ポッキーの先端を口にくわえてパキッと折る。唇を動かし折れた先を口の中に入れ食べ終えると、残った方をポリポリとかじっていく。そして最後チョコレートのかかっていない部分を口の中に放り込んで、おしまい。
僕はそんなツグミの一挙手一投足を目に焼き付けようとして、一方のツグミは僕を放ってずっと星空を見上げていた。その夜のツグミは白いTシャツにカーキの短パンという男の子みたいな恰好をしていて、でも頭の高いところでつくったポニーテールや白く滑らかに曲線を描く顔はやっぱり女の子という感じで、熱帯夜の風がツグミのうなじに残った後れ毛を揺らしていた。最後の夜だという補正がかかっていたからだろうか、僕は小さい時から見てきたツグミがその夜一番きれいに見えた。
十四歳の僕と十六歳のツグミが会える最後の夏の夜。
ツグミはその二日後北京にある|CNSA(中国国家航天局)の司令部に行くことになっていた。そこから安徽省の広徳発射場まで移動してロケットに乗り衛星軌道上にある国際宇宙ステーションに滞在した後、恒星間航行用の宇宙船に乗り換えて旅立つ。太陽系外にある地球型惑星を探査するミッションで、ツグミにとっては往復七年間の旅だ。
十六歳でそんなミッションの宇宙飛行士に選ばれるくらい、ツグミは優秀だった。そもそも天才ではあるのだけど、それに加えてツグミは常軌を逸した努力をしていた。ツグミは完全に空の向こうへ魂を持って行かれてしまった人間だった。
スピカ、アンタレス、ベガ。月のない晴れた夜ならば、ツグミは僕と過ごしてくれる。ブルーシートとライトとおやつのポッキーを持って二人で小さな山に登る。僕は空を見るのはあまり好きではないのだけど、ツグミがポッキーの端で空を指しながら解説してくるので、有名どころの星は全て覚えてしまった。
時を表わすのに幾星霜という言葉を使うけれども、これからツグミがいない間、僕は一年で一周回転する空の下取り残される。僕の上で空が四十周するまでツグミは帰って来ない。ツグミにとっては七年の旅が僕にとっては四十年、ウラシマ効果と言うのだそうだ。ほぼ光速に近い速さで航行するツグミの宇宙船で流れる時間は、地球で流れるそれよりも遅い。帰って来たツグミと再会する時、僕はツグミの二倍近い歳になっている。
僕が三十分前に手に取ったポッキーは口に入ることもなく所在ない。ツグミのことを好きだとは言えなかった。ましてや僕と生きてくださいなんて言えなかった。それを言うにはあまりに時機を逸している。僕の人生に決定的なかたちで不可能の三文字を叩き込んだのは紛れもなくツグミであり、この頭上を覆う空だった。
「ツグミ」
「なに?」
「帰って来た時、迎えに行っていい?」
幼馴染として許された領分はそのくらいのものだろう。ツグミはその言葉を聞いて空を見上げたまま目を細めた。
「いいよ」
朝起きて顔を洗うと、鏡の向こうで中年の男が顔から水を滴らせていた。顔をタオルで拭うと、僕はクローゼットまで行って、シャツと灰色のスーツを取り出す。別に幼馴染を空港まで迎えに行くのにスーツを着ていく必要はないだろうが、中年の弛んでしまった身体を一番シャンと見せてくれる服はスーツなのだ。外は寒いだろうから上にチェスターコートを羽織る。
成田空港の到着ロビーに行って柱の影で待った。北京からの飛行機はもう着いているはずだった。やがて、向こうの方から記憶よりも幾分大人びたポニーテールの女の子が出てきて周囲を見回していた。
「ツグミ」
声を掛ける。多分僕から声を掛けなければならなかったから。ツグミは僕の方を振り向くと、一瞬息を呑んで、そして何事もないかのようににっこりした。その移り変わりがあまりに早かったものだから、僕はかえってツグミの努力を感じた。「久し振り」と言ってくるツグミから、そっと荷物を奪うと僕はツグミにどこか行きたいところはあるか、それとも休みたいかと聞いた。
「パフェ食べに行きたい」
「分かった」
久し振りに会って、昨日会ったかのように話せるのがいい関係だなんてよく言うけれども、だとすればツグミと僕は途中まで割といい線いっていたと思う。互いにずれて過ぎ去った年月を二人とも確信的に無視して他愛もない話をした。ツグミは彼女にとっての七年の旅を経て、昔より幾分人間的になっていた。ちゃんと僕の方を見て雑談に付き合ってくれた。
パフェ屋に入ると店内は暖房が効いていて、二人とも席に着くと上着を脱いだ。ツグミは僕のスーツ姿を見てなんで? と笑う。僕が、今となっては三十歳以上も年下になっている若いツグミに対して見栄を張りたかったのだと、多分そのあたりのことは分かった上で茶化して笑う。僕は「別にいいだろ」と言いながら視線をそらすという若めの反応を意図的にやる。そういうやり取りをしてお互いの距離感を本当のそれよりは近めに再構築していく。
ツグミの頼んだストロベリーパフェと僕のコーヒーが運ばれてきた。ツグミはスプーンでソフトクリームの一角をすくって口に運ぶ。口許を綻ばせるツグミを僕は胸元をジワリとさせながら見る。コーヒーを啜りながら、この渦巻く感情を人は幸福と呼ぶのだろうかと頭の片隅で考えた。
「ツグミはこれからどうするの?」
「まだ決めてない。少なくともこれから一年は休暇だけど、そこからまた宇宙に行くのかもしれないし、行かないのかもしれない。まだ希望は出してない」
「そう」
ツグミがまた今回のように宇宙に行くならば、ツグミが帰って来た時多分僕はいないだろうなと思った。生きていたとしても、もうツグミのことが分からないかもしれない。
ツグミはスプーンを置くと、パフェに突き刺さっていたポッキーの一本を引き抜いた。そしてポッキーの先端を口にくわえてパキッと折る。唇を動かし折れた先を口の中に入れ食べ終えると、残った方をポリポリとかじっていく。そして最後チョコレートのかかっていない部分を口の中に放り込んだ。
食べ終えるとツグミは僕の視線に気付いた。
「どうしたの」
「いや、昔と食べ方が一緒だなと思って」
ツグミはコロコロと笑った。
「よく覚えてるね。そっちは四十年も前なのに」
「ツグミが北京に行く最後の夜にそうやって食べてた」
そこでツグミははっとした表情をして、微笑んで見せると目の端から一筋涙をこぼした。涙は白い滑らかな肌を滑ってテーブルの下に落ちて行った。
「懐かしいね」
僕はびっくりしてしまって、そして心がざわついた。ツグミは全部覚悟して僕を置いて行ったのだろうと思った。泣くくらいならどうして、と。けれど、ツグミは当時十六歳で、今も二十三歳でしかなくて、そんな子に分かっていたことだろうと言うのは酷な気がした。それより今やっとツグミの魂が地球の重力に引き寄せられているのなら、僕はその側に居たかった。僕と生きてくださいと言うにはあまりに時機を逸しているかもしれないけれど。
ツグミと寄り添うにはどうすればいいかということを考えながらパフェを食べるツグミを見る。ツグミの負担にならないかたちで時間のズレを埋める方法を考える。そうして、会計を済ませてパフェ屋から出ると、外はもう暗くなっていた。僕は腕時計をチラリと見て、ねえツグミこれから――と言いかけてゾクリとした。
ツグミは空を見上げていた。ツグミの唇が動く。
ベテルギウス。
僕は、僕の考えの甘さを思い知る。ツグミの魂の所在はあの時から変わらない。僕はほんの少しだけため息をつくと微笑んで、ツグミと並んで上を見上げた。その先に広がるのはツグミの世界。これまでの四十年、そしてこれから死ぬまでの時間、僕の上を巡り回る空。