踵を返して反対方向に歩いた。俺も過去のあれこれを思い出してダメージを負った。今日は到底戦う気分ではなかった。

一旦ホテルに帰り、ユニクロで新しく買った服に着替えると、繁華街を橋の方に少し外れたコインランドリーに、もと着ていた服を持って行った。洗濯機に服と五百円を入れて回し始める。部屋の中ではいくつもの洗濯機が振動しながら働いていた。室内に響くその振動音はあまり心地よいものではなかったが、この暑いのにわざわざ外に出て行く元気もなく、俺は洗濯機と乾燥機に囲まれた真ん中あたりの椅子に座って、洗い上がりをひたすら待つ。

ふと、二十六歳で十億円を手に入れていたら、俺は翔子と別れることもなく、病気にもなっていないのだろうかと考えた。しばらく考えて、答えはノーだと思った。翔子が俺と別れたのはきっと金の問題ではないし、十億円あったって、あの頃の俺は調子に乗って、体調を崩すだろう。多分二十六で大金があっても、高額な自己啓発系オンラインサロンに使ってしまうのが関の山だと思う。

ため息が出てしまった。では、俺は? 十億あったら、仕事を休んで療養して、それで何をするんだ……? しばらく考える。

洗濯機と乾燥機の音ばかりがひたすら気になる。

あれ? と思った。

きっと十億あれば大抵のことはできる。そのはずなのに、何かに邪魔でもされているみたいに考えがまとまらなかった。周りの音くらいでそう思考に影響が出るとも思わないのだが。

もしかして、俺は、やりたいことがないのか?

――あなたのこと、もっとすごい人だと思ってた。

この十年弱、思い出さないようにしていた声が耳について離れない。翔子の声が頭の中にリフレインして、微かに俺の部屋のエアコンの音が重なる。死にかけのエアコンの音が。

俺は何もやりたいことがないし、部屋でも寝ているだけだ。本当に駄目になってから考えよう、そう無意識で思ってほとんど壊れているエアコンを直そうとすらしない。そんな人間が十億円を手に入れてどうするというのか。わかっている。薄々気付いていたが、今はもう見えてしまった。

十億円手に入っても、俺は「すごい人」になんかなれない。

昨日、俺の前で銃を構えていた五十六歳を思い出す。五十六歳は、十六歳以外の俺が十億を手に入れても駄目なんだと言った。あの時は何を言っているんだと思ったが、もしかしたら、その通りかもしれなかった。

結局、服が洗い上がっても、俺は自分が何をしたいのか、全く見つけることができなかった。俺には欲しいものも、やりたいこともなかった。乾燥機にまた服と二百円を投入して回し始めたが、乾燥が終わっても、それ以上答えは出そうになかった。この歳になって、欲しいものすら持てない人生になってしまったのだと気付いて、胃が重たくなった。

乾燥器から服を回収すると、きちんと乾いているはずなのに、妙に湿気ている気がした。服を持ってコインランドリーから出ると、午後の二時くらいになっていた。一応マップ端末を確認して、俺は目を見開く。

「46」の隣に「26」がいる。俺は二十六歳が俺との交渉が決裂してすぐに四十六歳と戦いに行ったのかと思った。だが、それにしては距離感がおかしかった。二人は路上に位置しているし、単純な銃の撃ち合いなら、もう少し互いに離れているはずだ。だがほとんど隣。まさか――。

五分後、俺の疑念は確信に変わる。「46」と「26」がこちらに向かって並んで歩いてきたからだ。状況的にはもうほとんど間違いない。

二十六歳と四十六歳は共闘をはじめた。

俺はその場で考え込む。別に可能性として全くありえない話ではないのだが、俺にはなんでそんな交渉が成り立つのかさっぱりわからなかった。合理的に考えて、その共闘には二十六歳のメリットがないように思う。

なぜなら共闘相手の四十六歳が勝ってしまった場合、二十六歳にとっては十億円の入手が一番遅れてしまうからだ。実際二十年待つのは少し嫌だと言っていたではないか。三十六歳の俺相手ならともかく、四十六歳と共闘するメリットなんかないはずだ。

そして、四十六歳。四十六歳は……あの男は、話が通じるのか? 到底誰かと共闘をするような人間には見えなかったが……。

とにかく、今はこれ以上分析をしていても仕方がない。俺は身の振り方を考えた。まだ二人との距離は十分あるからホテルには戻れる。だが、ホテルに戻って籠城してどうなる? 俺にはあと二泊程度の金しか残されていない。いずれジリ貧になってしまうことは確実だ。ではどうするか。

俺はマップ端末を見直す。二人は、まるで昼時の二十六歳がそうしたように、繁華街をまっすぐこちらに向かってきていた。俺も繁華街にはすぐ戻れる場所にいて、今日の人通りは十分だ。このまま、繁華街で接触するなら、すぐには戦いにならないか……? ならば。

リスクはあるだろうが、俺は二人に会ってみることにした。

俺は二人とミーナの前で会うことになった。二十六歳は昼時の笑顔が消え失せて能面のような顔を俺に向けてきた。四十六歳の方はそこまで俺に関心がないようで、繁華街の様子を眺めている。肩にかけているメッシュ素材のカバンには銃が入っているのだろう。朝にあやうく退場させられるところだったのだが、四十六歳の姿を直接見るのは、白い空間から出て初めてのことだった。

「どうして二人は一緒にいるんだ」と聞くと、「共闘しているに決まっているだろ」と二十六歳は吐き捨てるように言った。それは、二人の位置情報を見ていただけで予想できた答えなのだが、俺には理由がわからない。

「二十六歳のお前には、四十六歳と共闘するメリットなんかないはずだ」

「メリットならあるさ」

二十六歳の顔に暗く影がさした。

「お前にだけは十億円を渡さないで済む」

それは憎しみが溢れ出した声だった。

「折角俺が積み上げてきたものを、お前は台無しにした。翔子も、仕事も、お前のせいでなくなってしまう。お前が俺の人生をめちゃくちゃにするんだ。そんなお前がのうのうと十億円を手に入れるなんて虫唾が走る」

俺は言葉を失った。この二十六歳は、昼間の話をそんな風に受け取ったのかと驚いた。たしかに、二十六歳から見てそういう認識になるのもわからないではないが、俺は、俺なりに一生懸命生きてきてああなっただけだし、破滅の前兆はすでに二十六歳の時点であったのだ。なのに、そんなことを言う。

認めたくないのだ。自分の人生が壊れることを、〝他人〟のせいにしたいのだ。

そして、憎しみで重要な判断をしてしまう。若いな、と俺は歯噛みした。

二十六歳は薄笑いした。

「それに、条件はお前のときと違うさ。二人でお前を倒したら、俺は四十六歳の俺と一騎打ちをすることになっている。勝ち負けは五分だ」

俺は今度は不思議に思った。それだと二十六歳には悪くない話である一方で、なぜ四十六歳がその交渉に乗るのかわからない。俺は四十六歳を見た。

「あんたは、なんで共闘なんかしているんだ」

四十六歳は、繁華街から俺の方に濁った眼を移した。

「このゲームをしている間、必要な金は出してくれるって言うんでな。こんなところに来てまでみみっちく金の心配をするなんて嫌だろう」

なるほど、二十六歳は口座の金を四十六歳に分けるという話をしたのだ。確かに、四十六歳の俺はそこまで手持ちの金もないだろうし、悪い話ではない。これは最悪の展開になった。二十六歳と四十六歳の共闘は問題なく成立してしまっている。

「あんた、人からの交渉になんか乗らないと思ってたよ」

俺がそう言うと、四十六歳は興味なさそうに返事をした。

「別に最後は全員ぶっ殺すんだから、途中経過はどうでもいいだろ? むしろ快適かどうかが大事だ」

俺はそこで何もかも悟った。初日に四十六歳が五十六歳から殺した理由。本当にこいつは順番がどうでもよかったのだ。適当に気が向いたから五十六歳から殺したに過ぎない。こいつは一々優先順位なんか考えていない。〝全員ぶっ殺す〟その欲望を駆り立てているのは何なのか。

「なぜだ、何が目的なんだ。〝死にたくない〟だけか。それとも十億円がほしいのか?」

しばしの沈黙。そして、

「こういうのは初めてな気がするから」と返答が返ってきた。

俺は意味を掴みかねる。そこで二十六歳が咳ばらいをした。

「別に俺たちはお前とお喋りをしに来たんじゃないんだ。提案なんだが、お前、ここで退場してくれないか。どうせ、一対二じゃ勝てないんだ。わざわざ戦うなんてお互いの労力の無駄だろ」

それはこの状況なら当然言われるだろうセリフだった。だが俺の答えは決まっている。

「断る」

いくら不利な状況だろうと、こんな圧力で自分から負けるなんて絶対に受け入れられなかった。俺は考える。何かないか、ここから勝つ方法。

だが、やはりこの繁華街では銃を抜けそうにない。というか、人目のあるところで抜き合いになってモラルのない四十六歳に勝てる気がしない。ここでは戦えないのだ。では、どこか小道に入るか。しかし、小道に入っても、一対二で戦わなければならないことに変わりはない。だとするなら、せめて二人を引き離さなければ。しかしどうやって――?

「言っておくけど、今日あんたを帰すつもりはないから。どこまでも追い詰めてやる」

「……へえ、そう」

ずっと付いて来るつもりなのか。では、繁華街を練り歩いて、二人の分離を誘うか? いや、こんな直線的な繁華街を歩いても、お互いはぐれたりしないだろう。都合の悪いことに、京都の道は格子状になっている。多少道を外れたところで、位置関係がわかりやすすぎるから、すぐに追いつけてしまう。マップ端末を見ていればまるわかりだ。そもそも、今のままでは分離どころか、二人から距離を取ることすら不可能。

そこで、俺は何か引っかかりを覚える。何かがおかしいという引っかかりを。

……ひょっとして前提がおかしいのではないか?

《《マップ端末を見ていたらお互いの位置関係がわかるという前提が》》。

だとすると、もしかしたら、二人を引き離せるかもしれないし、うまくいかなくても距離を取るくらいならできるかもしれない。

俺は、地面を蹴ると、ミーナの中に走って入った。二人も即座に追いかけてくる。ミーナはこの時間も多くの人で混雑していた。俺はフロア中央付近のエスカレーターを駆け上る。京都ならではの、右側に並んで立つのか左側に並んで立つのか定まっていない様式に辟易しながらエスカレーターを駆け上がる。

そして、二十六歳と四十六歳が俺を見失いそうな距離ができたのを確認して、エスカレーターを上るのをやめ、フロア端の階段へ移動する。振り返っても、まだ二十六歳と四十六歳はこのフロアに上がって来ていなかった。俺は行きかう買い物客を見ながら息を整える。

俺はなにもミーナの混雑だけに頼って二人から逃げられると思ったのではない。重要なのはマップ端末だ。マップ端末には、京都市中京区の地図と俺たちの位置が表示される。そして、それは一般的な地図アプリと同じく完全に真上から見た平面図だ。

つまり、《《マップ端末だけでは上下の位置関係はわからない》》。

俺がどのフロアにいるかさえわからなくなってしまえば、あとは逃げる側が有利だった。そして、こういう状況になったとき、二人の追手側がとる常識的な行動は何か。

ミーナでフロアを移動する手段は三つ。フロア中央のエスカレーターとフロア端の階段、そしてエレベーターだ。そのうち、エレベーターは待ち時間が発生する乗り物なので、俺の逃走には向かない。つまり、俺はエスカレーターか階段の二つのルートを使って逃走することになる。

追手は上下の位置関係がわからず、俺がいるフロアを特定できない以上、出口を塞ごうとするはずだ。エスカレーターの一階下り口か、階段の一階部分。二手に分かれて待ち伏せをする。そうすれば、俺としては分離作戦が成功することになる。一対一の戦いに持ち込める。そうなればこの状況の俺にとっては願ってもない。

――だが、二人がその展開に気付いているとしたら?

俺はマップ端末を確認する。二人はほとんど隣に表示されていた。二人が別のフロアを等速で移動しているとは考えづらいから、二人はまだ一緒に行動している。俺のフロアが特定できていないこの状況でも、逃げ道を塞ぐために二手に分かれようとはしていない。二十六歳と四十六歳はこの場で二人いることのアドバンテージを捨てる気はないのだ。

つまり分離作戦は失敗。ここでの作戦続行は諦めて、場所を変えるべきだ。ここでは、二人から距離を離せただけでよしとしよう。

俺は階段を使って一階まで降りて、ミーナの正面玄関から出ると、目の前のバス停に止まってきたバスに乗り込んだ。マップ端末で俺が外に出たのを確認したのか、二十六歳と四十六歳も玄関から出てくる。しかしその時には、ドアを閉めたバスが走りはじめた。

そこからどうやって二人を倒すか全く考えられていなかったが、とにかく、俺の逃走は成功だった。

吊り革に捕まりながら、どこでバスを降りるか算段をつける。バスは早くも次のバス停のアナウンスをしていた。俺はスマホで京都市バスの路線図と地図アプリの京都市中京区の境界線を調べて脳内で組み合わせる。そして血の気が引いた。

次だ。どうしても今アナウンスしている次で降りなければならない。

俺はミーナの前にある「河原町三条《かわらまちさんじょう》」のバス停から北向きのバスに乗った。するとそれより北で中京区の境界線に収まるのは次の「京都市役所前」だけで、その次の「河原町丸太町《かわらまちまるたまち》」まで出てしまうと、ギリギリ中京区の境界線を越えてしまうのだ。

そうこうしているうちに、運転席の横にあるドアが開いてしまったので、俺は慌てて運賃を払ってバスの外に出る。一駅しか乗れなかったことに焦るが、こればかりはどうしようもない。むしろ、中京区を出る前に次のバス停があったのは僥倖《ぎょうこう》と言えるだろう。

そして、二十六歳と四十六歳という「いい大人」な二人は、出発するバスを走って追いかけるなんてバカなことをしていなかったから、こちらに来るのが遅れていた。俺が次のバス停で必ず降りるとわかっていたなら、走っていたかもしれないが、そこまでの土地勘は二人にもないようだった。

俺は再度地図アプリを見る。乗り換えよう。近くに中京区の他の方向に向かうバスはないから、次は地下鉄だ。昨晩と同じように地下鉄東西線に乗り、京都市役所前駅から、行ける範囲で一番西へ、西大路御池《にしおおじおいけ》駅まで行くことにする。

俺は市役所前の階段を駆け下りて、駅のホームに向かった。ホームに着いてからやや電車を待ったが、二人に追い付かれる前に電車に乗り込めた。これで、西大路御池駅に着くまではゆとりができたわけだ。

ひょっとしたら二十六歳は金に物を言わせてタクシーで追いかけてくるかもしれないが、いくらなんでも地下鉄の方が早いだろう。俺は窓の向こうをものすごい勢いで後ろに流れている黒いトンネルを見ながら作戦を練る。

二人から距離を取ったのはいいが、そこからどうやって二人を分離させるかだ。今向かっている西大路御池のエリアは、さきほどまでいたミーナの周辺ほど繁華ではないから、日中のこの時間でも戦うことはできるかもしれない。だが、ただ真正面から戦うだけでは不利なわけで、何か策を考えなければならない。

人間が二手に分かれないと進めない地形とかあるか? それとも追い詰められたふりをして、二手に分かれさせる? しかしミーナのあの状況ですら分かれることを避けていた二人だ。容易にことが運ぶとは思えない。

俺は昨晩歩いた西大路御池周辺の地理を思い出して頭を掻く。住宅街と公園と……。だが、電車が西大路御池駅に着いても、何も思いつかなかった。俺は一旦改札を通り抜けて駅の外に出る。改めて駅前の風景を眺めてみたが、ぴんと来ない。

マップ端末を確認すると、二十六歳と四十六歳は、京都市役所方面から直線的にこちらに近付いて来ていた。恐らく俺と同じように地下鉄東西線に乗っているのだろう。

考えても何も思いつかないなら、せめて逃走経路は確保しなければならない。西大路御池から北に向かい、西ノ京|円町《えんまち》からバスに乗って烏丸丸太町《からすままるたまち》まで東に行くルートを考えてみたが、途中で中京区から外れてしまうので駄目そうだった。

代わりに、同じく円町からJR嵯峨野《さがの》線に乗るルートなら、南に湾曲するので、ギリギリ中京区内を移動できそうだ。結局地下鉄東西線の途中駅でもある二条《にじょう》駅で降りることになってしまうが、二十六歳と四十六歳を十分引き付けてから電車に乗れば、鉢合わせすることもないだろう。

俺はとりあえず北に小走りで移動する。さて、その後はどうするべきか。このままだと西に移動したものをただ遠回りしてまた東に戻るだけだ。そこから更に東となると、また繁華街やホテルの方向になってしまう。それでは距離は離せたものの、結局逆戻り――。

それではここまでの逃走はなんだったのか。小走りになりながら頭を抱えるが、何もいいアイデアが思いつかない。ノープランだ。こうなっては、最悪の選択肢だが、ホテルに戻るしかない。

「クソッ」

情けない。俺はマップ端末で二人の位置を確認しつつ、円町からJR嵯峨野線に乗り込む。電車はホームからゆっくりと走り出した。ここから二条に向かい、地下鉄東西線の反対方向に乗って京都市役所前まで戻って、ホテルへ歩く予定だ。

揺れる電車のなか、俺は席に座ると、膝に肘を預け、大きくため息をついた。この先どうやって二人を倒せばいいのかわからなかった。俺はもともとこういうのが苦手だ。誰かを倒すとか、こちらから仕掛けるとか……死にかけのエアコンを直すとか、そういう積極的に状況を改善させる行動をするのが。

破滅的にこちらにやって来たものにどうにか対処するのがやっとで、もう何年もそうやって生きてきた。目の前の状況を見て、最低限死なないようにする一手しか打ててこなかった。なんとか人のかたちを保って毎日働いて眠るだけの人生。今回のデスゲームでもずっとそうだ。俺は危機を回避するばかりで、自分からは何もしていない。

どうしてそうなってしまったのだろう。たとえば、二十六歳なんかは、俺や四十六歳に共闘を呼び掛けるくらいだから、そのあたりのフットワークは軽い。つまり、この非積極性は、三十六歳の俺の特質なのだ。なんでこうなったのか。

考えたくはないが、やはり病気が大きいのだろうか。病気をして、俺はなんだか人生に臆病になってしまった気がする。一度粉々に壊れたメンタルを抱えて、また新しく挑戦をするような気持ちにはなれなかった。薬を飲んで、症状を抑えて、それでも俺はもう「普通」にはなれないんだって思ってる。

だからなのか。非正規で働いて、毎日疲弊していても、新しい職場を見つけようとしなかった。翔子と別れてからも、新しい出会いを求めようともしなかった。もう自分の人生を改善しようとする行為がそもそも自分には向いていないような気がした。

「お前が俺の人生をめちゃくちゃにするんだ」と二十六歳のことばがよみがえる。

そんなつもりはなかった。俺は一生懸命、必死に生きてきた。そう思っていた。でも、それは本当だろうか……?

俺はこのデスゲームの最中何度も、「他の俺がどうしてこうなったのか」を考えてきた。でも、本当は「俺自身がどうしてこうなったのか」をこそ考えるべきだったんじゃないのか。

病気して、仕事辞めて、それで――? 考えてみると、ほかに何もない。何か色々あったような気がしたのに、ちゃんと考えてみると何もない。俺は信じられない思いがする。いや、病気だって、仕事を辞めるのだって一大事ではあるが、それにしたって。俺を縛っていた、俺をもう「普通」にはなれないんだと思わせていたものって、この二つなのか? そんなことのために。

電車が途中駅に停まる。俺は頭を振った。俺は、俺の人生を変えたい。昔や今のことを振り返って情けない思いしかできないのは嫌だ。病気や退職なんかを理由に惰性で生きていたくない。だから、今こそ何かここで良い策を――。

そう思いはするが、都合のいい超能力なんか発揮されない。だから結局、起死回生の一手は思いつかず、電車を乗り継いで、ホテルに帰り着くことになってしまった。小道を一本入って、ホテルの手前まで来ると、ガラス張りの玄関から、フロントの様子がよく見えて、その見慣れてしまった光景に俺はまたため息をついた。

だが、仕方がないので中に入る。

案の定、一時間後には、追跡を終えた二十六歳と四十六歳にホテルの入口を塞がれてしまった。俺はホテルから出ることができない。

更に言えば、ホテルから出て、玄関前で銃の撃ち合いになった場合、完全に俺が不利だ。なぜなら、ホテルの玄関がガラス張りになっていることによって、外に出た俺の姿がロビーから丸見えだからだ。俺はその状態で銃を出すことはできないが、少し離れたところに立っている二十六歳たちならお構いなしに俺を撃つことができる。

いずれにせよ、二日で宿泊費が尽きるから、二日後にはその絶対不利な戦いを挑む羽目になる。俺はマップ端末を引っくり返して、がっくり肩を落とす。まさしく絶体絶命。

まだ夕暮れ時だが、俺は今日の分の薬をミネラルウォーターで流し込んでベッドのシーツを頭までかぶる。自然な眠気がやってくるような時間ではなかったが、薬の副作用で眠りに落ちるのを待つ。それはあからさまな現実逃避だった。いずれホテルの部屋は、世界は、不鮮明にかたちを変える。歪み、曲がり、カリカリと記憶を引っ掻くそのかたちを作り出す。

「あなたのこと、もっとすごい人だと思ってた」

朝日が差すカーテンを見ていた翔子は、そう言ってから俺を見て、泣きそうな顔で笑った。丸顔で色白でちょっと愛嬌のある顔をしていた翔子は、それまでただの一度もそんな表情を見せたことはなかった。俺にだって、どうしようもなく終わったとわかった。何もかも終わりなんだって、それがわかるくらいには一緒に過ごしてきた。俺はただ黙って俯いた。

部屋から出て行くとき、翔子が合鍵を俺に返そうとした。だが俺は手を伸ばさない。俺はこの期に及んで、自分が決定的なことをするのを避けようとしている。翔子は寂しそうに微笑んで鍵を靴箱に置く。翔子の開くドアが光の線を引いて、俺が愛していた人間をシルエットにする。そしてドアが閉じて、俺は一人になる。

これは、夢だ。そう途中から気付いた。俺は夢を見ている。夢ならば、俺はなんだってできるはずだ。

俺はあの日やらなかったことをしようとする。ドアを開けて、去っていく翔子を追いかけようとする。そうして、彼女に追い付いて、七月の日差しのなか、きっとこう言う。

俺はすごいやつじゃなかったけど、でも君のことを幸せにしたいと思ってる。

それを翔子が聞き入れるかわからない。あなたに私を幸せにできるはずがないじゃない。そう言うかもしれない。でも、俺はせめてそう言いたかったし、きっとあの時そう言うべきだった。俺はドアを開けようとする。

開かない。

開かない。

開かない。

巨大な何かがドアの向こうに張り付いているかのようにびくともしない。

そして、俺が握っているドアノブに何かかかっている。

ロープがかかっている。

端が丸く輪になったロープがかかっている。

俺は叫んで起き上がった。

部屋はすっかり暗くなって、夜の何時かはわからなかった。俺は頭を抱えた。しばらくそうしていると、もう何年振りかわからない涙が出てきた。何も見えはしなかったが、水の粒がシーツにボタボタと落ちる音が聞こえた。

「すごい人」にはなれない人生だった。「普通の人」にもなれない人生だった。駄目な人間で、駄目な人間だということから目を背け続けた。忘れて、聞かないふりをして、眠り続けた。何もかも間違えてきた気がする。いや、正確には、《《間違えるところにすらいけなかったのだ》》。何の意味も価値もない人生だった。これからもそうだ。俺は膝を抱える。だから、こうして泣いていたって、何一つ解決なんかしない。

しばらく泣いていると虚脱した。暗い部屋に一つの想像図が結ばれた。ドアノブにかかったロープだった。丸く輪を結んだ首吊りロープ。「ロープはないなあ」そう思って俺は力なく笑う。その代わり、今の俺には銃があることに大分前から気付いていた。

俺は部屋の電気をつける。机に置いていた銃を手に取る。右手を上げ、銃口を側頭部に向ける。これが〝自殺〟になるかはわからない。二十六歳が勝てば〝自殺〟になるのだろうし、四十六歳が勝てば俺は記憶を失ってもとの暮らしに戻るはずだった。だから、これは半分の〝自殺〟に過ぎないのだが。

俺は引き金に指をかける。

もうこんな馬鹿な追いかけっこをしているのは嫌だった。俺には十億円を手に入れてもやりたいことなんかないし、人生が好転しないのも知っている。そして、自分自身に愛想が尽きてしまった。だから、引くべきだ、引き金を。きっと本物の自殺と違って、痛みも苦しみもない。

指に力を込める。目を瞑る。あとほんの数ミリだ。あとほんの数ミリ引けば全てが終わる。

なのに手が震えていた。《《ひとりだった》》。あの、とてつもない孤独が襲ってきた。〝死ぬ〟べきだと思う俺の大部分に逆らって、俺の一部がいやだと叫んでいる。その正体不明の〝俺〟の叫びに負けて俺はいつもそうしない。あのドアの前でも。今この部屋でも。

銃を下ろしたとき、机の上の薬が目に入った。ラモトリギン200㎎、炭酸リチウム200㎎、クエチアピン150㎎。デスゲームが始まる前、部屋でデスゲームに持って行くものを探していた俺は、薬なんかいらないと思った。でも、俺の中の何かが「いる」と言った。だから持って来た。目の端を最後の涙が伝った。

あの何かは、ここで引き金を引かせない俺だったのか。

そう思った。

俺は銃を薬の横に置いた。そして、両頬を強く叩いた。切り替えなければならない。生きるのだ。うだうだしている場合ではない。そして、ホテルに閉じ込められているのだから、泣こうが笑おうがやれることは限られている。

俺は一周回ってのんびり風呂に入りたくなったので、とりあえず浴槽に湯を張る。湯を張りながら考え事をする。どうやって二十六歳と四十六歳に待ち伏せされているこの状況を打開するか考える。どう考えても負けが決まっていそうなのだが、諦めずに最善の方法を考え続ける。どうせあと二日あるんだ。考える。考える。

だが、気合一発で名案が思いつくようなら苦労はしていないわけで、風呂の水位ばかり上がっていく。そうして俺がウンウン唸っているうちに湯がザバア、ゴボゴボとか音を立てた。

俺が慌てて浴槽を覗くと、浴槽の横に穴のようなものが開いていて、そこから湯が逃げている。多分、風呂が完全に溢れてしまうのを防ぐために、ある程度以上の水位になったらこの穴から湯が出て行くようにしているのだ。浴槽の下の穴とは別にもう一つ穴がある。なるほど、よくできているなと思ったところで、俺はあることを思いついた。

なんとかなるかもしれない。

このホテルから出て、二十六歳と四十六歳を各個撃破する、その方策が今脳内で立った。

俺はフロントに行って、昨日部屋の扉を開けようとした若いスタッフを呼んでもらうと、彼と話をつけた。スタッフは快諾してくれた。

「そういうことって他は知らないですけど、ウチのホテルだとたまにあるんですよ。こちらも慣れていますのでご安心を」

それから、俺は時々部屋の外に出て、廊下を満遍なく歩くようになった。特に東と西への移動には気を付けた。このホテルの正面玄関が東なのである。実際ずっと宿泊しているだけなので、いい運動にはなった。部屋に帰ったら筋トレもする。一日や二日ではさして効果がないだろうし、むしろ筋肉痛になるだけかもしれないが、何かしていると気が晴れた。

食事は現金払いができる配食サービスを一日に一回使った。もちろん外食に比べても割高なのだが、玄関から出られない以上、他に現実的な値段の選択肢はないし、戦いを前にして全く食べないわけにもいかなかった。一回ごとに残金が痩せ細っていく。

一日経ち、二日経ち、マップ端末を確認すると、二十六歳と四十六歳は入れ替わりで出口にいるようだった。それはそうだ。二人で二日も外に立っていたら疲弊してしまう。だから、数の優位は失われるものの、交代で見張ろうという寸法だろう。正面玄関の構造上、銃の撃ち合いでは二十六歳たちが圧倒的に有利だから、交代で優位性を確保した方がいいという判断は頷けるところだった。俺でもそうするに違いない。

今日は二十六歳が出口に立っている。好都合だ。二十六歳にタイムリミットがない以上、二十六歳を先に撃破しておきたいところだった。

俺は半袖シャツとスラックスに着替え、ウェストポーチを締めてリュックサックを背負った。最後に部屋を振り返る。安いホテルの、なんでもない部屋。しかし、俺にとってはもう大事な拠点になっていた。軽く目礼してドアを閉める。

フロントに降りて、カードキーを返すと、スタッフに「ではこちらへ」と案内された。俺は東の正面玄関ではなく、フロント内部を通って西に向かう。

大体ホテルというのは、正面玄関とは別に従業員通用口やリネン類の搬入口があるものだ。俺は、その出口を使わせてもらうことになっていた。それがマップ端末によって早期にバレないように、俺は宿泊中わざわざ廊下を歩いて位置情報を変えていたのだ。マップ端末は上下の移動を拾わないから、端末だけ見ていたら、俺が何をしているかわからないはずだった。

今回は「正面玄関にストーカーがいるので、裏口から出してくれないか」と頼んでみた。実際あの若いスタッフはその「ストーカー」とやらを目の当たりにしているので、快諾してくれた次第である。俺はまた嘘をついてしまったわけだが、考えてみればあながち嘘ともいえなかった。俺は先日思い切りストーカー行為をはたらかれている。いずれにせよ、このホテルには一生頭が上がらない。

裏口から出たら、東西に走っている建物横の細い通路を通って、二十六歳の背後から奇襲をかける予定だった。もし、二十六歳が早めに俺の行動に気付いた場合、奇襲は成立せず、単に正面からの撃ち合いになってしまうが、それはもう仕方がなかった。一対一の戦いをするまでである。これが俺の勝率を最大限に上げる方策だった。

そうして、俺は裏口から出た。スタッフにお礼を言って、お互いお辞儀をしたのち、扉が閉められた。これで、人目もなくなったから、銃を出してもよいはずだと思ったが、裏口の正面の塀に人が立っていた。銃を出すのは東西の通路に入ってからにした方がよさそうだ。俺は通路に向かって歩き出す。

「あの、すみませぇん」

その、正面の塀に立っていた人に呼び止められた。よく見れば、茶髪でよれた服を着た若者である。なんだか嫌な雰囲気だったし、俺は聞かなかったふりをして歩いた。ここからの行動をどれだけ迅速にするかが、奇襲の成否をわけるのだ。何の用か知らないが、見ず知らずの人間に呼び止められて止まっている場合ではない。

「ねえ、すみませんってば」

だが、若者は俺に駆け寄ると、肩を掴んできて俺を無理矢理振り向かせた。一体こいつは何なのだと思っていると、ウェストポーチの上の腹を思いっきり殴られる。

「――――⁉」

俺は思わずその場に膝をつき、身体を丸めてしまう。耐えがたい内臓の痛み。傷が入っている感じではないが、重たい痛みで呼吸が浅くなり、動けなくなる。若者はしゃがんで俺にほんのわずか頭を下げた。

「すみません。でも、これ仕事なんで」

俺は軽く呼吸困難になりながら考える。一体何が起こった。この若者はなんだ。全く知らない顔だ。多分会ったこともない。なんで俺にこんなことをしてくる。全く初対面の人間に因縁をつけられたのか? しかし、よりにもよってこんなタイミングで?

俺がそんなことを考えているうち、若者は俺が背負っていたリュックサックのファスナーを開け、中を探り始めた。そして、何かを取り出す。

「おー、あったあった。マジモノホンみてえだ」

首をねじって、若者が持っているものを見ると、それは銃だった。しかし、変だ。若者は俺が銃を持っていることを最初から知っていたような口ぶりだ。どうして見ず知らずの若者がそんなことを知っている。まさか――。

そのとき、東西の通路を歩いて来る音がした。

「いやー、ご苦労ご苦労。無事取り押さえてくれたんだね」

建物の陰から二十六歳が姿を現した。若者は、俺から奪った銃を二十六歳に渡す。

「約束、守ってくれるんスよね」

「もちろんさ」

二十六歳は長財布を取り出すと、若者に万札の束を渡した。若者はその場で万札を数える。

「……十四、十五」

「うん、ちゃんとあった? 確認できたら、どっか行ってくれないか。俺はこいつと二人で話をしたいんだ」

若者は万札を雑にポケットに突っ込むと、俺の方をちらりと見てから、通りの向こうに走って行った。

俺は腹の痛みで、まだ立ち上がれない。二十六歳が俺を見下ろしている。

「さてさて、意外だったろ? お前は俺たち以外警戒してなかっただろうしな」

「……あいつは、なんだ」

「もちろん、金で雇ったのさ。いやあ、日本の治安が悪くて助かったよ。即金で十五万払えば普通の若者がこんな仕事までしてくれるんだから。ねえ、ホテルの裏口に気付いているのが自分だけだとでも思った? あんまり舐めてもらっちゃ困るなあ!」

二十六歳は俺の顔に蹴りを入れる。俺は腹を抱えたままその場に倒れ伏した。二十六歳は俺に銃を向けた。

「あばよ、人生ぶっ壊しやがったクズ野郎」

やっぱり駄目だったかと俺は絶望する。そう、裏口から回るなんてわかりきった猿知恵だった。俺が追い詰められてうまいこと勝てるはずがなかったのだ。そんなことができるような人生じゃないんだから当たり前だ。俺は銃口と〝死〟を前にして孤独を感じる。嫌だと思った。〝死にたくなかった〟。だが状況は絶望的だ。

でも。

――でもどうせ続けるんだったら

俺の脳内に若い俺の姿がよみがえる。なんにも知らない十六歳の俺の姿が。

二人で歩いてきたその夜道で十六歳の俺が、自分の頭に銃を当てながらほんの少し笑う。

――俺、おっさんにはちょっと頑張ってほしいかも。

そのとき、頭の中で光明が走った。

俺は身をよじり、背中を上にするかたちで丸まる。

「ま、待て、提案が、ある」

「馬鹿か、この状況でお前に提案なんかできると思うか。お前はもうここでリタイアだ」

「違う、そっちじゃない。翔子《しょうこ》のことだ」

「……なに……?」

二十六歳が興味を持ったのを確認して、俺は語り始める。翔子との別れのことを。

「あの夜はずっと話していた。そして何時間も話し続けて空が明るくなって……」

「おい、お前は何の話をしているんだ」

二十六歳はそう言いながらも、俺の話を聞いてしまっている。俺は次第にボリュームを下げていく。

「……翔……最……に」

「おい!」

二十六歳が身を乗り出してきたのを感じた俺は、振り向きざま《《自分の銃を抜いて》》二十六歳に突き付けた。二十六歳は唖然としている。俺は引き金に力をかける。

「そうだよな、お前は聞いちまうよな、聞いちまうに決まっている。だって、お前はまだ失《な》くしてないからな」

「……いや……なんで、お前が銃を持って……」

俺は手に持つ銃を固く握った。

「これは十六歳の銃だ」

そう、初日の夜に退場した十六歳が残した銃だ。俺は自分の銃をリュックサックに、十六歳の銃をウェストポーチに入れていた。背中を上にして翔子の話をしながら、ひそかにウェストポーチを開けていたのだ。

「お前たちが二つ目の銃の存在に気付くわけがない。銃を持った人間が退場するのを見たのは俺だけだからだ」

そう、五十六歳はホテルで撃たれたときには、すでに銃を持っていなかった。それに、俺にやったのと同じ手口で五十六歳を襲ったのなら、四十六歳は部屋を物色するような余裕もなかっただろう。退場したプレイヤーの銃がどうなるか知っているのは俺しかいない。

「ま、待て、俺は」

俺は二十六歳を見る。まだ、俺が失くしたものをなんでも持っている二十六歳を。

「お前はまだ失くしていない。俺は失くして、それでも生きている。俺とお前の差はそれだけだ」

俺は引き金を引いた。二十六歳は忽然と姿を消し、路上には銃とマップ端末だけが残った。俺はそれを拾い集め、リュックサックに入れていく。

そしてその場で座ったまま一息ついた。大きく息を吐く。

勝った。俺が勝った。二十六歳を退場させた。そのことに俺は束の間の喜びを感じる。あの絶対ダメだと思っていた状況をひっくり返せたのだから。こんなことも、俺の人生にあるんだという驚きと歓喜がないとは決して言えなかった。

しかし、二十六歳の銃とマップ端末を回収しながら、俺はどこか羨ましいと感じてしまっていた。だって、俺は、三十六歳の俺は、銃を突き付けている相手に翔子の話を出されてもきっと話なんか聞かないからだ。

付き合っていた頃はあんなに大切にしていたつもりの相手なのに、もう俺の中ではそういう存在になってしまった。翔子に振られて何年も経つことなんかより、俺の中でもう彼女がそういう存在に過ぎないことが悲しく、寂しい。

だから、あの話を聞いてしまった二十六歳が羨ましいし、俺は汚い手を使って生き残ったという気がする。

相手が大事にしているものをだしにして、騙し討ちのようなことをするなんて、まるで四十六歳がしそうなことだ。この戦いを通して、俺は自分の中に四十六歳に近しいものを感じる。ただ狂っているとかマトモじゃないと言っていた相手が自分と地続きの存在なんだって実感していく。ああなりたくないと思っていた狂気に俺自身が近付いていく。

俺は立ち上がって、自分のマップ端末を見た。

京都市中京区のフィールドには、俺と四十六歳のみが表示されている。俺は端末を握りしめた。相互の距離、二キロ。

上等だ。最後までやろうじゃないか。

ここからはもう、俺とあいつだけの戦いだ。

俺はひとまず繁華街に出る。今は丁度昼時で、人通りも多い。歩きながら今の状況を整理してみる。

まずは俺側。持ち物としては銃とマップ端末が三つずつ。それにリュックサックとウェストポーチ、スマホと財布だ。財布の中の残金は二千円。ネットで調べた限り、京都のどんなホテルでも宿泊することは不可能だ。そして手持ちの薬はあと三日分。

正直銃とマップ端末が三つあっても、使い道がわからない。さっきみたいな展開は例外中の例外だ。銃はともかく、マップ端末なんて複数あっても本当に使い道がない。だから、薬を除けば、特に有利になるものはなく、無駄に物を抱えてしまっているともいう。

一方、四十六歳の方は、恐らく俺よりは金があると見た方がいい。二十六歳との共闘の条件が金だったからだ。多分ある程度口座の金は受け取っていて、そして、薬は持っていないはずだ。あとはきっと肩に掛けていたメッシュ素材のカバンに銃とマップ端末が入っている。

俺は雑踏を歩きながら考え込んでしまう。単純に金の問題で考えれば、早く四十六歳を倒しに行った方がいい。ホテルに泊まれない俺は、夜に無防備になってしまう。この歳になってくると徹夜はせいぜい三日程度が限度だし、その間パフォーマンスはどんどん落ちてしまう。

一方、薬のことを考えれば、四十六歳との決戦は先送りにした方がいい。時間が経てば経つほど、薬を飲んでいない四十六歳が体調を崩す可能性が増すからだ。だが、こちらは俺の徹夜がパフォーマンスを落とすのとは違って確実性はない。

短期決戦にするか、引き伸ばし作戦にするか、悩ましいところだ。だが、やはり短期決戦の方がよい気がする。こちらのパフォーマンスが確実に下がっていく展開はできれば避けたい。

もっとも、俺が色々考えていても、実際にどうなるかは相手の出方にもよるのだが。

マップ端末を確認すると、四十六歳は西から俺に近付いて来ていた。四十六歳もマップ端末を見て、二十六歳が脱落したことは確認しているに違いない。その上で俺に接近してきている。

これまでのように話し合いの可能性はあるだろうか。まさか。もう一対一だ。やることは決まっている。それにあの四十六歳が相手だ。二十六歳のような甘い展開は期待できない。こちらも戦うつもりで行かなければ、すぐに撃たれてしまうだろう。

俺はマップ端末を見ながら、改めて考える。戦うとしたらどこか。間違ってもこの繁華街ではない。繁華街という場で銃を出そうとすれば、「人に見られたら」なんて常識的な考えをする方(つまり俺)が負けるに決まっているし、前回みたいにバスやら鉄道やらに乗って中京区をグルグル回るのが気軽にできるほど手元に金は残っていない。

だから、より戦いやすい場所に移動する必要がある。俺はスマホの地図アプリも参照しながら、比較的落ち着いた住宅街らしき場所を選んだ。俺がそこに向かえば、四十六歳もそこを目指して向かってくるだろう。

俺はいくつか作戦を考えながら目的地に向かって歩き出した。

住宅街にはあまり人通りがなかった。もちろん、たまに人が通ることもあるが、ここなら銃を見咎められて警察に通報されても、警察がやってくる前に逃げることができるだろう。四十六歳との一騎打ちにはかなり向いていると言えた。

住宅街を歩くうち、俺によく似た男の姿が視界に入って心底驚いた。マップ端末では四十六歳はまだそんな距離にはいないはずだった。よく見ればなんのことはない、建物の壁面に付けられた鏡で、建物は美容院らしかった。道行く人に自分の見た目を確認させて集客しようという考えなのだろうか。変わった外観だ。

心臓に悪いなあと思いながら、鏡に向き直る。どこにでもいる三十代後半の少しよれた男が立っていた。十六歳でも二十六歳でも四十六歳でも五十六歳でもなく三十六歳。人生で何かを手に入れて失くすには十分な年齢で、そして少しずつ〝狂い〟に向かっている。俺は鏡の前を通り過ぎる。

その先をしばらく歩いて、使えそうな建物に目星をつけつつ、マップ端末を見た。四十六歳は、もうすぐ二本向こうの道の角を曲がってくる。俺はウェストポーチから銃を出して構えた。人気《ひとけ》がないのは確認しているから、カバンで隠すようなこともしない。ここからではやや遠いが、先手必勝で角を曲がったと同時に撃つ。

遠く道の向こうに四十六歳が姿を現したのと同時に、俺は引き金を引いた。赤く細いレーザー光線が真っ直ぐ伸びる。だが、レーザーは四十六歳の脇を通り抜けていった。さすがに遠いから照準が狂ったらしい。素人が遠くから標的に一発で当てられるという想定は甘かった。俺は照準を調整してまた引き金を引こうとする。

その向こうで、四十六歳は銃を持った右腕をだらりと下げた。俺は何事かと様子を見て、足元から急速にせり上がって来た嫌な予感に左へ跳んだ。その一瞬後に、元いた場所をレーザーが《《斜めの面として》》通り抜けた。

斜めの「面」? それは俺の理解を超えていた。レーザーが前からこちらに放たれるなら、それは点か線として見えるはずだ。なのに、なんで面として見えることがある?

再び四十六歳に眼を移すと、四十六歳は右腕の銃を左に振り上げている。そしてレーザーが斜め上に向かって伸び続けていた。俺はその光景を見て、今何が起こったかようやく理解した。

四十六歳は《《引き金を引きっぱなしにして》》銃を振り上げたのだ。だからレーザーの照射は四十六歳が腕を振るう間も続いている。それが移動して俺には斜めの面として見えた。

引き金を引けばずっとレーザーが照射される仕様上、戦いにおいて引き金を引き直す必要なんかないし、なんなら厳密に照準を合わせる必要すらない。

銃だと思って使うと二流の使い方しかできない。これは《《障害物に当たらない限り実質射程無制限の斬撃を放つレーザー刀》》である。

俺はこの銃の本来の使い方を目の当たりにして、身震いがした。四十六歳はこれに自力で気付いたのだろうか。だとすると、〝戦闘勘〟とも呼ぶべきものが俺とは違い過ぎる、そう思って、俺は真っ白な空間で四十六歳がずっと銃を眺めていたことを思い出した。

違う、単なる勘の問題じゃない。四十六歳は最初から他の自分を倒すことだけを考えていた。それ以外の全てを捨ててそれだけを考え続けた。その思考の差だ。毛が逆立つ。俺に四十六歳の真似ができるのか? そして真似をして本物に追いつけるのか?

俺は四十六歳の右腕が動き出したのを見て、第二波が来る前に電信柱の影に身を隠した。道を再びレーザーが通り過ぎていく。やがて、レーザーは滅茶苦茶な軌道を描くようになり、地面にぶつかる頻度が増えていく。四十六歳がやたらにレーザー銃を振り回しながらこちらに歩いて来ているのだ。

こんな狂った戦いにどうやって勝てと言うのだろう。俺は電信柱の影で挫けそうになる。あんな暴走マシーンとまともに戦って勝てるはずがない。だが地面に無秩序な軌跡を描くレーザー光を見ながら気合を入れ直す。こうなったらプランBだ。

俺は息を整え、小さく祈りながら腕だけ電信柱から出し、四十六歳がいそうな方向に向けてレーザーを放つ。

すると、滅茶苦茶だったレーザーの動きが止まった。「やったか……?」と一瞬思ったが、ここで四十六歳の様子を覗くとその脳天を撃ち抜かれそうな気がしてならなかったので、牽制として追加で後ろにレーザーを放ちながら、反対側の角に向かって走る。

実際角を曲がったところで、再び不規則なレーザーが道を通り抜けた。やはり四十六歳にレーザーは当たっていなかったのだ。

俺は走って移動しながら来る時に目星をつけていた建物に入る。それは雑貨屋などのテナントが入っている四階建ての建物だった。俺は身をかがめ階段の塀に身を隠しながら三階まで駆け上る。なぜ三階なのかといえば、万一建物の中を追われた場合でも三階なら四十六歳が上がってくるまでにゆとりがあるし、さらに上へ逃げる余地もあるからだ。

ここで行う俺の作戦は、「マップ端末無効作戦その二」だった。考え方は、二十六歳と四十六歳からミーナのフロア移動を使って逃げたときと同じだ。つまり、相手が俺の上下の位置関係がわからないのを活かす。俺を追ってこの建物の前までやってきた四十六歳は俺の本当の位置も掴めないまま、予期しない角度からの銃撃を受けるはずだ。

四十六歳は道を通って追ってくるので、俺の方は四十六歳の精確な位置がわかる。情報量の差で一方的に予測不可能な攻撃をする。これが俺の考えた必殺の作戦だった。俺はマップ端末を見て、四十六歳との位置関係と然るべき射撃の角度を計算し続ける。そして、待って、待って、今だと顔を出した。

四十六歳が俺に銃を向けているのが見えた。

俺は思わず伏せる。一瞬遅れてレーザー光が頭の上を通り過ぎる。俺は信じられない思いでいた。俺の計画は完全に四十六歳に見破られていた。

もちろん、マップ端末を無効にする作戦は一度やっていたのだから、もう一度どこかでやるかもと思われていてもおかしくはない。しかし、ほとんど待っているかのような撃ち方をされた。俺が仕掛けたはずの作戦が完全に読まれて先手を取られている。どこまで頭が回れば、そんな対応ができる? しかも俺の思考回路から、俺がいる階数まで見破っていたというのか?

血の気が引く。さらにそこに階下から駆け上ってくる足音が聞こえた。俺は急いで反対側の階段から降りる。その間も、レーザーの面が空中をうねる。俺はなるべく身を屈めて、建物から出るときは反対側の出口に向かってレーザーを放っておいた。

もっともこれで仕留められるなんて甘い考えはもう持っていない。あくまで後ろから撃たれないための牽制だ。俺は角を曲がる。

ここからどうすればいい。プランBまでは作ったがCはない。

俺と四十六歳で持っている武器は同じなのだが、あんな化け物みたいな攻撃をしてくる人間とまともに戦うつもりにはなれなかった。位置関係をかく乱する以外に何かこちらから一方的に攻撃する方法はないか考える。

どうも俺とあいつでは戦闘能力が雲泥の差なのだが、そこをまともに考えていても仕方がない。俺と違うところより、俺と似ているところが弱点のはずで、どうにかそれをフックに状況を打開できないか考える。

そして、似ているところが何か考えているうちに、来る途中で鏡に映った自分自身を思い出した。あの美容院の鏡だ。

俺はいくつか角を曲がり、美容院のはす向かいに立つ。そして、美容院の壁に付けられた鏡に向かって銃を構えた。

やったことはないが、レーザーである以上、鏡で反射するはずだ。四十六歳を鏡の前まで引き付ければ、俺は普通ではありえない方向から四十六歳を攻撃できる。俺を真っ直ぐ追いかけてくるなら、四十六歳は必ず鏡の前を通るはずだった。

四十六歳が鏡に映った瞬間にレーザーを放つと決めて、四十六歳を待ち続ける。問題ないはずだ。マップ端末でお互いの位置はわかりきっているし、俺と四十六歳を最短距離で結べば、あの鏡の前を通る。だからきっとレーザーは届く。俺は祈るような気持ちで銃を構え続ける。

そして、四十六歳は鏡に映った。

だが、鏡に映った四十六歳は《《鏡に向かって銃を構えていた》》。

俺が先に構えていたはずなのに、あいつの方が引き金を引くのが速いと直感した。俺は咄嗟に地面を転がる。一瞬遅れて俺がいた場所をレーザーが通った。俺は起き上がると、そのまま走り出し、角を曲がった。それからはひたすら、何も考えず走って四十六歳から距離を取り続けた。

もうどうしたらいいのかわからなかった。

四十六歳は初見の鏡を俺より上手く使って見せた。多分知っていたんじゃない。あの場で気付いてあの反応速度と精度だったのだ。

この現実を認めたくはないが、もはや認めざるをえなかった。

四十六歳は強過ぎる……!

しばらく全力で走っていると、さすがに体力はこちらの方が上なのか、四十六歳とは距離ができていた。俺は荒く息を吐きながら、それでも足を止めることができずに、走り続けている。わき腹がひどく痛かった。

その時、尻ポケットが震えた。何かと思い確認すると、《《俺から俺宛に》》メールが届いていた。

Title:逃げるなよ

Title:おい逃げるな

Title:死ねクソ野郎

タイトルにだけそんな文言が入力された本文のないメールが、矢継ぎ早に届く。二、三秒に一回は届くメールを通知してスマホがずっと振動し続けている。俺から届いたメール。こんなことをするのはもちろん四十六歳しかいない。こんな方法でメッセージのやり取りができたのかと驚くと同時に、たちまちメールボックスに溢れ返っていくメールを見て、俺は一つの確信を深める。

四十六歳はどう見ても「躁状態」である。

どうりで、と頭を抱えた。躁状態がどうなるかは人によるが、俺の場合の躁状態は「エネルギー前借りのスーパーマン状態」だ。

やる気とエネルギーに満ち溢れ、頭の回転も速く、自信満々。そんな状態。躁状態だというなら、四十六歳の異様な反応速度にも納得がいった。ただの十歳違いにしては力量差がおかしいと思ったのだ。

これは厄介なことになってしまった。薬を飲んでいない四十六歳が体調を崩すことをやや期待していたが、うつ状態のかわりに躁状態になってしまった。これでは、俺が明らかに不利である。

とはいえ、躁状態は単にエネルギーを前借りしているだけなので、必ずその後にうつが来る。それがいつかはわからないが、いずれにせよ今の状況で俺にできるのは、疑似スーパーマン状態になっている四十六歳から逃げ回って四十六歳がうつ状態に移行することに望みをかけるだけだ。

この間にも四十六歳からメールが届きまくる。

Title:俺と戦いに来い

Title:逃げられると思ってるのか

Title:絶対ぶっ殺す

俺はスマホのバイブを切った。マップ端末を見る限り、四十六歳はもう走っていないようだ。俺もお互いの位置関係には注意することにして、移動速度を落とした。ちょうど、遠くに二条城が見えているところだった。

四十六歳の倒し方を考えながら、俺も躁状態になれたらよかったのかなとちらりと思った。躁状態だったら互角に戦えたのだろうか。俺はリュックサックの中に入っている薬のことを思い浮かべる。あれを飲まなければよいのだろうか。

前回薬を飲むのをやめた結果は、ドアノブにかかったロープとその前で立ち尽くす俺だった。それから半年もの間、俺はほとんど寝たきりで、ろくにものも考えられず、文字も読めない人間になった。

俺は薬を飲むのをやめても、何も成し遂げなかったし、死ななかったし、人生がさらにどうしようもなくなっただけだった。だから薬を飲むのが俺の人生になった。薬を飲んでいる俺が俺になった。幸い、薬はよく効いた。でも、俺は今、四十六歳を見て、薬を飲むのをやめてしまえばと考えてしまっている。俺もああなれたら楽なのにと。「駄目だ」と呟く自分の声に説得力がなかった。

その後、四十六歳からのメールは支離滅裂さを増していった。

Title:俺は世界に愛されている

Title:十億は俺のものだ

Title:二十六歳はケチだ

Title:金がなくなってしまった

最初のメールに至っては完全に躁の誇大妄想が入ってしまっている。敵ながら自分がこうなっていると思うと、うすら寒い思いがした。

後ろ二つのメールに関しては気になった。どういうことだろうか、二十六歳は共闘をしても、十分に金をくれなかったのだろうか。俺はそんなことはないと思う。多分躁状態になっている四十六歳は金銭感覚まで狂って有り金を浪費してしまったのだ。

その頃には、俺は西ノ京児童公園まで来ていた。初日の夜に十六歳がいた公園だ。俺はベンチに座ってメールボックスを見続けている。増え続けるメールを見て、なんとなく四十六歳と会話したくなったので、返信してみることにした。

Title:金は何に使ったんだ

意外なことに、一分もしないうちに返信がくる。

Title:覚えてない

どうも四十六歳はかなり深刻な状態のようだった。また怒涛のようにメールが届く。

Title:戦え

Title:逃げるな

Title:臆病者

確かに憶病には違いないが、俺はあんな化け物みたいな自分と戦う気にはなれなかった。負けるとわかっている戦いにどうして行ける? 俺が四十六歳に近付いている感覚はあったが、それでも互いの距離はあまりに遠い。代わりに俺は四十六歳との〝会話〟を続ける。

Title:どうしてお前はそうなったんだ

Title:三十六歳からの十年に何があったんだ

しばらくメールが届かなかった。五分くらい経ってやっと、

Title:何もなかった

と返ってきた。続けてメールが届く。

Title:何もなかったからこうなった

俺は訝りながらメールを打つ。

Title:何もないなんてことないだろ

Title:何かがあってそうなったんじゃないのか

返信がある。

Title:お前は甘えてる

意味がわからないので、そのままメールボックスを見る。

Title:自分の人生に何かあるとまだ思ってる

Title:ないんだよ

Title:何もない

Title:何も残ってない

Title:不幸とか

Title:事故とか

Title:そんな言い訳すら残らなかった

背筋が冷えた。何もなかった……? 何もなくて、いや、何もなかったからこそ、俺はあんな四十六歳になった……? 「何もない」という言葉に目が留まって動かない。俺には、あんな四十六歳になったことの言い訳すら与えられないというのか。

このまま生きていくんだろうと思ってた。あの部屋で、あのエアコンの下でずっと生きていくんだって。何も起きやしないってどこかでわかってた。でも、本当の本当に何も起こらないのか?

身震いする。それは自嘲まじりの認識とは桁違いの恐怖だった。

マップ端末を見ると、四十六歳は公園に近付いて来ていた。俺はウェストポーチとリュックサックから銃を取り出す。もはやこちらが複数の銃を持っているという、どのくらいインパクトがあるのかもわからない利点を活かすしかなかった。二挺の拳銃で攻撃すればまだ勝ち目があるのではないかと自分でもありえないとわかっている儚い望みをかける。

結果は惨敗で、俺は再び命からがら逃げることになった。

逃げている間、あのメールのタイトルがずっと頭の片隅に残り続けた。

――Title:何もなかった

きっと何かがあった十年なんだろうと思っていたのに。俺は真っ白な空間で四十六歳の様子を見た時から、その〝何か〟がずっと怖かった。何があればこうなってしまうんだろうと思っていた。

でも四十六歳が言うには〝何もなかった〟のだ。何もないまま俺は生きて四十六歳になる。何もないならいいじゃないかと他人は言うかもしれないが、あいつはきっと三十六から四十六の十年間に〝何もない〟ことに、ただただ年ばかり取ったことに耐えられなかったのだと思う。

この俺だって、きっとそうだ。同じ人生を歩めば、俺だって狂った四十六歳になる。

ミーナの前で聞いた四十六歳の言葉を思い出した。

「こういうのは初めてな気がするから」

そう、このデスゲームは〝何もない〟四十六歳の人生に初めて降ってきたイベントなのだ。四十六歳は少なくともこの十年で初めて〝何かあった〟と感じたに違いない。四十六歳はきっと歓喜した。このデスゲームに全力を尽くすと決めた。俺だって覚悟はあるつもりだったが、このデスゲームに対して持っている執念が、俺たちと四十六歳では桁違いだ。

そうして敗北と逃走を繰り返して、昼と夜を二つ跨いだ。

逃げながら、全部を捨てて向かってくる四十六歳に、俺は勝ち目がないんじゃないかと思うようになった。俺には四十六歳ほどの狂気がなかった。

俺は逃げている間、ろくに眠れなかった。もうホテルに泊まる金も、ネカフェに行く金もなかった。ほとんど飯も食えなくなり、どうにか水だけ確保した。もう市バスに乗る運賃すら怪しかった。俺は逃げ続ける。毎日ラモトリギン200㎎、炭酸リチウム200㎎、クエチアピン150㎎を飲んで、躁状態の四十六歳から逃げる。

クエチアピン150㎎の副作用は逃走に向いていなかった。眠ってはいけない戦いで、ほとんど睡眠導入剤のような副作用がある薬を飲むのはきつかった。俺は頭をグラグラにさせながら移動する。四十六歳とはある程度距離があったが、まだ距離を離しておきたかった。

道の脇で、ファミリーマートが青と白と緑の光を路上に落としている。うだるような熱帯夜だった。俺はほとんど限界状態になっている頭で、あそこのゴミ箱に薬を全部捨ててしまおうかと考えた。手からバラバラと薬を落とせば、気分安定剤も抗精神病薬もファミマの光を反射しながら消えて行くだろう。それはきっときれいだ。

そして、目覚めた俺は、激しさを手に入れた俺は、四十六歳との戦いに向かう。もうこの戦いに薬なんかいらない。これは俺たちの命がけの戦いだと、銃を振るう。やっと俺は四十六歳と同じ地平に立つ。それはとても清々しいだろう。

ゴミ箱に近付いていくと、ファミマのガラスにぼんやりと俺の顔が映った。美容院の鏡よりは曖昧だったが、それでも輪郭を見て相応に老けているとわかるくらいには映り込んだ。もう若くはなかった。十六歳でも二十六歳でも四十六歳でも五十六歳でもなく三十六歳。人生で何かを手に入れて失くすには十分な年齢で、そして今はまだ狂えてしまうほどではないんだって思い知っている。

俺はこの歳まで薬を飲んできて、そしてそこから先も薬を飲んで、四十六歳曰く〝何もなかった〟し、五十六歳曰く〝死にたいとずっと思ってる〟。守るに値しない人生の防衛戦に意味はあるのか。「あなたがいなくなれば悲しむ人がいる」なんて聞き飽きたセリフだが、俺がいなくなっても誰も悲しまない。悲しむ人間なんてもういない。それなら華々しく戦いに行く方がマシじゃないのか。

そう思って、リュックサックから薬を取り出す。あと一日分のそれを。手の平の上に転がした錠剤を見て思わず「一日かあ」と笑ってしまった。俺の人生にはいつだってドラマが足りない。これで、山のように薬を持っていたなら、ゴミ箱に捨てても壮観だっただろうに。これじゃ、どうにも恰好がつかない。そう、もともと七日分しか持って来なかった。俺の中の何かが叫んで七日分を持って来させた。

俺は錠剤をリュックサックに収める。そしてファミマのガラスをもう一度見る。曖昧なもう一人の自分が映る不完全な鏡を。

きっとその叫んだ何かがやはり正しいのだと思う。人が生きる理由なんか〝生きているから〟しかないからだ。何の価値も何の意味もない人生でもそれだけは残り続ける。圧倒的な死の〝孤独〟を前にして俺の中の何かが嫌だと叫ぶ。

年を取っていいことは、自分が何者にもなれなくても生きていけてしまうと心の底では知っていることだ。我が身を顧みず命がけの戦いをする甘美な幻想がなくても人生は続いていく。俺が俺らしく生きていくことに固有の価値なんかないが、それでももう、俺は俺でいい。ここで手の平に一日分しか錠剤がない人生なのだから、俺はそれを受け入れて生きていく。

薬を飲むなんていう、誰にも褒めてもらえない地味な行為を人知れず続けて、堅実に着実に人生の防衛戦を継続する。たとえ、その先に〝何もなかった〟としても。

俺はファミリーマートを背に夜道を歩いた。もう、夜に虫が鳴いている。

四十六歳と戦い始めてから三日目。

俺は徹夜で、多分向こうも徹夜で、さらに飢えに襲われ限界が来ていた。俺はふらつく頭を押さえながらメールボックスを見る。

Title:だめだ

そう一件だけ、メールが来ていた。マップでは、もう四十六歳は動いていない。俺が初日にいた、中京区の東を流れる川の川原にいるようだ。そこで数時間微動だにしなかった。俺は迷った末、様子を見に行くことにした。

折しも、夏空に発達した入道雲が限界を迎え、激しく雨が降り始めた。

四十六歳は豪雨の中、川原のベンチに横たわっていた。当然傘なんかないし、すっかり力が抜けているようで、空っぽの両手をベンチの横に垂らしていた。うつ状態になったのだなと一目でわかった。

俺が側に行くと、四十六歳は濁った眼を気だるげにこちらに向けた。

「お前は薬を持っていたんだったな」

「ああ、だがもう残ってない」

「……いらないと思ったんだ……」

四十六歳はぼんやりと曇天を見ている。

「俺も自分の部屋に戻ったとき、薬が目に入った。だけど、そんなもの、いらないと思って持って来なかった。デスゲームにまで来て、ちまちまそんなものを飲むなんて嫌だった。全員ぶっ殺した方が早いと思った」

「……俺も迷ったけど、薬は飲み続けないと駄目だよ」

「クソが。そうだな」

俺はウェストポーチから銃を取り出して四十六歳に向ける。俺も四十六歳もとっくの昔にずぶ濡れだった。雨のまま夕暮れに向かい容赦なく暗くなっていく空に、四十六歳はぽつりと呟いた。

「ひとりだ」

雨の中、四十六歳が顔をこちらに向ける。

「知っているだろう? この感覚」

「知ってる」

俺は四十六歳に銃を向け続ける。〝死〟を前にして本物の孤独になる感覚を俺は知っている。今の四十六歳の孤独が、俺になら、俺にだけはわかる。ありとあらゆる服が濡れて吸い付いて重たくなっている。それでも俺は四十六歳から銃口を外さない。

「……俺、頑張ったんだ。十六からも二十六からも三十六からも、頑張ってきたつもりなんだ」

「それも、知ってる」

四十六歳は俺だから、きっと、俺みたいに頑張ってきたのだろうと、俺は知っていた。それは俺の頑張りみたいに不十分だったかもしれないし、不完全だったかもしれないが、とにかくこいつはこの歳まで生き続けていた。そして〝何もなかった〟のだ。四十六歳の人生には、俺の人生には、何一つ奇蹟が起こらなかった。このデスゲームを除いて。だから、今こうして、俺と四十六歳の俺が向き合っている。

俺に迷いが生じる。俺が撃てば、四十六歳は〝死ぬ〟。俺は数日前までこうはなりたくないと思って四十六歳を見てきた。今だって、十年後がこうなるのは恐ろしい。でも、ここで四十六歳を撃ってしまうことは本当に正しいのだろうか? この四十六歳はそうやって消し去らなければならない人間なのだろうか?

四十六歳はそんな俺の迷いを見て舌打ちした。

「撃てよ。どうせ俺は終わりだ。お前が終わらせるしかないんだ」

俺は唾を飲み込む。それはその通りだった。

俺は息を吸って吐いて、そうやって何度も呼吸を整えて、四十六歳の姿を目に焼き付けると、引き金を引いた。

赤いレーザーが四十六歳に当たったのを見た次の瞬間には、俺は別の空間にいた。

白い、空間だ。果てのないひたすら真っ白な空間。

もう土砂降りの京都の川原は微塵もかたちを残さず、俺は白い空間に立っていた。

俺の前には、あの金髪の子どもだけがいる。他の俺はどこにもいない。俺だけがゲームの開始地点に戻ってきたのだ。

子どもはぐしょ濡れになった俺に拍手をしてきた。

「おめでとうございます。あなたがこのデスゲームのチャンピオンです」

その拍手は白い空間に虚ろに響いた。それから水の音もする。俺が持っている銃から水滴が落ち続けている。俺は何も言わない。子どもは首を傾げる。

「あれ、嬉しくないです? チャンピオンですよ? 生き残ったんですよ? 十億円ですよ?」

そう、俺は〝死ななかった〟。チャンピオンになった。そして十億円が手に入る。このデスゲームを勝ち抜いた。ようやくあの長い戦いが終わった。

しかし、俺は豪雨の中の四十六歳について考え続けていた。〝何もなかった〟先の俺。十億円なんか人生で手に入らなかった先にいる俺。

そして、翔子の話を聞いてしまった二十六歳を、自分の頭を撃ち抜いた十六歳を、怯えながら共闘を呼び掛けてきた五十六歳を思い出していた。

俺は、目を瞑り、子どもを真っ直ぐ見据える。

「ここまで来たんだ。質問くらいさせてもらえるのか」

「ええ、いいですよ、暇ですし。他のみなさんは大体すぐに十億円を手に入れて帰ってしまうんですけどね」

「他のみなさん?」

俺が聞くと、子どもはにっこりとした。

「あれ、このデスゲームをしたのが自分たちだけだと思ってました? まさかまさか、そんな天文学的な確率であなたが選ばれるわけないじゃないですか。あなたが知らないだけで、僕は結構こうやってデスゲームを主催しているんですよ」

俺はそれを聞いてやや納得がいくものがあった。「なんで俺が」とは少し思っていたのだ。俺は数多くのデスゲーム参加者のうちの一人に過ぎなかったらしい。まあ確かに出所不明の十億円に関してペラペラ喋るやつがいるとも思えないし、いたところでそいつは周りから見ればただの嘘つきか狂人である。チャンピオンが出る時代や地域だってバラバラなのだから、俺が知らないだけというのも頷けた。だが、それならそれでまた別の疑問が湧いてくる。

「なんでデスゲームなんかやっているんだ。何が目的だ」

子どもは俺の質問ににこにこしながら揉み手をした。

「ええ? そんなの娯楽に決まっているじゃないですか。人生上手くいってなさそうな人間を拾ってきて、自分たち同士で戦わせる。そこには色んなドラマがあるんです。今回の時部敦彦さんたちのゲームもとても面白かったですよ?」

俺は力なく笑ってしまった。「人生上手くいってなさそうな」か。まあ、時部敦彦《おれ》を客観的に見たらそうだろう。一番うまくいってそうな二十六歳ですら、破滅へ一直線に向かっている最中なのだから。俺たちはろくな人生を歩んでいないせいで、よくわからん存在の高等遊戯に巻き込まれたということらしい。

「お前は一体何なんだ。神か? 宇宙人か?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。少なくとも僕はあなた方が〝神〟とか〝宇宙人〟と言うときに普通イメージする存在とは違うようです。僕は全能の力を持て余してずっと暇をしています。だから、暇つぶしのためにデスゲームを開いているんです」

「全能の存在がこんなくだらない遊びを……」

子どもは俺の言葉を聞いて高く笑った。心底愉快そうに。

「じゃあ、代わりに何すると思います? 箱庭代わりにもう一つ宇宙を作りますか? でも僕がデザインした宇宙なんてまっとうに発展しちゃうじゃないですか。全部僕の思い通りに。それってつまらないですよ」

子どもは足をぶらぶらさせている。だが、無闇に歩き回ることはしない。俺と子どもの間の絶対的な距離は常に変わらない。俺は改めて辺りの空間を見回して、だから、ここには何もないのかと思った。この子どもは何でも作れるからこそ、多分何も作ろうとはしないのだ。

「何でもできるって、孤独なんです。だから、僕とは程遠くて作ろうとすら思わないような不完全な存在のあがきを見て楽しんでいます。愚かさも不出来さも歪みも僕にはないから、意外と見ていて楽しいです」

子どもはそう言って、完璧な笑顔で顔を上げた。

「さて、僕はみなさんにデスゲームをしてもらって僕の娯楽になってもらうかわりに、ちゃんと約束は守ることにしているんです」

子どもはパチリと指を鳴らす。すると、俺の前に見たこともないほど大量の札束が積まれた。向こう側の子どもの姿が札束で半分隠れているほどだ。到底自分で数える気にはなれないが、これが十億なのだろう。

「その持っている銃を僕に返していただければ、すぐに時部敦彦三十六歳さんを十億円と一緒にいつも暮らしていらっしゃる部屋に送り返します」

子どもはこちらに小さな手を伸ばす。ここでその手に銃を渡しさえすれば本当に約束は履行されるんだろう。俺はため息をついた。

「ちょっと自分語りしてもいいか」

「ええー? いいですよ? 時部敦彦三十六歳さんは、お喋り好きですね」

「十六歳の俺は、このデスゲームを馬鹿げてるって言ったんだ。こんなものには参加しないと言って、自分で自分を撃っちまった。俺は、それを青臭い理想論だと思った。十六歳は何もわかっていないから、そういうことができたんだと思った」

「ええ、ええ、見てました。若いって色んな意味でいいですよね」

俺は目を伏せて自分の銃を見る。

「二十六歳の俺は、改めて客観的に見ると、マジで嫌なやつだった。変に意識が高いくせに何もわかってなくて、他責思考のクズ野郎で、殴り飛ばしたくなるようなやつだった。でも、あいつには、あの頃の俺には、俺の話を聞いちまうほど大切なものがまだあったんだ」

「うんうん、それで?」

「四十六歳の俺は、絶対ああなりたくないような狂ったやつだった。俺が生きる先に何もなくてああなっちまうんだって思うとすごく怖かった。でも、俺なりに頑張って生きた先があれで、あいつも頑張ってた」

視線を上げれば子どもは笑顔で頷いている。俺はそのまま続ける

「五十六歳の俺は本当にどうしようもない男で、情けないやつだった。俺の行く末があんな死にたがっているやつだと思うと失望しかない。自分が年を取ってああなるのは嫌だ。だけど、間違いなく、あれが俺なんだ」

俺は右腕を上げて、自分の側頭部に銃口をあてた。

「俺は全員〝死なせる〟つもりなんかない」

子どもは目を丸くした。

「あなた、それの意味がわかってますか? その銃を撃てば、ただの全員リタイアですよ? あなたは十億円も手に入れられません」

俺は笑い飛ばした。

「いるかよ、そんなはした金」

俺はこのふざけた遊びを続けている子どもを見据えて、引き金に指をかける。

「誰がてめえの金を受け取るか。《《これが俺の人生だ》》クソったれ」

俺は迷わず引き金を引いた。

布団で目を覚ますと、午前七時三十分だった。アラームを聞き逃して寝過ぎてしまったようだ。頭がぼんやりする。随分と長い夢を見ていた気がする。夢の内容は、思い出せないのだが……。

部屋のエアコンは死にかけの音を立てながらかび臭い風を送り出していて、カーテンの隙間からはすっかり朝の光が漏れている。あと十分でシャワーを浴びなければ、会社に遅刻してしまう。

俺は頭を掻いて布団から起き上がった。そこで、自分が半袖シャツにスラックス姿で寝ていたことに気付いた。俺は昨晩の記憶を掘り起こす。昨晩、俺はいつも通りタンクトップと短パンに着替えたはずだが、思い違いだっただろうか。

だが、そんなことを考えていても意味がないので、俺は半袖シャツとスラックスを脱いで、床に散らかっていたタンクトップと短パンもろとも洗濯機に突っ込み、さっさとシャワーを浴びに行った。

風呂場は乾ききって、浴槽には薄っすらと埃が積もっている。いい加減洗わないとなとは思うが、それを考えるのが毎回時間に追われてシャワーを浴びている時なので、俺は洗わない。きっとこれからもしばらく洗わないんだろう。

風呂場の鏡には眠そうな疲れた感じの男が映った。三十六だがそろそろ本格的に老いの影を感じる。鏡で自分の姿を見るのは久しぶりなような気がする一方で、ちっともそんなことはないような気もして、不思議な感覚だった。俺はシャワーの栓を開ける。頭上から冷水が降り注ぐ。夏の朝ではあるが、さすがに水道水のままの温度で出てくると冷たい。

だが、シャワーが温水になるのを待っていると会社に遅刻するので、そのまま乱暴に全身を洗って、適当に髪と身体を拭いて風呂場から出た。それからドライヤーもそこそこに、物干し竿にかかっているシャツとスラックスを慌てて着て、エアコンを切り、通勤カバンを持ち、玄関へ行く。靴箱に手を置いて体重を支えながら靴を履き、足に馴染ませてから靴箱の手を離す。

目の前にドアノブがある。

ドアノブをひねる。

開くドアが光の線を引いて、朝の光が差し込む。

「あ」

ドアノブを掴んだまま、俺は動きを止めた。今日見ていた夢を思い出した気がしたからだ。思い出したといっても、多分ほんの一部だ。俺は目覚める間際、「これが俺の人生だ」とか言っていたような気がする。

俺は一人で少し笑ってしまった。これが俺の人生だ? こんな、夜にスマホ見て寝落ちして、翌朝大急ぎでシャワー浴びて出勤しないと遅刻しそうになっているこれが?

でも、なんだか、悪い気がしなかった。多分、夢の中でそう言った俺は、そう悪い気分じゃなかった気がするからだ。

俺は、ドアから出て鍵を閉める。今日も朝から死ぬほど暑くて近くで蝉が鳴いている。アパートの階段を駆け下りて敷地を出れば、青空に雲が流れていくのが見えた。雲なんかちゃんと見るのは随分久し振りのことだと思う。

俺は深呼吸すると、小走りで駅へ向かった。